酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

パンとインド神話

今日は青空陽だまり春うららびゅーちふるさんでー。

のたのたと街を歩いてビアードパパの前でシューの焼ける香りに包まれ、焼きチョコシューやパリブレストなんかを眺め、その隣の和菓子屋の鶯餅や道明寺、蓬餅のやわやわと雅なそのお姿を眺め(関東長命寺風の薄皮桜餅もあったけど断然道明寺派である。)ああ春だ、と荒んだ心が慰められた。

大体がパン屋やシュークリーム屋や花屋の前を通るのが好きなんである。幸福の香りに包まれるからだ。パン屋は楽しい。

とうことでパンである。

当たり前だがパンとは英語から来た単語ではない。
ポルトガル語に由来する。

つまり鉄砲やキリスト教と一緒に輸入されて始まったんですな。日本でのパンの歴史は。何となく国レヴェルで未来への胎動に満ち、熱い夢の生きていた若々しいドラマな時代である。そのころの横浜の浪漫な洋館に住むお嬢様みたいなのにうまれてみたかったもんだ。

で、ついでに言えばお仏蘭西語でもこの小麦粉製品のことはパンと呼ぶ。大体ポルトガルのパンの菓子っぽいやわやわたまごパンイメージよりフランスの素朴パンイメージの方がワシは好きなんである。ずっしりとどっしりと、なんともいえない母なる大地のような深みのある色彩を帯びた雑穀田舎パンとか、皮がカシっと固くて中身は弾力もっちりボコボコ気泡の麗しい、そしてしっかりと小麦の風味の濃い誇り高いパン屋のバゲットとかがお約束イメージ。

パリジェンヌの朝はエレガントにカフェオレととびきりの本場クロワッサン、なんていうティピカルイメージは幻想だってどっかで読んだことある。普段はもっと簡素なんだって。当たり前だ、そんなパン生活毎朝やってたらえらく不健康だしエンゲル係数が恐ろしいことになりそうだ。

なにしろ田舎パンとか田舎パンとか田舎パンとかな、とにかくがっしり頼もしいやつだ。クララの屋敷の都会派高級ふわふわ白パンではなくハイジの村の素朴な黒パン(消化機能と歯の衰えたおばあさんたちにはクララんとこのパンの方がよいんだが、もちろん。)さらに言えばずっしりどっしりがっしりドイツの質実剛健な黒くて酸っぱい系の雑穀パンは更に好みである。プンパーニッケルなんか大変よろしい。

(厳密に言えばポルトガル語ではパオ、と発音した方が近いらしい。ちいと前に流行った半熟カステラ、パンデローもパオデロー、と発音した方が正確であるという話である。…半熟ってのはつまり、中が生焼けのカステラな。そもそも私は子供のころからホットケーキ大会のときも生焼けを好んで周囲から大変怪しまれハラを壊すぞと注意され嫌がられていたくらいの生焼け派である。《ココアの粉をマグカップで練り練り練ってもにょもにょ食むオリジナルおやつにして喜んだりもしていた。生焼け状態のとこの雰囲気を出したのだ。みょうちきりんおやつ命の子どもである。》馬鹿めらが。ならどうして今更半熟カステラをありがたがるのだ。)(けどプリンだったらクラシックに固い方がいい。フォークで刺して振り回して踊ってもカケラが崩れないくらいハードボイルドなやつ。なめらかとろとろプリンとかプッチンプリンとかあれらはどうもいかん。)

 

…いやだからパンの話ね。
中高校生の頃、母は阿佐谷駅前商店街で最寄りのサンジェルマンでパンを買っていた。おっきなパン屋はそこしかなかったのだ。)(厳密に言えば好味屋もあったが近すぎて身近すぎてなんか近所でやたらと地元密着過ぎて日本パン過ぎて、外国への憧れスノッブ要素が足りなかった。ここの手づくりたまごカスタードたっぷりのクリームパンやよもぎあんパン実は唯一無二に素晴らしくて大好きだったんだけど。)(サンジェルマンではおやつワッフルなんかも買っていたが何しろ母は基本説明書きも何にも読まずに最初に手に取ったものを買うひとなんで、ジャムだったりクリームだったりの指定ができない。「どっちもママはおいしいからいいの。」いやワシはジャムぱんとかジャムワッフル好きじゃないの。クリームぱんとかクリームのワッフルがいいの。ジャムはだめ、優しいたまごの味の濃いぽってりカスタードクリーム。)

で。

買い物の中ではエクセルブランというイギリス食パンが定番であった。これは私以外の家族用である。まあこれはなかなか素敵な食パンで、ひきの強くて濃い小麦の味の上等の山高食パン。姉がこれをさっくりと軽くトーストし、皮がぎっしり入った素敵に苦あいサンジェルマン・オレンジマーマレードをこってり塗りつけて食べるのが好きだったのだ。レモン・ティーかなんかでな。(この組み合わせ朝ごはんがサイコーなの、なんて言っておった。エゲレス貴族め。)私以外はこれを喜んでサクサクやっておった。

で、私はどうだったかというと敢えてこれを好まず口にせず。
私の分だけは、頭をたたくとコンコンと文明開化の音のする固い棒状の黒い雑穀パン、ナッツやフルーツがぎっしりつまったずっしりどっしりがっしりひたすらかみしめるタイプを所望した。あれを、豆をお気に入りのミルでガリガリひいてドリップして丁寧にこしらえるブラック珈琲とともに、というのがよかったのだ。

…これは今でも時折恋しくなるぱんだがこないだサンジェルマン覗いたら置いてなかった。(アレに名前はあったが忘れた。)エクセルブランはあったのに。ワシの好みは少数派で駆逐されたらしい。

 一時は万事なのだ。自分はいつもなんでもそうなんだよなアなどとふと考える。いつでも負け組マイノリティの側、マージナル。優先順位は常に下位、いつでも井戸の底から世界を見つめている。

白い甘いふわふわやわらかな高級食パンが流行してる昨今の風潮を眺めているとなんだかそんなことを思い出す。

上等の、職人技の洗練された白い食パンのキツネ色こんがりトースト、苦くて素敵に風味の高いマーマレードにレモンティ。これはこれで完成された素敵なもので、その朝の光、白いレースのカーテンの似合いそうな昭和憧れ的な風景の物語を持っている。

私には、なんだか意固地のようにただそれを眺めてそれはそれで風景として嬉しくてヨシヨシ、というだけで絶対自分は踏み込むことのできない領域。そういう思い込みのようなものがあるんである。純粋な上澄み消費者の理想というTVコマーシャル的な物語を眺めるスタンス美学の喜び、っていう感じかなア。

 

これはね、別に見下してるとか嫌いとかいう傲慢、っていうんじゃなくてさ、それなりのかたちで愛してんの、愛でてるの。眩しがってんの。笑いさざめく可愛い女子高生たちの風景を眩い気持ちでみつめるように。自分には手の届かない世界として定義づけてしまう、なんというかこれはただ宿痾なのだ。

イヤでもさ、これはこれで、世界のひとつの愛し方だと思ってるんだよな。すごくすごくピュアなかたちでの愛し方だと。 

 *** ***

ササニシキコシヒカリのピカピカの銀シャリとか、磨きぬいたコメの芯だけの贅沢な蜂蜜みたいな風味の大吟醸。雑味のない白砂糖、まっしろな更科蕎麦。こういうものは祭り空間の夢の非日常の食べ物としてしか認めてはいけない。基本、神様に備えるイデアとしての食べ物なのだ。ハレに属するもの。

そのピュアな貴族的な輝きの陰に、そこで捨てられた雑味としての「雑物」の魂を考えねばならぬ。それをまったく視野に入れず、経済的な尺度でのみ消費者が生産者である一流職人をランキングだの品定めなんぞしてはならないという感覚がある。そういうのってなんか狭く閉ざされた人間中心世界しか見えないおバカまるだし恥ずかしいくらいエラソー過ぎて罰あたっちゃうんじゃないかと思うんである。

品評するのは構わないんだ、もちろん。もちろん優れた職人技は驚嘆する、尊敬する、賛美するべきものとしてある。芸術である。

だけどそれが経済的原理をプライオリティとする社会のスタイルに偏重しすぎるようだとさ、なんかさ、なんかどうも目を塞がれてるような感覚でさ、全世界の全体性に対する冒涜であるような感覚があるんだな。

己と己の糧となり交換する交感する世界と自己との関係性は、ひたすらそれら関係性そのものを称揚されるものでなくてはならない。洗練された食物、芸術、イデアとしての食べ物は神に供えて、闇をかくしたその贅沢な上澄みの眩さをそれはそれでありがたがっておいしがってイデアとしての神を「こちら側、内部」に取り込むミッションとして、うむ、ただひたすら幸福になればよいのだ。

そう、そしてしかしケの日常の日々愛するべきは玄米や玄米濁り酒。雑味を深みとしてとらえる。闇も光も一緒くたに愛する世界の全体性のバランスなのだ。心身のバランス、世界と調和した健康はこういうところから来るんではないかしらん。

 

ということで神と悪魔が一緒に世界を拵えたのだというインド神話の本に突如興味津々状態である。ちいとこれは課題図書。

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金色のさかな

ノックの音がした。
部屋の扉を開くと、金色の三日月がひかっていた。

ドアの外に三日月?
僕は瞬きする。ゆらゆらとドアの前に浮かんでいたのは金色のさかなだった。

きれいに光るつるりとなめらかなその肌合いは鱗というよりは透き通る貴石で、それが月の光のように見えたのだった。

黄金の月のように輝く魚はあたりの空気をその柔らかな光で透明な液体のよう変容させながら宙を泳ぎゆるりとぼくの部屋に入り込む。子猫くらい小さく見えたけどゆらゆらと水の中の月の光に揺らめく僕の部屋の中でそれはゆらりと子供くらいの大きさに見えてきた。なんだこの風景は。

「チューリップってはどうもクレイジーな花ですわな、気が変になっていく。奇妙な艶やかさで人を惹きつける麻薬のようなあの色彩とフォルム。きわめて人工的な品種改良の果てのものが逆に春の生命の狂に躍り狂う生の根源の躍動を孕んだ極彩色、なんだか昔の人々の描いた絵画を思い出しませんか、デュオニソスの祭りのような神々の狂ったような饗宴。ヌミノーゼはどの方向にもひろがってますな。深く静かに澄んだ水の中にそして乱舞する生命の狂乱の中に。…結局同じことだ。色即是空、明滅する有機交流電燈、ナンデモアリ、ナンニモナシ。Everything is nothing、9月の海はクラゲの海

かの詩人宮澤賢治は己の心象スケッチ「春と修羅」の中にチュウリップの幻術で、めちゃくちゃに世界じゅうが酔っ払う光の酒の杯と歌ってみせてましてな。生命の喜び存在の喜びは、どこかクレイジーで残酷にすべてを笑い飛ばしてみせる、輝き、極彩色、美しさおぞましさ、酩酊、理性の消失倫理の外側、…破壊の恐怖と一体なものですな。

……どうして向かいの椅子に座りこんだ三日月が親し気に奇妙な話を展開していたりするんだろう。しかもちいさくてうつくしい金色のさかなのくせに表情がいやにじじむさい。

僕はいつものようにひとりの部屋で珈琲を飲んでゆっくりと静かな夜をすごしていたはずなんだけどな。

春はいろんなものを連れてくる。
月の魚は僕の淹れた珈琲を啜っていたのだが、(何だか当たり前のように淹れさせられていたのだ。ぼくのとっときの一番いい豆を挽いた日を狙っていたんじゃないか。この星の向こう側から取り寄せてもらった貴重なおいしい珈琲豆なんだぞ。)いつの間にかやがてそれは金色に透き通り輝きはじめていて、そうして僕らは虹色に透き通ってひかるグラスで光のしずくのような酒を飲んでいた。のどを通るときそれはほんのりと金の微光を孕んでやさしく輝いた。……これならいいや。

「あれ?」
視界が変わっている。
僕らは柔らかく香る月光いろの酔いにふんわりつつまれていた。ふわふわとしたその柔らかな光の雲の中で身体の重みがなくなってしまったようだ。軽く軽く雲は宙に浮かび上がる。
……ほんの数センチね。

ちょっとしたマヂックですな。
太陽マヂックがあるなら月光マヂックがあってもいいでしょう。月の光のカクテルは太陽のやつとはまったく違いますからな。お望みならその月光窓から夜空の向こう側、星々に会いに行くところまで行けますがね。

(月光窓?)
(僕の部屋の窓が?)

太陽マヂックは生命の喜び、華やかに滅茶苦茶に浮かれた極彩色の粒子のダンス、狂乱の光の洪水。

……ああけれど月の光の杯からあふれる柔らかくほのかな光は。

それらは生命の果ての両極のように。

(月光窓?)
(僕の部屋の……)

漱石の、こころ、だったかな。自死を選ぶ人間のこころを静かな寂しさの果てと圧倒的な興奮状態との両極に見出す先生のことを僕は静かに思っていた。あああれは寂しすぎた。ぼくはあの部分がとてつもなく好きなのだけど、同時にそのとき漱石をひどく怖れたもかもしれない。

(月光窓?)

もともとね、
ぼくの口は勝手に開き、言葉を紡ぎ出す。柔らかな月光の中でそれが語りだすのを僕の耳はどこか遠くのもののようにそれを聞いている。言葉がぼくから細い金の糸のようにきらめいて紡ぎ出されるのが見える。月光酔いスペシャルだ。

ぼくは大輪の薔薇より一重の薔薇が好きなんだよ。
華やかな大輪の薔薇の花ひとかかえよりもフランネルフラワーやブルースター、現実感を欠いた奇妙な幻想の野原に咲くようなものがいいんだ。月光に照らされた微光の夜光キノコの森のような。どこかこの世に生きていないような人工的なような、それでいて野の花である、別種のうつくしさとよそよそしさを秘めたものたちの姿に似ている。きらきらと白日の太陽の中のあでやかな色彩の洪水のなかにない、静かな月の光の庭園の中にひっそり息づく柔らかな命の姿。

「物自体」ではなく「感性」と「悟性」の間をさまよう阿頼耶識から滲む個人的な物語を僕は口は語っているのだった。恐るべきは月光マヂック。

そして僕らは随分と奇妙な夜を過ごしたのだ。
心の中の奥底から湧いてくる奇妙で優しい光のようなイデエを紡いで随分と奇妙な話をしたのだ。たくさんの物語を紡いだのだ。ふたりで。

(大切なのは、色即是空じゃなくて空即是色の方なんだよな。)

ああ。
このままぼくもさかなになって泳いで月光窓の向こう側に。

とひどく酔っぱらった頭の中でさかなにそう言おうとしたとき。

 ****** ****** ******

月のさかなの輪郭がぽうとにじむ。
「みんなのところへ帰るよ。」

ああ。

 ****** ****** ******

「また来るかい?」

さかなはなんだかびっくりしたような顔をした。
そして奇妙に嬉しそうな表情を浮かべ、それからやがてあわてたように顔を顰めてみせるとこう言った。

まあね。
まあ時折個体になって君と特別に友達になってやってもいいかもな。

 ****** ****** ******

だからね。
そののち彼はなんだか結構しげしげとやってきたんだよ。(それは決まってぼくがいい珈琲豆かいい酒を仕入れた日だった。)

ぼくらはいつもたくさんの世界の物語を旅した。
ふたりでいるとそれらのあんまり物語がふわふわと漂うものだから、みんなそれが世界の果ての向こう側の雲の中に逃げて戻ってしまう前にこっちのノートに閉じ込めておきたいとぼくは思ったんだ。ぱちんと写真を撮っておくようにね。きれいな残像。そしてこれはその一枚目ということだ。

彼の語った月の物語、ぼくの心がどこかで紡いていた物語。
少しずつね、書き留めておこうと思ってる。

彼との出会いと彼との会合はいつもこんな感じでぼくらは時間の螺旋をきれいに描いて、永遠に繋がっていられると思った。これは一つの物語だ。

彼は時折月光醸造所から月光麦酒の瓶や月光ラムネなんかも差し入れてくれたし、そのときは格別な星の光を添えた特別の素敵な物語が生まれてきた。あれは楽しかったな……だからそれはまた別の話として語ることにしよう。(エンデの「はてしない物語」だな。)

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穢れの町、肺都(エドワード・ケリー アイアマンガー三部作・第二部及び三部)読了

ということで読了いたしました。
第一部読了時点のメモはこちら。

一旦ハマったらかなりの長編ではあってもガアと一気読みしてしまうものすごい力業で構築される壮大な物語ワールド、その世界の躍動感に驚嘆するばかり。

いや~なにしろものすごいスペクタクルでなんである。ジェットコースターのように雪崩れ押し寄せる激しい世界のアクション、その勢いにはひたすらゴンゴン背中を押されてページを繰るしかない。

凄まじい残虐、その汚わいと臭気の描写、隠蔽されすべての穢れを背負わされ蓋をされた虐げられ続けたモノたち者たちの、幾世代にもわたってどす黒く濃縮され妖気のレヴェルを経たすさまじい怨念の噴き上がる蝕、そして革命。

世界の歪みとアンバランス、その膿の噴出、そして疫病の時代。

まさに今のコロナ状況である。
ロンドンのゴミをすべて請け負わされ「穢れの町」と呼ばれ、一般市民から隠され、さらには疫病が漏れる、と密かに焼き払われる穢れの町フィルチング、被差別民部落のように。大都市上層部権力のエゴな政策。

その「穢れの町」から逃げ出してきた住民は皆病原体としてロンドンでひそかに暗殺される。感染した患者は隠蔽され汚穢として暗殺虐殺される非差別民とされてゆく。住民は皆不要不急の外出を禁じられ、闇と家に閉ざされる人びと。不安に荒れる人心。拡大し奮われる警察権力の暴虐。

そして復讐劇、更には革命だ。
アイアマンガーは怒りの一族。穢れの町での権力を約束したはずの契約を裏切ったロンドンの権力に復讐を試みる。それに対抗するのはアイアマンガーから更に抑圧されてきた反アイアマンガー勢力。武力に武力を、怒りに怒りを、復讐に復讐を。

だがルーシーは第三の勢力、純粋な革命者として在る。
復讐ではない。ロンドンから、アイアマンガーから搾取され弱いものたちがさらに弱い者たちを虐げ搾取し続けた世界システムそのものの革命を「純粋な生きる力としてのしたたかな子どもたちの生命力」を扇動して新しい世の中を求めてゆく。

すべてを奪われ最も虐げられただまされていた子供たちを扇動し、ジャンヌダルクのように子供たちを率いて革命家ルーシーは闘う。生きるために大切なものを守るために誇りのために愛する者たちのために。たくさんの人々の死に物狂いの闘い、連帯、陰謀…なにしろ革命なんである。その怒涛の展開。

優れたスタッフに恵まれれば素晴らしい映像作品にもなりそう、GOTばりの。

アニメーションでもドラマでも。これは小ぎれいなキレイゴトジブリ的に仕上げてはいけない。

(「アーヤと魔女」なんかもジブリアニメ化されておもしろかったんだけど、予想通りダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作の毒がすっかり抜かれた換骨奪胎ジブリ仕様物語となっていた。

わかってた。そしてこれはこれで気持ちがいいんだけどね。ウンこれはこれで安心感の職人技なおもしろさなんだけど、なんかひたすら文部省推薦の。

なんかしかしどこかに私には引っ掛かりが残るのだ。ナウシカもそうだけど、原作のなまなましさを程よく毒抜きしてきれいな快い娯楽に拵えあげる手腕。ウン、これはこれでってやつで。だけどこれにしたくないっていう作品はあるのだ。これと一緒にしてこれで終わらせてほしくないって作品は。別物としてならいいんだけど。…そう、もちろん。別物だよ、別物。ナウシカだってスタッフきっとみんなわかってて戦略としてそう拵えてるんだ、大人の事情は。)

ざらざらと心と官能を逆なでする吐き気のするような不快感。
怒り。理不尽の露呈。これでもか、とあらゆる人間の底に巣食う闇、醜いものを見せつける。どの人も正義ではなく、己の中に抱え込んだ罪と闇がある。

ひたすら底抜けに優しいお育ちのいい主人公クロードの容姿もよくできた口当たりのいい物語のように美しい可愛らしいものではなく、みっともない。また読者がそこに感情移入して快く彼に憑依し、みるみるかっこよく気持ちよくスーパーマン的に変身する物語でもない。(少しあるけど。「力」に目覚めるあたり。)

ということで決して快い物語とは言えないが、覚醒と救済の祈りが込められ、どおっと一気読みした後の読後感は悪くない。

頭がぼうっとして、美しいもの正しいものについて考える。隠蔽されたもの、己の心の中の罪業、選ぶべきもの、道、のようなものについてぐるぐると考えなければならない、浄化の作用とともに深々と心に残る感動がある。

いつか頭が冷えた頃また読み直してみなくてはいけないと思う。きちんと読み込んでみたい。

なにしろクロードの痛ましさよ、なんである。生まれながらに背負ってきた彼の大いなる力はずっと眠らされており、そしてそれはいつだって愛によって支えられたものであり、ひたすら優しいものだった。

だがひたすら叩かれ傷つき利用され尽くした末にすべてから裏切られ愛するものを奪われ搾取し尽くされた時、彼の悪魔としての力が最大限に目覚め奮われ、アイアマンガー一族の武器として、世界を、人々を殺戮するジェノサイトの道具とされる寸前までいく、…そしてその後のルーシーの愛によって救われる贖罪と浄化のスペクタクルの凄まじさ。

これは……このひとの作品他のも読むべしの課題図書になってしまうわいな。

まあとにかく、しつこいようだが、わくわくしちゃう、快い、気持ちいい、美しいカッコいいお姫様王子様、なんだか知らないが周り中から愛されてなんだかわからないが何もかもうまくいっちゃう、主人公は正義で悪に勝つ、お約束の水戸黄門、安心だ、おもしろ~い、楽しい~、楽しみ~って感じの物語ではないから、なんというか、不快感ずっぷり覚悟で。

だからきっと読み始めはどっこいしょ、だけど、それでも、……やはり一度のめりこむとどうしようもなく「おもしろい」のだ。どかーんと、ふかぶかと。ハマる。

きっとテーマは様々のひとびとの、虐げられた優しいもの弱いもの薄汚いものやわらかなもの汚いもの、何かの美名の陰に隠蔽され抑圧されたものの小さな声。私はここにいる、名を持ち誇りを持ち、生まれ、生きているいのちである。寂しい、寂しい。

クロードは言うのだ。聞こえるよ、僕には君たちの声が聞こえる。愛している。

最も弱い人々にかぶせられる搾取と汚わいと罪が積み重なってできた社会の物語の構造は、そのまま古今東西の、すなわちイマココの現実世界の社会という物語を読み替える「力」を持つ。ああ物語力。

己が嵌め込まれている物語からは逃れられない。しかし見抜かなければならない。大切なのは自分がはめ込まれているさまざまの物語への自覚である。自分たちは何を犠牲にして誰かに何か不都合なものを押し付けて穢れを背負わせて都合のいい幸福を得て都合の悪いものから目を背けているのか?

隠された心の奥のモヤモヤの秘密、心の奥の小さな声、本当に責められるべきもの糾弾されるべきもの許されるべきもの考え続けていなければならないこと。搾取する側でもあり実は見えないところでその負債を払わされている立場にもある己のスタンス。

f:id:momong:20210124161846j:plainこういう作品はさ、春樹や川上弘美、我がバイブル安房直子さんとかそういう別格とは違うけどね、ワシにとって。もちろん。

あれは個人的に私に刷り込まれているからいわば私自身の響き、その共振増幅装置的なるものなのだ。

…ということでとりあえずこのひとの作品は課題図書として置いといて、次は春樹、騎士団長殺し再読いかせていただきます。

おやすみなさいはよ春が来てコロナ禍鎮まっておくれ。
アマビエさまあみぐるみもひとつ拵えようかしらん、春らしいピンクのお洒落なやつ。

「アフターダーク」村上春樹

さて。 

毎朝悪夢と絶望の中に目覚め、少しずつ少しずつその日生きるための燃料を取り入れて辛うじてその日その日の平常心を己の中に育て直してゆく。朝の透明な空から、清浄な空気から、日々の暮らしに伴うルーティン、その動きからその中にひらけてゆく風景から。今まで生きてきた中の風景と現在が繋がる物語を取り戻し日々を救われてゆく。とにかく、今日のこの日だけを精一杯動き生きることだ。

そのことに関して自分の中にコーンと合致した論理を発見したのが、読了したばかりの春樹長編「アフターダーク」の中に出てくるラブホテル「アルファヴィル」(いうまでもなくゴダールの映画から来ている名称である。ムーンライダーズの歌にもあるよね。)の店員の言葉である。この長編は実は未読だったのだ。

 *** *** ***

最初の一行から開かれるのは、ちょっとびっくりする文体。今までの春樹になかったものだ。非常に冒険的な、実験映画のような特殊な手法で描かれる文体による風景。

淡々と静かなナレーションに重ねられる断片的な風景の重なりのようなシーンが次々と展開してゆく。

意図的戦略的な映画的味わいのその展開が醸し出す、観客としての読者に対して示されるカメラ視線意識。その特殊な視点の描き方は、我々の視点はカメラである、映画的手法である、と絶えず明言し続ける。不思議な味わいだ。なんというか、登場人物たちの物語、心理状態になるべく寄り添わない、距離感を出そうとしている、というか。小説として実験的な手法である。

言うなればそれは物語の「意味の連なり」よりも、無意味なままの「映像の連なり」、そのイメージの連想、その視覚的な連なりをより重視したものである。

 *** *** ***

深夜のファミリーレストランで時間をつぶす浅井マリのシーンから、彼女を核に据え、作品は展開する

東京の裏側、闇の世界の側、彼女をめぐる、アンダーグラウンドな世界にうごめく人の心の闇の側で、そのながい非日常的な一晩の出来事が重なるように記述された奇妙な文体の長編である。

アフターダーク」は作中に登場する曲名でもあり、ラストシーン、闇夜の明けてゆく朝のイメージに連動したダブルミーニング、春樹が好んで使う技法だ。ダブルミーニング、あるいは多重の意味の振幅の中に示されるメタファーやアフォリズム

夜の街の闇世界の中、昼間の社会論理枠から外れ、それぞれの登場人物がそこからはみ出た個としての己の内面に目を向けて語りだす。その非日常的にシーンの断片的な連なりの中で語られる人々のそれぞれの人生。その重みを抱えたところから生まれてくるそれぞれの思いや考えはそれぞれが皆固有のしんとしたいたましい重みをもって心を打つ。

 *** *** ***

就中、今、私には「ふつうのOL」の道を踏み外し、法に守られない闇世界に堕ち、おそらくはヤクザ的な闇世界の暴力から逃げ回りながら生きているラブホテルの若い女店員コオロギの科白が非常に印象的で忘れられない。

冒頭の私の日々に響き合ったことば、その論理のことだ。いやむしろ、論理以前の意味のうごめき、阿頼耶識にうごめく意味の戯れのなかに頭をもたげようとして胎動するもの。私はここに何かをつかみそうになっている。

…彼女、コオロギ(仮名)は若い学生の浅井マリと人生のさまざまについてそれぞれの考えを語り合う。

「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくもんなんやないのかな。その記憶が現実的に生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。(中略)それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役にたたんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」。

 *** *** ***

大切なのはそれが「意味のなさ」からくるものだ、というところなのだ。

既にケガれた、穢された、損なわれた既存の物語を拒否したところからだけやってくる祝祭としての無意味の炎。それはそれらの記憶の風景はしかしひとつひとつが個の抱える唯一の自分だけのアイデンティティの元手なのだ。ひたすらただ貴重な燃料として燃やされ、今まで己が、個の存在した証明を守りながらその日を新しく生きる糧となる。己が存在した証拠、己の心の自由、己の記憶。

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闇と暴力とひっそりした優しさの世界。ダークナイト。そしてラストシーンにやってくるアフターダーク、可能性、望まれる新しい光の朝、生きた物語、新しいイマここの存在、生命。

大雑把なこの物語の構造はこういうものではある。よく言われる物語の定型、簡単に言ってしまえばそれは死と再生の物語でもあるし解体と再構築の物語でもある。

 *** *** ***

フリーターでバンドマン、トロンボーンを吹いている高橋もマリとこころを惹きつけあう不思議な主人公のひとりだ。この運命の一夜は彼らの一生を決める恋愛への将来を決定づける。近い将来音楽をあきらめ、法律家を目指そうとする高橋はマリにその道へ進もうとする動機を語る。その鋭い感受性からくる論理以前の論理へのセンスがいかにも音楽家である所以らし過ぎて笑えてしまう。

彼の語る国家や法、裁判にまつわる闇と「ぬめぬめしたタコの触手のような」暴力と権力に繋がる集合的な顔のない闇。その権力が法の論理から一歩を踏み外した個人を「裁く」ことに際して麻痺してはならない感覚について彼は語り、だからこそ法律家を目指すのだという。

或いはそれは加害の側にある、闇世界に身を堕とさざるを得なかった弱者に対し、どうしようもなく己の内側に抱えられた欲望、理不尽と暴力を加え続けるコンピュータエンジニア白川の端正な暮らしぶり、その、隙がないながら無個性な容姿の顔のなさ、匿名性の中に体現されているのかもしれない。

中国から身売りしてきた無力な少女の売春婦を買い、欲望のままに無力な彼女を殴打し身ぐるみをはぎ裸にしたうえで携帯電話も所持金もなにもかも取り上げてそのまま逃げるような男。昼間は妻と穏やかに普通に暮らす優秀なエンジニア、己の闇の側を隠蔽し、法と権力にまもられるテクニックを身につけた一般市民である。

彼はねじまき鳥のワタヤノボルだ。表の仮面と無間の闇に繋がる内面。個を持たぬ無名性、顔のないぬめぬめとした欲望、権力、暴力の側に属する、そのためのシステマティックな動き。

 *** *** ***

コオロギの言う、記憶の、意味のなさを燃料とし生きている、このメッセージの無意味さからふつふつと湧き上がってくる「意味の意味」。都市の姿、その中にうごめく群衆としての人間、個人としての人間のカメラ・パンによる自在な視点の移り変わりが見事に面白い。

意味とはどこにある?

ここで、都市に蠢くたくさんの人々の物語は教訓や意味を素材のまま投げ出され、ただ登場人物や読者の問いかえし問い直しが強いられ続ける、繰り返され続ける。

大切な唯一のもの、意味を、大切なものをそこから己のちからで紡ぎ出す新たな朝、新たな物語のために汲み上げてゆく胎動という物語力。(読者に対してな。)

浅井マリは、成長過程における家庭環境に於いて積み重ねられたコンプレックスによってねじれた関係に陥り、心に壁を築き合い、その孤独の心の闇に打ち沈むようになってひたすら眠り続ける姉との確執を、彼女との心の通った瞬間の記憶を、そのあたたかい熱をよみがえらせることによって「読み替える」力を得る。

まっさらな新しい朝の光、再生としての目覚めと大切なものを関係性の中に新しく築きあげようとする記憶という燃料の力。無意味から意味をつかみだすのは、己を確立し築きあげようとするのは、それを可能とするのは、世界との個的なかかわりにおける、その個的な祈りと意志、その恣意による。(そして、おそらく、愛。男女に象徴されるものであってもよいが、本当は世界存在との関係性、その在り方、あらゆる意味での、愛、或いは、誇り。)

…今きれいな論理構造を語ることはできないが、この感覚は宮澤賢治の心象スケッチの中で幾度も繰り返される「すべてさびしさと悲傷とを焚いてひとは透明な軌道をすすむ 」イメージを私はどうしても思い出すのだ。

ひとが、個人が、現実の日々を生きる、動く糧となるものを自覚すること、それは、現実の外側にある世界の透明な軌道を進んでいることと重なるのだという二重の感覚。

他の春樹作品に比べ、壮大で強固なテーマや物語性を構築していないように見えるこの手法で描かれる間奏曲のようなこの作品、こんなにおもしろいとは。……他の作品との響き合いでこの作品を孕んだ春樹世界は曼陀羅模様のようにインドラの網を構築し無数の意味は響き合い明滅し読者をどこからかどこかへと開放する。

 *** *** ***

さてさて、ぢみぢみ地味地味と続けてきた我が半生を振り返るような意味合いを孕んだ絶賛春樹読み返し大会も終盤(長編だけだが)、いよいよ当時、我が春樹読者体験史上最大の駄作と思われた騎士団長行くかなあ…海辺のカフカみたいに新しく深く面白く読めるようになっている可能性はもしかして高いかもしれない。

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黎明の荘厳、日の出前、冷え込み厳しすぎるけど何物にも代えがたい。美しいとはどういうことなのかきゃべつ刻んだりしながら私は考えるのだ。美とは救済である、と。

 

堆塵館 <アイアマンガー三部作>

さて、「荻原規子が夢中になった長編ファンタジー」という雑誌の記事があったというワケなんである。うむむ、あの希代のストーリーメーカー荻原規子さんが。

これはきっと間違いないに違いない、と私が思ってしまったのも無理はなかろう。

ということで小説編をチェック。

まず『紐結びの魔道師』三部作 乾石智子著

…ウンウン、確かにこの人の本は全部読んだ。中毒性がある。

で、未読のもの。

エドワード・ケイリー著『アイアマンガー』三部作。
フランシス・ハーディング著『カッコーの歌』。

ヨシ、このふたつ課題図書、とアイアマンガーから手を付けたということなんである。

 *** *** ***

いや~最初実にそのどろんと精神的生理的嫌悪感を呼ぶ世界描写の不快感にくじけそうになったんだが、後半の怒涛の謎解き&アクション展開の力技展開に押し流されるようにして、読了。荻原規子さん「夢中になったファンタジー」登録に納得。

「ゲームオブスローンズ」を観たときのこと思い出すようなイメージなんだな、これ。(ちなみに荻原さんが夢中になった長編ファンタジードラマ篇に挙げられていたのはGOTであった。)

最初のエログロ暴力(アイアマンガーにエロスと名誉欲としての権力への欲望の醜さの要素はないが。)への生理的不快感、恐怖感と世界観設定のわけわかんなさのハードルにくじけそうになるが、一線を越えてその不快に対する防御システムがこっちにできてきたところで猛烈な展開の力技でふかぶかと空恐ろしいようなずっしりと深く重たいおもしろさがやってくる。…これは素晴らしい。続きが気になって仕方ない、三部作だからな、このまま私は続きに流れることに決めた。

*** *** ***

あらすじというか作品内容メモ。

まず物語全体の風景のイメージはゴミの山に埋もれた19世紀の穢れきったロンドンである。塵にまみれて不幸に貧しい生き方のレールに囚われた生き方をする下層の人々、そしてその地域の権力一家、ゴミの山の中に屹立するアイアマンガー家内部。

この二つの世界。

屋敷の中の視点はアイアマンガー家の純血御曹司クロード。
もう一つの方は下層人民の中の孤児、ルーシー。

この二人の主人公の基軸から描かれてゆくふたつの生き方階層。
アイアマンガー家の奇妙なしきたり。生まれたとき紐づけられる、一生肌身離さずにいなければならない誕生の品。一生屋敷から出ることのない生活。…アイアマンガー家はゴミ処理で財を成し支配者となった呪われた一族なのだ。

誕生の品とは?しきたりの意味とは?
謎は謎のまま二人の生活が描かれてゆく。この辺り非常に読みにくい。
どちらにも陰惨な人間関係、理不尽な暴力、定められた人生のレールがそれぞれの形で蔓延している。読んでいてキビしいのだ。いずれの世にもいじめっ子の理不尽、弱いものの苦しみや生きてることに付随する醜さはあるんだが、それをゴリゴリと誇張した形でゴミのなまなましい汚らしさや匂いやなんかのイメージの優れた文章で押してくる。

己の置かれた環境の中でしたたかに生きてゆこうとするルーシーと、いじめっ子グループいとこの暴力にくるしめられる優しいクロード、クロードの親友のいとこタミスの生活がそれぞれの章立てでかわるがわる描かれる。

両親を早くに亡くしたクロードには生まれつき皆の誕生の品の発する言葉が聞こえる、という特別な能力があった。

ルーシーがアイアマンガーの血筋であるということで召使として屋敷に引き取られてゆくところから物語は動いてゆく。純血アイアマンガーと混血アイアマンガーの峻別は厳しく、純血は主人、混血は奴隷。新入りのアイアマンガー混血は屋敷に入るとき新しく誕生の品を与えられるがそれはとりあげられて預かられてしまう。それとともに、召使としてすべてのアイアマンガー混血者はひとしく「アイアマンガー」とだけ呼ばれ、それまでの名前と記憶をも取り上げられるようになる。

それまでの記憶も何もかも、アイデンティティすべてを奪われた奴隷となり家族の一族の愛の名のもとに、その一員として実は交換可能な匿名性のもとに屋敷のシステムに支配されて生きてゆくことになるんである。

名前を取り上げられることと記憶とアイデンティティを取り上げ個の人間としての尊厳を奪われることの関連の付け方が絶妙ではないか。

捨てられ使いつぶされ卑しめられ汚わいとなったモノとしてのゴミたち、それと一体化し利用することで上澄み上流社会から卑しめられながら財と権力を成し逆転し、モノを使いつぶしてゴミを生んできた人々の中で、その中でもより弱いものをゴミの山に埋もれ穢れ結託することで更に弱いものの層を置き、血も涙もなく力で支配し利用し大きく育った一族、自ら卑しめられ呪われて生きることでおかれた場所で強く生きる別権力の側に立つことを選んだアイアマンガー一族祖先。

誕生の品の中に隠された秘密の中にすべての呪われた記憶は刻み込まれている。もとは人間だったモノたち、いつでもその主人と逆転できるモノたちの逆襲の機会。それは実はアイアマンガー混血ではなかったルーシーの屋敷への混入によって巻き起こる虐げられたモノたちの革命である。

美しいものや美麗な宝物に固執する支配者。
ゴミの山を愛し埋もれる生活、その汚わいの山を愛することを義務とする一族でありながら、ゴミに閉ざされた屋敷の中の美麗な宝飾品、美しい外見、金品への、モノへの執着というディレンマに満ちて歪んだ支配者たちの性格は、刻まれたその血筋の祖先たちの一族の歴史のなかに幾世代にも積み重ねられ刻み込まれた呪いとしてあるものだ。

一族の支配者、すべての秘密を知りながらその罪と呪いを自ら引き受け受け継ぎ、モノを支配する力を持ったクロードの祖父。クロードの能力はそれを引き継ぐものとして認定され、すべての闇と秘密を打ち明けられそれを抱えながら引き受ける役割を血族と家族の愛の名のもとに強いられる。

声高に崇高に叫ばれる愛の名のもとに純粋な愛のイデアは否定され虐げられ卑しめられるものとなる。

ルーシーと愛し合い彼女をまもり逃げようとするクロードの勇気と大冒険と、虐げられたモノたちゴミたちのよみがえり、モンスターとなった彼らの大いなる反乱の錯綜する雪崩のような地獄絵図が展開される、手に汗握るものすごいアクションシーンである。

第一部ラストは……謎は謎のままに、クロードが祖父との闘いに敗れモノに変わってしまったことが暗示されつつ終わっている。

これはもう続きを読むしかないのだ。三部作だからあと二巻。……とりあえずこれは第一部読了リアルタイム備忘録。

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トキヲお正月お約束の青い空

 

「モモ」(エンデ)再読・物語の迷宮と豊穣

ということで人生総括的な読み直し大会、エンデ編、子供の頃夢中になった一番思い入れのある「モモ」である。
「100分de名著」観てからどうも気になってたんだな。ここ。

で、しかし読了後なんとなく消化不良のまま、図書館からやってきてしまったショーン・タンの美しい新刊「内なる町から来た話」。都市に潜むさまざまの失われ損なわれた歴史の中の動物たちの物語も読んだんである。

そうしてこのとき、片方ずつだとよくわからなかったもの、この二つの作品を考え併せたとき共通に見えてきたもの、ストンと落ちて見えてきた構造、原理、のようなものを私は感じ取って興奮した。……作品中にちりばめられたエピソードの断片がその視点から眺めたときにより一層味わい深く生き生きと動き出し、作品世界全体を曼陀羅模様に構造化し、世界はぐんと豊かに面白くなる、その一つの論理。……そして本の中の世界というのは、閉じた本から目を上げたとき、その瞳が現実世界を眺める知性の世界と同義だ。読書がその読者の心の組成を変えたならば、読者にとって現実世界は読み替えうるものとして再編されている。学ぶということはそういうものでもある。

とりあえず当初「モモ」再読了の際。
とにかく私はう~ん、といささかの消化不良な気持ちになった。いろいろとティピカルに設定された価値観によるストーリー展開への失望に似た感覚や別の新たな発見や。

まあそのときはとりあえず本を閉じて寝た。深夜で酔っぱらってたし。

そしてしかし、これら全てを統括する新たな概念として物語の迷宮(或いは豊穣)、という概念がうかんだのだ。概念というか意味あるものとして見えてくる物語構造。

それが、消化不良のわからなさをわからないままおいといて、そのままショーン・タン新刊に耽溺しながら気づいたことなんである。

これが今回の大きな収穫だ。

この感覚と強く共振して貫かれたもの、そう、共通して感じたのが今回連続して読んだ春樹・森見・エンデ。(もちろんすべてすぐれた文学にはこの要素がある。その手掛かりとアプローチとしての作家に特化した特色としてのわかりやすさだ。)

森見登美彦に関しては、氏の作品の中で優れていると私が感ずるものの特色としてこの「物語の迷宮性」(祝祭空間が彼の作品の最大の特長であり、これが関連していることももちろんある。読書の、そして外部の歴史を重ねた「京都の祭り」の。だがその「祝祭性」とはすなわちこの「迷宮性」とセットであることを忘れてはならないのだ。)の要素を採り上げたいのだ。祝祭空間で日常現実のみかけの整然とした理性の世界、限定された唯一絶対のロゴスの時空は崩壊するものであるから。

彼らには、物語そのものの構造とその迷宮性、意味に対する強い意識が、自覚がある。いうなればそれはアラビアン・ナイトの物語構造だ。物語論、ナラトロジーとしては「語られる空間と語りの空間」の重層性、その響き合いの関係性。

これが先のショーン・タン短編集を読んでいて「モモ」でどこかひっかっかっていたものが意識の腑にストンと落ちてきたところなんである。

テーマとしては

多様な「物語」の存在に何の「意味(「意義」としての)」がある?!

 *** ***

この疑問は例えば岡崎京子ジオラマボーイ.・パノラマガール」冒頭で主人公津田沼春子が「ああっ現実なんて何のイミもないっ」と(心の中で)叫んだその魂の叫びに共振しているものだ。

意味とは何か、意味はどこにあるのか?我々が普段無前提に意味ある現実と信じているものは一体なんなのか?

そしてゲンジツとモノガタリの境界線は溶解し、「イミのない現実」→→「意味のある物語」という対立構造から統合されようとする論理構造がここに仮定される。

1980年代のあの日本の渋谷文化の爛熟と自由を謳う解放のあげく懈怠と硬直の時代に突入したとき顕現したもの、暴力、エロス、エゴ、恐怖、或いは「個性」という没個性な強迫観念。爛熟と放埓の「無意味さ」。本来の生物になかった「自然」と鋭く対立する構造をもつものとしての奇妙な人間の「文化」。それが、一見正反対に反転したこの切迫した疫病、貧困、政情不安に戦争の危機の時代としての現在と奇妙に呼応して見えるのはまず不思議なことのようには見える。

……共通点を探してみることだ。「閉塞感」。
解放されつくした爛熟文化社会、或いは管理されつくした真綿で首を絞められ続けるような首輪付きの「自由」。

それらは実は同じ枷として存在している。

一歩踏み外してスクールカーストから下落すれば待ち受けるのは人権を奪われた地獄。一歩踏み外して非国民になれば人権を奪われた地獄。一歩踏み外して炎上すれば人権を奪われた地獄。どれも同じだ。抑圧と権力の構造を孕んだ「ただ一つの現実」という「物語」から「一歩踏み外せば」。

共通点は匿名の多数派からのいじめ構造、社会からの排除、それに対する己の内側に組み込まれた恐怖からくる閉塞感だ。暴力と暴力としてのエロスはその圧からの逆流として必然としてその抑圧された個の深奥から顕現される現象。春樹作品にはこれが実にクリアな構造として表現されているのだ。

 *** ***

「モモ」においてそれは時間泥棒の概念として示される「リトル・ピープル」的なるもの。自由と解放をしばり、時間(生命)の本来の輝きを奪う。がんじがらめになる。小さな小さなそれぞれのすべての人々の内側にある日々の凝りのようなものたちが無意識の集合意識のような「空気」を醸成し、それが巨大な力のビッグブラザーと同じ表情をしたものとなって社会を動かしてゆく。……ここ(近・現代社会)ではそれはもちろん欲望と経済をベースにした管理社会である。

そしてここでキイ・ポイントが、救済のカギが、モモの特長である「聞く力」なんである。
ひたすらにひたすらにただ「聞く」力。

なんなんだ「聞く力」って。
わかったような意味ありげな言葉に皆うなづいているが。
……意味ありげなのは意味があるからだ。(意味を醸成できるからだ。)この上なく深く尊いものを感じることは本当に真実として誰にだってできる。(まあなんという「仏性」ネ。)だけどそこでとまると知は濁る。こういうものなのだ、と既知で周知の制度による物語にひきよせ当てはめた小さな事実に固めてしまう。賢し気なパリサイな無自覚で無知な阿呆に染まる。地獄への敷石にだってなる。

「第二章 めずらしい性質とめずらしくもないけんか」
では、モモが話を聞いているだけでけんかが治まってしまうエピソードが描かれているんだが、その章に「聞く力」の本質的なものが示されている。もちろん「100分de名著」で示されていたように、心理学的なカウンセリングの論点から、「モモは自身の鏡である」、という論理が人間の心においてはあてはまるかもしれない。だがここで、それは人間のことだけではない、というところがまたミソなのだ。歌を忘れたカナリア、昆虫の鳴き声、木々のざわめき、風の音。世界の音、世界の言葉、……それは、モモにとって、「聞く耳」にとって、すべて世界の紡ぐさまざまの物語(意味と豊穣)なのだ。聞く者がいるとき、はじめて世界はその物語と意味を紡ぎ出し、「歌い出す」。すべてのいのちと存在は関係性の中にのみ明滅するエネルギーとして「存在」するという本質を持つことがここに顕わになる。

古い時代の失われた「劇場」の廃墟に住み着くモモ。
そこは、幾世紀もの昔に古代劇場としてさまざまの悲劇、喜劇が演じられ、人々が芝居を愛好した場所だ。

「ふしぎなことに、ただ芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかないかと思えてくるのです。みんなは、このもうひとつの現実に耳をかたむけることをこよなく愛していました。」

その廃墟で、彼女は夜ひとり耳を澄ませ、夜空の歌を聞く。ここで上映されたものの記憶を伝いながら古今東西の物語をイマココに聞く。世界存在の美と豊穣、世界の語る(歌う)その物語は、見せかけのただ一つのゲンジツではなく「もう一つの現実」、いうなればひとつの定型をなさない仮定された無限の不定形なマンダラであることによって真善美としての神であり、生命であるものとしての時間を満たした「永遠の一瞬」(西田幾多郎)の物語上映である。それは宇宙の歌ってる存在を寿ぐハーモニー。

「友だちがみんなうちに帰ってしまった晩、モモはよくひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちの中にすわっていることがあります。頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。/こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。/そういう夜には、モモはかならずとてもうつくしい夢をみました。」

モモは世界に音楽を聴く。
それは、時間管理人マイスター・ホラの「どこでもないところ」で聴いた壮大な世界の神秘の音楽、あのうつくしい感動的なシーンへと繋がってゆく伏線として在る。

ーーーモモがマイスター・ホラの「どこにもない家」、時間の国で、時間(生命、存在)の花の生まれる源泉を見せてもらうシーンだ。荘厳な宇宙を象徴する丸天井の下には時間の振り子(これってフーコーの振り子のイメージかしらん。)と時間の花。それら奇跡のように壮麗な美に満ちた風景の光と音楽は瞬間瞬間を遷り変わりながらひたすら限りなく惜しげもなくもたらされ続け、世界の豊穣は贈与され続け、……それはただ静かに運行し続けている。

すべての時間は、生命は、存在は、唯一のそのかけがえのないひとりの一瞬のためだけの、生まれては失われ続けるたよりない一つの生きたうつくしい花としてそこで表現されている。前述した西田幾多郎の「永遠の一瞬」の概念はまさにここに一致する。絶えず滅び再生し続け明滅することによって非連続の連続を構成する世界、生命のかたち。失われては次々咲き続ける、そして絶えず「今」が一番かけがえなくうつくしい花であるとしてとらえられるものであるというエンデの認識。

「それはモモがいちども見たことがないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているように見えます。このようなうつくしい色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。(中略)モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。(中略)花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととりもどすことのできないものが永久に消え去ってゆくのを見るような、悲痛な気持ちがしました。(中略)こんどの花は、さっきとはまったくちがう花でした。(中略)新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。」

そして、モモは聞くのである。

「けれどそのうちに、ここではもうひとつべつのことがたえまなく進んでいることがわかってきました。いままでは気がつかなかったことです。
 丸天井のまんなかから射しこんでいる光の柱は、光として目に見えるだけではありませんでした。―モモはそこから音も聞こえてくることに気がついたのです!」

それは、風のざわめき、岩に打ちよせる滝の音、たえまなく新しいハーモニー。モモはそれがきらめく星空の下ではるかに聞いていたあの音楽と同じものであることに気づく。そしてそれにじっと耳をかたむけていると、それはことばとしてとらえられるようになってくる。

「それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちのそれぞれのほんとうの名前を告げていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをやり、どのように力をおよぼし合っているのかを知る鍵となっているのです。」

歌はことばであり、そして物語であった。聞く力とは、世界に真理と意味の物語のハーモニーを見出し醸成しようとする力。「世界のほんとうのなまえ」を聞く関係性と祈りの力。阿頼耶識からすべての識を、すべての事象を生きたまま解き放つ力。

モモはマイスター・ホラの家で一晩を眠った後、自分がその歌を歌えるようになっていることに気づく。
ラストシーン、大団円のひとびとの喜び集う町の広場、そこで澄みきった声で歌われるのがこの歌なのだ。世界の多様性とハーモニー、その物語の豊穣、みちわたる宇宙の深奥からのほんとうのなまえ、ことばにならないことばという歌。

「もうひとつの物語」。

 *** ***

モモの親友ふたり、口達者でお調子者でホラ話大好き観光ガイドの若者ジジと、嘘を言わないことを何より重んじ、自分の中の真実だけを語ろうとする言葉少なな老人、道路掃除夫ベッポ。一見両極にいる二人には実は共通点がある。

二人ともモモがかけがえなく大切でものすごく好きだ、という他者への愛という一般的な倫理としての「既成の物語」にそれはとどまる話なのではない。自分の中に自分だけの真実の物語をもっている、その大切さを周りの権力としての物語に踊らされることなく己が己である誇りとして、或いは生きるための「道」だとして自覚していること、把握していることなのだ。矜持。(そしてそれはしかし同時に、前述したモモが大切で大好きだ、という愛の物語と重なるものでもある。己の物語への自信と誇りは「聞くもの」の存在という己と他者の存在の関係性に関連してうまれているからだ。)

ベッポは己の心の深奥に潜むものに深く沈潜しそこからゆっくりと言葉を紡ぎ出す方法で。
ジジは自分の中から次々湧き出てくる夢とホラに満ちた想像力の世界を華やかに構築して世界を彩ってみせるという方法で。一見真逆なようでいて、実はそれは同じ構造を持ったものだなのだ。

 *** ***

「時間泥棒」という物語。それが彼ら欲望の権化が権力として概念化されたところに生まれた、他を抑圧する唯一の権力の物語となったビッグブラザーやリトルピープルである。「たったひとつの物語、たった一つの現実」という権力構造を伴う虚構を彼らは人々に強制する。彼らはシステムそのものだ。

……そしてそれにあらがう唯一の方法が、この「もうひとつの物語」なのだ。
モモという「聞く者」が焦点化された結節点となり、物語の源泉、時間の源泉、生命の源泉を見極めようとする「もうひとつの現実」すなわち「もうひとつの物語」がうまれる。それは、大いなる支配、暴力、抑圧のイデオロギー、権力に拮抗する唯一の「源泉の力」だ。

 

だがまた「もうひとつ」のそれは、時間泥棒の出で来た故郷のカオスの森を同根とした、同じ生命の神秘の力、時間の花の力を利用したもの、いわばお互いを厭みあいながら決して単一では生存できないシャム双生児、欠くことのできない光と闇の宇宙の摂理を体現し関連しあいながら存在しながら共存できない光と影の世界、夜と昼、太陽と月。善悪のない故郷のカオスのただピュアな存在パワーから、各々の物語を紡ぐ、それがいかに個的に生きた自由なものであるのか管理された権力に抱かれた欲望と暴力に流れた「故郷を奪われた冷凍。乾燥の花」ものとして分かたれるのか……己の輝きの源泉を見極め守るという個の意志と祈りに支えられたとき、それはすべてに打ち勝つエネルギーとしてオリジナルな物語を紡ぐ世界存在の豊穣の喜びを汲みだすことができる。それはただ透明な力なのだから。

時間泥棒の最後のひとりが消滅の間際につぶやく言葉は意義深い。
「いいんだーーこれでいいんだーーなにもかもーーおわったーー」
ほんとうは彼らは善悪に属するものなどではないのだ。彼らはただ人々の中から顕現し機能する社会的システムに過ぎない。そしてそれがこの作品において「わるもの」であると表現されているのなら、ということなのだ。力が、時間が、生きた花であるか、本来の場所から奪われ閉じ込められ冷凍されたものであるか、という違い。

彼らは永遠にいつでも顕現するものとしてある。
この作品を一番外から枠どる「モモの物語」を語る語り手が、それを語った(おそらく)マイスター・ホラと汽車の中で出会い、この話は過去において起こったことでもあるし未来に起こる話でもあるのだ、というなぞかけをしてあることは意義深い。(この汽車のシーンが映画の中では極めて賢治の銀河鉄道を想起させる映像であったことは感慨深い。)(すごく素敵)

その源泉の力は、例えば宮澤賢治が「その透明な風や……こどもにうつれ」と表現した澄んだイーハトーヴォの物語の世界に満ちるうつくしい世界の豊穣のちから、その祝福を歌や祈りのかたちで表現したものにほかならないのだから。

 *** ***

これらは、「モモ」では豊穣と喜びとしての物語がクローズアップされているが、(童話だしね。人生のはじまりのところにいるものたちの魂の基盤にはまず世界のうつくしさ、限りない贈与、愛、生命の喜びという感覚のベースを確立させておかなければならない。未来に起こる嵐はその基盤さえあれば間違った方向にはいかないはずだから。……三つ子のたましい、でんな。)

だから、だが、である。これが反転したときはそのまま「物語の呪い」として春樹「海辺のカフカ」や川上弘美の新刊でしめされたおんなたちの悲劇の物語へと繋がってゆくものとなっている。物語の両義性についてその必然としての矛盾構造は見極めねばならない。

 *** ***

物語の豊穣と物語の呪い、物語というその形による限界。そう、これらはひとつの人生の物語としては限られているからこそ形になる。その存在が複数にわたってゆくとき、アバウトにランダムに有機的に響き合って運命的なものとして幾重にも重なる曼陀羅を描く解放のエナジイが豊穣の構造。

だとしたら、それは裏返してみれば、ひとつの物語に囚われた瞬間、呪いの構造としても機能するものである、ということなのだ。

……というような構造をぼんやりと考えているんであるよ。

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今朝の朝焼け。この季節空がとても美しい。毎夜の壮麗なオライオン。

 

「100分de名著」最近の録画視聴備忘録(メモ)

小松左京スペシャル」

第一回は、伝記的事実とその心持ちと作品の結びつきを追っていて、その戦時の体験や概念への思い、感覚、メッセージ性や世界観の発生、その「小松左京SF」というスタイルの持つ原点、人間としての発想の重み深み知性のありかたのようなものを初めて知って、うわ、と思った。わくわくした。

その原点とは、終戦時死ぬはずだった少年であった小松左京が、死が瀰漫しそれが当然であった世界とそうではない世界の変貌ぶりに、その時空の境界線に劇的に遭遇した、その激変に際して「存在」の根幹を揺るがされる経験というショックだ。一日にして世界は入れ替わった。まるでパラレルな異世界に移行したかのように。

「地には平和を」で小松はその原点を形にして見せている。
ポツダム宣言が受領されず日本が破滅的な本土決戦を迎えることとなったパラレルワールドが出現するという物語だ。自決しようとする少年兵、タイムマシン・タイムパラドックス・タイムパトロールマッドサイエンティスト、とわくわく要素てんこ盛りの面白さはお約束。

…そして最後に、生き残り、平和な正しい戦後を迎えた世界軸に戻ることができ、大人になって幸せな家庭を持ったその少年兵がふと「この平和な現実が実は虚偽と欺瞞に満ちたものと紙一重なのではないか」という、現代の「当然の事実・ゲンジツ」である平和や豊かさに対するリアリティへの不安、その危うさという問題提起をも孕んだスリリングなシーンが描かれる。

 *** ***

世界はもはや固定された絶対性、真理としての拠り所とはなり得ないものである。アイデンティティの消失とともに。

…そこから彼の世界の多様、その異様な不思議さを、分岐してゆくタイムトリップ的パラレルワールドSFのスタイルをとって示すものであるあの発想がうまれてきた。魂に刻まれた、その激しさを孕んだ原風景としての原点だ。

良かった。

んだけど、尻つぼみ、二回目以降は深みを感じさせない「小松左京作品ヴァラエティインデックス」な優等生に出来上がっているだけだった。読みたくならなかったってことだな。いや機会があったら多分本文は物凄いだろうから読みたいけど。まあ100分でまとめた理屈がきれいすぎる。

 *** ***

ただ色々全てがつながる。今自分が考えているさまざまのこと。(常識として知っておきたいがためにメール配信企画読書でちびちびかじってるドグラ・マグラしかり)

 *** ***

続いてロジェ・カイヨワ戦争論」。
…残念ながらこれも同じ印象。なんというか、トータルな論理が見えてこない構成という印象なんである。

吉本隆明の「共同幻想論
カント「純粋理性批判
西田幾多郎善の研究

ものすごい大作ばっかり、興味のあったものばかりでえらい期待したんだけど、…う~ん。ということでどれもこれも結構同じ印象。キレイな優等生で論理は独特のタームなんかのおいしいとこ取ろうとして変にまとめてるくせに散漫。入門だから仕方がないのか。それと現代社会の問題と上手に無難に結びつけちゃうっていう課題があるんだろな。

…100分でこういうの、いくら入門とはいえ欲張り過ぎとはわかっているが。だけど前述した番組だけだったらおそらく私はこれらの著作に興味を持つ機会を得ることはできなかったと思う。西田であれだけ感動したのは異なるところから入門したからだ。とにかく番組構成と解説者による。(西田入門したときはこの記事。

まあアタリ棒ばかりってわけにもいかないよなあ、いくら毎日期待して棒アイス買ってもさ。

その分当たったときの感動もあるってことだし、自分の方の脳髄コンディションの問題やもしれぬ、これは。

 *** ***

とりあえず相変わらず自分の中の春樹再読祭りは続行中。
これにだけは救われている。

 *** ***

で。ここが大切な備忘録。

大江健三郎「燃え上がる緑の木」

いやね、これも最初は手つきがこの番組特有で、基本共感できるし優等生っていう枠組みで、いいんだけど連続し過ぎて金太郎あめ的に食傷かな、と思ってた。

…んだが。

回を追うごとにじわりと特有の深みが見えてたような気がしてさすがこれが巨匠のノーベル賞受賞のチカラか!な感じでぐいぐいおもしろくなってきた。読みたくなってきた、ということだ。ついでに解説者の小野正嗣の作品も。

解説者の「熱」が、「読者」としての解説者が既にメディアとして存在するところの、解説者自身のその人生や思想の重みと密接にからみあった「感動」と「熱」が伝わってくる命の思想の伝播の力の構造を感じた。

 

さまざまな不特定多数の読者にそれぞれ個別の「具体としての思想」のようなものが総体として真理としての「抽象としての原点、テクスト」を成立存在せしめる。伝える力とはこういうところにある。あたかも虚空としての真理(作品それ自体としての真理)の輪郭を形作ってゆく意識と祈りのダイナミクス、その生きた魂の集積のように。

さて、ツボにはまった内容メモをいくつか。

文学があるいは物語が感じたものを「真理」として「言い張る」(祈りである)ということである、ということ。

「一瞬よりももう少しの長い間」という概念、すなわち人生まるごとの意味。永遠、という概念について、西田以来非常に気になっている永遠の一瞬、という概念の基盤について。

「解説者の小野正嗣は多くの大切なことを教えてくれているが、私のこころに残ったことをふたつだけ書く。ひとつはこの宗教の「祈り」のやりかた。からっぽの繭に向けて意識を集中すること。これだけ。これはシモーヌ・ヴェイユの「注意力とはもっとも純粋なかたちの祈りにほかならない」という考えに対応する。注意の努力は何年もどんな結果ももたらさないかもしれないが、ある日それらの努力に正確に対応した光があらわれるという信念である。もうひとつは、私たちが生きたあかし、この世に生まれてきた意味は、「一瞬よりもいくらか長く続く時間」の至福(例えば、ある景色を見て感動するとか、そういうささいなことでもいい)があれば十分おつりがくるということ。その時、ごく短い時間は「永遠」に匹敵するくらいの価値を持つから。」(amazon一読者感想から)(私はこのひとの意見にものすごく共感したのだ。)

確か吉本ばななの短編集の中の作品でもあったのだ。今日と、明日ともう少しの間の幸福、というような。なんだっけなあ。今を永遠にする、西田の「永遠の現在」のあの概念。

如何に生くべきか。
この命題はそこに繋がってゆくものとしてある。


そしてフィナーレ、最終回。

うう大江健三郎いいではないか。最後まで期待を裏切らない面白さで番組はフィナーレを迎えたんである。私の中で。

いや~流石ノーベル賞とった作品だけあるんだなあやっぱり…そしてやっぱり解説の切り口が素晴らしいのだ、この番組は。指南役の先生によるけど。じいんじいん。論理や構造に、詩が物語が、イメージが…美しさが生命として与えられる瞬間について思った。読書ということ語り継ぐということ言い張るということ考えるということ川の流れの渦に飲み込まれるのではなく一滴の水のまま沁みとおり個から個を明け渡すところまで、個的な土地に沈むことにより土地をこえた普遍へ、マクロへ。(あくまでも駆け足メモ)

 *** ***

ミヒャエル・エンデ「モモ」

「モモ」はねえ、とにかく幼いころから心に焼き付いてる作品だから、思い入れは深い。

とりあえず子供の頃の記憶は間違いなく自分オリジナルに捏造変成されているものであるからな、なんかあれこれ違っている。

少しだけ原典に触れて思い出さねばならぬ。(ところで懐かしい思い入れのあるあの岩波版の単行本モモ、これじゃなくちゃ、って思ってた表紙や中の素敵な挿絵はエンデ本人の手によるものだと知ってなんかびっくりというか感慨というか。)

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指南役の先生が心理カウンセラーの河合俊雄さんということで、でしてね…。
なんか嫌な予感というか、カウンセラーとしての役割のモモ、という枠組みで解釈してくんですわな。これが。ピンと来なくて、心理学用語とかカウンセラーとしてのアタマしかなくて、物語としてのこの面白さとエンデの思想の深淵、文学としての深みに触れない。

なんか専門的概念やキーモチーフを思わせぶりにあちこちにあてはめていって現代の問題につなげていこう、な感じの印象。論理の焦点が結論の方にトータルに絞りこまれていない。

生命、時間、その豊かさとは何か、ひとを飛びつかせるふかぶかとした命題を、どこかで見たような、決めつけた結論に持ち込んでゆこうとする。コレはアレを象徴する、これは心理学的にこの構図を意味する。だから作者の言いたいことはコレだ…物語の中に「わからなさ」の余地すら残さない。

思い入れがあるだけにがっかり。
冒涜されたような気持ちにすらなるだよ、なんとなく。いやそんなの僭越なものいいかもしれないけど思い入れってのはそういうもんだ。

記憶と違う印象の解説されたりさ。嬉しくない。
…でもね、まあ優等生ではあるんだよ、いい人にはいいのかもしれない、こういうの。一応ちゃんとポイントきれいに抑えてるしさ、優等生。

だけど私にもよかったことは、おかげで作品読み返したくなったってことだな。自分の中でも凝り固まった「時間泥棒」がメインテーマだっていう概念だけでなく、物語との関わりで少し新しい視点を示唆してもらったとこもあるし。もっとじっくり読めそうな気がする。

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ただねえ、今春樹祭りを中断するわけにはいかないのでまだダメなのだ。(現在「海辺のカフカ」にかかっている。以前はつまんない駄作とか好きじゃないとか思ってたけど、トータルに読み返していったらなんかもう全然印象が違って猛烈に面白いのだ。)

 

いろいろもどかしい。(本を読む力自体ものすごく弱ってるのだ自分。既に我が存在の、生命力そのもののピンチ。)だけど、逆にさ、これ読んで考えるまでは、っていうようなの、そういうの楽しみにして生きる未来の希望を繋がねば。欲望希望夢喜びがなければ人間は生きられない。

「モモ」素敵な感じで映画になってるやつあったな、あれも観たいな。パソ君に保存したまま観てないからこれも。

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