酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

誕生日記録

さて先日誕生日を迎えた。

 

ということで、誕生日とはなんぞ、と考えた。

このひとつの節目。振り返り己の来歴を鑑み己と周囲の人々との関わりの中での世界のこの存在のことを思い、歓びことほ(言祝・寿)ぐ。

そしてその感謝と幸福のことと、この先のことを考える日。

母に私の誕生のときのことを聞く。
誕生と存在の無条件の祝福を受けた私という赤子の確かに存在していた日。目をつぶってその時空に意識を飛ばす。

昭和の、粉っぽい光にフィルムの向こう側の世界、赤茶けた写真のような昔の世界の時空の夢の中へ。記録された歴史。世界の中に。時空はそうやって現在し続けている、らしい。インドラの網、有機交流電灯のネットワーク。まことのことばという切符さえあれば、幻想四次元の汽車に乗ってどこにだって行ける。

世界を探る。
姉が生まれたときのこと、私が生まれたときのこと。
母はその言葉の中で己の中のときの流れを遡る。私はそこにダイブしようとする。

その日の窓からの光とその外に広がっていた世界のリアルのことを考える。私がこの世での存在を始めた日。

母の痛み、そして歓び。未来。可能性。広がり。
私が母と分離した不思議で幸せなとき。どうしてだろう。私はこのときのことを、いつもその時からいつもその先を照らす光、明るい日の光で一杯の白いカーテンの幸福な異次元の産室のものとしてとてもリアルに想像する。そうすることができる瞬間、存在は優しい光の中に肯定されることができる、そんな心の柔らかな世界をまとって。

三島由紀夫が原初の記憶として覚えていると言い放った、確か産まれたばかりの赤子の自分が見つめている「たらいに波打つ金色の産湯の光」、というおそらく捏造された記憶の真実と、それは同じものなのではないかと私は考えている。)

 *** ***

ああ、実になべての母は偉大なり。
命を宿しこの世に生み出し、無条件に愛し育む。
そうだ、その存在への愛が世界じゅうをその愛のマトリックスで包みこみ…うつくしくする。

愛とは無条件の問答無用の絶対の言葉なのだ。
すべてのスタート地点、すべての基礎。すべてのゴール。あらゆる論理倫理の。(ろんりりんりってつなげるといい響きだな。秋の虫の声のようだ。)マトリックスとはそういうことだ。

あるいはすべてを産み出し、そしてもといたところに回収する、死後未生につながるところ、換言すれば生を生み出す死、生命に満ちた死と同義である。

死に繋がる。母とは、愛とは、生とは、存在とは。

 *** ***

だから虚無をけり倒して存在し続けるのだ。愛とはすなわちそのような意思である。ニーチェの言った「力への意志」の意味するところ恐らくそういうことなんだろうと思っている。

真理も真実もそのような「存在(力)への意志」のもとに存在する空白である。
存在も非存在もすべてはWHOLE、一(いつ)のもの。有と無の関係とは。