酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ペンギン・ハイウェイ」森見登美彦


論理。
迷宮。
ナンセンス。(「鏡の国のアリス」から謎の怪物ジャバウォックのモチーフ)

根源。
宇宙。
不可思議。
研究。

世界の果て・理不尽・虚無・死或いは死後未生

 *** ***

舞台は、郊外の小さな駅のベットタウン、平和な新興住宅地だ。ここに、ある朝突如ペンギンの集団が出現した。

数年前に町に越してきたアオヤマ君は、いつものように妹たちと一緒に集団登校をしていたとき、この異様な風景に遭遇する。

海もない町で、謎のペンギン大発生、そして自然消滅。

…そりゃあもう町中大騒ぎさ。

 *** ***

さて、この主人公は、既成の論理にとらわれない小学四年生、ちょっと変わり者の理屈っぽい少年アオヤマくん。

当たり前に教え込まれる倫理や論理によって常識的感情にとらわれる人たちを理解できない、ひたすら独自の思考スタイルで論理と科学を追うアオヤマくん。けれど真っ直ぐに己の論理を感じ取り打ち出しその己の論理の基盤を、その在り方そのものの理由も考える研究者アオヤマくん。

彼は、クラスのいじめっ子スズキくんやその子分たち、いじめられっ子ウチダくん、女の子たちの当たり前の子供たちの人間関係のドラマをも純粋な研究対象とし、その普通の子供たちの、どちらかと言うと浅はかなエゴや感情の機微の論理を普通には理解しない。何故無意味に威張り、無意味にいじめるのか。彼は本人たちにまっすぐに問い、当然煙たがられることになるのだが。

ただ彼は独自のまっすぐな論理的思考スタイルからその「当たり前」による思考停止を突き崩し、理解しようと研究するのだ。彼はいじめの対象となったときの屈辱や恐怖、悲しみや怒り、自分の感情の動きすら一拍置いた外側からの視線で客観的に捉えようとする。彼は怒ったり泣いたりしないことにしている。(ここに一種森見独特の文体による諧謔の味わいも程よく表れていて楽しい。)

「人間である前に怠け者である」という己の第一義を真っ直ぐに主張できる「聖なる怠け者の冒険」の主人公小和田くんとアオヤマくんはこの時同じところにいる。

そして当然、このペンギンの謎はアオヤマくんの研究心をいたく刺激し、ペンギン発生の謎の鍵を握る歯医者の助手お姉さんの謎と共に、その夏の夏休みの思い出となる大冒険の物語が始まるのだ。少年たちのひと夏のかけがえのないわくわくに満ちたうつくしい物語。

…この作品では、個々の存在、生と死のテーマが、宇宙・世界の存在と死、すなわちその果てたところにある虚無のテーマに直結してアナロジカルに、パラレルに語られているところがまた非常に興味深い。

アオヤマくん自身が、そして妹が、そして親友ウチダくんが感じる個の果て、生命の果て、生命の果ての向こう側の虚無という恐ろしさ。その恐怖の感情という構造が論理によって解決されるべく果てしなく語られ続ける。

世界の果てとは、認識の果て、論理の果てと同義なのだ。このアナロジーのもとにいえば、世界全体とはこのとき個としての己そのものであることがあらわになっている。

日常の中、街を探索する中、驚きと喜びと謎に満ちた世界の姿、その存在を子供の彼らは生き生きと感じ、ひたすら様々に探ってゆく。ここに幻想的なファンタジー要素としてペンギンや海、お姉さんという謎が起動して物語を動かしてゆくわけだが。

そのさまざまの冒険の感覚が彼らのさまざまにまっすぐな感覚の言葉で論理化され、語られる。世界の果てに繋がる川や思い出の中の、その「世界の果て」という「感覚」の意味、お父さんと語りあう宇宙や認識の論理。精神的な、主観的な「世界の果て」と宇宙や科学の客観論理としての「世界の果て」は、アオヤマ君によって、論理的構造としてアナロジーに「研究」されてゆく。

ふしぎな異界に連なるものである歯医者のお姉さんは少年にとっての他者、永遠の異界、永遠の異性、永遠の憧れ、この世界の果てのその向こう側からやってきた宇宙の綻びに存在するマレビト、そしてアオヤマ君という哲郎にとっての永遠の女性、異性、果てない飢えの対象、絶対の異性、哲郎にとってのメーテルである。

萩尾望都が、本作の文庫版のあとがきを書いている。
彼女は、この、失われたお姉さんのその喪失を己の救済のかたちに変換してゆくアオヤマ君の切ないラストシーンを「アオヤマくんは泣かないが私は泣く。」とシメた。
私も泣く。存在の果ての救済を追う少年の絶望的なまでにうつくしくきらめく憧れの輝きのかたちのこの物語に。痛みを抱えたままにそれを希望にしてゆこうとする少年の日々の、そのうつくしさに。

そう、それらはすべて、もしかしたら死と虚無の恐怖から逃れるための救済のテーマではないかと私は思うのだ。驚きと不思議と楽しいことの様々に満ちた日常世界をいかに己の生き方のスタイルによって真理をとりまくかたちであるものとして読み替えていくか。それは事実でなく真理としてのスタイル、愛への祈り、信仰に似た真理への決意なのである。だから彼は喪失や虚無の恐怖に泣いたりはしない。存在と再会を夢見る自分の信仰と愛のスタイルの中に生きてゆくことを選んだから。

p271
アオヤマ君の妹が、「お父さんもお母さんもお兄ちゃんも自分も死んでしまう」という虚無と恐怖のリアリティにしくしく泣きだした夜中。幼いときの自分も同じ恐怖に襲われたことのある記憶を持つアオヤマ君は、妹には論理で説得しようとしながら己が論理でなく感情としてそれに怯えたリアリティについて思い出す。「真っ黒の大きい壁がぐいぐい迫ってくるような気がした。ぼくがその恐ろしい発見をしたのは夜中だったので、ぼくは父と母が寝ている部屋まで行って、その発見について説明しようとした。でも、それがあんまり恐ろしい発見だったので、一言もしゃべることができなかった。」

言語にし得ないもの、言語(ロゴス世界)の果て、すべてを越えた虚無と死への、絶対の恐怖である。

p287「地球の歴史に比べたら人間はすぐ死んじゃうね」
「本当にそうだね」

アオヤマ君とウチダ君は宇宙の始まりやその果てのこと、虚無や世界の冒険のことを語り合うのと同じ次元のこととして己を含んだ生と死について語り合う認識論のようなところまで語り合ってゆく。(こんな小学校四年生はおらん。)

以下のような冒頭付近の宇宙の始まりの説を述べた科学雑誌記事について語りあったことの延長線上で彼らは語り合ったのだ。

「宇宙は無から生まれた」という理論の記事に関してである。

「無というのはどんな感じかな」とぼくは言った。
「ただのからっぽじゃないと思う。お腹が減ってからっぽになっても『お腹が無になった』とは言わないもの」
「からっぽだというぼくらのお腹が存在しないぐらい、ものすごいからっぽなわけだね」
「そうなんだ」
「まったく、それはすごいね」
「すごいよ、時間も空間もないんだって」
「時間も空間もないていうのはどんなだろう?これはたいへんムズカシイ問題だな」
「空間がなければぼくらはそこに座っていることもできないし、時間が流れないんだから『ここに時間がないな』ってつぶやくこともできないね」
ウチダ君はそう言ってから、「こわいなあ」といった。「ぼくらが死んだらそういうところに行くのかな」
「ぼくらは生まれる前はずっとそういうところにいたのかもしれないよ」
「あ、そうか」
「でも、ぜんぜん記憶にないね」
ウチダ君は顔をしかめた。「…こういうことを考えてると、ぼくは頭の奥がつーんとするんだ。そして何かぐるぐるした感じがする」

そう、彼もまたアオヤマ君兄妹と同じ死や虚無や世界の果てのことを考え同じ恐怖を味わうことのできる少年であり、彼らは語り合う中でひとつひとつ共感し互いの考えを深めてゆく。

「ぼくにはわかっている。でもわかっていることと、安心することとは、ぜんぜんちがうことなんだよ」ウチダ君は慎重にゆっくりしゃべった。「ぜんぜん違うんだ。」

これがこの作品のテーマを語る言葉だといっても過言ではない、と私は思う。
生き方そのもの、という救済のかたちについてなのである。世界の果ての向こう側、その理不尽の壁にぶつかったとき。その虚無を、そこからくる恐怖を、どのような形に処理してゆくのか。

祝祭と迷宮という森見作品に共通するテーマは、果てしなく内側に広がってゆく外部、という宇宙の構造を描き出し感覚させるものとして共通のイメージをもつ。主観的な認識の果てと物理的な世界の果てが構造として同じものとなるところ。

それを端的に示しているのが下記引用、アオヤマ君とお父さんの会話である。

「ぼくは父さんとドライブに行くとき、なんとなく世界の果てに到着しそうな気がする」
「そうであればおもしろいね」
「でも、世界の果てがそんなに近くにはないということも、ぼくにはわかっているんだ。ぼくはもう小学校四年生になるのだから。世界の果てはもっともっと遠くにあるんだろうね。宇宙の果てとか」
「そんなことはないだろう」
父はまじめな顔で言った。「世界の果ては遠くない」
「そうかな?」
「そうとも。世界の果ては外側にばかりあるものではないと父さんは考える。『ワームホール』もそうじゃないのかな?おまえと父さんの間にあるこのテーブルの上に、じつはワームホールが出現しているのかもしれない。それは本当に一瞬のことだから、私たちに見えないだけかもしれないじゃないか」
ぼくはコーヒーカップを見た。そしてそのとなりに、べつの宇宙への入り口が開いたり閉じたりしている様子を想像した。それが本当だとしたらおもしろい。
「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」
父はふしぎなことを言った。
だからぼくはいつも世界の果てが見つけられそうに感じるのだろうか。

家の中が全世界であった赤子のとき、家の外は世界の果ての向こう側であり、子供の頃街の外を知らなかったとき、街の果ては世界の果てなのだ。認識の果てが世界の果てであるという基本構造。

虚無や理不尽、論理的に認識理解できない領域はすべて世界の果ての壁となる。そして、その総体が「迷宮」として捉えられる構造を持っているのであるならば、という話なのだ。

ラストシーン、世界の綻びを結ぶ異界からのマレビト、少年の日の永遠の憧れの異性のシンボルとしての歯医者さんの衛生士「お姉さん」はアオヤマ君から失われる。このとき彼女はアオヤマ君の永遠の憧れの「他者」として刻印された。

そう、アオヤマ君から大好きな「お姉さん」が失われることはアオヤマ君にとって大変な理不尽である。

そしてその理不尽とは、と私は考える。
世界の果てが折りたたまれて内側に入り込み、そこかしこにそのワームホールが出現している。町はずれ世界の果て。

理不尽のあるところ。
自分の大切なもの、愛するものが失われるところ。理不尽とは、論理のないところにある、論理を超えた死と虚無の恐怖を超えた、その、ただひたすら「向こう側」。

それはつまり、自分の世界の外側、「他者」という異界領域なのだ。

それが大切なものであったとしても必然として理不尽の領域に奪われてしまうことがある。だがその喪失によって人は虚無を虚無のままに、それを真理として意味あるものへと創造してゆく力、「祈り」という生き方のスタイルを得るのだ。

 *** ***

ホモ・モルタリス。本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖を持つ唯一の動物だという意味では「人間だけが死ぬ動物」[ド・ヴァーレンス]かもしれぬ。しかし同時に、「人間は死への自覚をもって自らを不死たらしめる」[ハイデガー]動物でもあろう。-ホモ・モルタリス-(丸山圭三郎