酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

エドワード・ケアリー「おちび」

「アイアマンガー三部作」(レビュー記事はこちら)では、まずは設定のあまりの想定外な独自性、とっつきの悪さ、陰惨で奇妙な世界観にいささか鼻白んだ。が、やがてそれらを迫力のリアリティでなまなましく描き出す凄まじい筆力と怒涛の物語構成力に引きずり込まれてすっかりハマり(一度ハードルを越え、味を覚えてしまうとハマりこむ、納豆の魅力である。)、初期の「望楼館追想」、そして最新作のこの作品、とケアリーを読み継いでいる。

本作はロンドンで初めて蝋人形館を設立したマダム・タッソーの伝記という名目の作品で、その正確で綿密な関係資料の調査のため執筆に15年の歳月をかけたという。当然、きらめくように自在な独自の世界を架空に描き出すアイアマンガーや望楼館のようなファンタジー構成ではない。

だが、作者本人が後書きで触れているように、物語の内実、世界観、キャラクター、その在り方の肉付け意味内容は実は全て自由に描かれた創作だと言ってよい。タッソーの数奇な人生、歴史的事実は、それらを要素として膨らませた物語を始動させるためのトリガー。ケアリー自身が己のモチーフを描き出すためのストーリーの外郭、骨組みに過ぎない。世界は逆にケアリーに染まる、その筆によって読み取られ変容させられるのだ。

因みにケアリーはタッソーの蝋人形館の「恐怖の館」を初めて訪れた際激しい衝撃を受け、二十代のころにはそこに半年間警備員として働いていたこともあるという。この体験はもちろん「望楼館追想」の主人公の人形への思いや己を人形に擬するような「不動」の概念に繋がっていったものである。人形、象られたもの、ヒトとモノへの思いの錯綜と双方の境目の混濁、ケアリー独特のイメージと概念、「内なる不動」。

そしていよいよ本作「おちび」である。初めて「アイアマンガー」シリーズで彼の文章に触れたとき強烈な印象を受けたことは前述のとおりだが、やはりここでも相変わらず同じ世界観が通底して流れている。筆の力業による病理に歪んだ独自の世界展開、圧巻の残虐と汚穢の描写。

だがともすると眼をそむけたくなるようなその不快感を凌駕する、いやそれゆえにしんしんと深く、汚泥の深奥に一筋流れるようにうつくしい救済の響き、哀しいほどの切ない愛はかけがえがなく、物語はその一筋を追いながら激動と胸の奥にシンと響く感動の物語世界を共時的に繰り広げてゆく。ここが魅力だ。

読者の胸を、世界に満ちる理不尽への痛みや怒りで震わせ戦慄させかきむしりながら、物語世界は、社会の底辺や抑圧の下に虐げられた人々が汚泥の中にのたうち耐え忍びながら生きる姿を描き、その魂が愛と救済の仄かな一筋の光を求めながら、怒りや残虐に満ちた大きな社会のうねりを呼び覚ますさまを両輪に描き出す。ダイナミックに物語は展開する。

…ううむやはりこの世界、この文章なんである。
神経を逆なでするような暴力性、痛み、かなしみ、不幸や穢れや汚穢の表現。

そして人の心の複雑さ。
その残酷さや、損なわれ病んだ心が逆説的にそこに至る描写の道筋を描いた物語構成には舌を巻く。無垢でピュアであること自体が搾取され抑圧され、逆にその無垢な穢れない魂を病理へと歪め病ませてゆく必然を感じさせさえするのだ。その無垢さ故に、穢れなさ故に、だ。

胸を打つ、その病んだ魂の奥の密やかに仕舞い込まれた無垢な愛や祈り、希求やかなしみ。それらが歪みながら逆に病理や穢れ、残酷さや無慈悲への誘因となり、表裏として混然と渦巻く様子を精緻に描くその筆致。

アイロニカルな風刺、諧謔の域にまで達するべく現実社会の病的な浅ましさを強調する描写にもまた奇妙に胸を打たれるものがある。

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彼の全作品に共通する、非常に特徴的なもの。それは強迫観念めいたモノへの拘りを抱えた人間像の表現である。ココロのよりどころをその倒錯に求めてゆく人間の心を追う手がかり、そのモチーフとしてのモノへの病的な拘りだ。

踏みつけられ搾取され侮辱され抑圧され病んでゆく側のか弱く小さな魂に共振し、その絶望から生きる強さや狡猾さを得、けれど魂の深奥に響く、寄り添いあう繊細で優しい精神、あえかな美しい小さな愛の光を必死でまもり失わない、そのために大切な心をさまざまなモノへと投影、仮託してまもり、その行為によって生そのものにひたすらしがみつきながら魂は育つ。その姿を描き出す物語だ。

…実にひたひたとしみいる痛ましさに満ちる陰惨な文章であるが、とにかく彼の見る、描き出す世界の姿は胸を打つ。

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司祭の娘だった未婚の若い母が、ゆきずりの兵士との間に成したのがマリー(後のマリー・タッソー)だ。マリーが生まれたとき父はおらず、戦争から戻ったきた父は爆撃の犠牲となって顎を砕かれ植物状態になっていた。国から搾取され投げ捨てられた命の形骸となり果てたかたちであった。

マリーは美しい顔立ちをしてはいなかった。自分の大きな鼻は母似。ならば大きな顎は父の失われた顎のかたちからのものに違いないと彼女は信じ、父ののこした金属の義顎を形見として、父そのものとして扱うことになる。そして小人症であり彼女の身長は子供のまま止まった。「おちび」と或いは親愛、或いは侮蔑や嫌悪を持って呼ばれるこの呼び名はそこから来ている。

無条件にマリーを愛し聖書を読み聞かせて育ててくれた母は精神を病み、幼いマリーを奉公先に一人残して首を括った。その母の形見は残してくれた素朴な木の人形だ。

8歳のマリーは父の顎と母の人形を両親として、自分ひとりの力で生きることになる。
奉公先はやはり孤独で病んだ魂を抱えたクルティウス先生。蝋細工で人間の内臓のモデルを作る職人、彼もまた医師らに抑圧され支配されその能力を搾取される技術者であった。

汚れ仕事。穢れを背負わされ、彼は孤独を怖れながら人間をもっと怖れた。
彼のその純粋な寂しい心と、他者の愛を求める欲望が人体の内臓というその純粋な「人間の内側に隠された真実としての内臓、内部パーツ」の偏愛へと歪んでいった倒錯をマリーは受け入れその魂を受け継ぐ者となる。

母の自殺の現場を目撃したマリーは取り返しのつかない深い心の傷を負う。亡骸はクルティウス先生を支配する医師らに奪われ、泣き叫ぶマリーがせめてと願った墓もない。全ては根こそぎ奪われてゆく。

マリーはクルティウス先生と心を通わせる忠実な弟子となり、技術を学ぶ。確かな師弟の心のつながり、技術の進化。それはマリーにとってある意味幸福なひとときだった。

だが先生がつくったマリーの頭部の蝋細工の見事さが評判になり、名誉のためにそれを欲しがる人が多くなると、クルティウス先生の心を支配しこきつかい搾取していた医師が脅しをかけ、たったひとりの弟子のマリーを奪い、また孤独の中に閉じ込めて医師らのためだけに生きるよう強制する。

クルティウス先生は逃げる。
マリーとともに、スイスから異国フランスへ。彼の技術を見込んでくれたメルシエを信じ頼って。

マリーは、生きてゆくために、先生の下宿先で奉公するような形になるが、クルティウス先生は今度はそこの未亡人に支配されるようになる。先生すら取り上げられたマリーは本当のひとりぼっちになり、更に存在自体を徹底的に搾取されることになる。ひたすらこき使われ侮辱され踏みつけられ暴力と理不尽の中を生き続ける日々。

そしてそこではじめてそっと自分を庇ってくれた未亡人の息子、エドモンと密やかに心を通わせることになる。エドモンもまた優しく繊細で弱く、母の支配と抑圧に苦しんでいた。

はじめて寂しい心が通じ合い、寄り添いはじめる夜中の台所のひとときの、この逢瀬の場面のうつくしさには救われる。言葉の通じないまま、名前を教え合い、大切なものを示し合う。マリーは彼から言葉を学ぶ。

そしてマリーは自分を隠す仮面を身につけ、感情や思考を心の中にふかく押し込めた優秀な下女という機械になった。どんな理不尽も奴隷扱いも侮辱も仕打ちも搾取も無感覚に甘んじて受け権力に仕え、仮面に守られた心の奥深くに隠されたエドモンへの愛を胸に、彼に救われて生きるチャンスを夢みたのだ。夜ひとりになったときだけマリーは本来のマリーになれたのだ。

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マリーの幸運は偶然に応対した蝋人形館見学の王女に見出され、姉妹のような献身と愛と技術で心を通わせ、王宮で雇われたことだ。

そこでマリーはひたすら己の技術を磨き、王宮の人々をモデルに完璧な蝋人形を拵える夢にとりつかれてゆく。(だがその給金はもちろん未亡人にひたすら搾取されたのである。)

ここで印象的な場面がある。こっそりと王家の人々の蝋の首モデルを独りで作り上げたときの描写だ。
「これはわたしの作品だった。わたしが作りだしたものだった。この両手で、いろいろと考えながら。これは王妃だが、王妃だけではなかった。ここにはマリー・グロショルツもいた。この蝋の顔のなかにふたりの人間が生きている、これがわたしがはっきり理解した瞬間だった。もう止めることができなかった。これこそがわたしのやりたいことだった。」p350

外見だけではなく、その内側から人の真の姿をつかみ取り映し出す能力と情熱。ここにはまさに村上春樹が打ち出した「騎士団長殺し」での「芸術」テーマが流れている。画家にとっての肖像画という芸術ジャンルに通底するもの。

モデルの真の姿を暴き出しつかみとり描くことが、作者自身をそこに映し出す作業でもあるという春樹のモチーフ。彼の場合、そこで二つの個の枠の帳がはずれた第三の世界の物語、という領域が生まれてくる。

ここでも構造は同じなのだ。
春樹は肖像画によって物語を、そうしてマリーは人形制作によって物語を、「世界の物語」を描き出し、己の世界を見出す。そこに意味を感じ、個として、また同時に個を超えたものとして、己自身として、生ける物語に参加する。

あらゆる文化的な、社会的な虚飾、偽悪、偽善をも剥ぎ取り、その内面の全てを統合して映し出す蝋細工の人間モデル、蝋人形。残虐性も病んだ心も高貴なものも。マリーは、そこに己の内面をも映し出す、その全ての人間像の、換言すれば世界の全てを己の中に取り込み、その存在自体を平等に愛した。恐怖にすら愛と許しの光の一筋を与えた。

そうだ、あんなにも憎んだ未亡人にすら最終的には許しと愛を与えたマリー。彼女はそのようにして生きること自体に、生命に意味と物語を見いだしたのだ。

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とにかく作品のヤマ場はフランス革命だ。

古い秩序が壊され新しい秩序が打ち立てられるまでの、その革命の爆発的なエネルギー。
その無秩序状態に置かれたといのひとびとの残虐さの描写には目を見張るものがある。まさにGOTの地獄絵の世界。人間はここまで残虐な動物になれる。

裏切り、残虐、極度の興奮、恐怖、狂乱、裏切り、処刑、暴力。

理想を掲げた革命の実態、その裏面。

ここでマリーの、ひたすら自分を殺して、踏み付けにされ搾取され続けた理不尽な仕打ちに耐え忍び仕えてきた精神も、ついに革命を起こし爆発することになる。

エドモンをマリーから奪い、存在の全てをひたすら否定されて搾取され踏みつけられ、心から憎んだ未亡人に殴られたとき初めて殴りかえし、マリーの心を裏切った先生をなじった。ひたすら奪われたエドモンを救おうと暴徒に言われるままに残虐に殺された人々の首をつくってきたマリーにすべての穢れを押し付けてきた彼ら抑圧者に。

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すべてが終わってエドモンもその愛の結晶であったお腹の子も失った後、マリーは生きるためだけにタッソー氏と結婚し、失敗するが、息子を得る。

ここからラストはマリーの商才の成功譚だ。
ロンドンで初めての蝋人形館を設立し成功を収めるマリー、マダム・タッソー

彼女の最後の日々を静かに記して本書は終わる。

人間のすべてを、業を、存在したそのかたちそのままを死後も証明し、赦し愛し未来へとつなげ生きぬく強さ、のようなものを、全てをただ映し出す物語、おどろおどろしさやその存在の「不動」のなかに語り出し、そこに融合する存在として。f:id:momong:20210605114812j:plain
今、アイアマンガー以前の作品「アルヴァとイルヴァ」にかかっている。
「望楼館」からこれを経て「アイアマンガー」、そして、「おちび」への流れの中に浮かび上がってくる「モノ」就中「人形」の意味があんまりおもしろい。

やはり作品世界は単体だけではなく総体としての読書体験によって曼陀羅世界を描き、より一層深く、…じいんと、おもしろいのだ。