酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

母を亡くす

母は私の日常現実、平常心そのものだった。


私を日常現実につなぎとめる楔だった。

もう守ってくれる人も守ってあげなくてはならない人も
喜ばせたいひともいないのに何をするために生きているかよくわからない。

ママの喜びそうなお菓子買ってきたよ、今日はこんなことがあったよ、あんなことがあったよ。
日々の小さな出来事をなんともなしに話すこともない。

何もない。何もかも無意味で無価値。それは自分の中に何かを想像し創造しあるいは何かの倫理や論理、物語に従うためのアイデンティティ、存在感さえ失ってしまったから。関係性の中にあった自分。

世界は無意味なのではない。(もともとのマトリックス、カオスが無意味なのは当たり前だ。コスモス、ロゴス、光と論理で意味を持たせるのは客体ではなく主体なのだ。そしてそれは関係性でもある。主体客体が反転し続ける、存在するとき既ににその歴史ごと発生する奇妙な現象が世界と呼ばれる。)それはもちろん自分が無意味で無価値であることの反映に過ぎない。

寂しい。
魂がさまよい出でてしまう。

それでもせめて父がいなくてよかった。
夜は優しい私の魂の無限への扉が開かれる。
その内側への解放のためのこの孤独が唯一の私の慰め。私は夜の孤独にひっそりと守られる。

だけどなア、ホントに。
…死んじゃうってのはナシだよなあ。

取り返しがつかないという不可逆の時間のリアリティは底なし沼の恐怖の絶対性に開かれる存在以前へのカオスへの扉である。それが寂しさの正体だ。

そう、こんなにも私の中になまなましい存在のリアリティ。
どんなにかあの母のいたルーティンの日々を懐かしんでいるだろう私は。

過去現在未来にわたって実現なんかしないだろうその日常という論理展開の外延の物語、あらゆるその続きの想像の物語の中に喜びを見出し…それを夢見て欲望と日常は限りない豊かさの響きを伴いながら、ひと綴りの世界の秩序という「アイデンティティ」をもって現実というひとつの幻想に綴られることができていた。

愛と名付けられうるものはそういうものなのかもしれない。
響きあう広がりをもったその「思い」はひとをその焦点とすることもできるから。

お使いに行くときの玄関先での送り出しの表情や声、いちいちの声色も表情もすべてまだ生きている。母の大好きだったプリンももう買うことはない。お買い得のりんごや葡萄みつけたよ、に、「でかした!」の嬉しそうな笑い声もない。

母と過ごしたカフェ、そのときの会話、二人で過ごしたその日常の中のなんていうこともない、けれど、ひとときひとときかけがえのないものであったその時間、交わした会話。

「女子会」と称して姉と三人でもよく出かけた。話の内容の思い起こしはそのときの時空をまるごと、皆の表情と声と存在感、空気感、すべてを呼び起こす。鳴り響く。存在が。そして今ここでのその非在を際立たせる。

夕暮れの人々の家の内側に灯る窓明かり、お店では素敵なディスプレイを眺めては理想の暮らしのことや、家族や自分のその部屋や家や環境で暮らす物語を妄想しては喜んでいた。ソファやテレビ、日々の過ごし方、そのときともされる夕暮れの灯り、あふれるであろう朝の陽射しのまばゆい幸せのあたたかさの日々の暮らしの物語。

時間が解決するという。
激越な痛みには時間が優しいほのかな柔らかなヴェールをかけて新しい日常に向かって新しく生まれ変わってゆく力をはぐくむ助けになってくれる。その喪失の痛みは辛すぎるから。

姿形ではない。
筆跡、声、匂い、気配、表情。過去にあったすべての歴史に刻み込まれた場所に刻まれた母とのルーティンの風景、家族の風景。すべてのその時空。私自身の存在してきた時間のインテグレード、存在した証という「日常」。そこにいつも背中を守られていた私の自由な迷子のとき。

それが過去に清算されてしまう。
その絶対の痛み。

新しい未来へ踏み込むにはそこからひとつ脱皮しなくてはならない。忘れること、ほのかな思い出に封印して過去のものとして納得すること。悲しみにいつまでも溺れないこと。

…だけど、けれど、ふと心づく、それが嫌なのだ。痛みを癒されてしまうことが嫌なのだ。
この激しい絶望と喪失の痛みこそが、風景に刻み込まれた母の声や存在のリアリティの生々しさが生み出すその存在の確かさを保証するすべてだ。忘れたくない。この非在の理不尽という痛みこそ逆説的に何か大切な存在の証なのだ、という気がするのだ。

あんまりにもこの喪失感は激しすぎる。耐えきれない。私を食ってしまう。溺れて連れていかれてしまう。

生々しいリアリティ、その喪失感。不可逆の時間。
連れて行ってくれ。私も。その時間ごと母と一緒のところへ。

こんなにも泣いてばかりいて喪失と痛みの中、世界はがらんどうなんだけど、だけど、そう。

この痛みを忘れる癒されてしまう自分をこそ私は確かに恐れている。本当にそのとき母は失われてしまう、という気がしているのかもしれない。鈍い痛み、鋭い痛み。脈打ちながらだんだんと甘く優しく…鈍くなってゆくというその痛み。

ああけれど本当に耐え難い。
前に進むには忘れることだ。忘れるのではない、のかもしれない。けれど私は心貧しく小さく弱いから。忘れる。或いは食われる。少なくとも今そのように私は感じている。

繰り返す。この激しい絶望と痛みが薄まってしまう気配に確かに私は怯えている。母はその時本当に失われてしまうのだ。その当然さに飲み込まれてしまう。そのたくさんのありふれた物語の中に埋もれていって「片付いて」しまう。

そのための儀礼が社会的に着々と進められている。きちんと泣き、思い、感情をリーズナブルに「処理」しながら現実と折り合う社会と個人の…

葬式ビジネス。
お寺ビジネス。
社交儀礼。心を伴い或いは伴わず。美しいかたちとなって。

けれどそのきれいに出来上がった嘘っぽさの中に残るしこり、滞り。


 *** ***

ああ、これが春樹のアレなんだ。最新刊「街とその不確かな壁」でクリアに感じた、あの「世界の果て」の街の概念の指し示す無駄な濁りと矛盾をはらんだ心を省いた「理想」の構造、社会の構造のカリカチュア。その心の濁りのまとめられ方が図書館の夢の凝りを処理する「夢読み」…。、そしてその夢読みの「僕」と「僕の影」。

残された「世界の果て」の夢の凝りのイメージは矛盾をはらんでいるからこそ生命そのものとして揺れ動き意味の振幅を深々とふり開き…心に響くその意味を成す前の心を揺り動かしかき乱す素晴らしく印象的なイメージ。

そう、私のこの思いはあの図書館に夢となって読まれてしまうことになる。おそらく。物語化された構造として、これはアレなのだ。

私に残された時間があるならあれを読もう。
寂しさと自由と孤独が少しの間でも許されるなら。

私の中でこれの昇華が、アウフヘーベンがどのようにして行われうるのか、その未来に光を見出すために。

カミュの「異邦人」も読み返したいんだがな。
異端、はみ出てしまった者の文学。