酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

森見登美彦「有頂天家族」

(※注・大分前に書き始めたものを寝かせながらぼちぼち書いた記事である。)

五山送り火の今宵、ちょうど再読を始めた「有頂天家族」で下鴨一家が五山送り火納涼船を出そうとする章に差し掛かる。セレンディピティ

ということで森見登美彦再読大会絶賛継続中。やはり文体は私の肌に合うとはいいがたいが、感服する巧さであり、一旦味わい方を知り入り込んでしまうとひたすらしみじみと切なくおもしろい。最初読んだときはこの深々とした切なさが、文章の狭間のきれぎれに感じられることはわかったんだけど、その味わいの深みにどっぷりはまりこんで浸るには、文体のハードルが高すぎたのだ。

うむ。正直に言おう。
あんまりわからなかったのだ。到達していなかったのだ。おもしろさの醍醐味のところに。
いや~しかし今回再読して実にじんじんとくる。いわゆるなんというかユーモアとペーソス。こんなにもしみじみと切ない面白さだったとは、と、いたく再認識する。

もちろんこのよく言われる「ユーモアとペーソス」とは、相反する二つの要素、なのではない。人間としての底なしの優しさからやってくるひとつのものだ。同根、というよりはひとつの混沌とした感情のかたまりのものである。ヒューモア、哀しく愛しくも滑稽な人間という存在のかたちへのアプリオリな愛のことだ。問答無用の絶対の愛。

そしてこの情趣の構造が物語の中に見えてくるとそれはますます深々と深みを増してゆくものとしてある、と私は考える。それは、森見作品にオリジナルな個別性であり、だからこそ普遍に通ずるものとして感じられる全森見作品に共通する構造だ。

抽象として独立した普遍は存在しない。抽象とはあらゆる個別性の中にのみ存在する普遍なのだから。

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とりあえず、これは毎度おなじみ京都の街の風景においての、人間と狸と天狗の三つ巴の物語。そして、家族の愛の物語。

で、構造ね。
これは、アレだ。ひとつのアプローチとしては、三位一体。父と子と精霊のアレ。世界の構造をその三位一体から解読してゆく。キリスト教人格神じゃなくて、ここでの解釈は世界はひとつの神全体だっていう「神=法(ダルマ)」だとしてね。(もちろんむしろ森見作品においては唯一神、人格神のイメージは皆無であり、寧ろ日本古来のアニミズムに寄り添ったものであるが、そこに瀰漫する「法」が各々の関係性のダイナミズムをもって世界全体をひとつの秩序にゆるく保ちながら存在させている、という感覚。個は他との関係性によって存在する。)

この構造として見ていくとこの物語の面白さは一気に飛躍倍増する。
そだ、それが見えた、と思った瞬間、私の胸はときめいた。(立原道造「鳥啼くときに」「ある日 小鳥をきいたとき/私の胸は ときめいた」この感じ。)わくわくモード発動レヴェル。

父は天狗、人間は子、そして媒介者、主人公狸どもはもちろん精霊に近いものとしてこの物語世界は展開する。いちいちのキャラクターのありかたが俄然意味深くつながってゆく。

大自然の側の自分勝手で気ままにふるまう、非人間的な自然界に属する自分勝手な天狗は天にあり、下界の人間界にはもちろん人間社会が位置する。そして狸はどこにでも出没、瀰漫する精霊だ。

本来のキリスト教の三位一体ってのは神の位相を人間界と対立させて配置した考え方に見えるけど、ここではその神の構造の位相そのものをアニミズム的な世界観へ(神=主体客体を同時に孕んだままの世界全体)とずらして構造だけ当てはめてみてるのでその前提で読んでみていただきたい。

まず、狸とは物語の中でどのような立場にあるか。その姿かたちの滑稽なイメージ、可笑しみは第一にくる性質だが、これが指し示す性質として重大なところは、天に対し地に属するもの、しかし人間界とは異なる自然界の異界妖怪テリトリーに近い。そして天と人間界双方をマネっこして風刺してみせる滑稽な道化、トリックスターとしての要素である。

化けるものである、という超能力を得た種族。そう、ペルソナを自在にあやつる。それは人間―天狗の関係性の中に堕ちてきたとき、双方をまねる、化ける、「モノマネ野郎」となった。このとき、人間を騙すが食われる者でもあり、基本、天に仕える者でもあるが、周縁に追いやられていることによってあらゆる秩序からのがれており、天をも欺くのが狸である。

己をくるくると変え演じることのできる者でもある変幻自在さ、そして最下層からもはみ出る周縁においやられながらあらゆるものを化かすもの、最も自由に動けるもの、メディア存在となったのである。

これはまさに「道化」としての性質だ。変幻自在に天と人間界をつなぐ大地に属したメディア、精霊。

人間側と天狗側、最も自由でありながら双方から支配を受け迫害される奇妙な二面性をもつこのメディア。大地に根差す獣としてそれは「その他」の存在である。いたずら者、秩序を攪乱させるトリックスター

山口昌夫の「道化の民俗学」に紐解かれ解説されたような、古今東西の文化に必ず遍在した道化存在の歴史、その共通する性質にぴたりとあてはまる。

…だから、狸は生贄ともならなければならない。人間界権力組織の象徴、金曜倶楽部の、年に一度のカルナヴァル、祝祭、狸鍋の危機である。

下鴨一家の父なる者、狸界の王、彼が人間の祝祭の生贄、狸鍋として食われてしまうというのが、父なる王の喪失、失楽園の神話的前提である。そしてその前提から始まったこの物語もまた、そこから道を誤った世界の歪みを一気に噴出させる下鴨一家遺族全員の狸鍋クライシス、再びめぐってきた大晦日、死と再生の反転する狸鍋の一夜の怒涛の祝祭、クライマックスのシーンにむかう。もちろんこれもまた狸鍋の大晦日の夜なのである。

…生贄とはなんなんだろう。
(道化とは、生贄ともなる存在だ。祝祭の夜の王となり、そして殺されるというパターンは多い。)

贖う。他者の罪の負債を背負う。食われる。

…食うことと愛することとの欲望が同時に存在する矛盾を天狗と人間の中途半端な位相にある弁天は語る。飲み込んでしまう、滅ぼしてしまう、食ってしまう。天狗としての非人情と人間としての人間的な哀しみに引き裂かれた両義の存在、弁天。

天狗の非人情とは、異界の異形の者が、祭りの異空間が愛する子供を隠してしまう、その類の非人情だ。残虐趣味とは全く違う。人間界の論理や倫理、システムとしてな感情の外に存在するものだ。この、宵山万華鏡に如実に現れているテーマがこの作品のこの箇所にも隠されている。愛するがゆえにその個を滅ぼし「こちら側に」取り込んで異界に、或いはカオスにもどしてしまう、神にしてしまう。支配したい一体化したい取り込みたい、それが相手を滅ぼしてしまう矛盾が不思議な美しい哀しみとして弁天を人間的情緒や倫理と、天狗、無垢で無慈悲な天界の側の感覚の狭間の残虐なほど美しいところに属さしめているのだ。弁天は涙を流しながら犠牲の狸に語りかける。

「食べちゃいたいほど好きなのだもの」(中略)「でも好きなものを食べたら……そうしたら好きなものがなくなってしまうんだもの!」

「あなたは『私に食べられるあなたが可哀そうなの』と言ったよ。それからね、『でも私は食べてしまうのよ』と言ったね。狸にそうやって話しかけてね。」

後者の科白は「喰うことは愛することだ。」と定義して「言い張る」金曜倶楽部のメンバー、哀しいけれど旨いという矛盾を飲み込んでやまない大学教授のものである。

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弁天さまの涙は子供の涙。理由もなく泣く、と下鴨家次男矢二郎は語る。(ひたすら悩みごとを投げ込む底なし沼「聞き役」となっている下鴨矢二郎はすべての悲しみを無言で引き受ける役割を担っている。誰にも見せられないかなしみや涙はただ失われるものにのみ降り注がれる。彼も半ば犠牲となり失われたものとしてあるのだ、矢二郎。すべてを飲み込む、二度と戻らない井戸の底の存在-非存在の狭間にある矢二郎。「俺はわかったようなふりをしているだけだよ。井の中の蛙だもの。」)

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人間の権力構造の醜さや不合理、濁り方をもまねっこする狸社会の滑稽さはもちろん人間社会を風刺するものだ。

ということで、狸の総体、そのものを体現するのは狸の失われた王、誰もが認める王者・父なるもの・下鴨総一郎であった。その血を引き継ぐ四兄弟に分散された狸の資質の中で、道化としての「阿呆の血」という性質をもっとも色濃く引き継いだのが主人公下鴨矢三郎というわけだ。トリックスターの精髄。

道化、トリックスター
必ず権力に付帯し蔑まれながら身分制度の最下位からすら外れたシステム外の異形のもの、そして硬直した権力それ自体をひっくり返す力を持つ唯一の破壊のパワーを秘めた存在。

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さて。
本作品においても、何しろキャラクターは皆それぞれ強烈に魅惑的なんだが、やはりこの作品でのキャラクターの白眉は弁天である。

人間のおごり高ぶり、そして寂しさとかなしみ。
物語の中で、この人間の女性に惚れてしまった自然の力の象徴、「天」の側に属していた天狗赤玉先生が、そのせいで天の側から、堕ちた。これが歪みの祝祭のはじまりの一端である。そしてその「堕」の原因が惚れられ攫われてきた弁天である。

弁天を見初めた赤玉先生は当時鈴木聡美であった弁天を攫って天狗教育を施す。弁天は天狗(ダブルミーニングだ。傲慢になる能力)の能力の憑依を受けた。赤玉先生をだまくらかして誘惑し、天・神の力を盗んだプロメテウスとなる。その弁天の、天(自然界・異界的の、本来人間がひたすら信仰しあがめ畏怖すべきパワー)と人間の関係性を反転させた罪と世界の歪みを贖うのが狸なのだ。自然と人間のメディア。

人間の愛もかなしみもエゴであり相手を損なう。天狗を人間的な解釈によって堕ちた天狗の哀れさ切なさを読み込むのも自分勝手だ。とにかく双方ともに責任感もへったくれもない純粋で無垢でエゴな欲動で猛威を奮う。そしてそのすべては瀰漫する世界のすべての哀しみとなって、更にその災難はすべて狸に降ってくる構造になっている。一方的にすべてを請け負い贖い食われる、そして双方から愛されともに遊び迫害される生贄としてこの自在な聖霊は存在する。(先に述べた、この三位はすべて人間的な視座から見た物語総体としての三位一体である。)

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この物語のダイナミクスにおいて、大きな展開点となるのは、狸鍋となって失われた楽園の王、四兄弟の父、下鴨総一郎のその喪失の夜の謎が暴かれる後半シーンだ。怒涛の祝祭カルナバルの猛烈な面白さ、この勢いは森見登美彦作品の醍醐味、相変わらず圧巻であり心を揺さぶる。神話的な裏切り者の弟による兄殺し、王の喪失の秘密が語られ、現在の危機が、天狗の、天の豪雨、雷鳴の混沌の中で地獄の窯が開かれる如く祝祭異空間を開き、下鴨一家全員を危機が襲う。まずは偉大なる父に憧れながら敵わず、父を裏切った叔父に真っ向から対抗しようとする兄がその叔父の陰謀によって狸鍋へ送られる檻へ。矢三郎もまた捕らわれ、末っ子矢四郎も閉じ込められる。

下鴨一家全員が圧倒的な危機に陥ったとき、劇的な反転の主役となったのは、忘れていた父の遺言を思い出す引きこもり次兄矢二郎である。父の死の原因となったのは自分ではないかという呵責に耐えられず、酒を断ち、蛙となって狸界から井戸の底に滑り落ちていた次兄矢次郎に力を与える酒を飲ませに走るのが、いつも頼りない末っ子矢四郎。酒の力で化ける力と父の遺言を蘇らせすべてを思い出す矢二郎。

遺言とは、矢三郎の座右の銘「おもしろきことは良きことなり!」家族に繰り返されるキイ・ワードは「阿呆の血のしからしむるところ」!

酔った勢いで電車に化けた矢二郎は、怒涛の勢いで周囲の秩序をすべてを打ち壊しながらデュオニソス狂乱の渦を復活させる。狂ったように笑いながら。

滑稽さと残虐、グロテスクと渦巻く狂乱の一夜、デビュー作「太陽の塔」で「ええじゃないか」の街の狂乱で既に現れていた森見作品のテーマだ。宵山の祝祭、秩序が崩壊する、入り乱れ異界システムが乱入する、蝕の一夜、デュオニソスの狂騒、狂乱、残虐、笑い、グロテスク。

目の眩むような爽快さと泣きながら笑い出す狂乱の馬鹿馬鹿しさ、カタストロフ。だがその一夜は下鴨一家にとって、むきだしの家族愛の原点、「有頂天家族」の愛の炸裂する一夜ともなる。

★道化

さて、先にキャラクターの白眉は弁天であると述べた。では主人公、道化者矢三郎と弁天とはどのようなかかわりを持つのだろうか?

矢三郎と弁天の惹かれ合いと迫害裏切りの渦巻く奇妙な関係。これこそがこの二人(一人と一匹?)のトリックスターとしての表裏である。人間界に神の力をもたらしたプロメテウスのはずの弁天は、地獄の責め苦にではなく、人間としても天狗としても定まらぬ、故郷を持た悲しみを抱えた残虐と慈悲を併せ持つ神擬きとなった。だがここに流れる哀しみやどうしようもなさものも(好きだから滅ぼして食ってしまう)ひとつの非人間的な(愛)の形を表している。矢三郎の「面白いことだけで生きていく。」精神とそれは一つの魂を共有する。この二人の奇妙な敵とも味方ともしれない裏切りと助け合いのスリリングな関係性はここからくる。

すべての災厄の理由となった一連の弁天の行為は、それまでに溜まった日常の中のケガレ、狸と天狗と人間の三位の膠着した色濃い感情の澱み、人間関係、権力関係に腐った澱み、歪みを一気に炙り出し日常世界に放出する事で新たな秩序を作り出そうとする祝祭と蝕の期間を招く。あたかもすべての今までのナアナアで隠されていた不都合をすべてお裁きの場にさらし噴き出させたコロナ禍のように。

下鴨一家の父、狸界の王は天狗に惚れられさらわれてきた鈴木聡美という天狗擬きによって化けの皮、トリックスターとして権力に拮抗するための力の神髄を奪われ、鍋にされて食われてしまう。

失われた父・王、失楽園。隠されていたその秘密。動き始めるこの物語世界のはじまりの秘密だ。

「金曜倶楽部は宴の支度をととのえ、夷川早雲(総一郎に恋で敗れ過程で敗れ、逆恨みして兄を裏切った兄殺しの弟)(ここにも神話的構造が仕込まれている。カインとアベルだ。)(こっちは弟殺しだが。人類初の殺人罪は兄弟間の、自分の思いだけがむくわれない、という嫉妬に歪んだ心からくる醜く汚らしく切ない罪だったのだ。)は積年の恨みを晴らして狸界の実質的な首領となり、鈴木聡美は金曜倶楽部に迎えられて「弁天」となり、弁天は天狗的才能を爆発的に開花させ、(中略)赤玉先生を如意ヶ嶽から追い落とした。ねじ曲げられた天狗・人間・狸たちの運命があの夜あの座敷にて交錯し、父の鉄鍋転落を契機に、それぞれの方角へ分かれた。」p276

この歪みが一機に清算されるのが、先に述べたような本作品のクライマックス、祝祭のカルナヴァルの夜なのだ。

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で、とりあえずは渦を巻く感動の嵐の中読み終えたわけなのだが、聖なる怠け者、なんかと比べてちいと描き込みに消化不良があった。…キイ・パーソン、弁天の描きこみ方がいまひとつ、いや、絶対的に物足りないのだ。大団円に都合がよすぎるこの突然の秩序回復正義の味方になっちゃう弁天の行動の唐突さには納得できる構造の深層の必然性が見えない。

…と思ったらやっぱり続編が出てたんだね。有頂天家族その2。これは未読だった。なんか読めば読むほど深まるのではないかと期待。読書の秋、読むぞ。

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(ここでまたかなりの時間をおきまして。)

…ということで読んだんである。
昨夜、続編「有頂天家族・二代目の帰朝」読了。

いや~実になんとも…続けて読むことができて大変よござんした。

いつかまとめてきちんと書きまとめて語りたい、(こんなのばっか)実に期待を裏切らない、消化不良だった箇所がきれいにすとんすとんとおちてゆく、冴えわたる鮮やかな構成をもった素敵な、実に「こうあるべき続編」でありました。

てゆうか、これは前編後編としてワンセットとして考えるべき作品だなあ。やっぱりラストシーンを占めたのは、敗北を知った弁天の、その人間であったところの記憶の切なさの核を胸が痛いほどに心憎く描くものでありました…世界に遊び、味わう、その、生きることそのものの謎に、己の存在の謎に、ただ惑う少女のその魂。たやすく天狗にさらわれるままになるその魂のありかた。ただ面白く生きることに人生(狸性)を賭けた矢三郎との魂の響き合いの深奥のところが、きちんと書き込まれている。

じいん。ふかぶかと。