酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

眠れない。飲み直している。酔っぱらっているのでこれを書いているのはわたしではなく小人さんである。
 
最近好きなもの。
せやろがいおじさんとオダジマ氏の言葉。
絶賛春樹読み直し大会。
 
嫌いなもの
マスク。コロナ。梅雨。自他の悪意。
こないだの事故による醜い古傷が鈍く痛む時間。
私をいじめるもの。
 
圧倒的な寂しさ。
これは死に至る。
 
戻りたい場所。
あれこれあるんだが、とりあえず記憶の中でまずヒットするのがトヨタマの日々。我がバイブル安房直子さんの空間。
 
唐突に人生を総括させていただくが、とりあえず生まれてきてよかった。
そしてこの卑しく哀れな人生において最も幸福であった瞬間は純粋でパワフルな感謝と祈りで満たされ、それが他のものが介在できない圧倒的なエナジイであるために個の枠が壊された一種法悦のときだけであると断言する。その感謝とは他者に対してであれ世界に対してであれ同じものとしてカウントされる。
 
この世の扉はすべて叩けば開かれる。欲するものは求めれば与えられる。難しいのは正しく叩き求めることなのだ。こんな簡単なことは私がおチビであった(いまでもおチビである。)高校生の頃からわかっていたことだが結局一生私はなんにも変わらない。
 
さあこれで遺書を残したからしこたま飲んで明日肝臓が壊れて突然死していても大丈夫だ。おやすみなさい世界。

楽しみにしてた100分de名著の録画、西田幾多郎の「善の研究」が些か期待外れだったので多少の腹立ちと落胆を抱えて眠ることにする。お願い神さま明日には嘘のようにコロナおさまってくれてますように。


ところで最近一番の収穫は野ブタ。をプロデュース、とオダジマ氏の文章である。憧れてしまう。


とにかく今日と明日なのだ。

おやすみなさいサンタマリア。

春樹再読

さて。コロナの日々は続く。
ということで世界中参ってるワケなので私も参っている。すべての個人がそうであるように非常に個人的に参っている。

ということで体調も悪く、この症状は…すわコロナか、と日々恐れ、さまざまに渦巻く不安と恐怖の渦の中、明日の身の上もわからず、アテにならぬお上。同調圧力隣組にひたすら籠れと言われる家の中はワタクシにとってひとときも心休まることのない虐待暴力看守付牢獄、自我とココロのひとときの解放区逃げ場所であった街は死に絶えた廃墟の趣、友人と会うことすら封じられ、出口も未来も見えない絶望感に襲われがちな自粛生活の中、ひたすらひっそりと息をひそめアマビエさまなど拵えている。

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(タコはともだち)

図書館の受け取り予約すらできず、ネットで見てしまう荒んだ人々の噴きだすもの、SNS、さまざまの人々の考えの行き場のない怒りやニュースの空虚な言説、厳しい状況で辛がっている人々、日々泥水のなかで咲く蓮の花のように気高く頑張ってる人々のことなどつらつら考え続けたりすると脳味噌すり減って煮詰まって弱い人間は悪い方へ行ってしまう。小人閑居して不善を成す。

わろし。あし。人心は実にこうやって荒むのだ。我が心もまた。

既にワタクシは病んでいるのであろうと思う。
幼少の頃より心身共に脆弱がウリである。かなりヤバいレヴェルであるのやもしれぬ。


で。

とりあえず「絶賛村上春樹読み直し大会」を自分のなかでにぎにぎとはなやかに繰り広げているわけです。

青春の思い出とともによみがえる、時代を共に歩んできたという、リアルタイムで読んできたという、その作家の変遷への思い。

ほとんど忘れてしまった内容と共に少し熱の覚めたある程度「時代が可視化される」感覚で見通せる、今だからこそ、という感覚があります。あの頃夢中になった問題意識、物語や表現に熱が冷めていてズレを感じたり、意味が違って見えていたり、その流れの中で別の視点が見えてきたりするのはわくわくするような別っこの面白さ。

…いろいろくたびれきったボロ雑巾状態なので長編再読っていう行為は結構ハードルが高い。すごく面白かったという断片的な記憶のあるものから食らいつく。

羊をめぐる冒険」、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」。そして「ねじまき鳥クロニクル」。

あらためて読み直すとものすごく読みづらかったり独特の形容の臭みが非常につらく思えたリ、アラ探し的なことしてる感覚を自分のなかにどうしても感じてしまったり。…ある程度熱のさめた、心が共振しすぎてしまわない視点からあらためて読むと、それでもなお強烈におもしろい、すごい、という普遍の輝きが雑味なくあらわれてくる。時代の匂いと個としての作家のかかわりの中の問題意識の変遷がものすごくおもしろいんである。

前述した三つの作品は共通した一つの流れを受け持っている、と私は感じているのだと思う。

そしてその一つの集大成として「1Q84」が挙げられるのではないかと。

羊をめぐる冒険で意味ありげに立ち上げられた命題、社会、世界、外部が個に強いる理不尽への問題意識にしぼられた時点での「デタッチメント」の側面においてはハードボイルドワンダーランドで一つの完成形を得る。

そして行動へ。
逃れようもなく己自身が罪と責任を負って選択し世界に参加してゆこうとする「アンガージュマン」の意識(春樹曰く「デタッチメント」から「コミットメント」への流れ)への意識が色濃くなってゆく「ねじまき鳥」。いったん美しい形で構築された物語構成はここで再度解体され、物語としてはある意味散漫な印象を持つような印象を受ける。
 
すべての人間の歴史を通じてその底の底にに共通するレヴェルからどろどろとした熱いもの、暴力、エロティシズム、狂、といった要素を、理不尽を、社会と外部にではなく個としての主人公の、己の内側に見出し抱え込もうとする自我形成の意識、そこに至る社会や歴史、外界との関りが非常に込み入った形をとる物語構造が構築され。そこにはさまざまの要素、複数の人格の章が取り込まれてゆく。

…そしてこれがその段階でのもう一つの完成系をみるのが「1Q84」なんではないかと、なんだかざっとそんな印象をもっているんだな。うむ。なんとなく。

で。

これと並行して高校時代の恩師に声をかけられて、SNSで【7日間ブックカバーチャレンジ】に参加したんであるが、その折、その先生から「おもしろいよ」と言語学者井筒俊彦丸山圭三郎を勧められた。読んでみてえなあと思ってるんだがいかんせん図書館閉鎖状態でお預け。仕方ないのでとりあえずツイッタの丸山圭三郎BOTで言葉の感触を探ってみるなぞしてみる。

仏教的哲学観念からプラトンパスカルからフロイトラカンソシュールニーチェにAI、ドラクエイカ天まで自在に語る。(私の大好きな「たま」に一番注目してるとこがさすがポイント高いのだ。)
『言葉・狂気・エロス』これ。タイトルだけでぐっとくる。三位一体的なものだ。或いは宿命的に同時発生的な…図書館開いたら眺めてみよう。

BOTで繰り出されてくる言説は短いながらいちいち鋭くストンストンとくるものだから、そしてこれが春樹読解、おもしろく読むためにものすごく影響したものだから(特にねじまき鳥)、いや~コロナ禍のせいで瀕死のダメージを受けても蘇らねば自分、生き残れたらただでは起きないのだ、なんていうしたたかな希望を抱けるような気持ちになる。いやすぐ挫けるけど。

ちなみに今「ノルウェイの森」。大ベストセラーであったわけだが、当時どうしても好きになれなかったし、今もあまり評価できない。…が、違った読み方をできるようになって、別個の評価機軸を持てるような気がして、それなりに面白いのだ。あれこれ言いたいことは出てくる。

だが言っておきたい。これは一つの退行であると言ってよい、と思うのだ。
いうなれば、ひとやすみ。風景描写がひたすら快く、愚かな社会の理不尽はあくまでも外部に押し付けられ、おなじみの本命女性キャラクタはひたすら「背負う者」であり主人公の「あて先」の意味しか持たず弱く淡くひたすら透明で純粋でかなしく滅びゆく者として魅力に乏しく、小林緑(笠原メイやピンクのスーツの太った17歳の女の子といったサブ主役少女キャラにカテゴライズされる)や突撃隊や永沢さん、レイコさんといった「運命と罪と理不尽を背負いそこに塗れながらただひたすら生きる」役を負ったキャラクターはやたらといきいきとした魅力にあふれている。会話が小気味よい。
 
我が本棚にないんだが、読み直したいのはやはり「ダンス・ダンス・ダンス」、「1Q84」の1.2だなあ(3はあるがこれだけではどにもならん)。図書館はよ開いてお願い…

100分de名著「法華経」

ずうっと中断していた100分de名著の録画をようやく消化し始めた。「法華経」である。

やたらとチック症的なまばたきを繰り返すのがちいと気になる繊細で優しいおじさんな雰囲気の指南役の仏教研究家の先生がごくシンプルに法華経一般の概念を説明してくださる。原典サンスクリット語から現代語訳をされたそうだ。大変なもんだ。

原典の言葉の解説ってのは歴史と意訳を重ねて重ねて意味がブレブレにズレてきたものを正してゆくよな素敵な親切である。あれこれおもしろかった。賢治の理想のデクノボーのモデルと言われる常不軽菩薩の意味がサダーパリブータ(SadAparibhUta)というものすごく両義的な深い意味があるとか、レトリックとして捉えられる「方便」がupāya(原義「近づく」「到達する」の名詞形であることから仏の智慧による衆生を済度に近づけるためのもっとも効率的で巧みな方法という意味であるとか。)

ざっくり入門シンプルにってとこがいいのヨ、この番組。100分のダイジェストだからな。それでいてエッセンスをとらえてたりする。論文の序文みたいなもんだ。一番大切なとこはホントはみんなとってもシンプルなのだ。

で、でてきたんである。「真の自己」の概念。
実はこれがなかなかふかぶかと心に突き刺さった。そのシンプルな難解さに感動した。

思い出すのが「本当の自分・自分探しの旅」というコピーの類。
いや実に手垢がついて臭みを帯び、お笑いワードになっているほどいろいろ揶揄される恥ずかしい言葉である。

「癒し」とかそういうのもなんかなあ、背筋にむずむずきちゃうような恥ずかしさがあって個人的にとても使えない。(私は実は絵文字とか《笑》とかもハードル高くて使えない不器用な人間である。)もともとあんまり安売りしちゃいけない言葉がみょうちきりんなメディアで流行らされてなんかこう本来の意味をゆがめられ薄められて汚らしくなってしまう感じってあるもんだ。「名前を言ってはいけないあの人」とかいう概念の発想は何だかこういうとこからもきていると考えていいのではないかしらなどと思いついたりする。「名前」っていうとこで意味のカテゴリは広がりすぎてしまうけど。

 

真理、とか言う言葉さ、例えばそういうの。

その、人間が語りえなくなるところ、無言になる地点、虚空。それを語ろうとするために本を一冊書くくらい、ひとことひとことの言葉って大切なのだ。きっと。はじめにことばありき。ロゴス=神みたいなもんだからな。

…とはいえ使わねばならぬこともある。ゴンゴンと、とワシは考える。誤った使い方をしてはいけない、常に鑑み鑑みしながら己の中で納得してからどすんという重たい決意と思いを込めて、一言つかう度にどきどきしながら疲れながらあらゆる揶揄に百の言葉で対応できるだけの理論武装をしてから覚悟をもってゴンゴン使うものなのだ。いや実際どうでもいいんだけど。好みの問題だから。

 

ということで、おじゃる丸での(おじゃる丸は基本的に卓越した崇高な思想を孕んだ素晴らしい番組であるとはじめてみたとき私は大変感動してしばらく随分とハマったものだ。最近観てないけど。実に類を見ない。原作者はうつ病で自殺しちゃったけどな。)自分探しキャラクター、フリーターのケンさん。(おじゃる曰く「ふらふらのケン」)自分の天職を求めてあちこちでちいと元気にバイトをしてはすぐにクビになったり「これは本当の自分じゃない。」とやめてしまう元気な若者である。だけどひたすら前向きで陽気でいいひとでかっこいい若者なんである。…なにしろこのおじゃる丸の批評性の暖かさが大好きだなオレ。(作者自殺しちゃったけどな。)(しつこい。)

 

のことなど思い出したりしたのであるが。
いやそれは関係なくて。いやこれくらいこねくり回した後で再び幾度でも立ち返ることのできる<言語・世界>というのはふかぶかと三千世界であり、曼陀羅網であり、いやとにかく素晴らしいんだなどと思ったりもして。(その真理とはおじゃる丸の住んでいる月光町のあの世界に立ち返っていく、と言ったっていいことなんだと実は今私は考えている。)

 

…いやだからね、要するに、ブッダの悟りってのは、真理を悟るってことは、実は真の自己の発見である、というそういうさっくり言えてしまうことなんだけど、これがなんかものすごくて。

つまり、これは真の自己とは何か、っていう問い直しだからさ、要するに。それが真理という虚無である、という地点であるところ。解放とはすべてを手放し失うことである、ということ、そしてそれがすべてを得るということと同義である、ということ。自我が解体し世界が輪郭を失い空となり裏返って色となることを感覚する、主観と客観がその境目を失う臨界点であるところが仏教的な悟りの意味であるという、西田幾多郎の言う「純粋経験(主客未分)」。

「自分とはすなわち世界である。」

なんというか、人類の苦しみや喜びの歴史が営々と紡いできた叡智、仏の叡智のその深みと光に照らされたようなトリップ感を感じたワケよ、なんとなく。

ううむ。
おもしろいたあこういうことよ。

いっぱい考えたいなあ、世界にはその価値がある、自分で言葉に紡ぎたいなあ書きたいなあと思えるこの一瞬見える構造、風景のことなんだ。


で、とりあえずこの記事は備忘録。(そればっかりですが。)

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これは、法華経の美の象徴、白蓮やらお釈迦様関連で、蓮写真。隣町の蓮池で撮ってきたもの。今年は見に行けるかなあ…上野の不忍池のもきれいなんだが。

コロナ緊急対策下非日常的時空備忘録

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雨とコロナとパニック映画の中のような世界に閉じ込められた春の土曜日、暖かい部屋の中でリビングの平和な両親の気配を感じ、私は思ったよりも落ち着いている。今日のお気に入りその他備忘録。

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最近Twitterでフォロー始めた、言葉にミョーに素敵な切れ味、過剰な鋭さや底光りのする誠意を感じさせてくれるコラムニストのツイート。

「オレがウソツキだって言うけどおまえだってハゲてるじゃないか式の反論。」

西荻の喫茶店のマスター開店の挨拶ツイート。

「4月18日(土)「COVID-19」が『小人19』と聞こえて、頭の中のステージに歌って踊る小人アイドルたちが登場し…さつまいものチーズケーキ焼きました。」

歌って踊る悪しき19人の小人のイメージ、私の頭の中ではB級ホラー映画の趣味の悪い恐ろしさがコロナに付加されてしまった。ブラックメルヘン。

ドグラ・マグラ365日配信チャレンジ」で読破にとりかかった奇書にて本日配信分「お尻を抓(つ)ねればお尻が痛いのだ。」

それは、脳髄が人間の知のすべてなのではなく、身体中の一つ一つの細胞がすべてそれぞれに独立して世界を感ずる生命なのであり、それでいて個の中に連携する生命なのであり、そして脳とはそれを繋ぎ合いオーガナイズする中継電話局に過ぎない、という発想であって…かなり新鮮。

 *** ***

ヤナちゃん吉祥寺曼陀羅ライブも中止か…そうだろな、どうせ今回行けやしない、あきらめつくやとは思いつつ。

だけどさ、と思う。私が行けなくても今あそこであの空間でヤナちゃんとそこにいるみんなが、あの宇宙が存在していると考えるだけでも違うのだ。不思議に同じ時空に生きている喜びがある。リアルを感ずるのだ、感応。その感覚は決して世界から絶たれてはいけない。不要不急の文化とよばれるものたち。

ゴーストタウンのようにがらんと空いた小さな街をぽくぽく歩いていると、憧れだった老舗や思い入れのある懐かしい店、ちいさな可愛い気になってたお店が、それぞれに胸が痛くなるような貼り紙をして休業や閉店を告げている。

コロナは人を殺し街を殺す。コロナに焼き尽くされた焼け跡に復興できるのは巨大資本のものだけになってしまうのだろうか、と暗い思いに囚われる。どこまでが天災でどこからが人災なのか?

喪失感。

 *** ***

だけどね、なんだかその喪失の痛みは、今までの己の人生を否定するものではなくて、今まで生きてきたことの尊さの、感謝と喜びの確認でもあるような気がして、それは非常なる至福で…両極に引き裂かれてただ、なんというか、甘やかな痛みだった。うっとりするような哀しみ、生まれなければよかったとは思わない。

 *** ***

昨日は母がブログ乗り換えたりとかパソのあれこれお世話や指南の役割を仰せつかり、非常に疲弊した。今日明日こそじっくりねじまき鳥再読続きにかかろう。第二部「予言する鳥編」に入る。

…第一部「泥棒かささぎ編」ラスト、「間宮中尉の長い話」、一生のトラウマになってしまった皮はぎ拷問シーン、精神的に耐えられないので心の目をふさぐようにしてコアな部分はすっ飛ばすように読みとばした。

第二部冒頭、さあ奥さんが出てっちゃったぞ。

PAPA2 COVID-19

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COVID-19、コロナ騒ぎで様々な側面からかなりダメージを受けている。
…という方は少なくないだろう。

というか、少なくともこの国では今現在ほとんどすべての方がかなりのダメージを受けているように思われる。

あらゆる方面に関しての様々な形でのものすごい不安はすべてを圧殺する悪循環のモンスターだ。多かれ少なかれ皆やられている。自覚無自覚そのリアリティに関しての逼迫感の軽重はともかくとして。

より一層ひどいことになっている他国の惨事を目の当たりに、すべては「明日は我が身」の恐怖。

…ということで、わたくしもそうである。
いや~、正直こんなにすごいことになるとは思いまへんでした。

ニュース見てれば果てしなく怖くなってくる。メリメリと心が堕ちてゆく音がする。
コロナ憎い。心から憎い。何もかも奪ってゆく、希望に繋がるものを。春なのに。

…しかしだな、アタマがあんまりコロナになってしまうとココロがコロコロとコロナ暗黒に負けてしまうのだ。弱いココロの持ち主のわたくしなんかもうイチコロコロリコロナ。煽りや脅しなんかにもコロコロヤられる。コロリコロナ。

愚かである。

 *** ***

まあねえ。

おこもりしてこんなことしてたら免疫力も下がるしね、とにかく愚かしい敵対関係作らず前向きな希望に向けて知性を発揮すべく路線を調整するだよ、コロナビール風評被害とかもう愚かしすぎて、いや~古今東西人類ってのはホントこういうもんなんですネ。愚かである。

で、心にたくさんのチャンネルを持っておかなくては閉ざされる。閉ざされることから恐怖と愚かしさは始まる。

ということで、心を違うチャンネルに振り向けるべく多数のチャンネルをひねってみるのも有効ではないか。I shall be released!(ボブ・ディランは結構泣かせてくれる。)

ということで、さて。

 *** ***

父である。PAPA、再び。

愚かしい私は時折両親のところに甘えに行くのだが。
こないだ、帰りがけ。

朝、実家を出発する前、リビングの父と少し話したんである。
バイクでの帰り道にある大学の話題から膨らんで、昔の大学のこと、そしてその学生時代のあれこれを話してくれた。駒場寮での日々。昭和の古き良き時代のあの界隈ののんびりとノスタルジックな風景が浮かんでくるようだった。

父から昔話を引き出せるのはなんだか嬉しい、そして不思議な気持ちになる。今までそんなことあんまり話す機会がなかったから。

おっくうがってすっかりおこもり、マイナス発言ばかりが多い昨今の父を見るのを寂しく思ってたんだが、昔話をしてくれるときはなんだか急にいきいきと楽しそうになってくれるようだった。瞳に光が灯った顔。愛おしむように昔のことを語り始める。それだけでも部屋は優しい空間になったんだけど、それだけではなく私自身もなんだか楽しくなった。時代や自分のルーツのことや、そのリアルを感じたのだ。

高校の途中で東京に越してきた父は、転校編入の空きの具合がうまくいかず、高校を卒業していない。大検を経て入試を受けたんである。で、大学で寮暮らし。

駒場寮、強制的に壊されてしまう前、友人に潜り込ませてもらったことがあるんだが、イヤ聞きしに勝るというかなんというか、ものすごい素敵なとこだった。タイムスリップ或いは異世界、昭和漫画ガロの世界。)(楽しかった。)

夜、部屋にいてもつまんないもんだからつっかけにどてらな格好のままご飯を食べに渋谷の恋文横丁まで皆でぺたぺた歩いて行ったりしたそうだ。その恰好で。高級住宅街松濤を集団でのし歩いたそうだ。のしのしと。「いや~恋文横丁は良かった。安くてうまくて。」「店主がわかってて大盛にしてくれるんだよ。」「懐があったかいときはカキフライとかな、うまかったな。」

「学食ではな、時間を過ぎると売れ残りを馬鹿みたいに安くしてくれてな。」
「合図の鐘が鳴るんだよ、そうすると皆待ち構えててそれ~っと。」
「食堂のおばさんは随分親切だったよ。」

…何を隠そう寮暮らしって憧れである。
子供のころからワシは本当に寮暮らしがしてみたかった。児童小説青春小説だのなんだのたらふく読んで脳裏に好き勝手な幻想憧れを醸成してしまったのだな。実現しなかった夢を振り返っても仕方がない。将来はステキな女学校みたいな老人ホームで友達みんなと住むのを理想として振替えよう。

 *** ***

挨拶して出るとき、いつもちょっとめんどくさそうに一言「気をつけてな」とか「うん」とか「ああ」とかしか言わないんだが、「また近々おいで。」といつになくあたたかな心持ちの灯ったような表情をまともに向けてくれた、ような気がした。

 *** ***

人生の一点をふと振り返って、生き生きとした表情を浮かべられるときがその終盤に存在するのだとしたら、その人生は今の立場がどんな状況だったとしても、非常なる幸福、何ぴとも冒し穢すことのできない絶対の幸福に彩られた意義あるまったきリアルとして主張されることができる。それは逆照射され、現在をも染め変える自分だけのリアル、絶対のリアル、絶えず生成される物語としての過去だ。現在を変革し未来を創り上げる生ける過去。

西田幾多郎の言う「永遠の現在」思想とはすなわちこのようなものではないか。
てな、思うんだよ。(これについてはここで言及した。)

喩えこの先私が疫病にヤラれ誰も私のことを考えることもないさびしいさびしい死を迎える、そんな人生だったとしてもね、絶対否定されない。そのときの寂しい絶望がどのようなものであってもそれは否定されない。私の感謝と歓びと、すべての存在のときの記憶は。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」再読に際して(文字の大きさ云々)

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先週書き綴ったものから)

冷たい雨の日曜日。

朝の悲しさと絶望、身体は眠く怠く痺れ魂も暗く沈む。どうなることかと思ったけど、午後、懐かしい街、私は昼下がりのカフェにいた。

座り心地のいいソファ、仄暗い落ち着いた照明、古い音楽。
各々の時間を包まれた人々の静かな気配、珈琲の香り。

この熱い一杯は魔法だ。手を暖め胸の奥に灯を灯し心を暖めてくれる。祈るような優しい音楽の向こう側に時代の見た夢のことを思いながら目を瞑る。そしてここに住んでいたころ読んだ本を読み返す。

自分の物語、本の中の物語は重層して私の魂はふわふわと漂いだす。自由になる。過去の方向だ。…だけど未来はここにあったのだ。閉ざされた世界の終わりの話を読み、そのひとりの安らぎに共振しながら身を沈める。

  *** ***

(今日だ。)
何故子供向けの本の方が大人向けのものよりも大きな文字なのか。視力は寧ろ老眼になってゆく大人よりも子供の方が遥かに優れているはずである。

学生時代読んだっきりの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、古い文庫を再読しようとして、文字の小ささに閉口した私は、ふと疑問に思った。(もしやこれは生まれて初めて抱いた疑問やもしれぬ。)

それは、文字の形状および語彙を惰性によって読み取る、つまり予めインプットされた脳の既存データから構成されたアルゴリズムによって読書がなされているということと関連があるのだろうか、聴覚的要素を中心に置くことなく視覚的要素から情報をダイレクトに読み取るバイパス回路の発達とか。その発達は、ある程度予想と正確なプロセスの省略の能率化を含む…云々。子供はそのトレーニングが不足しているためにまだその脳内データベースを活用するアルゴリズムが十全に機能しない。‬文字の形状から音韻や意味を取り出す恣意として構成された意味ネットワークからくるテクストを、そのマニュアルを最初から丁寧に参照しながら追ってゆかねばならない。初心者マーク付きの丁寧な運転だ。

そして人間は言語をまず音韻から習得する、というプロセスがある、という、識字率が異様に高いこの国では普段忘れられてがちな言語構造について。

(そしてそもそも明治の言文一致運動がおこる以前には、書き言葉と話し言葉というのは言語として「異なるもの」だったのだ。基本概念からして違う。)(この辺りに関してはここでも言及した。)

文盲、というが、普通に話すことができるのに文字を読めない人間の率というのは世界ではものすごく高いし、日本でだってつい最近までそうだった。そう、つまり読むという行為は純粋に実生活における具体性・身体性からは完全に遊離しながら、観念としてはそれに直結している奇妙な精神活動なのだ。

吉本隆明が何かの文芸批評の文章の中で読書行為に対し「脳内で半ば音韻化しながら」という表現を使っていた。この「半ば」というところがミソである。

そう、逆に大人にはひらがな、すなわち表音文字だけの文章は非常に「読みにくい」。意味が取りづらくなる。子供レヴェルとおなじになるんである。脳内で音韻から意味を立ち上げるプロセスに立ち返ってやりなおさねばならん。逆にいうと、読み方がわからなくても意味が分かる、という表意文字漢字の特質が「書き言葉」の特質として音韻の要素について考えさせてくれる。いわゆる速読テクニックに関わる領域の作業を行っている。インデックスに従って既知の要素から物語を組み立てる思考法になっているのだ。パターンからの組み合わせなのだ。あらかじめ与えられた(インプット済みの)データからの新たな構築。

…ここから浮かび上がってくるもの。

…うむ、そう、これはなんというか、発想というか構造の基礎が実にAIなんだな、感覚的に。書くこと、読むことにおいてオリジナリティ或いは想像ひいては創造とは何か、という定義づけテーマにまでひろがってしまうが。

AIにない人間にだけあるその先のレヴェルとしては、クオリア、というのだろうか。情報の蓄積が一つの飛躍を孕んで様々な統合レヴェルにおける個的観念を発生させているところがある。たとえば先の吉本隆明の「半ば」という言はその構造について触れたものであると考えられる。身体性から観念性への、そしてその統合へのなだらかなステップ。

各感官からくる官能がその統合に至る道筋が読書という行為に含まれる、その読書行為の構造。物語論と関わってくる。語る、語られる。ということと書く、読むという行為の領域の重なる部分と決別される部分と。そして、データの統合に過ぎないAI領域からの飛躍、プラスαしたWHOLE。…これはおそらくナラトロジーの領域にかかってくる。

 *** ***

この、ラングとパロールエクリチュールとの絡み合う言語構造をその豊かさを、私は考えながら感じながら、その本を、昔の春樹をできるだけ丁寧に読んでいた。三月名残雪の土曜日。

 *** ***

風景、料理や食べ物のこと、その丁寧な描写、独特の気取った比喩表現に込められたもの、そして音楽。できるだけ丁寧に味わいたいと思った。感官を研ぎすまし。そこにこめられたものを。

作品クライマックスに近く、ダニー・ボーイがでてくる。慌てて探して聴く。

…そしてやっぱりラスト、主人公が最後の意識の中で聴き続けるボブ・ディランメドレーを聴きながら読み終えたんである。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。

私自身も発売リアルタイムで読んだ当時ほど共振し陶酔できていないかもしれないし、時代や文体の臭みとかなんとか、ツッコミどころ満載であったとしても、やっぱりこの作品にこめられた真摯な心の蠢きの断片にはかけがえのない魅力がある。

そして、当時は読了後熱烈に続編を希望したが、今は、その切り落とされた物語の向こう側の形がないままでもあってよいし、あったとしても「それはまた別の物語だ。」(エンデ「はてしない物語」)っていう風に思う。いや書いて欲しいけどね。今彼があの続きを書くんならどういう形になるだろう。

そして続いて読みたくなったのはさらにさかのぼって「羊をめぐる冒険」なんである。懐メロならぬ懐本、なんかこれって己自身の人生の総括にかかっているような気もせんでもないが。

*** ***

肝心の作品内容に関しては思うところが多すぎて、全く触れなかったけど、ちょっとだけ備忘録。春樹作品の中の女性は大きく「他者」としてくくられてもよいのではないか、という思い。そして、これはすべては己の中の物語なのではないかと。「世界の終り」パートの僕、「ハードボイルドワンダーランド」パートの私。そして、世界の終りの僕の影は羊をめぐる冒険の中での鼠を想起させるものがある。

これは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」という存在としての矛盾に満ちた己という不可視のテクストの提示としての作品であり、ラストの在り方とは、それらをすべて他者へ、外部へと投げ渡した形になっている、というものなのではないかと。ハードボイルドワンダーランドでの私は移行を死として受け入れ、すべてを赦し祝福し愛おしみ哀しみながら意識を投げ渡し、世界の終りでは、己の影に、己の作り上げたがんじがらめの自我の安寧の牢獄「壁」からの外部への脱出を託して、牢獄を作り上げた責任を引き受ける。図書館の女の子、という他者、外部への愛をその救済への祈りとして。投げ渡したその先は、常に構築され続ける物語として、おそらくはほとんど読者に投げ渡されたメッセージとなっているのだ。

モチーフとしては、図書館、象工場。(象の墓場)春樹作品のなかでの象、の持つ意味は、そのイマージュは、意外とプレテクストの所以が面白そうだ。(インタヴューしてみたいものである。)