大変不思議なことに、未読だったのだ。
震災を下地にしてすべてを読むことができる短編集なのだが、私は「東京を救うかえるくん」の物語に、そして登場人物のキャラクターに大変感動した。
で、そこにクローズアップされていたのは春樹作品の一つの大きなテーマ「闇」や「恐怖」だと思った。
ということで、これを手掛かりに、少しだけ春樹作品に通底したそのテーマをあれこれ考える切り口のメモしておきたいと思ったのだ。
一番の恐怖って何だろう。そしてそれを克服するのが春樹の物語のテーマになっているとしたら、その精神的な勇気や強さとはどのようなものでありうるのだろう。
とりあえずなんとなく恐怖とその克服について語られてきたものについてAI君に聞いてみる。さらっと。春樹のこのテーマにぱちっと来るようなものを。
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ニーチェはしばしば
「真理を直視する勇気
危険や不安を引き受けて生を肯定する力
既存の道徳や常識への懐疑と批判的精神
を「強い精神」の特徴として語ります。
仏教でも、真理を悟った境地を「無畏」と呼び、恐れからの解放として語ることがあります。
仏教的に言えば、煩悩や無明が薄れ、ものごとを正しく見る智慧が深まるほど、
生老病死や損得への執着から生じる恐怖がやわらいでいく、というイメージに近いです。
この流れで読むと、「恐怖を持たぬ悟性」とは
危険がない、という意味ではなく
危険や不安を理解したうえで、それに支配されない知性
恐怖よりも、自分の価値判断と創造性を優先できる精神
真に強い精神とは、恐怖を知りつつも、それにひれ伏さぬ悟性である」
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と、ざっとこんな具合に、こう答えてくれた。
そうか、では。
春樹はどうこれにアクセスするか、というテーマの食いつきからだな、と思って私は「かえるくん」を読んだ。
★「かえるくん、東京を救う」
かえるくんは東京をみみず君による大地震災害から救うためにみみずくんと闘う決意をしている。彼はみみずくんと闘う際の恐怖について語る。かえるくんは人間の心の中の恐怖の本質、その「精神的な恐怖」についても詳しく、ある程度それをコントロールする術にたけている存在のようだ。
「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。」(小説家のジョセフ・コンラッドを引用しているという。かえるくんの言葉には引用が多い。春樹の読書傾向とその「読み方」の参考になる。「先行文献」は作品の豊饒を一気に深化させてくれるものだ。本当は、出てきた本は全部読みたいのだが、トルストイやドストエフスキーに親しんでこなかったので今からアレらにどっぷりかかるのは無理である。少しだけつまみ読んででもいい、今の己に可能な限り読み込んでみたい。作品の感動を深めてくれる。)
かえるくんの戦う相手、みみずくんはヤミクロ側の地下の昏いところに常在する存在。
みみずくんは、闇の中に隠されたすべての世界存在の生命の中に発生する「罪」にも似た、そのもやもやしたまま隠された情動をため込み、闇の中で「憎しみのエネルギー」のかたちへと変換する翻訳者。ひたすらおぞましく醜い存在。彼が目覚めるとすべての人々を害しすべての存在を害する憎悪と破壊の爆発である地震を起こす。
彼と闘うために必要なものはなんなのか?
春樹作品では、おそらく、それは目をつぶってただひたすら何かを「信じる」というテーマに繋がるもの。それは、己の恐怖の闇へのダイブの感覚に必要とされるもの。
そして、その時必要なものは、具体的にはかえるくん以外の多くの作品でも「ともだち」的な象徴に託されているのだ。「世界」「己の内部にあるもの、あるいは影、分身。」或いは「他者」。これは真逆であるように思われる、が、どうだろう。自分を信じることを止める、自分の恐怖を信じることを止め、「何か」へと託す。目を閉じる。その命を懸けた「ダイブ」の感覚は、過去を浄化し清算し、新しい世界、未来へと再生するためのミッションとして必ずと言っていいほど春樹作品のクライマックスに登場する。ただひたすら、「何か」を信じる。「何か」という問題がすべての作品に散りばめられた読者への問そのものなのかもしれないとも思う。ひたすらただそこに見られるものは、未来への、正しい流れへの、生命への、意志。
その行動を敢行する勇気を実現させるに際し、「何か」とは、コントロール不能な他者としての己の中の恐怖を孕んだ「森」、あるいは決して完全に理解しあうことのない絶対的な「他者」を、その導きの存在をただ問答無用に「信じる」ことのふたつは同じ構造をもっているものとして提起されているものなのではないか。
「井戸」への沈潜、その闇もまたその恐怖と向き合う象徴として扱われる。
ここで登場する、トルストイ「アンナ・カレーニナ」の「機関車」のモチーフはどうだろう。鉄道自殺するアンナの最後と、全てを終わらせる、死の機関車にむかってゆくその「ダイブ」の際のアンナの精神状態の描写、その内面世界にうつるものは、すべての世界像に対する嫌悪と、精神の錯乱と恐怖と、そして幻影と陶酔、それらアンナの内外の光景と、かえるくんの恐怖とみみず君との戦いへの「ダイブ」への重なり。ここがかえるくんの不条理と、覚悟と、単純な「恐怖」という中に、クリアにはできないうごめきのような錯綜と混乱のどろどろとした生命の本質のところにかかわるという共振が映し出されてくる。
かえるくんは、誰にも知られることなく感謝されることもなく、ただひたすら無心に人々のためにみみずくんと死闘を繰り広げているとき、ドストエフスキー「白夜」のことを思い出している。報われぬ、最後には裏切られるかたちになる夢みがちで孤独な青年の、ひたすら相手を尊び愛し、奉仕する、初恋の姿を、その哀れな裏切りの悲劇を、「神に見捨てられた人々をこよなく優しく描き出しました。神を作り出した人間が、その神に見捨てられるという凄絶なパラドックスの中に、彼(ドストエフスキー)は人間存在の尊さを見出したのです。」と読むかえるくん。
かえるくんはダイブする。己の恐怖と闘う報われない闇の中へ。かえるくんの尊さはドストエフスキーに抱き取られる。
「機関車が来る。」片桐さんがかえるくんの恐怖を夢の異世界の中で追体験し、自らのものとしたラストシーンの言葉である。
かえるくんを損なったみみずくんは非・かえるくんとして、今までのかえるくんに包摂されていったのではないか。かえるくんはみみずくんに損なわれてしまった。そして今のそのかたちでのかえるくんを失った、かえるくんのかけがえのない「信じられた」友人、かえるくん自身を救う導き手、そして、かえるくんを包摂した、ともいえる片桐さんにすべてが託されるラストの哀しみと切なさは…
アンナの最後のその一瞬の絶望の「機関車」、その先の闇を否定できないまま、片桐さんに託された一筋の未来への祈り。この哀切な愛と痛みが…
それは、私にとって、この短編集すべての作品のなかで最も心に響き壮絶であった。すべての作品が響き合っているものではあるが、ここにすべてが収れんしていくような。(蜂蜜パイはラストに付け加えられた、もう一つの優しい光をしるした一つの希望だ。)
かえるくんの死後、その亡骸がぐずぐずと変形し、そこから邪悪で醜いみみずくんのような存在が無数に生れ出てくるシーンがある。かえるくんを食い破って出てくる邪悪。
このイメージは、春樹長編によくみられる、大変興味深いシーンだ。
例えば、「海辺のカフカ」のナカタさんが眠るように死んでしまった、そしてその亡骸の口から、邪悪な軟体動物が蛇のようにうねうねと這い出してくるシーンがある。ナカタさんの身体を通って入ってはならないところへ入っていこうとする「みみずくん」的なるもの。ナカタさんのかけがえのない友人となったホシノ青年は、全力でこれと闘い、それが入ってはならない「入口の石」の向こう側に入っていこうとするのを阻止し、殺す。すべてを損なう邪悪なるものを。
ナカタさんはかえるくんで、ホシノ青年は片桐さんだ。
全ての構造がここに重なっている、春樹のモチーフ。ふとした出会いからかえるくん・ナカタさんに遭遇し、その、あまりの「常軌を逸した」、換言すれば、この人間社会内部での常識、世界の権力や物語や、幻想に惑わされない、人間として魂の深奥までまっすぐにすきとおっているような無垢さ、善良さに、振り回される。
やれやれ、とはじめはぼやくようにしながら、けれど振り回される中で、かえるくん・ナカタさんの尊さに、己が、世界が新しく照らしだされてゆくのを感じてゆく。己の今までの人生をもそこに照らし出し読み直してゆく。これを単に成長、といっていいのだろうか。
片桐さんもホシノ青年も、己のいままでを、何も考えずに流されてきた、カラッポの人生、と思っていたが、片桐さんは、かえるくんのこころを思うその気持ちを文学に読み取っていきたいと願うようになり、ホシノ青年は、重厚なクラシック音楽や難解な映画の中に潜む、その深い優しさのなかに、存在の尊さを感じる感性を会得してゆくようになる。
信じること、勇気を持つこと。かえるくんだったらこういうだろう、ナカタさんだったらこう言うだろう、と、今後の己の人生に彼らの視点の尊さを照射する予感のなかに生きてゆく。
それは、どこかメタフォリカルな存在である、かえるくん、そしてナカタさんの存在が、その託された未来への思いが、片桐さんとホシノ青年の中に引き取られ、共に生きてゆく存在となるともいえるだろう。あたかも、「街とその不確かな壁」で、イエロー・サブマリンのパーカーを着た影のない少年に、主人公が「夢読み」の仕事を託し、少年と主人公が「一体化」していったかのように。
それが、かえるくんやナカタさんが、信じる道へと、すべての闇を越えてダイブしてゆくのに必要な、今後を託す、若き「友」という存在の構造と意味なのだ。
ホシノ青年は、喫茶店で初めての重厚なベートーベンのクラシック音楽「大公トリオ」を聴きながら、思索を助けてくれるその音楽に身を浸し、心を広げてくれるその音楽の中で、己の人生を鑑みる。そして何も考えず、自分を愛してくれた人の思いをおもんぱかることもなく、感謝も知らず、流されるまま生きてきた自分が今、生まれて初めてのようにナカタさんの役に立っている、ということに歓びとして感じていることに気づく。そして何故ナカタさんの役に立つことをこんなにも充実と幸福として感じているのかを考える。「なんというか、自分が正しい場所にいるっていう実感があるんだな。自分が一体何かという問題が、ナカタさんの横にいると、もうどうでもいいようなことに思えてくるんだね。」(p170)
ナカタさんの死の直前、眠り込みかけているナカタさんにむかって、ホシノ青年はナカタさんにこのように話しかける。(ホシノ青年は、ナカタさんが死の直前であるとはまったく考えていなかった。いつもどおり眠るだけだと思っていたのだ。)
「何故おじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。(中略)いろんな景色の見え方がずいぶん違ってきたみたいだ。(中略)それまでちっとも面白いと思わなかった音楽が、なんていうのかね、ずしっと心に沁みるんだ。で、そういう気持ちを誰か、同じようなことがわかるやつと話せたらいいなとか思っちまうんだ。そういうのはさ、これまでの俺にはなかったことだ。それでだね、どうしてそんなことになったのかというとだね、それは俺っちがずっとナカタさんのそばにいたからなんだ。そしてナカタさんの目を通してものを見るようになったからなんだな。もちろん何から何までナカタさんの目を通してみるわけじゃなねえよ。でもさ、なんていうかごく自然に、俺っちはおじさんの目を通していろんなものを見ていたんだね。どうしてそんなことをするかというとね、俺はおじさんが世界を見る姿勢みたいのをけっこう気に入っていたからだ。」(p320)
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さて最後に「蜂蜜パイ」での友達の三角(或いは娘を含めた四角)関係についてひとこと手がかりだけ。
これは「ノルウェイの森」のキヅキと直子と主人公との関わりのパターンであるが、この友への複雑な葛藤と思いを、理解できない彼の他者性と主人公にとっての不条理を、「それでもなお」まるごと受け取って超えてゆく、ただ「信じる」という感情に似たところにあるジャンプであると思えば、構造は同じである。
この、ひとつのメルヘンに託されたシメの短編は、この短編集の読後感を希望のあたたかい光に祝福された祈りのあるものにしてくれる。
