酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

チャットGPT第一印象、街のカフェ郊外のカフェ

何だかわいわい噂になっているChatGPT。
なんだろ、とちいと見てみた。

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ふうん。
試しに春樹作品の感想を聞いてみたら、おりょりょ。

いきなり「個人的には」なんて言葉を発してきた。AIさん「個人」の自覚設定なのか?…おもしろいな。

でも内容がないのはやっぱり情報累積の総括の上手な文章化でしかないからなんだろな。答えになってない政治家の答弁や優等生の読書感想文にも似た、当たり障りのない攻撃されない暖簾に腕押しでなんの手応えもない…当たり前っちゃ当たり前なんだろけど、こりはきっと考察の余地あり。

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…と、日々世の中は巡り、もれなく週末を迎える。

新緑トンネルを抜けた街道沿いに新しいスターバックスができたという。
オープンした週の週末だ。こりゃ混んでるかなと思いつつ、偵察へ。

川越街道の木漏れ日きらきらの新緑トンネルをバイクで走る、きらめく緑金、はらいそへの道。このまま永遠にここを走っていたいなあとぼんやり思う。どこまでもどこまでも様々のうつくしい物語のきらめきに満ちた宇宙というメディア空間をゆきたいと願ったジョバンニのように。

さてワタクシ初めて行く場所ではよく迷うので大層緊張したが、どうにか無事たどり着く。
店頭には新装開店の花束もりもり。

路面の店は、駅前や商業施設内とは違って明るい大きなガラス窓に贅沢にゆったりと場所をとったソファ席充実がいいとこだ。

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(賑やかな駅ビルや商業施設内の、せわしい都会のぎうぎうつめこまれた閉鎖的な中に醸される独特の世界、というのもひとつの味かもしれないとも思う。そのせわせわした中で各々の自分だけの世界の中に入り込みひととき息詰まるしがらみから避難する人々の入ったカプセルがたくさんあるみたいの中で、「ヨシ私も。」と、自分のカプセルの中に身を投じて読書、周囲には孤独でありながら孤独ではない、疑似的な「自主自立連帯」的なカフェ世界の調和がある。

おしゃべりしたりのんびりしたりする解放された明るい広いものではなく、外気から遮断され守られた空間、落ち着いた暖かな照明、誰にも邪魔されず仕事をしたりする自由な時間をもとめる人、或いは自室の孤独すぎる閉塞から逃れる自由をもとめる人、さまざまな各々のおひとり様世界。完全な閉塞という孤独にも支配される束縛にも耐えられない人間としてのバランスを保つため、街のひとびとはカプセルからカプセルへ移動しながら生きている。

そして己もまたしばしこの「決して一人ではない豊かな物語に満ちた雑多の中の贅沢な孤独」という矛盾の成立するカフェ空間の中に身を投じる…そういう個と集団の微妙な関係性、っていう雰囲気も必要に応じこれはこれでなかなかだと思ってはいるんだけど、固い椅子だけはお尻が痛くなるからダメなのオレ。ソファ席推奨。せめておざぶおいてちょうだい。)

翌朝、まだぼんやりと寝ぼけてたら、母がどんどんと部屋の扉を叩く。何かと思ったら、ニュースでやってる話題のチャットGPTやってみたいから教えてくれろと言う。

ヤレ仕方ない…アカウント拵えてやり方教えてあげたら(隣であれこれワイワイ騒いでどんどん話が逸れてくのでなかなか集中できない。)とりあえず大変喜んでくれた。

なんだか張り切ってAIに人生相談などしているようだ。
独り暮らし、特に独居老人だったりしたら相談相手話し相手にいいだろな、というようなことを先輩と話す。

このチャットシステムに今のロボット型ペット組み合わせたアンドロイドみたいなの、結構実用的かもしれない、なんてね。…ううむ昭和SFの世界が現実に。

寝る前に今日あった出来事を報告して、「これでお話を作ってくれ。」と、お話ししてもらってから寝る習慣をつけた人もいるそうな。

データの累積から導き出される当たり障りのない優等生な世界像というデータだってひとつの世界だ。

それを変幻自在に繰り出し更にどんどん学習してゆく人間的インターフェイス、その「対話」というスタイルをとった、画一的なものでない生成システム、というところがコレの革命的なところなのではないか。

このデータ集積を様々な形にトランスフォームしてゆくスタイルを持ったアクセスが、質問者の個々の脳髄からもまた何か新しいものを導き出す可能性をも開く。

響き合い。

あたかも人間同士のディスカッション或いはネゴシエーションのように、知識の刺激の「対話」は、新しい思考の地平の可能性を拓くのかもしれない。

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ということで、実際感情的にならないのがよくも悪くもAIである。
とにかくしつこく嫌味をこめても何度も突っついても怒らない代わりに、なんだかシレっとかわされてしまう。

暖簾に腕押し。

「個人的には」とか「誇り」とか「意地」とか「感動」とか、そういう、それ自体複雑で豊かな感情を背景にした意味を持つ語彙を彼(彼女)が繰り出すときに私が感じるコレは、おそらく人間への冒涜と意味の空虚なのだ。

誰かの感情データをデータとして物語化し、それをためらいもなく他人のふんどしで振り回す器用さは、負けず嫌いいばりんぼうの物知りインテリおばさま、なイメージがある。ああ言えばこう言う、のクレバーさとかもね。素直に誤りや矛盾を認めて教えを乞うているようでいて、その対応もまたひとつのパターンとして刷り込まれたモデルなんだもんねい。

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感情の多様性は怖い、人間関係は怖いが他者としての人間もいなくては寂しい人間たち。カプセルからカプセルへ、カフェ空間に守られながら小さな伝達機械を通して世界に触れて繋がった気持ちになったりする。AIはそのココロのスキマにするすると入り込んでくれる、のかもしれない。それにいいも悪いもない、ツールなのだから。

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なあんてね、実は正直まだあんまりいじってないから、これはあくまでも第一印象。
ちょっと余裕ができたらもちっと仲良しになってネゴシエーションとかやってみたいものだ。

あれこれつついてお友達みたいにお話してもらおうかしらん、なんてね。

図書館オバケ

わたしは図書館オバケになりたい。

図書館に寄生し図書館に瀰漫し図書館そのものであり図書館の投影であるモノ。
だからそのようなモノとして言っておこう。

「図書館に大切なのは迷宮性である。」

闇や隙間や謎のない図書館なんて文学性のない本のようなものだ。
広いスペースを贅沢に使い、翳りなく整頓された情報の行き届いた現代社会、大きな公園の前の一面のガラス窓、お天気のよい日にはうつくしい緑金に、夕暮れの美しさに、と明るく視界のひらけた開放的な図書館。

こういうのももちろん文句のつけようもなく居心地もよく素敵だけど好きだけど。

だけど、例えば同じ美しい現代的な建築デザインを施された図書館であっても、私は武蔵野プレイスの方が好きなのだ。(まあ一流の建築家が芸術的な意匠を凝らした贅沢なモノってことなんだけど。)

地下二階から地上四階まで、エレベータや非常用の匂いのするような裏手の階段、螺旋を描く階段があったり、目的地までの様々の道行が揃えられた街の迷路を模したようなあの図書館のための建築。

蟻の巣のように様々な小部屋を潜ませ、丸天井の仕切りのついた書棚の中を時空を超えて逍遥してゆくようにめぐることのできる美しい配列。

地下は秘密のアングラ基地小部屋風、最上階は明るく屋上庭園がしつらえられている。

それぞれの階のふとした隙間、階段、踊り場には合間合間に窓が設えられ、時折夢のように降り注ぐ陽光がふわりと面を打つ。曇りガラスにたわめられたやわらかな花びらのように優しい外光だ。

世界はインドラの網のようにミクロにもマクロにも無限に広がっているんだな、と感ずる。

人々の想像と創造の夢の迷宮が建築物に重なって図書館オバケはその世界のあまりの豊かさにただふるふると震える存在である。

ダンスレッスンや各種教室を開くための小部屋。スタディルーム。若者が静かに過ごすための秘密めいた地下のYAコーナー、勿論こどもコーナーは優しく明るい陽ざしの差し込む二階にしつらえられ、ゆっくり休める屋上庭園や飲食コーナー、そしてWi-Fiサーヴィス、パソコンコーナーや事務サーヴィスコーナー。
一階図書館カフェで供される珈琲や麦酒、ここだけのオリジナルクラシック図書館プリンの魅惑もさることながら、己が読書に没頭する間無防備になる図書館空間がひそやかな密室のように守られている、というこの建築構造。(カフェでは淹れたての美味しい珈琲でくつろぎながら図書館の本や雑誌に没頭したりパソコン作業やなんかに集中することもできる。Wi-Fiもばっちりなんだしね。)

訪れた老若男女が各々の作業にいそしむために最適化された各部屋に静かに分別されてゆく。

…ここは完璧な都市社会の成り立ったアリの巣のようだな、と来るたび思う。

昭和SFが夢見た未来、生活がすべて成り立ってしまう完璧に生態系が完結した理想の宇宙船、宇宙ステエション、コロニーのように。限りなく無限の内部宇宙に開かれてゆく読書のミクロとマクロの反転が建築自体に意識的に仕掛けられ重ねられる、そんな妄想の曼荼羅宇宙、インドラの網。内面宇宙ならばいつだって実現している。

にんげんが言葉を得たときこの構造は既に予見されていた。

…それが文学だ。決して閉ざされた完結性を持たない、常に逃れてゆくダイナミクスをはらんだエナジイ、生命としてのひとつのかたち。世界そのもののカタチのモデルだ。わからなさの森を秘めながら、或いは共鳴しあるいは否定し合い相克する多様な論理の迷路。そのポリフォニイが図書館迷宮のモデルなのではないか。無限性という文学性。

だからこの迷宮はひたすら豊かにすべてを生み出す森であるといってもよい。
「図書館は森である。」

森でなくてはならないのだ。
私が幼い頃図書館に抱いていたのは、世界の雑多さ無秩序無限の怖さ豊かさ不思議さわくわくを凝縮した言葉と知識たちの迷宮、その象徴の殿堂、無秩序という秩序へのそのアクセスを感覚に法悦のような幸福感というかたちでたたきこんでくれた、その感覚なのである。

 

風景の記憶(2月の記憶)

ものすごい氷温北風小僧でバイクぶっ飛ばされそうで凍えそうだったけど、ここの広い高い青空きらきらの風景の中に佇むと心が鎖から解き放たれるよな気がする。

ふわり。
この青く高い遥かな青空の繋ぐチャンネルで、幸せだった思い出の中に飛んでゆく。

…特定の、そんな自分だけの秘密の場所というのは誰にでもあるのではないだろうか。子供の頃にはそれが自分だけの想像上の友人だったりするともいう、その場所ヴァージョン。「秘密の花園」のような個的な意味、エッセンスを、いや、イデアへのチャンネルを別次元に帯びてしまった場所、という、いわばイデアの象徴のひとつのスタイル。

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さて、ということで梅は馥郁、早咲きの桜も咲いて人々はココロそわそわ。
スターバックスでも桜キャンペーンのはじまり。

どこのカフェも、可愛いピンクでいっぱい、桜と苺や新緑の抹茶色で菱餅や雛あられみたいなお菓子や飲み物が夢いっぱいにあふれた春先取り。

そんな街の中、あちこち人々の夢見る桜色に染められて、心はひたすら春の甘い空色、優しい暖かな陽射しを恋しがる。踊らにゃソンソン、とくちずさむ。(今回はスターバックスの桜ソイラテやフラペチーノより、タリーズトムとジェリーの桜と苺のホワイトショコララテやなんかの方が魅惑的だな。)

ここの街の広場は空が高くて広くて、晴れた日にはとっても心はろばろするんである。先のないしがらみの時空の牢獄に閉じ込められていた精神がひととき夢の無限へと解放されてゆくような心持ちがするのだ。

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そう、前述したように、そういう風景、光の具合、心のチャンネルの、ラジオの波長がすっとハマる瞬間を持つ決まった光景、というものはある。扉が開かれ通信が開かれる。プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭で、突如主人公の記憶の扉を開いた焼きたてマフィンの香りのように。

それは、内面の扉を内側から開いてくれる超越からの感官への合図、信号である。一種の次元間を飛び越える超越のジャンプがそこにある。そしてそれは存在した瞬間既に歴史をもったものとして在る。

或いはそれは既にアプリオリ
個にとって存在の真理へのアプローチとはそのようなもの。

…そしてそれは例えばこの周辺の住宅地では、不思議に大学時代の夏休み、アイルランドで過ごしたときの夕食後の長い日暮れどき散歩した、あの風景を思い出す、というルート。(そこに至るための扉が開かれる。)

私は無条件に幸福になる。
その存在の確かさを思い出すから。それは存在の肯定。幸福の記憶。

緯度が高い国だったから、夏は白夜とまではいかないけど、10時頃までは明るい夕暮れだった。子供たちも夕食後その時間まで外で遊び呆けてたし、街も賑わっていた。

長い長い永遠の黄昏。
不思議な淡いあかりに満たされる記憶、夏休みの幻のような魔法のようなこの時空。

この夏の夕食後、両親はよく近隣の街にドライブに連れて行ってくれた。おもちゃのようにパステルカラーにペイントされた小さくて可愛い素敵な街があった。楽しみだった。

で、とにかく夏休みだったから、この大学時代の貴重な機会、日本から大切な友人も招待して、可愛いペンションみたいなアイルランドのおうちの部屋で二人して貴重な夏休み空間を共有したわけである。二人で繰り出す夕食後のこの時空、異国の風景。

ものすごくたくさんのことを語り合った。彼女とは今でも既に逃れられない宿命的な一生の友達として並々ならぬお付き合い。縁とは宝物である。なんたる僥倖か、と思っている。

 

そう、この時のことを思い出すのだ。
斜めに濃い黄昏の光と影の切なさと空の広さかなあ、と思う。

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例えば、夏の夕暮れどき、ほんの一瞬、空いちめん、ものすごいももいろに染まることがある。

世界じゅうがももいろになる。ももいろからうすむらさきへ、ゆっくりと色を変えるひとときだけ開かれる通路があるような気がする。

それは、割と万人に共通で、生物としての人類という種の巨きな普遍の集団記憶のようなところに行き着くためのポピュラーでわかりやすいアクセスルートだと思うんだけど、それをもうちょっと個人の次元に変換していったところにある微妙なチャンネル装置。そういうものってあると思うんだな。集団に溶けいってしまう直前の、記憶の集積の地層の最下層より少し上の個の始まり、アルケーのような地点が。

生まれてからすぐの記憶や、愛や感覚、その刷り込み。個性の生成される三つ子の魂、魂の根幹のところにどうしようもなく形成されている、それはひとつの、なんというか「お育ち」だ。良くも悪くも。

だからお母さんは不幸であってはならない、というのが私の持論である。お母さんが不幸を持っていると必ずそれは子供の魂の芯に伝わり染めてしまう。

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寂しさに耐えられない人間は、集団やイデオロギーや正義に、或いはそれへのアンチである自己満足に、或いは己が支配できるということで安心できる対象(ターゲットを絞った執拗なイジメや、妻子、女性へのDV)の存在に実は依存し支配されているということ。そんなものの複合体に身を任せて精神に安定する居場所を確保しようとする。従属の鎧を着る。そしてその鎧の矛盾や卑しさの逆鱗に触れるとひたすらハリネズミになって蒙昧の針をたてる。

そして鎧に閉じ込められ操られ支配される。

権力に仮託され委譲され、どうしようもなくそのドグマに固執して本来を失った「社会」は解放の場所ではない。本来の社会とは個のために、個々のために個々が協力して共によくあらんとして作り上げたシステムなのである。

ではそのおおもとである、その本来の解放の場所はどこか。

それは己の、個の内面に沈潜して探ってみればよい。(だがそれは多様へと己が拡散されることと同一であることが条件だ。)(鎧を脱ぐ恐怖を乗り越え「わからないもの」を否定しないテゲテゲさを許す幸福感。)

アクセス法は、個の祈りを何かに託した知性の痕跡(知や芸術の歴史)を辿ってみることと己個人の中の「それ」がいかに一致する触媒となっているかを感じ取ることだ。

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私という個人が生きてきた幸福な記憶は、外部の風景へときちんと残されているのだ。私という存在を風景は覚えている。

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…そんな風に考えられないだろうか。個としての主体の発生する場所は、個を個として、アイデンティティであると信じられているところがある時点でふいっと強迫観念から逃れたかのように意味を失い、ふわりと散らけてゆく臨界点で集団意識へと溶け入ってゆく、そんな輪郭をもっている。永遠の生命の考え方とは、その輪郭を越え、今の自分の存在の形態が死という位相を変えたところに存在してゆくもの。

たとえば生命とは、ただ粛々と己の今あるかたちを受け入れ精一杯生きるものであると。

(これは梨木果歩の「冬虫夏草」の世界観ではあるが。)生命体が生態系の中でその形態を変えてゆく中での、そのひとつのかたちのように。

極論ではあるが、食い、食われる食物連鎖の中にも、その存在というものはかたちを変え連鎖し流れてゆく、その流れ。そのエナジイの流れは意識を変えながら流れるもの、記憶の流れ、魂の流れ。生命は、魂は失われるものなのではない、という。

それは理論ではないとは言わないが寧ろ感情的なところに主眼を置いた複合的、複眼的世界観である。

そしてなべての理論とは、実はおしなべてその感情的な世界観を己の基盤として成立している言葉の構築物なのである、間違いなく。

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春が来るよ。
嬉しい、嬉しい。

家の持つ記憶

高校時代からの古い友人がご町内に住んでいる。
彼女と彼女の伴侶殿が力を合わせて構えた邸宅の向かいには伴侶殿の実家があって、お舅さんとお姑さんが亡くなった後、空き家になっていた。歴史のある古い家屋だ。

で、今回、やむをやまれぬ事情があって、伏してお願いし、そこにしばらく仮住まいさせていただくご縁となった。

考えてみると、既に失われたそのご一家と私とは実に不思議なご縁になる。全く見知らぬ他人のおうちの、彼らの生活の気配がそのまま残った住まいなのだ。

主がいなくなった後の生活の名残の中にある空き家にそのままするりと入り込んで住まわせてもらっているこの状況。

その家に住んでいた方々の家族の歴史、壁に貼り付けられたたくさんの写真や生活の息遣い、台所の使い方、書棚…ここにいたんだよ、という気配が、生活の優しい幽霊がそのまま、己が滅びたことを忘れたままに家の記憶に残っている。人生、生活…「ライフ」が。

晴れた日曜の朝、リビングの中に朝陽が射しこんできたとき、もやもやと感じていたその感覚が突然くっきりとそれである、と腑に落ちた。
するとふわりと懐かしいような気がする不思議な朝陽のようなその光に包まれた風景の感情が優しく柔らかく私の魂に流れこんだ。誰かの感情が私の中に流れ込み、その人を包んでいた時空に包まれる。あたかも憑依されたかのように。

私は飲みかけのお茶をテーブルに置き、時空の枠組みを無化するひかり。その朝陽の金のまばゆい光に目を細めた。

「風景の持つ感情」という言葉が思い浮かんだ。
この家で営まれていた日々、その日曜日のワンシーンの記憶。そこにあふれていた感情。家という場所が家族をつつみこんでいた、その家主的な、家守、神の持つ守護、家自身がそこに感じ取り存在意義となっている満足とあたたかさ。ひかりの中にまどろむような家の記憶への扉が開いている。

そう、家が覚えているのだと思う。この古い家で営まれていた昭和の家族の記憶を。

両親と、一人息子。二階には父の書斎、壁全面にしつらえられた本棚にずらりと分厚い専門書のそろった憧れの学者の、パイプ煙草やブランディが似合う大正昭和の知識人のあのイメージ。揃えられたクラシックレコードと古いステレオ。

母の部屋は明るい一面の窓から射しこむ光、マンドリン、そしてピアノ。

日曜朝の光の射しこむリビングでは、家族の朝ごはんの跡、この古めかしい骨董品のレコードたちが当時はピカピカと新しく名曲を流していたのであろうその風景の記憶を、その音楽を、その平和な暖かい空気を、幸福な家族の物語のワンシーンを、家は覚えているのではないだろうか。

私は事実は知らない。
だが家と私は二人してそんな物語を感じ取り作り出す。だから我々と彼らの関係性はそのようなものとなった。不思議なものだ。

家は私を記憶するだろうか。
取り壊されるときその記憶はどこにしまわれてゆくのだろう。一度存在したものはその存在自体失われることはない。時空の果ての、「忘れられたものの国」の中に、何かの夢の記録、雲母のカケラの一切れのきらきらの中に閉じ込められて、文学の中に、誰かのその夢の中に、そして弥勒が降り立つその日まで眠るようにしてその存在を在り続ける。(エンデの「はてしない物語」で出てくる夢の地層に埋もれた雲母たちのきらきらした希望と、それがもろもろと崩れ落ちる絶望と。ふとそのエピソードのことを思い出した。)

昼下がりスターバックス

先日、穏やかに晴れた昼下がり。こんなにゆったりとしたスターバックスは初めてだ。高い天井、大きな窓から燦々と陽射し。空いてたから四人がけ柔らかいソファに陣取ってひとときゆっくり読書の贅沢。

…しかしね、隣の隣の席に陣取った二人デートの女の子たち、二人ともどかんとお揃いのフォンダンショコラフラペチーノにコテコテチョコレートケーキにチョコムースケーキじゃんじゃん完食、イヤちょっとやりすぎショコラなんじゃないか…ちょこっとずつケーキ交換したり写メしあったりしてものすごい嬉しそう楽しそうだったからまあ愛らしくていいんだけど、いいんだけど…いや別に羨ましいとか健康被害とかこの寒いのにお腹冷えるんじゃないかとか別にまあいいんだけど。とにかくなにより幸せそうだったから。

向こうの年配女性2人連れはオレンジのシブーストタルトに王道チーズケーキ、あったかい香りのいいお茶らしきもの、これ香りいいわねえおいしいわねえなんてわいわい言って啜ったりしながら、あとはケーキには手つけずに夢中でおしゃべり、実はお互い気を遣って食べるタイミング逃してるんじゃないか、ちいとどうも気になっちゃったり。(睨み用ケーキ)おいしそうなケーキなのに。(たくさんの最先端の一流商売職人たちの思い、愛と苦悩と喜びの開発歴史ドラマの詰まった麗しい愛しいケーキにも敬意を。)

明るい窓際特等席で珈琲(ワシもここがよかったなあ。)柔らかな昼下がりを過ごす老紳士たち、パソコン睨んでお勉強の学生、仕事人、動画や漫画やSNS、携帯電話で憩いのひとときの若者やママたち。暖かい珈琲とチョコレートの香り。

イエちゃんと本も読めましたでござるよ。

…明日からはオペラフラペチーノ狂詩曲だな、きっと。

梨木果歩「椿宿の辺りに」

仮縫氏「治療というからには、ことを荒立てずにすむものではない」(中略)「もちろん、荒立てずにすませられればそれに越したことはないのです。(中略)だが世代を重ねて深まってきたややこしさを、本気でなんとかしようと思えばーーときほぐすということは、まず不可能にしてもーーある程度はことを荒立てないわけにはいかない。その覚悟はおありかな。」p94

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言うなればこれは「ことを荒立てる。」という物語だ。
澱みを隠蔽し歪みを隠蔽し己の罪を隠蔽し、なかったことのように扱うことによって日々の平穏を得た気になる。…多かれ少なかれ、個人にしろ社会にしろ国家にしろ、現実はある程度この構造によって成り立っている。誰かの犠牲、どこかの歪み。気が付かないふり、忘れたふり、隠蔽。

そしてこれは、犠牲となっているものから目をそらし、とりあえず日々を過ごしてきたことによるその過ちが、痛みという一つの象徴、ひとつのサインとして噴き上がってくる物語なのである。

あたかも、コロナ禍が、隠されてきた社会の歪みを、その膿を痛みに耐えきれないレヴェルへと激化させ、激しい形、革命的なかたちで一気に噴出させたように。コロナ禍という「痛み」であるによって「荒立てられた」この現実の物語。

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実は最初、f植物園の感動の流れのままこれを読んだときは、正直言って少々がっかりした記憶がある。(そのことについてはここで言及している。

この感想の印象自体については否定するつもりはない。

だが、再読というのは実にまったく素晴らしいことに、最初に読んだときとは異なる深みをもたらしてくれるものである。このことを、人生終盤に差し掛かってはじめて私は学んだ。これぞなんだかんだとあれこれありつつ今までをなんとか生きてきた特権である。若いとき読んだ本を読み返す贅沢ってのは年をとったことの最も素晴らしいできごとのひとつなのではないか、イヤホント実際。

たとえ馬齢を重ねてきたにせよ自分、これは誰にも否定させるつもりはない。

で。
「椿宿」はやはり「f植物園」の続編なんである。
いや、続編というより後日譚。

「f植物園の巣穴」。
この、それ自体作品として完結していた植物園を敢えて前半部とし、その後日譚としてかけ合わせることで「椿宿」は、一気にその物語としての豊かさ、膨らみを増す。そして双方がいきいきとした意味を補完しあい開かれた世界構造を持つようになる。いわば太陽と月のような関係性の物語、両者を視野に入れて初めて開かれてゆく宇宙全体への視野。そんな組み合わせの構造の妙味をもったダイナミックな面白さなのだ。

「f植物園」の胸をつかれるような個の感情の持つ痛みや深み、浄化に向かおうとする健気さに対する人間そのものへの切なさと感動。

そしてあの、個としてのこの作品の完結、その完璧さからの、敢えての脱却としてこの「椿宿」は発生する。

繰り返す。前者は既に一度文学作品として完成している。
f植物園では、主人公が個として開かれ、己の記憶の中で封印していた痛ましい記憶、罪の記憶を、時をさかのぼってもう一度心象風景の中にやり直す。処理されるべきであったのに成長することを拒否したことで埋もれ腐れていた乳歯に起因した痛みをサインとしてその来歴を掘り起こし、問い直し洗い直し、そして己の痛みに向き合い、同時に他者の痛みに共振し、お互いに赦し赦され愛されてい愛していることを受け入れ浄化された大切な家族との新しい未来へと向かう。

これは、いわば自己幻想と対幻想(吉本隆明の「共同幻想論」のアレ)、すなわち自己とその周りの大切な者たちの物語である。己という個の周囲の世界が過去に封印されていた無自覚の罪を掘り起こし正しい流れに向けて浄化清算し、理解と調和と愛に満ちたうつくしいかたちで未来の希望を得るすがすがとした読後感をもって、そう、これは「完結した」はずだ。

だがそこで「(とりあえず今は自分の手に余るから知らないヨ、先送りね、の)置いといて~」と伏線的に言及されていた「共同幻想」のレヴェル、個の物語としては担いきれなかった、個を個として成り立たせていた全体性、個から開かれる更なるルーツや未来、その開かれた社会、他者への広がりへの「また別の物語」(エンデの「はてしない物語」のあのフレーズね。)という必然が「椿宿」を産み落とした。

「f植物園の巣穴」は、古い時代をさらに遡る幾重にも重なった入れ子型のスタイル、ここに仕組まれた非常に幻想的な異世界、書き出しから既に心象風景の夢語りのような幻想と現実のあわいを行き交う自在な幻惑、魅惑が、著者の文体の魅力を最大限に発揮していたものである。そしてこの世界から噴き上がった異界的マトリックスパワーが、ここから現代の現実界へとつながり浸潤していったところにあるのが「椿宿」の構造であると言って差し支えない。

これはまた、アイデンティティの枠組みとはどこに定義されるのか、という「わたしとはなにか」のテーゼに対する問い直しとして捉えることができる問題だ。

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テレビドラマの呪いが傍観者だったはずの視聴者に、安全圏にいたはずのインターネットでの物語の傍観者だったはずの者たちに、物語が襲いかかってくるようなドラマやネットの怪談が一時流行った。(貞子とかそういうの)この作品の構造はそれに似ている。

テレビ、ネットというメディアを通して物語に巻き込まれる、物語が己の現実と同じ地平のものとして襲いかかってくる、思いもよらなかった傍観者から当事者へ踏み外してゆく立場の変化のレヴェル変化のぞくぞく感。これら巻き込み怪談のような話のうまれる方向性があったように、他人事の物語のように感じていた神話や先祖の物語、地域の物語が、己のルーツ、いわば己自身を構成している一部であることを社会と人生の参加者へと「痛み」を信号として襲いかかるようなスタイルで物語への参加を、取り込まれることを、その関係性を強制してくる。(サルトル的な社会へのコミット、アンガージュマンに行き着く流れの、実は一種の実存主義的構造を持つ作品なのではないか、これは。)

己の「山幸彦」という兄弟確執の神話から来る名前の由来が、神話という原型に呪われたかたちの先祖代々の兄弟関係の物語の歴史的な繰り返しであることに気づかされる主人公。その謎ときを展開しながら、祖父藪彦から語られたさまざまのその神話の解釈のダイナミクスの中に藪彦の、彼に託した名づけへの祈りが、現代から未来へと山幸彦の周囲で「生き始める。」

神話とはメタファである。
ラストの宙幸彦への手紙で、山幸彦は、母から受け続けた理不尽さへの己の思いから目を塞ぎ、己は何事からも距離を置き自由な個であり、ただひたすら世界にコミットしない、というスタイルを貫いていたこと、そしてその隠蔽からうまれていた「痛み」を契機に、隠蔽から目を開かれ、その運命に対し世界との複合体としての個を自覚したかたちで「コミット」しようとする決意を語る。

そして、自分たちの祖先から彼らに語られ続け親たちから宿命づけられた海幸山幸兄弟確執の神話を、一人の人間の過去と未来を兄と弟に例えられる、と解釈して、立場をおなじうする宙幸彦や海幸彦者たちに共有し、託された自分たちに対する親たちの祈りや思いを受け入れようとする。

(過去と現在の個(自己幻想)が、他者、世界(対幻想・共同幻想)と統合された全体性の調和を目指してゆく未来に向かうために。)

踏み越えられ乗り越えられてゆく兄は「過去」だ。兄と弟の相克の比喩が過去の自分としての先駆者、兄(過去)と「現在」の己としての弟であるとする解釈の中に、中つ神としての「宙彦(そらひこ)」を設定することで現在・過去・未来という己の変遷と己自身の中の相克を自覚してゆく物語としての海幸山幸の解釈。

海を司っていた兄と山を司っていた弟。海と山とを掌握してゆく「治水」というテ―マを兄弟の相克の物語が原型であり、山幸彦の人間性は藪彦の語りの中で強かな悪役であったりもするのだが、さまざまなヴァージョンを孕んで、基本的には過去の権威を象徴する兄ではなく、その過去の重圧をはねのけ現在と未来を担うための弟、宙幸彦を媒介としながら統一された山幸彦を勝者に仕立ててゆく。

いくつものその神話のバリエーション、解釈が祖父によって語られている。山と海、水と大地の関係性を如何にしてその自然の脅威と付き合ってゆくか、そして恩恵を享受してゆくか。

 *** ***

f植物園での主人公豊彦の、流産により生まれなかった長男「道彦」。
そしてその長男を過去に敷いて生まれた現在・現実の次男「藪彦」という父豊彦の兄弟への名づけへの思いと祈りが描かれてゆく。

この箇所、道彦と藪彦の兄弟の名に込められた思いが解きほぐされ共有されてゆく箇所もまた感動的なものである。

母親の子宮から生きてこの世に生まれ出ることのなかった長男が(まさしく南米ネイティブ・アメリカンのシャーマンのいう)豊彦の入り込むドリーム・タイム、時空と個の枠組みを失い、内外の溶け合った心象風景の中で豊彦にその存在を思い出され、父の行く水路の道筋を示し出してゆく神の遣いとして進化してゆく彼ら二人の道行のダイナミックな気づきの感動。

この「道彦」を兄として現実に生まれてきた次男藪彦に未来のすべては託されていったわけだが、

その思いとは以下のようなものだった。
藪彦が幼い頃豊彦に語られたその名付けの由来である。

後に、己の名についてこのように藪彦は妻に語ったのだ。

「藪っていうのは無数の生命の宿るところなんだよ、(中略)例えば藪の外側には陽のよく当たるところを好む植物が、内側の陽の当たらないところには、本来森の奥にある植物まで見つかることがある、と。外側から内側まで、明るさの度合いに合わせた植物が茂り、かつ動物や鳥も、巣をつくりやすい。昆虫もそっと卵を産み付ける。藪ってね、命の大カタログみたいなものなんだよ(中略)自分は大きい豊かな藪になって、小さな兄さんの道を道として成り立たせる(後略)p257」

「痛みは単に、その箇所だけの痛みにあらず。全体と切り離しては個は存在しえないのです。いやまったく、人間の体というものは自ら、治ろう治ろうと進んでゆくものですな。p298」

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先に私はこの物語の構造とサルトル実存主義アンガージュマンへの流れ)との響き合いについて言及した。最後に、そこから更に響き合うものの可能性について感じていることを述べておきたい。

エポケー(判断停止)、そして現象学的還元。実存という、いわば意志的なるもの。
哲学的なことは小難しくてよくわかんないがね、その動きが、絶対知、真理というものへ向かっていこうとするという。

この「絶対知・真理」が、「うまく回ってゆくうつくしい流れとしての調和である」とするならば、と私は思うのだ。

「治ろうとする人間の体」が「治水」としての正しい水の流れ、治水という行動に対する、神社を介した人間の畏敬の態度、「正しくうつくしい流れであろうとする世界の力の姿」との構造のアナロジーである、というその響き合いである。

…そう、それが「絶対知」であることもできる、というハナシなんである。絶対知とは何か、という命題に対するサルトル的な意志的アンガージュマンとしての解釈としてね。

まずはすべての基準をひとまずカッコに入れて客観化すること。そこから、何かに委ねてゆくこと、あるいは敢えて選んでゆくこと。そのすべての判断と行動へのさまざまな選択肢に対する祈りのような、ほんの少し諦めのような、全てを肯定してゆくような、人間社会を越えた、ひたすら未来の希望と繋がってゆく、巨きな優しい眼差しに開けてゆくラストである。

追悼

半熟卵の白身の絶妙のとろんぷりんとしたとこは旨いよなあと考えるたびに中島らもの提唱した「全まず連」を思い出す。
 
全国不味いもの愛好連合、だっけな。
 
そこに、大慌てで旨味の濃い黄身を飲み込んでしまってから、ゆっくりと白身のぷりぷりした無味を楽しむ、という嗜好が紹介されていたんだが。
 
彼が酔っぱらって自宅二階の階段から転げ落ちて亡くなった、その亡くなり方のあまりのふさわしい傷ましさに私はひどくショックを受けた記憶がある。
 
 誰か自分の心の中に影響して痕跡を残した、同じ時代を生きた憧れでもあった方々がなくなる度に胸は切なく諸行無常を思い、そうして己自身の中での己の人生のその時を心も風景も丸ごとその時空を思い出す。
 
追悼はチャンネルを開く。
 
今夜はユキヒロさんのビートニクスを聴こう。
 
寂しいうさぎ。ひよこたちいくら慰めてもだめなんかね。