酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

キリン5 王様

横断歩道にキリンが落ちていた。

静かな冬の夜、星は静かに時間をながれてキリンにかかる。
僕は思い出す。夕暮れには天使の髪の毛みたいな淡く細いハニー・ムーンがかかっていた、その夜。
(ほのほのと薄い紫がたなびいていていたのだ。確かに、ほんの数時間前。)

夜陰に青白く透き通って光るうつくしいキリンだった。

落ちていた、というのは違うかもしれない。とてもエレガントにそれは座っていたのだから。
そのエレガンスは冷たいアスファルトの横断歩道を深紅のヴェルヴェットと宝石で飾られた豪奢な玉座に幻視させた。彼はそこにゆったりとくつろぐ王、淡く青白く透き通るエクトプラズマ。薄青い真珠の肌合いに夜明けの青の揺らめくキリン模様、その毛皮が柔らかくしなやかなフォルムを描いている。

僕はしばらくただぼんやりと見とれていた。ひれふすべきなのかどうなのか考えていたのかもしれない。柔らかなその淡く青白い光の周りはひんやり冷たく神秘的に美しく、けれどふわふわと優しかった。そのふわふわしたものは優しくてやわらかくて、…優しくて、僕は安心して吸い込まれてゆく。ふんわりと、恍惚と、包まれる。つやつやと長い睫毛を伏せた眼差しの世界の腕の中に、その昏くほのあかるい胎内に。

なんだかもう戻れないところに入り込んでしまったのだなとそのとき思った。永遠の場所、エアポケット。青いキリン。うつくしい真実。


もちろん拾ったよ。小さな王様。
キリンとは、必ず出会うべくして出会うようにできている。そっと手のひらに彼を包んで、その夜から、ぼくは王様をもつことになった。ぼくの王様。

「王様」
とぼくは呼ぶ。

「なんだよ。」
王様は答える。

王族らしからぬ口調ではある。

だがそれについてぼくは指摘したりしない。だって、いつでも物憂げに長い睫毛を伏せているその態度は、なんだかやっぱり王様なのだ。問答無用にね。ひたすらに優美でひたすらに偉そうな、王様。何でも知ってるようでいて、奇妙になんにも知らないようなそのヴィサージュ。彼の周りを世界は動く。

「ばかだな。」
…ぼくはまだ何も言ってないんだがね、王様。

誰のことをばかといってるのかはよくわからない。まあぼくのことなんだろう。
というかまあ大体、日常会話での王様の第一声というのは大抵この言葉だったんだ。

それで、でもやっぱりその大方はぼくのことだった。
そしてそれは多分正しい指摘なのだろう。(必ずしもそうとばかりはいえないと思うんだけど。)

 *** *** ***

朝、宵っ張りの王様は朝陽に照らされたまま眠っている。
(キリンは基本的に夜行性なのだけど、ある程度パートナーの生活パターンに波長を合わせるようになっている。)

目覚めてすぐ、僕はベッドに横たわったまま部屋の隅の王様を確認する。王様専用のクッション(我が家で一番上等のクッションだ。)の上で王様はエレガントに眠っている。長い睫毛の陰影、透き通るような青白いエクトプラズマ。王様は朝陽の金に透けて不思議に微細な虹彩に輝き、やさしいフォルムを描きだしている。

王様はどこに繋がっているのだろう、とぼくは考える。王様を見るごとに考える。そして幸福になる。こうやって考えることが幸福なのだとぼくは思っていたけれど、もしかしたら考える前に既に幸福なのかもしれない。よくわからない。

多分それはうつくしい、といえばすむ類のことであるんだと思う。
王様は美なり。

もしかして、古今東西の天から降り落ちてきた王の神話の為す意味とはみな共通してこのような「美」の恩寵をもたらすところにあったのかもしれないな、と思う。

王様は圧倒的に降臨する。

恩寵とは美である、という論理を思った。うつくしい、ってなんだろうな。魅了される、ということ。支配される、ということ。所有されたいのか所有したいのか。その陶酔は恋に似ているものなのか、愛に似ているものなのか。そして恐怖や寂しみとそれは無縁であるものではなく。

そのために自分を投げ出すことができる、自我の牢獄から解放され破滅することができる。どんなに精緻に構築された論理も倫理も無力な場所、荘厳で華やかな愚かさに或いは隷属の快楽。恐ろしい麻薬、両義の絶対性に引き裂かれてゆく意識の破滅に陶酔する。それは所有されていながら所有していることでもあるから。

…けれどもやっぱりそれはただ圧倒的な恩寵なのだ。輝くような、吸い込まれるような青空と朝陽の金が王様の額に映り光の王冠がそこに揺れた。

「ばかだな。」
王様はぼくが考えていることがわかるのだ。

寝てたんじゃないのか。朝寝坊のくせに。
「朝ごはん用意するよ。」
「うむ。」

王様がまた瞼を閉じるのを確認してからぼくは朝食の準備をする。朝陽の金のまだらの中、ぼくは台所でたまごを焼く。金の光が僕とぼくの部屋に満ちる。

「焼き過ぎたのはいかん。」
「わかってるよ。」

ぼくの台所は明るい。ぼくは大きな窓から射しこむその朝陽のまだらが一番上等の蜜色になったところを専用の蜜撮り棒でくるくると巻き取って真っ白なヨーグルトの上にきれいにたらす。

素朴な白木づくりの素敵な蜜撮り棒。王様がくれたのだ。王様は時折こんな贈り物をしてくれる。ももいろの朝焼けや清らかに立ち込める靄を閉じ込める透明なガラス瓶(とびきりおいしい飲み物やジャムの瓶詰にすることができる)、春の気配の桜色の香りや新緑を抽出し粒子化、使い勝手の良いパウダーを拵えてくれる簡易微粒子抽出器。

王様がほしいものをぼくに用意させるためといえばそうなんだけど。ぼくと王様はお互いがお互いを補完する関係にあるからまあそれを喜ぶのがぼくだろうと王様だろうとあまり違いはないのだ。王様はメディアなのだから。

…そう、何にしろかんにしろ、素晴らしいということに変わりはない。
で、キリンにはやはり時折こういう種類のものもいるらしく、少し羨ましそうな友人たちもお裾分けをただ素直に喜んでくれる。一口にキリンと言ってもいろんなキリンがいるのだ。

「今菜の花がおいしいよね、辛子和えにしてたまごに添えよう。オリーブオイルかけるかい?小豆島から取り寄せたとっときのやつがあるよ。」
「うむトマトも頼みたい。…昨日のはうまかった。真っ赤に熟れた小粒のやつ。」
いつもの白い皿を二枚。たまごは濃い黄金、とろりつやつやの半熟加減に胡椒を挽きかけて岩塩を一振り、真っ赤なトマトと菜の花の緑。

ちょうどよくトースターのバゲットもこんがり焼けて、珈琲沸かしの珈琲も出来上がる。

 *** *** ***

王様の来る前のことはほんとうはもうよく覚えていない。

そのとき僕は泣いていた。
朝早く。

透明に澄んだ空だった。その黎明から澄明の光を浴びて、窓辺で珈琲わかしを抱えてたったまま泣いていた。くろぐろとその世界を縁取る影さえが透き通ってうつくしくみえた。

僕は窓の外で僕の手の届かないところに遠ざかってゆくものを見ていた、ような気がする。愛していたと、それは愛と呼ぶものであると僕はそう思っていたはずなんだけど、と僕は考えている。そこではもうよくわからない。ただ涙がほろほろとこぼれている。

そうだ、相手にとってはそうではなかったのかもしれない。ぼんやりとそう考えると胸が空洞になって痺れるように激しく痛んだ。たまらなかった。たまらない、ひどく痛いけれど、僕はあんまりぼんやりしていて、不思議にそれはどこか遠かった。そうだよ、ただそれだけのことだ。ただきっとそうだっただけなんだ。ただ幾度でも繰り返された風景だった、

と、夢の中の原風景として僕はこの空間を記憶している。つまり、あらゆる同じ構造を持った出来事がこの風景に繋がっている。還ってゆく。

そうだ、今までもずっとそうだった。ぼくが空気のように当たり前に、そうして大切に思っていたと、永遠にずっとともにあると信じていたこともものも、みんなそうだった。世界のすべてはある日思いがけなくぼくを見捨てて去ってゆくのだ。

かけがえのないものは 僕から失われる。きっと何かのコードがかみ合っていないのだ。
これはおそらく決定的にそれを知った透き通った光の朝だった。

 *** *** ***

僕は泣き続けている。
だけどどうしてだろう。確かにそれは壊滅的な絶望感なんだけど、やはりどうしてもそれは至福の朝の光と別ではないのだ。

かなしみは、ほのかな寂しみと優しさに還元されてゆく。
パンドラの箱の底に在ったものはきっとそれに似たものだ。

ただそれだけのことだ、という。

 *** *** ***

日々は、一日一日は流れるのに、心の奥の風景、その朝の記憶は止まったままだった。
だから幾日たってもそこで僕の時間は流れていない。だからいつでもその夜はその日の夜なのだ。僕は世界に必要のないものだったしもう世界は僕に必要のないものだった。

 *** *** ***

…そう、だから、その夜王様は降りてきたんだと思う。
幾度でも王様はその同じ夜に降りてくる。

さまざまのことが、確かだったはずのものが触れていたはずのものが、いきなりみなわからなくなってしまった、わかっていなかったんだということに気が付いた朝。

そうだったんだ。そうして僕は時折その夜のことを思う。

 *** *** ***

僕よりも大切なこと、大切な人だった。なのに、僕はわかっていなかった。確かに君に触れていたはずのこの手の先に、もう君はいないということが、うまく理解できなかった。僕が僕であることは僕一人では成り立たないものなのかもしれないというようなことを考えていた。失ったものは他者ではなく寧ろ、自分、世界全体。

朝、一人静かに珈琲を淹れ、そして、珈琲ポットを洗おうとしてふと窓を眺める。世界はとても遠く感じられた。だけどそのとき僕は必ず思い出す。もっとずっと昔。記憶にくすんだ金色の靄がかかった、その向こう側。いつだったろうか。母は眠るぼくをそっとおいて近所の買い物にでも出かけたのだろう。

はじめてひとりであるという不思議さを知った朝だった。
世界はカーテン越しの太陽に光にやわらかく照らされてたんぽぽの中のように明るく、けれどぼくは徹底的にひとりだった。ひどく無防備であるように感じたその初めての恐怖の予感は、…そう、その冷たい予感はただ、予感だった。胸の奥に非常に、これは寂しいのかもしれない、よくわからない、そんな空間がぽかんと開いていた。実際そのときぼくは非常に心細いような気もしていたし全然寂しくないような気もしていた。その感情はそしてひとつのものだった。ただひどく明るく静かなのが不思議だった。甘やかでさびしい。だけど間違いなくそこは至福の場所であり、誰にも損なわれることも穢されることもできない光に満ちた、例えようもなく美しいところだった。

それからぼくは一人静かに壁にこぶしをあて、朝のその静けさのために泣く。

僕は知る。幸福であることに対して僕は泣いている。涙はただ流されている。構わない。

朝の光の暖かい記憶は泣いている僕の朝の風景、そして恐怖の予感の裏返し、その向こう側にだけある。その絶対の暖かさに永遠に回帰するためのキイ・コード。

その喜びと哀しみの中で澱んだものは流されるように星の光のように。

だから僕は泣く。
そう、だからその夜必ず王様は降りて来る。

 *** *** ***

いろいろとね、いろいろと王様はその必然だったんだ。
風景を繋げてくれてみせてくれる王様。

ただ日々は繰り返し、繰り返し、新しく繰り返し、忘れては思い出す。

ただそれだけ。

ただそれだけのことだ。
だけど。

いくらでも、無数に、始まっては、終わるチャンネルは無限でちらちらと美しく瞬く。何度でも永遠に繰りかえしているだけのことにせよ。

瞬く。夜道でけぶるようにかがやいていたあの夜の王様のように。
僕はいつでも思い出すことができるんだ。それは王様が降りてきたおかげだ。宇宙の果てから輝き降り落ちる流れ星のように。

 *** *** ***

凍るような12月、藍色の夜。夜中にふと目をさますと、王様が窓辺にいた。部屋の中は、夢の中にいるような薄明かりの気配が液体のように流れている。

そしてそのとき、窓の外、なめらかに冴えわたる夜空から、不意に星が流れて降りそそぐ。しゃらしゃらと快いせせらぎのような音を立てて、濃やかな銀に瞬く光がうす青いキリンの光を包んでゆく。

一瞬何が起こっているのかよくわからなくて、僕はただ目を瞬く。

 *** *** ***

…ああ、そうか。
ふたご座流星群

人類に「星の時間」があるならば、それはきっとここからやってくる時間なんだな、と、しゃらしゃらと振りこぼれる流星群の光の波の中にのまれながら僕は考えていた。

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キリンはシリーズでしてな。ここに投稿してあります。

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キリン3

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