酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

映画という表現

最近ジミジミと映画観たいな衝動。
(というかウヰスキー注いだポドショコラをすするときのお供。)(ふつう逆だが。)
ということで動画サイトを覗く。

ボヘミアンラプソディーは挫折したが(よく考えるともともとクイーンがダメだったのだな自分)まあ手堅く有名なものから、と、古き良きアメリカのシドニー・ポワチエ「招かれざる客」とか、「グリーン・ブック」。根深い黒人差別の病理を覗く。

これはシンプルに王道なアメリカン映画で、そこがよかった。映画は心に温かいものを残す、未来への希望を孕んだハッピーエンドに限る。凝りまくった演出や技術、残虐なシーンや刺激が売りのものより、力業のシンプルな物語がいい。(そして現実、時代は込められた希望や祈りに反し全然進化していない。寧ろ現象としては退化している。)(人心が荒れてるからだ。)(それでも永遠に希望は同じように生き続けるのだ。芸術というメディアの中に。)

それにつけても「グリーン・ブック」の気持ちのよさよ。ロード・ムービー。舌先三寸と腕っぷしで世を渡ってきたお育ちは悪いが心根は優しく家族愛にあふれキップのいいイタリア系の何でも屋用心棒運転手トニー・リップと、一流の教養によって家族からも黒人からも白人からもはみ出した孤高の天才黒人ピアニストドクター・シャーリー。

無教養素朴白人トニーとお高いソフィスティケーテッド黒人ドクターが衝突を繰り返しながら互いを学び、寄り添い合ってゆく、差別意識の強い南部へのツアー旅行。互いに初めての体験、今までと違う世界のさまざまを学んでゆく中で、二人がお互いの友情と成長を育んでゆくストーリーにじんわりとのめりこむ。傷ついた魂を抱き合う、一生残る友情のうまれるシーン。差別の構造は複雑に、人の心はシンプルに、力業でアカデミー賞だ。

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で、日本へ。
で、しみじみと日本のこの土壌を私は愛しているのだなと。

松田龍平主演、北杜夫原作の「ぼくのおじさん」。おじさんとぼくの日々、おじさんの愛すべきだめっぷり日常生活を描く前半部が大変よい。恋愛編でハワイにぶっとんだ後半部は今一つ。おじさんのノリがつまらない方向に変わってしまった。とはいえ、とりあえず、いや~これがなかなかよござんしたでございます。

北杜夫の原作は、もともと子供の頃読んでミョーな本だなあという記憶があったんだが、松田龍平のおじさんの味わいは絶妙である。前半部の居候でカント崩れの屁理屈こねて怠け者で貧乏でけちんぼうでちょっとこずるくて、でも笑っちゃって憎めない、ゆるい生き方がおおらかに存在している世界。もしかして、カントの内なる道徳的理性、倫理と宇宙の星々の法則の一致しているところってのは社会法則よりもこういうおじさんのこういう内部に求められてもいいのかな、なんてね。カントの詳しいことはあの一節以外は全然心に残ってないんだが。(わかってない。)(だけどあの一節だけは素晴らしく残っているのだ。)

ほんとうは、多様性というのはこういうものがゆるゆると存在していて大丈夫な世界のゆるみ、アソビ部分の「感覚」のことなんではないかなあと思うんだよね。息苦しさはすべての人間の生きづらさにつながっている、実は諸悪の根源なのではないかと。

ハワイ編がちいとだめ。おじさんが許せないつまんなさで嫌いになっちゃうエゴイストレヴェルに微妙に移行してまったく前半部のカントは冗談にも使えない。離れ過ぎだ。…まあさすがにラストのしまいかたはまずまず。

で、特筆すべきはホントのホントのラスト、エンドロールが終わった後の一瞬のシーン、これが素晴らしかった。こうでなくちゃ。この映画はここの最後まで観るべし。ネタバレにならないように黙っとくけど。

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そして三島由紀夫原作、「桐島、部活やめるってよ」の監督で「うつくしい星」。

…これは…!

前半のねちねちした「大人の現実世界」な雰囲気から異様なSF世界へといきなり移行した後半からが一気に面白い。火星人として目覚めたリリーフランキー演ずるお天気キャスターの「地球の皆さん、目覚めてください!」の「太陽系連合・火星人キメのポーズ」にハマった。これは堀北真希の「野ブタパワー、注入!」ポーズくらい流行ってもいいと思う。

 そして娘役、橋本愛は「ちょっと危うい美少女役」をやらせると天下一品なのではないか。このハマり具合は素晴らしい。金星人として目覚め、海辺でUFOを呼ぶ奇妙な儀式のシーン、うっとりと中空を眺め踊るように印を結び始める姿なんてなんかちいとぞくぞくした。

う~ん、とにかくよかった。観終わった後の余韻も。

この不思議な世界。なんともいえぬ切なさ。
ここではないどこかにイデアとしての故郷を求める心と、外部からこの現実世界を眺める冷徹な視点とのミクスチュアをこの設定に求めている。不気味さを孕んだ諧謔の味わいを添加して。

映画とは芸術なのだとしみじみ。芸術とは、外部の圧力によらない、内なる知性と理性を目覚めさせる力を持つメディアなのではないか。三島由紀夫の原作はもちろんかなり違うんだろうけどな、とは思いつつ、やっぱ読んでみたくなった。

とりあえずこれはおそらく監督の力業。そしてやはりリリーフランキー橋本愛も素晴らしい。

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私は基本断然活字派の人間で、(漫画は好きだ。萩尾望都だの大島弓子だののハードな昭和SF少女漫画で育ったのだ。あれはハードだ。もちろん定型少女漫画にも青池保子系にもハマっていたのは内緒です。)演劇とか映画は今一つ敷居が高いんだけど、やはりいろいろ視野を広げておきたいものだとしみじみ。(基本的には動画は苦手なんである。純粋に体力の問題もあるのだが長時間もダメである。おじゃる丸の15分が限界である。昔から受験勉強だって15分が限界で、よく何時間も集中して勉強するという人の話を聞くと眩暈がして自分欠陥人間だと思って滅入ったものだ。15分経つともぞもぞとでんぐり返しとか逆立ちとかしないとダメなんである。)

原作から映画へ、或いはオリジナル脚本でも。

活字と違い、映画や演劇は一人の作者の精神によって成るものではい、多数のスタッフによって「ケミストリイ(村上春樹)」の奇跡によって統合されたひとつの映像芸術は、多数の個々の精神と肉体性のぶつかり合った響き合いの中で醸されるWHOLEだ。様々のひとの心の見た世界の多様がその中に響き渡っている。それらを覗き感じ共振し或いは反発し、きっと私の内面世界も少しずつ頑迷の壁を砕かれ豊かになる、可能性を得る。一生の間、それはずっと生き続ける可能性だ。

すべての芸術は表側に隠された別の世界につながったものを個の中に示唆する、集団的な、崇高なスーパーエゴや純粋な欲動としてのイドの場所、の両者のようなものにつながっている。それらにコントロールするためのエゴの存在の力を己の中に模索してゆく感覚、感性からやってくる知性、己の頭の中で、そして外で、考える力を模索する、そのような感性を。あらゆる世界へとアクセスし、そのチャンネルを切り替えながら惑いながら。

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まあなんだかんだ言っても転んでも、基本圧倒的に活字派であることは言うまでもない。
それは今私が一時的にフレーバーティやなんかの楽しさに浮気しても基本としては頑迷な珈琲派として立ち返る運命にあるようなものだ。そして日本酒や葡萄酒をうまいとは思っても、やはり戻ってくるのは麦酒であるとか。それもIPAとか修道院のやつとかベルジャン麦酒とかエールとかではない、ピルスナー、ラガーである。どっしりドイツ製法でありながらふるきよき日本の麦酒ヱビスちゃん基本。
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ホントはね、映画館やライブなんかにも行きたいけどね、とりあえずコロナ落ち着いたらせめて近所の居酒屋には行きたいでありんすよ。