酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ルーツを紐解き振り返るとき。

お盆である。

五年前、両親は健在であり、この時期には実家に帰省していた。

以下、記録していた。
しておいてよかった。

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最近とみにぼんやりとしたくたびれ具合が心配になってきた父である。

TVの前でニュースや国会中継なんか眺めてはぶつぶつと文句を言っている。

酷い時代になっちゃったからな。

でもね、脳が加齢のせいで気力も萎えてきて記憶の前後関係とかあれこれぼんやりしてくるのって不可避だし、けれどそれは必ずしも全体の悪化なのではなく、あくまでもシナプス間の全体像を結びつける意志、気力によるアイデンティティ結合力の問題なのであって、各々のシーンでの思考力にはまったく衰えがあるわけではないんである。

話をしているとそれがよくわかる。

そして、その話の内容を若い頃の、就中夢多き学生時代の頃の話にもっていくと、その頃の、未来への希望や夢に充実した青春の日々の輝きの記憶が現在の心にそのままの輝きで蘇ってくるのではないかと、そんな感覚をもったのだ。表情が生き生きとしてくる。

私自身にも面白い。知らなかった、私のルーツであるパパは最初にみたときからパパであってただひたすら大人だったけど、まずは人間だったのだ。

当時の大学での寮生活のことなんか聞き始めると、こっちもものすごく興味深い。

学生時代、私自身、内部学生の手引きで駒場寮に潜入したことがある。聞きしに勝る惨状。人間よりも、積もった埃を愛する、人類の浅薄な知識が未だ未知の分野においている菌類に適した環境であるように思ったよ…わけのわからない年代物のアンティークモノもごろごろと転がっている。

こんなところで、インターネットはおろか、TVはもちろん、ラジオすらない。そんな環境で一部屋にインテリ君が五~六人つめこまれている。

毎夜することはくっちゃべること。議論すること。或いはもちろん女子には語れない初々しいのかお子ちゃまなのかわからない嬉し恥ずかし男子トークの何かがそこにあったのかもしれない。サンダル履きで新宿や渋谷の食堂にくりだしていったり、食堂で売れ残りのご飯を格安で食べさせてもらったり。

お茶の水にあったからとアテネフランセで勉強してやろうとしたりもしたんだと。これは母に聞いた。知らなかった。第二外国語はドイツ語だってことだったからね。

で、そのお仏蘭西ウンチクで田舎にいた母をデートに誘った際、バレエ音楽聴きながら「これはパドカトルといってね、」などとあれこれ口説いたらしい。母は何もかも知ってる風の父にぽおっとなったらしい。

わはは。

まあそういうことで、そう、実家にいるということで、両親の話をたくさん聞いておきたかった。

で、まあそれとか関係ないかもしれないけど、今夜は鈴木慶一。(私の中では、関係あるのだ。)

大河ドラマ好きの母が行きたいというから付き合って記念館見てきたら、鈴木慶一の前世としか思えない渋沢栄一アンドロイドを見てしまったのでそれでやたらと聴きたくなったのかもしれない。とりあえず時折聴きたくなる、慶一さんワールド。昔のが好きだけど、今のも切なすぎて、…とりあえず、イイ。

若き日のただただ「現在(イマココ自分の一点からの視野)」のピュアな悲しみに透き通った「スカンピン」は濁り傷んだその果ての空っぽを悼む、人生全体を鳥瞰する枯葉てた虚無の哀愁の「スカンピンアゲイン」に。

「スカンピンだ 拾う星屑あるのならば まだいい
スカンピンだ 吹き溜まる場所あるのならば まだいい
スカンピンだ 集める悲しみあるならば まだいい
スカンピンだ 煙草一箱ほどの一生 だったかな」

そうだ、これも好きなんだなあ。軽快なメロディに乗せられた、この歌詞の痛み。

「あたしの故郷はあの流木なの、魂なんてない、あの流木なの♪…最初に暮らしたのは悲しみ 二度目は激しい暴力で 三度目は愛に包まれて 四度目は刑務所の中♪最後にいいたいのは幸せなんていくら探してもどこにもないってこと♪あたしは流木に繋がれたままだから♪」

ユーモラスな軽やかさに乗せなければやりきれない、このコントラストがより一層このずっしりとした感情的なものを際立たせる。

このリアリティは胸に迫る。
このかなしみ。運命のくびきの、あきらめの、かなしみ。自己否定。

そして、そこを乗り越えたところにある本当のルーツのことだ。
彼の歌のヴァリエーションのなかに、それはきちんと仕込まれている。その救済や開放のひとつのうつくしいイメージは、例えば慶一さんの「左岸」や「黒いシェパード」

遡る。己のルーツを追い続けた果ての場所のイメージ。自我は崩壊する。雲になる。風になる。
「風に向かって僕は歩く。君を忘れながら…最強の敵は自分の中にいる、最高の神も自分の中に」
「夜の川のぼってく闇の谷のぼってく…一行の詩残せたら山は燃え沈んでも生きたことになるだろう…川のはじめの一滴を目指して一行を吐く、君に吐く歌…こいびとよ道連れよ、雲と風だけ身に着け詩と歌をのぼりつめ川の始まりを見るよ、雲と風をも脱ぎ捨て自分らの尾の生えた川に始まりに流る♪」

これは歌による、解放なのだ。

8月6日 広島

ウチの母は、広島の竹原出身で、子供の頃、毎年夏休みは広島で過ごした。

そして、8月6日というのは、朝起きたときからもう特別な日であった。

空気が違う。厳粛なものが世界じゅうに漂っている。皆がそわそわとテレビの中継を眺め、さ、もうすぐだよ、と言われ、8時過ぎには子供たちもみな正座してテレビの前に座る。

黙祷の時、サイレンか鐘の音が鳴っていたような記憶も捏造かもしれないが、私の中にある。(東日本の震災の黙祷サイレンと混同しているかもしれない。もちろんTVのなかの追悼式の鐘であったのだろうと思うけど。)

そしてその日のTVはしばらく原爆特集や映画ばかりで、正直子供にはだんだん退屈になってくるんだが、次第に日常のアニメやなんかになってゆく。大人たちも、世の中が夏休みの普段の日々の生活に次第にほぐれて戻ってゆく。

そのとき、ものすごく思った。
この現実が平和な日常が当然のようにあるというほっとした気持ち、その尊い幸福のことを。

あの頃、この日常のリアルが当然で、これからはずっとそうなのだと、過去の過ちのあんな恐ろしさをまさかまた繰り返すような愚かさを立派な大人たちが、人間が持っているワケはないと。そして絶対にアレは嫌だ、という思いとないまぜの安堵。

だから、つまり、今言いたいことは、すべての子供のこころにその平和な幸福のことや楽しい日々の大切さ、そのかけがえのない日常という希少な尊さを激しく植え付けることはひょっとしてものすごく大切なことなんではないかということなのだ。

はだしのゲンを一気読みしたあの夏休みの日々。資料館見学もテレビの戦争特集もいつもの自分の広島での夏休み日常の日々の風景も、私の遠い記憶の中でひとかたまりのクオリアのようなものになっている。理不尽と暴力への、作り物の物語ではなく、実際にあったという激しいリアリティを伴ったなまなましい恐怖は、トラウマになっている。今ある日常という奇跡の貴さへの思いを形成した日々のあの夏休み。

(祖母ちゃんは遠くにキノコ雲見たという。)

広島の土地にあるとき原爆はよその土地にはない特別の重みをもっていたから。風景のデジャヴの捏造、リアリティ。犠牲者たちの思いが土地に沁みこんでいるのではないか、などと思ったりもする。

子供の頃の貴重な体験ではある。

 *** ***

そうして、子供の頃は、あれほどものすごく大きな節目の特別な日だったのに。すべてのメディアが、テレヴィ番組が、戦争の悲劇と原爆の特集をしていた日だったのに。

よその土地では、また年月を経てしまったところでは、すべては薄れたものになっている。怖いことは遠い所へ封印されてゆく。

あの日は怖かった。
だけど、だからこそ、今このとき、またそんな風にしてみたらいいんじゃないかなあと思うのだ。

今、すべての記憶が薄れているこのとき。
この、再びきな臭さの漂う荒れた時代に。

 *** ***

友だちのお父さんが、昔徴兵された親戚から検閲済みの手紙があったんだよ、といって、その証拠を見せてくれたことがある。その、メディアや資料館やNHK朝の連続ドラマ小説の、ちょっとどこか遠い画面の中の世界のようなものではない、身近さの巨きなリアリティが怖かった。

このハンコは、今ならインターネット上のAI検閲として、徹底してやられるものになるのかもしれない。ディストピア。

夏休みの記憶。

怪談の季節である。

そういえば、いつの間にか肝試しや怪談なんかは、日本の夏の風物詩じゃなくなってるようだ。いつの間にか廃れていってしまう嘗て当たり前であったものたち。


子供の頃、毎年夏休みは広島のおばあちゃんの家で過ごした。田舎の山の中。大勢のいとこたちみんな集まって、賑やかで特別だった。

おじいちゃんの畑の野菜や大きな甘い西瓜、夜は大人たちがワイワイ麦酒飲んだりしてる隣の部屋で子供達もワイワイ。

 

夜には花火をしたり、いろいろの子供たちの部屋での夜遊び、その時、怪談大会もやった記憶がある。

薄暗い大きな田舎の古い家の座敷、年嵩のいとこの話は本当に怖かったりして、小さな子たちはしんと神妙に膝と座布団抱きしめて聞いていた。そんな夜は夜中のトイレも怖かったりしてね。

 

母が育った家である。この空と風景の中にたくさんの兄弟たちと母がともに育まれてきたのだ。

母が話してくれた。この同じ庭に面した縁側で、テレビもなく娯楽も少なかった頃、夏、おじいちゃんが縁側に座って、子供達に囲まれてハーモニカを吹いたり、さまざまの物語をしてくれたこと、西瓜の種の飛ばしあいっこをしたこと。その母の豊かな楽しみの思い出の風景が、まるで捏造されてゆく記憶のように、自分自身のあの夏の日々と重なり溶け合ってゆく。戦争の、戦後の混乱の話も、なまなましく聞いた。8月、祖母は遠くにきのこ雲をみたという。

 

己のルーツ、歴史と文化の記憶は伝えられなければならない、とふと強く感じる。世代から世代へ。

 

それが一人ひとりの生きた記憶であることを。

歴史は文献から学ぶものでもあるが、その感覚をリアルなものであった生きた記憶として感じ取る感官を研ぎ澄ますことが寧ろさらに重要な生きた記憶なのではないか。

個的なものでもあり同時に国と地方と歴史の中に位置付けられるものであるこのような己自身のルーツとして感じる感覚を感情として持つ重大さのことをふわふわと考えた。

続いてゆく現在と未来のために。

たまごのはなし しおたにまみこ

ブラチスラバ世界絵本原画展金牌受賞、第27回日本絵本賞大賞受賞、ということで、本屋で平積みになっていた。

たまごくんの素敵な様子の表紙に、おお、読みたい、と、惹かれた。
いそいそと図書館。

しおたにまみこ「たまごのはなし」

*** *** 

いや驚いた。この哲学っぷり。
かんがえることが存在することである、からはじまる。

肉体がうごくこと、生きることのただそれ自体の「いい感じ」。

そして、マシュマロとの出会い。(起きろよ、と齧っちゃったりしてるんだけど。)初めての他者とのコミュニケーションには言語によって何かを伝えなくてはならない、という他者との出会いによる驚きと気づき。
そのいちいちの子どもの視点からの新鮮な発見の学びがなんとも人間の原点や哲学の歴史そのものな絵本なんである。

いい、とかわるい、とかその倫理の相対性、「自分のあてにならなさ」をナチュラルに受け取り、ひょうひょうと生き、日々の話をする。続編も楽しみ。

*** ***

絵本を読むことは。

と、久しぶりに絵本の世界にとっぷり浸かったあと、考えた。

絵本の棚の前に行くことには、ちょっとしたハードルがある。心が鎮まってたっぷりしている時でないと駄目である、と思っている。私の場合。
大人向けの本を読むこととは違った感性が必要となるのではないかという気がするのだ。ワンクッション必要になる。その世界の豊饒、うつくしさを胸いっぱいに受け取るための。

それは寧ろ大人の本を読むときよりも静かで澄んだ心と知性のチャンネルを必要とすることなのではないかという気がするのだ。「だから何」でも「カワイーね。」と表面をつるつるなでるような層ではなく、もっと高く深く自由に魂を飛ばせる翼をしっかりと受け止めるための心構え。決して浅薄に消費することによって貶めたくない領域。

そうして、自分の幼児の頃、或いはそうでないものの視座に飛び込み共振させる翼を得るとき、己の中の失われていたことにいつでも初めて気づくような気持になる。今の日常現実の中を生きる自分の閉ざされっぷりに気づき、解放のチャンネルを開くトリガーとなる。心静かに目を閉じ内部に、他者に、開かれる世界へ。

そのときの己自身の眼差しの自在な変化、その心への響き方もその豊穣と複雑さの価値。それは、大人向けの本を読むときと優劣をつけられるものではなく、ただその質がちがう。煌めきの色彩が違うというだけなんだと思う。

ストロベリー・ボディ・スプラッシュ

雑貨屋の香りものの棚というのは結構楽しいものである。

へえ、クリーム・ソーダの香りのコロンだって!
なんてちょっとしたわくわくがあったりしてね。

試してみたら、あらら、ホントにアレだ。懐かしい、あのパチパチはじけるグリーンのソーダにアイスクリームがのっかった飲み物。へええ。まずね、檸檬とかライムとかちょっと人工的な懐かしい香りがしゅわっときて、それから甘いクリームイメージの香り。交じり合う。いや大したもんだ。

実はクリームソーダって好きじゃなかったんだよね、子供の頃。まず炭酸が苦手だったし、ひどく甘いばっかりで香料が強烈で、それにアイスクリームがのってるのも気に食わなかった。アイスクリームはアイスクリームでおいしいんだけど、食べていくとソーダに交じって、透き通って弾けるきれいなソーダが濁って汚らしくなっていく感じが嫌だった。

これは流石に現代アレンジはなかなか快く楽しい香りに仕上げてあるけど、ずっと身に着けてたら飽きてすぐやんなっちゃうかもな。まあこの辺の珍しい楽しい女の子向けの香料はそんなのが多い。何だかんだ、天然のアロマとか洗練されたブランドのとは違う。(もちろん値段も。)

だけど、ふっと思い出す。

確か、小学校に上がったばかりのころ。
ちょっと洒落た街の雑貨屋、あの頃はファンシーショップって言ってたんだけど、お小遣い握りしめたわくわくの初めての買い物は、苺の香料の入ったボディ・スプレー。今だったらレトロなデザインが喜ばれそうな渋い色使いだけど可愛らしい苺や花々、りぼんのデザインラベルのガラスボトル。どっちかというと香りもデザインもキッチュで安っぽい可愛さなんだけど、そのころの小さな子供にとっては、外国の少女たちの物語世界を感じさせてくれる舶来のお洒落な世界。ストロベリー・ボディ・スプラッシュですって!

大切に、大切に、とっときにしてお風呂上りに大人の階段な気持ちでシュっとスプレーした。
ワクワクした。

こっそり、外国の物語の主人公気分になったりしてたんだな。

初めての海外渡航は、大学生の時。イギリスとアイルランドだった。
空港で、そのころ日本にはなかったボディショップが嬉しくて、楽しくて、あれこれ悩んでは買い込んだ。街にもさまざまな日本にはなかった店店。今では珍しくもないんだろうけど、街並みの異国情緒とともに、色鮮やかなガムやキャンディ、カラフルでお洒落なぬいぐるみやおもちゃの店のディスプレイ。外国映画や絵本の中の世界みたいな風景だ、と、夢の中をさまよっているいるような気持ちだった。
ワクワクした。

あのワクワクは、かけがえのないものであった。
今はもう日本にいながらすべてがチェーン店になってやってきていて、珍しくもな日常の風景になってしまった。あのワクワクの、自分の想像力の産み出したかけがえのないその価値は、便利さと引き換えに失われてしまったのだ。お金の力に吸い込まれて収れんしていってしまったのだ。

ワクワクの力は、夢をみるための時空の裂け目は、自分だけの物語を呼び込んでくれる。いつでもなんでも手に入る便利さは、そんなかけがえのない自分の想像力を奪ってしまうものでもあるんだ。そして一度踏み込んだ便利さから、人は逃れることはできないもんなんだ、きっと。

どこかでいつも、緩みを持たせるってことを大切にできる世の中だと、もう少し呼吸も楽になると思うよ、なんとなく。

これは所謂クリーム・ソーダとは別物の、風味の良い果汁でできたおいしい可愛い完璧クリーム・ソーダ!

*** ***

自然の中の美しさや夢、世界の豊饒さ、限りないうつくしさ豊かさとは違う。もしかしてこれは、人間たちが描いたぎこちない「あったらいいな」と、自然の美しさの収奪を試みたその足跡、であるのかもしれない。資本主義にのまれてゆく楽しさへの願いや感謝や無垢は、或いは…その是非について考えるには、人間が絵をかき音楽を始め調理をしパンを焼き菓子をこしらえ、焚火の周りで物語を語りしるしていったその歴史をどのように学び考えてゆくか、ということでもある。楽しいってどういうこと?テゲテゲを知れ、とかモノにはほどがある、とかそういう緩さ柔らかさの大切さを方向性をぼんやり考えながら。

閉店

馴染みのカフェが閉店してしまうという。晴天の霹靂である
チェーンではあったけど、ゆったりと場所に余裕があって、広く取られた明るいガラス窓の外は緑。天井も高く解放感もあり、音楽は静かなジャズ、店員さんがいつもとっても親切で感じがいい。ここならば間違いない、という居心地の安心感があったのに。有機豆乳珈琲もおいしかったのに。ショック。

この店には、競争率は高いけど、特にお気に入りの素敵な特等席があって、いつも狙っていた。半個室のようにさりげない柱や観葉植物に囲まれた佇まい。いつでも柔らかな灯りと静かなジャズ、珈琲に包まれた我々の秘密会合のための守られた空間を形作ってくれていたところ。
この空間で我々は、幾度も幾度も、どんなにかさまざまな大切なことを語り合っただろうか。この秘密空間のおかげで、ひとり心の中ぐるぐると空転しかけていた互いの思考は言葉として放たれ、分かち合われ、話すことによって発見されなおされ丁寧に見直され、新しい認識を呼び込む。そんな関係性に開かれた知の豊穣の世界に旅立つ時空を得ることができたのだ。

場所の力。
喧騒から離れ、人々がそれぞれの大切な時間を過ごしている場所。ここには既にそんな守護霊としての地霊が憑いていたのかもしれない。すうと息苦しい俗世の囚われから解放され、それを客観視する視座を得て知の翼で滑空する力も、読書の豊かな世界も。それは、ひととき遥かな豊饒の宇宙への開放のチャンネルを開いて永遠へと繋げてくれる。呼吸が楽になる。包み込んでくれるところ。

ということで、何しろ閉店お名残惜しい。

ううむ、これは早速久しぶりに行かねばならぬ、と示し合わせ、最後かもしれないこの特等席を無事確保。席が空いていたのは我々へのこの場所の地霊からの贈り物であるのやもしれん、重畳であると喜び合う。

その日、世界は一日中降ったりやんだり、朝か夜かも判然としないような梅雨空どんより。深まる緑もしとど雫に濡れ、重たく垂れ込める灰色の曇天の中紫陽花ばかりが色彩をもって浮かび上がっていた。実にこのほの暗い暖かい灯りに守られた秘密基地席が相応しいお日和である。時間のない世界で不規則に溶けた時計の刻む、夕暮れまでのこの貴重なひととき。

この場所が我々から失われるのを惜しみつつ、あたたかい珈琲を頼む。

いい香り。珈琲と音楽が心をあたためてほぐしてゆく。緩やかに、最近の旅や出来事、読んだ本のことなんかから、つるつるとたらふくの話が広がってゆく。

そしてやはり全てが繋がっていくのを感じながら、いつもどこか窮屈な思いをしていたもやもやとした思考が呼吸をはじめ、この場所にまとめきれないほどの気炎を上げる大風呂敷がどんどん広げられてゆく。

しかし展開する思考はついつい広げられすぎて拡散しまうものだ。あんまり拡散するとただ快いしゃぼんだまみたいに空中に拡散して、ここからは失われてしまいそうな気がしてくる。

ひとつだけでも尻尾を捕まえて(欲張ってはいけないのだ。取り落とすこと前提。)小さくきゅっと備忘録メモ包みのかたちにしなくちゃいかんのだ。殆どを取り逃がすことを覚悟して手の中に残ったひとつのものだけを捕まえる。標本として、アクセスチャンネルとして、恩寵として。論文だってレポートだって、そうやっていかないと卒業できるかたちのものにならなかったもんね。

なあんて、今回、そんなこの場所への思いの備忘録におちるわけですが。

それでもいい。このときのこの場所を思い出すと、この時のここでの話の内容の、そのチャンネルへの記憶アクセスの手掛かりになる。

ひとつだけ手がかり。確認しあったこと。
心というものは、日々のさまざまにたまってゆくものを押し込めて、ごまかして、疎かにしてほっておくと、気づかぬ間に日々、自分による自分のその疎かな扱いにふさわしいものになってゆくということ。日々の流れの中でビジーになって、エラー連発、芯の方の柔らかな大切なコアのところが、くたびれたぼろ雑巾みたいになっていくこと。

なんらかの手立て、例えば日々のミッションとして己自身を取り戻すために己を丁寧に扱い、その心身の感官の調律をする心掛けの工夫していないと、たやすく、いつの間にかまさか自分が、な他者にも自分にも乱雑な扱いをするような人間になってしまっている、脊髄反射で、目の前のエサだけで動き、まあとにかく楽しく生きているんだよな、まあこんなもんよ、そんなもんだ、みんなそうだ、な扱いを自分や他人や社会や世界にむける、そして現代社会の刺激や人間関係のすれ違いやなんかの連続に知らぬ間に次第にただくたくたになってゆく魂は己の心の物語を自ら紡ぐこともできず、人の拵え上げたような、コマーシャルが作り出したような、消費経済の物語の中に失われてゆくものとなる。ただその歯車になってゆく。AIデータ解析し尽くされる部分だけの人間。データとスペックで人も自分もそのまるごとであるかのように批評する。

自分や人を、誰かのものさしではかり批評する、掘り下げることをしなくなると、人の思いの深い感情に寄り添うこともできなくなってゆく。

それはそれで、ではあるのかもしれないけど。塩梅って大切なんだ、多様性の中で生きていることを感じるためには。崖っぷちにたって、ぎりぎりまで対象の感性に飲み込まれようとしてみること。呑まれ切ってはいけない。この感じ、梨木果歩さんの物語に感じること。尊敬も忘れないが価値観に呑まれすぎないこと、溺れないこと。正義や倫理が自他への暴力に繋がってゆかないように。

 *** ***

だから、時折心の中で悲鳴を上げているところをやすめなくてはいけない、自覚することができなくてはいけない。己の頭でものを考えることも感じることも不自由な、柔らかさをもたない硬化したビジー頭になってしまう。

ゆっくりと小さな声で語られる豊饒の世界のことを忘れてしまう。

例えばね、日々聖書を一説、朝の読書、読経、写経。
刺激の連続、ノルマの連続、欲望の連続に疲れ果ててしまった魂の深奥の柔らかな灯りのところをひととき休めるために、そんなルーティンの中に自分のチャンネルへのアクセスポイントを仕掛けておく。古今東西からの人間の知恵である。

 *** ***

とりあえず、この日の大きなテーマは、「データ人間としてのAIと個性、肉体性」みたいな骨子ではあった。
何しろ世の中SNSとAIの百花繚乱、どう考えてもどんな人間でも、その精神と肉体、人間としての質も言語も生活も心もこの、経済や権力と密接に結びついたこれらのデジタルに全身全存在が支配されていくことは避けられない状況であるから。なにを語ってもこの話題からは無縁であることができない。やがて加速するその便利さの中に知性や個性すら飲み込まれていってしまうのではないかと。生物としての肉体性もデータの集積したものとして考えることしかできなくなる。

彼女が先日かなりの山奥を旅行した時、旅の時空で、東京と違う時間の流れ、世界の流れを感じ、最近スマートフォンですっかりビジーになっていた脳が、別の世界の時空、自然の風景、生物たちの多様の世界、空気、大地に包まれて暮らしたことで、とてもすっきりとやすまったという。ゆったりとした優しさを感じながら人と話すことや、日々を楽しむこと、本を読み味わうこともやっとできるようになったという。

そんな旅、そんな貴重な記憶が魂の中にストックされてゆくのって、財産である。思い出すとふうと呼吸が楽になる、そんな風景に包まれた記憶のこと。

だからね、と。
日々のプチトリップは、日常の中の小さな幸せや、一本いつもと違う道に入って、風景や季節を発見したり、カフェの透き間時間でひといき。こういうのは、日々のミッションや日々のちょこっとお掃除を意識的に行うような心持で。
それからもうひとつは、できたらこんな風に時折スペシャルに旅に出る。大晦日の大掃除みたいに、心の調律。埃をはらって、丁寧に優しく細かなひだひだまでケア、いのちのメロディの再構成。こんな風に、なんていう話からはじまったのだ。そうすれば日々のプチトリップへのアクセスチャンネルが錆びつかなくてするんとらくになったりする、かもしれない。

茫洋としてしまったけど、取り敢えず取り敢えず、で、語り合ったこと思い出しながら備忘録メモ、残して重ねてまとめておきたいね、と。

豆乳珈琲おいしかった。

村上春樹「神の子どもたちはみな踊る。」

大変不思議なことに、未読だったのだ。


震災を下地にしてすべてを読むことができる短編集なのだが、私は「東京を救うかえるくん」の物語に、そして登場人物のキャラクターに大変感動した。

で、そこにクローズアップされていたのは春樹作品の一つの大きなテーマ「闇」や「恐怖」だと思った。
ということで、これを手掛かりに、少しだけ春樹作品に通底したそのテーマをあれこれ考える切り口のメモしておきたいと思ったのだ。

一番の恐怖って何だろう。そしてそれを克服するのが春樹の物語のテーマになっているとしたら、その精神的な勇気や強さとはどのようなものでありうるのだろう。

とりあえずなんとなく恐怖とその克服について語られてきたものについてAI君に聞いてみる。さらっと。春樹のこのテーマにぱちっと来るようなものを。

 *** ***

ニーチェはしばしば

「真理を直視する勇気
危険や不安を引き受けて生を肯定する力
既存の道徳や常識への懐疑と批判的精神
を「強い精神」の特徴として語ります。

仏教でも、真理を悟った境地を「無畏」と呼び、恐れからの解放として語ることがあります。


仏教的に言えば、煩悩や無明が薄れ、ものごとを正しく見る智慧が深まるほど、
生老病死や損得への執着から生じる恐怖がやわらいでいく、というイメージに近いです。


この流れで読むと、「恐怖を持たぬ悟性」とは

危険がない、という意味ではなく
危険や不安を理解したうえで、それに支配されない知性
恐怖よりも、自分の価値判断と創造性を優先できる精神

真に強い精神とは、恐怖を知りつつも、それにひれ伏さぬ悟性である」

 *** ***

と、ざっとこんな具合に、こう答えてくれた。

そうか、では。
春樹はどうこれにアクセスするか、というテーマの食いつきからだな、と思って私は「かえるくん」を読んだ。

★「かえるくん、東京を救う」

かえるくんは東京をみみず君による大地震災害から救うためにみみずくんと闘う決意をしている。彼はみみずくんと闘う際の恐怖について語る。かえるくんは人間の心の中の恐怖の本質、その「精神的な恐怖」についても詳しく、ある程度それをコントロールする術にたけている存在のようだ。

「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。」(小説家のジョセフ・コンラッドを引用しているという。かえるくんの言葉には引用が多い。春樹の読書傾向とその「読み方」の参考になる。「先行文献」は作品の豊饒を一気に深化させてくれるものだ。本当は、出てきた本は全部読みたいのだが、トルストイやドストエフスキーに親しんでこなかったので今からアレらにどっぷりかかるのは無理である。少しだけつまみ読んででもいい、今の己に可能な限り読み込んでみたい。作品の感動を深めてくれる。)

かえるくんの戦う相手、みみずくんはヤミクロ側の地下の昏いところに常在する存在。
みみずくんは、闇の中に隠されたすべての世界存在の生命の中に発生する「罪」にも似た、そのもやもやしたまま隠された情動をため込み、闇の中で「憎しみのエネルギー」のかたちへと変換する翻訳者。ひたすらおぞましく醜い存在。彼が目覚めるとすべての人々を害しすべての存在を害する憎悪と破壊の爆発である地震を起こす。

彼と闘うために必要なものはなんなのか?

春樹作品では、おそらく、それは目をつぶってただひたすら何かを「信じる」というテーマに繋がるもの。それは、己の恐怖の闇へのダイブの感覚に必要とされるもの。

そして、その時必要なものは、具体的にはかえるくん以外の多くの作品でも「ともだち」的な象徴に託されているのだ。「世界」「己の内部にあるもの、あるいは影、分身。」或いは「他者」。これは真逆であるように思われる、が、どうだろう。自分を信じることを止める、自分の恐怖を信じることを止め、「何か」へと託す。目を閉じる。その命を懸けた「ダイブ」の感覚は、過去を浄化し清算し、新しい世界、未来へと再生するためのミッションとして必ずと言っていいほど春樹作品のクライマックスに登場する。ただひたすら、「何か」を信じる。「何か」という問題がすべての作品に散りばめられた読者への問そのものなのかもしれないとも思う。ひたすらただそこに見られるものは、未来への、正しい流れへの、生命への、意志。
その行動を敢行する勇気を実現させるに際し、「何か」とは、コントロール不能な他者としての己の中の恐怖を孕んだ「森」、あるいは決して完全に理解しあうことのない絶対的な「他者」を、その導きの存在をただ問答無用に「信じる」ことのふたつは同じ構造をもっているものとして提起されているものなのではないか。

「井戸」への沈潜、その闇もまたその恐怖と向き合う象徴として扱われる。

ここで登場する、トルストイ「アンナ・カレーニナ」の「機関車」のモチーフはどうだろう。鉄道自殺するアンナの最後と、全てを終わらせる、死の機関車にむかってゆくその「ダイブ」の際のアンナの精神状態の描写、その内面世界にうつるものは、すべての世界像に対する嫌悪と、精神の錯乱と恐怖と、そして幻影と陶酔、それらアンナの内外の光景と、かえるくんの恐怖とみみず君との戦いへの「ダイブ」への重なり。ここがかえるくんの不条理と、覚悟と、単純な「恐怖」という中に、クリアにはできないうごめきのような錯綜と混乱のどろどろとした生命の本質のところにかかわるという共振が映し出されてくる。

かえるくんは、誰にも知られることなく感謝されることもなく、ただひたすら無心に人々のためにみみずくんと死闘を繰り広げているとき、ドストエフスキー「白夜」のことを思い出している。報われぬ、最後には裏切られるかたちになる夢みがちで孤独な青年の、ひたすら相手を尊び愛し、奉仕する、初恋の姿を、その哀れな裏切りの悲劇を、「神に見捨てられた人々をこよなく優しく描き出しました。神を作り出した人間が、その神に見捨てられるという凄絶なパラドックスの中に、彼(ドストエフスキー)は人間存在の尊さを見出したのです。」と読むかえるくん。

かえるくんはダイブする。己の恐怖と闘う報われない闇の中へ。かえるくんの尊さはドストエフスキーに抱き取られる。

「機関車が来る。」片桐さんがかえるくんの恐怖を夢の異世界の中で追体験し、自らのものとしたラストシーンの言葉である。

かえるくんを損なったみみずくんは非・かえるくんとして、今までのかえるくんに包摂されていったのではないか。かえるくんはみみずくんに損なわれてしまった。そして今のそのかたちでのかえるくんを失った、かえるくんのかけがえのない「信じられた」友人、かえるくん自身を救う導き手、そして、かえるくんを包摂した、ともいえる片桐さんにすべてが託されるラストの哀しみと切なさは…

アンナの最後のその一瞬の絶望の「機関車」、その先の闇を否定できないまま、片桐さんに託された一筋の未来への祈り。この哀切な愛と痛みが…

それは、私にとって、この短編集すべての作品のなかで最も心に響き壮絶であった。すべての作品が響き合っているものではあるが、ここにすべてが収れんしていくような。(蜂蜜パイはラストに付け加えられた、もう一つの優しい光をしるした一つの希望だ。)

かえるくんの死後、その亡骸がぐずぐずと変形し、そこから邪悪で醜いみみずくんのような存在が無数に生れ出てくるシーンがある。かえるくんを食い破って出てくる邪悪。

このイメージは、春樹長編によくみられる、大変興味深いシーンだ。
例えば、「海辺のカフカ」のナカタさんが眠るように死んでしまった、そしてその亡骸の口から、邪悪な軟体動物が蛇のようにうねうねと這い出してくるシーンがある。ナカタさんの身体を通って入ってはならないところへ入っていこうとする「みみずくん」的なるもの。ナカタさんのかけがえのない友人となったホシノ青年は、全力でこれと闘い、それが入ってはならない「入口の石」の向こう側に入っていこうとするのを阻止し、殺す。すべてを損なう邪悪なるものを。

ナカタさんはかえるくんで、ホシノ青年は片桐さんだ。
全ての構造がここに重なっている、春樹のモチーフ。ふとした出会いからかえるくん・ナカタさんに遭遇し、その、あまりの「常軌を逸した」、換言すれば、この人間社会内部での常識、世界の権力や物語や、幻想に惑わされない、人間として魂の深奥までまっすぐにすきとおっているような無垢さ、善良さに、振り回される。

やれやれ、とはじめはぼやくようにしながら、けれど振り回される中で、かえるくん・ナカタさんの尊さに、己が、世界が新しく照らしだされてゆくのを感じてゆく。己の今までの人生をもそこに照らし出し読み直してゆく。これを単に成長、といっていいのだろうか。

片桐さんもホシノ青年も、己のいままでを、何も考えずに流されてきた、カラッポの人生、と思っていたが、片桐さんは、かえるくんのこころを思うその気持ちを文学に読み取っていきたいと願うようになり、ホシノ青年は、重厚なクラシック音楽や難解な映画の中に潜む、その深い優しさのなかに、存在の尊さを感じる感性を会得してゆくようになる。

信じること、勇気を持つこと。かえるくんだったらこういうだろう、ナカタさんだったらこう言うだろう、と、今後の己の人生に彼らの視点の尊さを照射する予感のなかに生きてゆく。

それは、どこかメタフォリカルな存在である、かえるくん、そしてナカタさんの存在が、その託された未来への思いが、片桐さんとホシノ青年の中に引き取られ、共に生きてゆく存在となるともいえるだろう。あたかも、「街とその不確かな壁」で、イエロー・サブマリンのパーカーを着た影のない少年に、主人公が「夢読み」の仕事を託し、少年と主人公が「一体化」していったかのように。

それが、かえるくんやナカタさんが、信じる道へと、すべての闇を越えてダイブしてゆくのに必要な、今後を託す、若き「友」という存在の構造と意味なのだ。

ホシノ青年は、喫茶店で初めての重厚なベートーベンのクラシック音楽「大公トリオ」を聴きながら、思索を助けてくれるその音楽に身を浸し、心を広げてくれるその音楽の中で、己の人生を鑑みる。そして何も考えず、自分を愛してくれた人の思いをおもんぱかることもなく、感謝も知らず、流されるまま生きてきた自分が今、生まれて初めてのようにナカタさんの役に立っている、ということに歓びとして感じていることに気づく。そして何故ナカタさんの役に立つことをこんなにも充実と幸福として感じているのかを考える。「なんというか、自分が正しい場所にいるっていう実感があるんだな。自分が一体何かという問題が、ナカタさんの横にいると、もうどうでもいいようなことに思えてくるんだね。」(p170)

ナカタさんの死の直前、眠り込みかけているナカタさんにむかって、ホシノ青年はナカタさんにこのように話しかける。(ホシノ青年は、ナカタさんが死の直前であるとはまったく考えていなかった。いつもどおり眠るだけだと思っていたのだ。)
「何故おじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。(中略)いろんな景色の見え方がずいぶん違ってきたみたいだ。(中略)それまでちっとも面白いと思わなかった音楽が、なんていうのかね、ずしっと心に沁みるんだ。で、そういう気持ちを誰か、同じようなことがわかるやつと話せたらいいなとか思っちまうんだ。そういうのはさ、これまでの俺にはなかったことだ。それでだね、どうしてそんなことになったのかというとだね、それは俺っちがずっとナカタさんのそばにいたからなんだ。そしてナカタさんの目を通してものを見るようになったからなんだな。もちろん何から何までナカタさんの目を通してみるわけじゃなねえよ。でもさ、なんていうかごく自然に、俺っちはおじさんの目を通していろんなものを見ていたんだね。どうしてそんなことをするかというとね、俺はおじさんが世界を見る姿勢みたいのをけっこう気に入っていたからだ。」(p320)

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さて最後に「蜂蜜パイ」での友達の三角(或いは娘を含めた四角)関係についてひとこと手がかりだけ。
これは「ノルウェイの森」のキヅキと直子と主人公との関わりのパターンであるが、この友への複雑な葛藤と思いを、理解できない彼の他者性と主人公にとっての不条理を、「それでもなお」まるごと受け取って超えてゆく、ただ「信じる」という感情に似たところにあるジャンプであると思えば、構造は同じである。

この、ひとつのメルヘンに託されたシメの短編は、この短編集の読後感を希望のあたたかい光に祝福された祈りのあるものにしてくれる。