酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

森見登美彦「聖なる怠け者の冒険」

まさか森見登美彦のコレを再読することになろうとは思わなかった。

独特のナンセンスと切れ味の鋭いエスプリ、自虐的諧謔に満ちた文章の饒舌っぷりは、私にとって肌に馴染むまでにちいとハードルが高いのだ。

ペンギン・ハイウェイ」の、少年たちの目に映るファンタジーに満ちた世界を前面に押し出した、その生き生きと初々しいうつくしさを持つ世界の風景。続いて見事な祝祭=言語による複数物語の錯綜する迷宮世界、を幻想的に構築した「宵山万華鏡」からの森見登美彦デビューだったから入り込めたのであって、最初に四畳半的な世界からガッツリ行ったら門前挫折したのではないかとすら思っている。
京大生自虐的ナンセンスギャグ及び多少のグロテスク趣味を絡めた濁り感満載男子学生不潔生活カラーを全面に押しだした四畳半モノとは異なり、ファンタジックな要素がきれいに濃し出された透明感、この「ペンギン・ハイウェイ」の方が寧ろ異色であったというのは後から知った。

(ちなみに最近のディープな文体に流れ過ぎない読みやすく優等生に出来上がったソフトな短編集に関しては今のところ個人的にはあまり評価できない。森見登美彦の醍醐味はナンセンスと「迷宮」の深淵に存する。そしてそれはむしろ長編でいかんなく発揮されるものであり、京都の四畳半宇宙、青春無秩序祝祭的多元宇宙カラーのところに色濃い。)

そう、やはりこの、決して口当たり良く上品であるとは言えない、異様なまでの切れ味を持つエスプリ、知的にして痺れるほどに激しくディープな諧謔と饒舌っぷり、ナンセンスを装った奥から滲み出す独特の世界の深い迷宮。この迷宮世界が長編後半に至ってすべての伏線的断片を巻き込み渦巻きはじめる疾走感の味わいがキモなのだ。

これは、ナンセンスとはなんぞや、そしてそれが面白い、という感覚はなんぞや、を問い直すテーマを導き出す。もちろん祝祭というテーマもここには分かち難く結びついてくる。そうだ、ぶっちゃけ、ナンセンス=祝祭から導き出される向こう側を森見文学は指し示す構造を秘めている。(まあもちろん全てが結びついて総体として森見登美彦なんだけど。)

要するに、論理と倫理の多様を認めた果てに何があるか。ナンセンスと諧謔とは、その論理の多用を渡り歩き、それぞれ権威を持つ論理がパロディとして描かれ、互いにずらし合い茶化し合うところに生まれるのが森見のナンセンス・ギャグである。その饒舌なテクニックの自在な駆使による狐と狸の化かし合いなイタチごっこ。その最たるところに「聖なる」愚者としての主人公小和田君が鎮座し、あらゆる現実神の頂点の場にまで上り詰めるのだ。

…視点の多様だ。この複眼的論理構造の「笑い」はまさに漱石的な「笑い」と完全に一致するところにある。

森見作品京都カラーの場合、あらゆる権威は、その重々しさをひっくりかえすパロディとして茶化されて描かれる構造になっているのだが、まずは謎の怪人ぽんぽこ仮面を前面に押し出したこの作品は格別に、なんというか、実にギャグの独自性のハードルが高い。

だが、作品群に共通している、最も重要な、祝祭性、迷宮性はさすがに面目躍如たるものだ。
祇園祭の狂乱の一夜のテーマ。

一旦ここまではまり込んでゆくとぐいぐい惹かれてゆく。

(因みに今回最初のハードルを越える前半部の困難は、メーテルリンクの「青い鳥」を交互に読み自分を浄化しつつ読み進めた。)

ふりまかれたそれぞれの登場人物のキャラクター設定とエピソード、彼らが各々個々に抱えたその複数世界の伏線が後半の祝祭の迷宮にすべてぶち込まれて渦巻き始める疾走感にさしかかるとそこからはほんに一気にダアである。(このあたりの読書感覚はダイアナ・ウイン・ジョーンズのソレに大変よく似ている。ゆっくりとひとつひとつ謎のふりまかれた多数の物語の伏線とそれらを一気に回収してゆくダイナミックな祝祭的異界法則の疾走する後半部。)

この祇園祭の一夜の祝祭と迷宮。
このナンセンスとは、そして、そのパロディ効果によって、奇妙なこの世界全体の滑稽さを露わにしながら、しかしそれらすべてを愛してゆく懐の深さの両立とは、一体なんなのか。(キモとはここだ。すべてのナンセンスが究極に意味するところという逆説をこの物語は執拗に追ってゆく。そしてそこに現れるのがこの懐の深さなのだ。)(先走って結論から言えば、それは小和田君という愛すべき「聖なる怠け者」のありようそのものである。)

何の正義の美学の論理や倫理に入り込むことのない平凡という非凡な存在の在り方とは、世界に対する極めてナチュラルな愛し方、愛され方、すべて存在への単純な「愛」への意志という信念からくるスタイルである。

作品は、彼がこの世の様々の奇妙に澱んだ権力や欲望の絡み合う正義の迷宮がすべてデュオニソスの狂乱にぶち込まれた祝祭の一夜、権力構造の蠢く乱痴気騒ぎのなか虐待され引き回され、最後にのぼり詰めた究極の神さまとのなまけ者っぷり対決というバカバカしさで競い合い、寧ろ「怠け者」が神としての「聖なる怠け者」であるところと合致する(絶対的権力構造の中心にあったものは怠け者のたぬきの子どもの神さまであった。)クライマックス、その古き世界の穢れた秩序をすべて一気に破壊する街の狂乱と破壊の祝祭の一夜から、世界の死と再生、新たなる秩序に生まれかわる物語構造をもつものである。

その神的聖性と権力の跋扈する世界の中心点が怠け者の汚部屋片づけ作戦だっとというばかばかしい構造を持っていたことは、あたかも虚無としての真理、という世界の構造を暴き出す小気味よさを持つ。

新たな朝、清浄な秩序世界への再生の可能となる鍵は、迷宮に迷う小和田君を救う新たなる秩序の王者(おそらく将来小和田君の恋人候補になるのではないかと思われる)玉川さんの存在の在り方である。

そう、そして、玉川さんが聖なる怠け者の王者、たぬき神と小和田君を叱咤して楼閣の頂点にある汚部屋から引っ張り出すことによって永遠に続くかに思われた狂乱と祝祭の土曜の一夜が終わる。

翌朝、新しい秩序と平安の世界が旧世界のすべての歪みと穢れを取り払われた果てに現れる。銀河鉄道の旅が終わったとき、ジョバンニの問題がすべて整然としたかたちで解決していたそのときのように。

真新しい夏の朝。まるで熱病の発作の一夜の翌朝のように穏やかにうつくしく明けてくる新鮮な生まれたての朝。すべての登場人物たちが生まれ変わったように、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとした軽やかな新しい日々を予感している。新しい日曜の朝。

 *** ***
さて、では、小和田君の個を支えている善良さ、愛、安らぎ、という「怠け者」というタームが実は示していた概念とは一体何だったのか。個と世界の枠組みを支える別要素が必ずその基盤に仕込まれている。

…それは、己の存在を幸福にしてきたものへの風景・憧憬である。

郷愁と哀愁との境のつかない、個としての己を支えるものであるその基盤、そのベースに流れている風景が救済のキイとしてひらめくように描写されている。その愛しさ,その平安。世界を、個を破壊するがごとく滅茶苦茶に暴力的な文字通りのお祭り騒ぎ、祝祭空間の迷宮の大騒動の底の底に秘められている風景の閑雅な静けさと優しさ。

これは例えば小和田君の夢の重なる迷宮の中に。

小和田君が修羅場の無間蕎麦から逃れ、己の夢の迷宮に入り込む瞬間。
奥の倉庫の座布団に埋もれ、彼が夢見る南国パラダイスの怠け者の楽園世界はそこでまどろむ彼の脳内で次々に夢の中の夢へ広がってゆく。夢の中で眠り、更なる夢の中へ、内側へ、内側へ。無限(無間?)の怠け者の名を借りた夢の重なりの迷宮。

この、入り込んでゆく描写、ここのところが実に素晴らしい。夢の中に侵入してきたぽんぽこ仮面から逃れ、彼はぼんやりと列車に揺られ、素晴らしい退屈と休暇の王国の奥底へと降りてゆく。乗り込んできた上役の所長から逃れ、夏山に青々と広がる夏空の永遠の夏休みの静かな無人駅の夢へ。駅舎の木陰で列車の余韻に身を浸し、無時間の永遠を味わう至福。さらにそこで眠りこんだ彼は、小学生の頃の永遠の夏休みの始まる日の思い出の夢へと入りこむ。

キモとはまさにここだ。これが個としての彼を支えている夢の底だ、と私はとりあえず断言する。始まったばかりの夏休み。今と違って永遠だった一ヶ月。網戸からの風、畳の匂い、簾と風鈴、麦茶の瓶、昼寝から覚めた至福のだるさ。蝉の声、ゆっくりと金色に染まる窓からの田んぼの風景、夏の夕暮れ。そして夏祭り。少年だった小和田君の眼差しが捉えていた世界、彼の個としての存在の幸福の基盤を支える個としての記憶は、その時空全体。その永遠に絶対の安心を魂の深奥に、或いは折りたたまれた世界の外側に存在するものとして小和田君のアイデンティティそのものである。だから小和田くんは己の信条を決して曲げることはない。小和田君の世界においてミクロコスモスとマクロコスモスの構造は正しくここに一致している。

この構造は、前回の投稿、「ペンギン・ハイウェイ」ではこれが少年の側からの論理として逆照射される形できれいに語られているものだ。アオヤマ君のその後の人生の基盤を支えるひと夏の冒険の思い出が形成された、その物語の記憶を小和田君は「怠け者」というタームの底に秘め持って生きている。

さてここで祇園祭りの現在と小和田君の夢の迷宮は繋がって玉川さんに起こされてしまうのだが、この内側と外側をくるりとひっくりかえした構造こそが(これは「ペンギン・ハイウェイ」にも一致している。)この作品全体の迷宮をもまた幾重にも重ねて象徴してゆくのである。

キモと言ったのは、そこに現れる懐かしさ、暖かさ、記憶の重なるイメージのことである。

それらの個々のイメージが祇園という集団的な祝祭の一夜に、個々を越えてすべて結びついてゆくダイナミックな迷宮を形作る基盤・魂・エナジイ、として描かれているこの作品の物語構造。ここが泣かせどころの醍醐味なのではないかと私は考える。個々の登場人物のそれぞれの大切な思い出がこの祝祭の時空の歪みの中に個の過去の記憶である枠をはみ出して「現在化」し、或いは浄化され、新たな未来を構築する礎となってゆく。

祝祭とは無秩序と異界との交流、秩序の崩壊(死)から新たなる秩序世界への萌芽(再生)の狭間、メディアの時空間のことだ。

そしてその裂け目に現れてくるのがこの個的な懐かしさのイメージ、己を支えるものへの絶対の愛着。(小和田君にとってそれは「怠け者」という自虐的なキイ・ワードでくくられて隠されてはいるが、実は小和田君の優しさ、その存在基盤を支える幼いころの守られた幸福と未来と存在への確信と愛に満ちていたときの記憶、そして夢見た南国のパラダイス、永遠の夏休みとその旅路。)徹底的に聖なる怠け者である小和田君の(実際彼は怠け者ではない。ごく普通の社会人で、やたらと充実した休日を過ごしたがる先輩カップルや己の正義の信念が名声と愛によって報われること人生の目標とする上司、正義のぽんぽこ仮面の「踊らされている」生き方を「茶化す」(客観化する)ためのナンセンスの指標として、がんじがらめの秩序を無化する道化者、トリックスターの役割を担っているだけだ。)

これこそが澱み疲弊した世界の歪みを穏やかに癒してゆく祝祭なのだ。

彼は宵山の祝祭迷宮でぽんぽこ仮面と間違われたまま街を牛耳るの陰の権威、影の実力者、さながらゴッドファーザーとしての権力をまとった「土曜倶楽部」なる会合に招待され、そこから更なる権威という「日曜倶楽部」へ、そして更なる「月曜倶楽部」へ…と、延々と繰り返される、日常の一週間をめぐる象徴のようにして繰り返される月曜から日曜倶楽部、その権力と祝祭の館の螺旋を上りつめることになる。

そして行き着いた果てが、前述したように、汚い四畳半でゴミとガラクタに埋もれている八兵衛明神、ワガママで怠け者のこどもの狸であった。権力と権威を茶化し切った果てにある真理の在処にいたのが怠け者の子供の狸の神様、というこれがまた絶妙にアンビヴァレンツな内―外の反転を仕込まれた虚無的構造をもつ存在だったのである。

この作品でもうひとつ、グロテスクな不潔さや異様さを殊更に笑い飛ばしながらも描写してゆくことにも、ひとつ、興味深い仮説がある。グロテスク。これも非常に不思議な感覚だ。

嫌悪、というのがすなわち己の日常論理が否定することによって成り立ったもの、その理解の「外側」である、とするならば。おそらく丸山圭三郎の指摘するような「グロテスク」の認識構造が参考になるのではないか。最後に添付しておくので参考にされたい。

空恐ろしさと滑稽さ、そしてあっけらかんとした罪のなさを持つグロテスクな妖怪たち。
彼らは個としての人間の存在を奪う恐怖と魅惑の両面性をもっている。存在を奪われた者たちが魅惑されたもの、存在を奪われるということが向こう側にとりこまれ「神になる」ということ、個を失うことが、その外側に奪われる死の領域が神になるということと同義である、という解釈が成り立つこの森見文学の発見に、…そう、結構私は感動したんである。

宵山万華鏡」においてよりクリアに描かれているこのテーマ。
祝祭の日、己が理不尽の神様たちの世界に魅惑に魅入られ個としては失われ「向こう側」へとゆく者(神隠しとして取られてしまう子供)のその感覚、その愛するものを奪われ失ったものの側の痛み、という構造を驚くほど論理的に魅惑的に描き出したこの物語構造には舌を巻くばかりである。うむ。

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グロテスクはエロティシズムがそうであったように、生の円環運動を持続するファクターとして二重の否定行為を行う。その一つは、欲動のイメージ化という新しい意味発生の現場におけるアブジェクシオン[=母性棄却、クリステヴァの概念]でもある。(丸山圭三郎