酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

梨木果歩「沼地のある森を抜けて」。再読記録メモ

壮大な糠漬け小説である。
うねるように押し寄せるこの梨木香歩節に翻弄され引きずり込まれ圧倒され打ちのめされる、その至福の読書空間体験。

…すべては、糠床から始まった。主人公が叔母を亡くし、家宝の糠床を継いだところから物語は始まる。

やがて、日々の中で疑いもしていなかった己自身の記憶の隠蔽やアイデンティティの思い込みが、思いが、倫理が、家族が、愛が、生命観が、そのルーツが、すべてが糠床の謎、その不思議とともにそのアルケー、源泉から問い直されてゆくことになる。

設定は、「糠床から人間が生まれてくる。」。

生い立ちに奇妙な記憶の混乱を抱えた微生物研究者の主人公久美と、主人公の、そして糠床のルーツを探るための道行のパートナーとなる微生物専門家にして愛好家、風野さん。

風野さんは、父性原理の家族制度の中、ヨメとして彼の父と祖父(母の舅)に奴隷のようにこき使われしゃぶりつくされ擦り切れるようにして死んでいった母の姿を見たときから、己の中の男性性を呪い、更には性別そのものをもすべて忌避することを決意した、女言葉の男性である。彼が微生物を擬人化し偏愛するのにはその生態の無生殖のあり方へと思い入れがモトとなっているのだ。

久美と風野さんは、クローンと交配の両方の生殖を行う生態としての微生物世界の多様さを、その是非についてさまざまな角度から議論する。微生物相と人類との生物相としての、遺伝や進化の在り方の違いが倫理や世界観をも巻き込んだ生命観全体の問題として焦点化されることとなる。(沼の土壌から構成されたその糠床から生まれてくる人間たちは、久美のルーツに由来する一族、クローン増殖によって個を失った特殊な生態を持つ「島の神としての」一族だったのだ。)

さらには、それは時空を遡る久美のその糠床のルーツを探るふたりの道行の中で「実は共通するところが源泉にある。(人間の意識も微生物の意識も、生命全体のありよう、その価値の深淵さから見たときには大した違いではないかもしれない)」という大いなる逆説の成り立つフィールドへと繋がってゆく。

生物とは何か、その存在意義とは、生殖の意味とは。
…生命とは一体何なのか?

人間が特別な種としての枠組みから外されたとき、生命一般としてのプリミティヴな人間の生態の在り方が、そのアルケー、その源泉から模索されることとなる。

種としての繁栄や個性(アイデンティティ)と種の集団意識に関する関係性、その微生物と人間との相違とアナロジーという焦点があぶり出されて議論され問題化され、そこから、人間の在り方そのものへ疑問、双方の遺伝子と個性の、さらに言えば他者と出会い結びつこうとする「恋愛」というエロティシズムと暴力性、聖性と本能のあらゆる問題系を孕んだ男女の性向、性交の存在意義、その是非に対するさまざまの疑問、思いへと物語の意識は深まってゆく。

秘境の島、久美のルーツ、濃厚な生命の気配の漂う生物の源泉を辿る道行の中で、彼らの生命観は人間という小さな枠組を軽く超え、そこからどんどんとすべての既存の日常という物語が幻想として溶解してゆくこととなる。

その無限に繋がる異界性に本来自分が属していたものであったという事実に主人公久美は驚愕する。だがその深淵さと空恐ろしさは、最終的に久美が個として抱えていたトラウマ、すべての呪縛からの解放と赦しの方向へ、即ちひたすらただ解放された「優しさ(愛)」の中で、他者を求めるその愛とは一体何なのかという疑問に答えようとする、そのような遺伝子レヴェルからの意識の再構築への道筋を示すことになってゆく。

登場人物のプロフィールをかたちづくり描き出すエピソードが紹介されるように語られる少しもたついた前半戦、そしてそこから主人公の先祖の出身地、その故郷のルーツをたどってゆく旅に出る後半部へ。時空を超えるその梨木果歩一流の異界へ誘う怒涛の筆力だ。「海うそ」や「f植物園の巣穴」「冬虫夏草」なんかに通じたこのパターンにはものすごくわくわくする。人間が特別な生命ではなく、すべての生命が共生しながら溶けあうひとつの大いなる有機体として語られてゆくことになる。後半からが本当に面白い。

コロナ禍に閉ざされた鬱から逃れ、地元の隠れ家のような喫茶店でこの本を読み終えることができてその日を私は救われることができたのだ。

ラストシーンまで一気に行く。
生命がたった一つであるならば、それは世界の始まりから終わりまで未来永劫ひたすら一人であると感じることだ。個としての己、種としての己、たった一つであることの恐怖、寂しさ。

その寂しさとは即ち、死と虚無への恐怖と同一のものなのではないのか?その感覚を私はそう解釈する。

…そしてそれが、その鮮烈なまでに激越な寂しさが、他者を求め、他者の存在を感じ、己を護るための「細胞壁」(ウォール)を自ら壊す行為へジャンプする革命へとつながってゆく。それが恋愛、欲望の原型である。他者との出会い。次世代という、他者、未来、父と母の双方のクローンとしてではなく、まったく新しく「解き放たれた」命。それはクローン生殖ではなく有性生殖によるものでなくてはできないことだったのだ。異質なるものに賭けられた可能性。

風野さんはこの生命意識の「寂しさ」所以の未来と変遷への欲望の構造を理解したとき、己の中の男性性をそこに連なるものであるとして、すべてのそこからくるかなしみを赦しと愛の、存在の価値そのものと同義であると認め、赦し、解放する。…解放される。

「母の無念、と、ずっとそう思ってきたけれど。(中略)母はそんなこと、どうでもよかったんだろう。僕が、新しい命にたぶん、望むように、解き放たれてあれ、と。母の繰り返しでも、父の繰り返しでもない。先祖の誰でもない、まったく世界でただ一つの、存在なのだから、と。」

ラストシーン、それが久美と風野さんとの聖なる島の微生物の営みの煌めく幻想的な夜の中での性行為として描かれ、それ自体が、新たなる生命、未来への希望を得た喜び、存在のうつくしさ、その輝きへの賛歌として謳われている。そのときその二人の世界は二人の細胞壁の境界を遥かに越えて広がり、世界の隅々まで美しく輝かしい生命に満ちた宇宙と一体となって高らかに謳いあげられている。宇宙全体、「存在そのもの」と一体となっている。深い喜びとして。

一人ひとりの誕生の、その存在の奇跡と前提としてのかけがえのない尊さが謳われているのだ。

己を誕生と存在が常に祝福されたものであり、己がそれを繋ぎ、生み出してゆく命と未来というその現象、そのかけがえのなさ、「存在」の深い喜びのような感覚が。

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「世界は最初、たった一つの細胞から始まった。この細胞は夢を見ている。ずっと未来永劫、自分が『在り続ける』夢だ。この細胞は、ずっとその夢を見続けている。」
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駅ビルのチェーンカフェはどこもぎっしり密の競争率の行列。メディアで有名な喫茶店もディスタンスで外に行列。

でも地元民、Wi-Fiも冷房もないけど、窓を開け放ち初夏の陽射しと風を窓から招き入れる隠れ家喫茶店で丁寧に淹れたおいしい珈琲、素敵な日曜昼下がり獲得。読了後の世界が塗り替えられたような魂の解放感。

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よい初夏の夕暮れでありました。

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