酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

図書館オバケ

わたしは図書館オバケになりたい。

図書館に寄生し図書館に瀰漫し図書館そのものであり図書館の投影であるモノ。
だからそのようなモノとして言っておこう。

「図書館に大切なのは迷宮性である。」

闇や隙間や謎のない図書館なんて文学性のない本のようなものだ。
広いスペースを贅沢に使い、翳りなく整頓された情報の行き届いた現代社会、大きな公園の前の一面のガラス窓、お天気のよい日にはうつくしい緑金に、夕暮れの美しさに、と明るく視界のひらけた開放的な図書館。

こういうのももちろん文句のつけようもなく居心地もよく素敵だけど好きだけど。

だけど、例えば同じ美しい現代的な建築デザインを施された図書館であっても、私は武蔵野プレイスの方が好きなのだ。(まあ一流の建築家が芸術的な意匠を凝らした贅沢なモノってことなんだけど。)

地下二階から地上四階まで、エレベータや非常用の匂いのするような裏手の階段、螺旋を描く階段があったり、目的地までの様々の道行が揃えられた街の迷路を模したようなあの図書館のための建築。

蟻の巣のように様々な小部屋を潜ませ、丸天井の仕切りのついた書棚の中を時空を超えて逍遥してゆくようにめぐることのできる美しい配列。

地下は秘密のアングラ基地小部屋風、最上階は明るく屋上庭園がしつらえられている。

それぞれの階のふとした隙間、階段、踊り場には合間合間に窓が設えられ、時折夢のように降り注ぐ陽光がふわりと面を打つ。曇りガラスにたわめられたやわらかな花びらのように優しい外光だ。

世界はインドラの網のようにミクロにもマクロにも無限に広がっているんだな、と感ずる。

人々の想像と創造の夢の迷宮が建築物に重なって図書館オバケはその世界のあまりの豊かさにただふるふると震える存在である。

ダンスレッスンや各種教室を開くための小部屋。スタディルーム。若者が静かに過ごすための秘密めいた地下のYAコーナー、勿論こどもコーナーは優しく明るい陽ざしの差し込む二階にしつらえられ、ゆっくり休める屋上庭園や飲食コーナー、そしてWi-Fiサーヴィス、パソコンコーナーや事務サーヴィスコーナー。
一階図書館カフェで供される珈琲や麦酒、ここだけのオリジナルクラシック図書館プリンの魅惑もさることながら、己が読書に没頭する間無防備になる図書館空間がひそやかな密室のように守られている、というこの建築構造。(カフェでは淹れたての美味しい珈琲でくつろぎながら図書館の本や雑誌に没頭したりパソコン作業やなんかに集中することもできる。Wi-Fiもばっちりなんだしね。)

訪れた老若男女が各々の作業にいそしむために最適化された各部屋に静かに分別されてゆく。

…ここは完璧な都市社会の成り立ったアリの巣のようだな、と来るたび思う。

昭和SFが夢見た未来、生活がすべて成り立ってしまう完璧に生態系が完結した理想の宇宙船、宇宙ステエション、コロニーのように。限りなく無限の内部宇宙に開かれてゆく読書のミクロとマクロの反転が建築自体に意識的に仕掛けられ重ねられる、そんな妄想の曼荼羅宇宙、インドラの網。内面宇宙ならばいつだって実現している。

にんげんが言葉を得たときこの構造は既に予見されていた。

…それが文学だ。決して閉ざされた完結性を持たない、常に逃れてゆくダイナミクスをはらんだエナジイ、生命としてのひとつのかたち。世界そのもののカタチのモデルだ。わからなさの森を秘めながら、或いは共鳴しあるいは否定し合い相克する多様な論理の迷路。そのポリフォニイが図書館迷宮のモデルなのではないか。無限性という文学性。

だからこの迷宮はひたすら豊かにすべてを生み出す森であるといってもよい。
「図書館は森である。」

森でなくてはならないのだ。
私が幼い頃図書館に抱いていたのは、世界の雑多さ無秩序無限の怖さ豊かさ不思議さわくわくを凝縮した言葉と知識たちの迷宮、その象徴の殿堂、無秩序という秩序へのそのアクセスを感覚に法悦のような幸福感というかたちでたたきこんでくれた、その感覚なのである。