酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

風景の記憶(2月の記憶)

ものすごい氷温北風小僧でバイクぶっ飛ばされそうで凍えそうだったけど、ここの広い高い青空きらきらの風景の中に佇むと心が鎖から解き放たれるよな気がする。

ふわり。
この青く高い遥かな青空の繋ぐチャンネルで、幸せだった思い出の中に飛んでゆく。

…特定の、そんな自分だけの秘密の場所というのは誰にでもあるのではないだろうか。子供の頃にはそれが自分だけの想像上の友人だったりするともいう、その場所ヴァージョン。「秘密の花園」のような個的な意味、エッセンスを、いや、イデアへのチャンネルを別次元に帯びてしまった場所、という、いわばイデアの象徴のひとつのスタイル。

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さて、ということで梅は馥郁、早咲きの桜も咲いて人々はココロそわそわ。
スターバックスでも桜キャンペーンのはじまり。

どこのカフェも、可愛いピンクでいっぱい、桜と苺や新緑の抹茶色で菱餅や雛あられみたいなお菓子や飲み物が夢いっぱいにあふれた春先取り。

そんな街の中、あちこち人々の夢見る桜色に染められて、心はひたすら春の甘い空色、優しい暖かな陽射しを恋しがる。踊らにゃソンソン、とくちずさむ。(今回はスターバックスの桜ソイラテやフラペチーノより、タリーズトムとジェリーの桜と苺のホワイトショコララテやなんかの方が魅惑的だな。)

ここの街の広場は空が高くて広くて、晴れた日にはとっても心はろばろするんである。先のないしがらみの時空の牢獄に閉じ込められていた精神がひととき夢の無限へと解放されてゆくような心持ちがするのだ。

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そう、前述したように、そういう風景、光の具合、心のチャンネルの、ラジオの波長がすっとハマる瞬間を持つ決まった光景、というものはある。扉が開かれ通信が開かれる。プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭で、突如主人公の記憶の扉を開いた焼きたてマフィンの香りのように。

それは、内面の扉を内側から開いてくれる超越からの感官への合図、信号である。一種の次元間を飛び越える超越のジャンプがそこにある。そしてそれは存在した瞬間既に歴史をもったものとして在る。

或いはそれは既にアプリオリ
個にとって存在の真理へのアプローチとはそのようなもの。

…そしてそれは例えばこの周辺の住宅地では、不思議に大学時代の夏休み、アイルランドで過ごしたときの夕食後の長い日暮れどき散歩した、あの風景を思い出す、というルート。(そこに至るための扉が開かれる。)

私は無条件に幸福になる。
その存在の確かさを思い出すから。それは存在の肯定。幸福の記憶。

緯度が高い国だったから、夏は白夜とまではいかないけど、10時頃までは明るい夕暮れだった。子供たちも夕食後その時間まで外で遊び呆けてたし、街も賑わっていた。

長い長い永遠の黄昏。
不思議な淡いあかりに満たされる記憶、夏休みの幻のような魔法のようなこの時空。

この夏の夕食後、両親はよく近隣の街にドライブに連れて行ってくれた。おもちゃのようにパステルカラーにペイントされた小さくて可愛い素敵な街があった。楽しみだった。

で、とにかく夏休みだったから、この大学時代の貴重な機会、日本から大切な友人も招待して、可愛いペンションみたいなアイルランドのおうちの部屋で二人して貴重な夏休み空間を共有したわけである。二人で繰り出す夕食後のこの時空、異国の風景。

ものすごくたくさんのことを語り合った。彼女とは今でも既に逃れられない宿命的な一生の友達として並々ならぬお付き合い。縁とは宝物である。なんたる僥倖か、と思っている。

 

そう、この時のことを思い出すのだ。
斜めに濃い黄昏の光と影の切なさと空の広さかなあ、と思う。

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例えば、夏の夕暮れどき、ほんの一瞬、空いちめん、ものすごいももいろに染まることがある。

世界じゅうがももいろになる。ももいろからうすむらさきへ、ゆっくりと色を変えるひとときだけ開かれる通路があるような気がする。

それは、割と万人に共通で、生物としての人類という種の巨きな普遍の集団記憶のようなところに行き着くためのポピュラーでわかりやすいアクセスルートだと思うんだけど、それをもうちょっと個人の次元に変換していったところにある微妙なチャンネル装置。そういうものってあると思うんだな。集団に溶けいってしまう直前の、記憶の集積の地層の最下層より少し上の個の始まり、アルケーのような地点が。

生まれてからすぐの記憶や、愛や感覚、その刷り込み。個性の生成される三つ子の魂、魂の根幹のところにどうしようもなく形成されている、それはひとつの、なんというか「お育ち」だ。良くも悪くも。

だからお母さんは不幸であってはならない、というのが私の持論である。お母さんが不幸を持っていると必ずそれは子供の魂の芯に伝わり染めてしまう。

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寂しさに耐えられない人間は、集団やイデオロギーや正義に、或いはそれへのアンチである自己満足に、或いは己が支配できるということで安心できる対象(ターゲットを絞った執拗なイジメや、妻子、女性へのDV)の存在に実は依存し支配されているということ。そんなものの複合体に身を任せて精神に安定する居場所を確保しようとする。従属の鎧を着る。そしてその鎧の矛盾や卑しさの逆鱗に触れるとひたすらハリネズミになって蒙昧の針をたてる。

そして鎧に閉じ込められ操られ支配される。

権力に仮託され委譲され、どうしようもなくそのドグマに固執して本来を失った「社会」は解放の場所ではない。本来の社会とは個のために、個々のために個々が協力して共によくあらんとして作り上げたシステムなのである。

ではそのおおもとである、その本来の解放の場所はどこか。

それは己の、個の内面に沈潜して探ってみればよい。(だがそれは多様へと己が拡散されることと同一であることが条件だ。)(鎧を脱ぐ恐怖を乗り越え「わからないもの」を否定しないテゲテゲさを許す幸福感。)

アクセス法は、個の祈りを何かに託した知性の痕跡(知や芸術の歴史)を辿ってみることと己個人の中の「それ」がいかに一致する触媒となっているかを感じ取ることだ。

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私という個人が生きてきた幸福な記憶は、外部の風景へときちんと残されているのだ。私という存在を風景は覚えている。

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…そんな風に考えられないだろうか。個としての主体の発生する場所は、個を個として、アイデンティティであると信じられているところがある時点でふいっと強迫観念から逃れたかのように意味を失い、ふわりと散らけてゆく臨界点で集団意識へと溶け入ってゆく、そんな輪郭をもっている。永遠の生命の考え方とは、その輪郭を越え、今の自分の存在の形態が死という位相を変えたところに存在してゆくもの。

たとえば生命とは、ただ粛々と己の今あるかたちを受け入れ精一杯生きるものであると。

(これは梨木果歩の「冬虫夏草」の世界観ではあるが。)生命体が生態系の中でその形態を変えてゆく中での、そのひとつのかたちのように。

極論ではあるが、食い、食われる食物連鎖の中にも、その存在というものはかたちを変え連鎖し流れてゆく、その流れ。そのエナジイの流れは意識を変えながら流れるもの、記憶の流れ、魂の流れ。生命は、魂は失われるものなのではない、という。

それは理論ではないとは言わないが寧ろ感情的なところに主眼を置いた複合的、複眼的世界観である。

そしてなべての理論とは、実はおしなべてその感情的な世界観を己の基盤として成立している言葉の構築物なのである、間違いなく。

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春が来るよ。
嬉しい、嬉しい。