酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「モモ」(エンデ)再読・物語の迷宮と豊穣

ということで人生総括的な読み直し大会、エンデ編、子供の頃夢中になった一番思い入れのある「モモ」である。
「100分de名著」観てからどうも気になってたんだな。ここ。

で、しかし読了後なんとなく消化不良のまま、図書館からやってきてしまったショーン・タンの美しい新刊「内なる町から来た話」。都市に潜むさまざまの失われ損なわれた歴史の中の動物たちの物語も読んだんである。

そうしてこのとき、片方ずつだとよくわからなかったもの、この二つの作品を考え併せたとき共通に見えてきたもの、ストンと落ちて見えてきた構造、原理、のようなものを私は感じ取って興奮した。……作品中にちりばめられたエピソードの断片がその視点から眺めたときにより一層味わい深く生き生きと動き出し、作品世界全体を曼陀羅模様に構造化し、世界はぐんと豊かに面白くなる、その一つの論理。……そして本の中の世界というのは、閉じた本から目を上げたとき、その瞳が現実世界を眺める知性の世界と同義だ。読書がその読者の心の組成を変えたならば、読者にとって現実世界は読み替えうるものとして再編されている。学ぶということはそういうものでもある。

とりあえず当初「モモ」再読了の際。
とにかく私はう~ん、といささかの消化不良な気持ちになった。いろいろとティピカルに設定された価値観によるストーリー展開への失望に似た感覚や別の新たな発見や。

まあそのときはとりあえず本を閉じて寝た。深夜で酔っぱらってたし。

そしてしかし、これら全てを統括する新たな概念として物語の迷宮(或いは豊穣)、という概念がうかんだのだ。概念というか意味あるものとして見えてくる物語構造。

それが、消化不良のわからなさをわからないままおいといて、そのままショーン・タン新刊に耽溺しながら気づいたことなんである。

これが今回の大きな収穫だ。

この感覚と強く共振して貫かれたもの、そう、共通して感じたのが今回連続して読んだ春樹・森見・エンデ。(もちろんすべてすぐれた文学にはこの要素がある。その手掛かりとアプローチとしての作家に特化した特色としてのわかりやすさだ。)

森見登美彦に関しては、氏の作品の中で優れていると私が感ずるものの特色としてこの「物語の迷宮性」(祝祭空間が彼の作品の最大の特長であり、これが関連していることももちろんある。読書の、そして外部の歴史を重ねた「京都の祭り」の。だがその「祝祭性」とはすなわちこの「迷宮性」とセットであることを忘れてはならないのだ。)の要素を採り上げたいのだ。祝祭空間で日常現実のみかけの整然とした理性の世界、限定された唯一絶対のロゴスの時空は崩壊するものであるから。

彼らには、物語そのものの構造とその迷宮性、意味に対する強い意識が、自覚がある。いうなればそれはアラビアン・ナイトの物語構造だ。物語論、ナラトロジーとしては「語られる空間と語りの空間」の重層性、その響き合いの関係性。

これが先のショーン・タン短編集を読んでいて「モモ」でどこかひっかっかっていたものが意識の腑にストンと落ちてきたところなんである。

テーマとしては

多様な「物語」の存在に何の「意味(「意義」としての)」がある?!

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この疑問は例えば岡崎京子ジオラマボーイ.・パノラマガール」冒頭で主人公津田沼春子が「ああっ現実なんて何のイミもないっ」と(心の中で)叫んだその魂の叫びに共振しているものだ。

意味とは何か、意味はどこにあるのか?我々が普段無前提に意味ある現実と信じているものは一体なんなのか?

そしてゲンジツとモノガタリの境界線は溶解し、「イミのない現実」→→「意味のある物語」という対立構造から統合されようとする論理構造がここに仮定される。

1980年代のあの日本の渋谷文化の爛熟と自由を謳う解放のあげく懈怠と硬直の時代に突入したとき顕現したもの、暴力、エロス、エゴ、恐怖、或いは「個性」という没個性な強迫観念。爛熟と放埓の「無意味さ」。本来の生物になかった「自然」と鋭く対立する構造をもつものとしての奇妙な人間の「文化」。それが、一見正反対に反転したこの切迫した疫病、貧困、政情不安に戦争の危機の時代としての現在と奇妙に呼応して見えるのはまず不思議なことのようには見える。

……共通点を探してみることだ。「閉塞感」。
解放されつくした爛熟文化社会、或いは管理されつくした真綿で首を絞められ続けるような首輪付きの「自由」。

それらは実は同じ枷として存在している。

一歩踏み外してスクールカーストから下落すれば待ち受けるのは人権を奪われた地獄。一歩踏み外して非国民になれば人権を奪われた地獄。一歩踏み外して炎上すれば人権を奪われた地獄。どれも同じだ。抑圧と権力の構造を孕んだ「ただ一つの現実」という「物語」から「一歩踏み外せば」。

共通点は匿名の多数派からのいじめ構造、社会からの排除、それに対する己の内側に組み込まれた恐怖からくる閉塞感だ。暴力と暴力としてのエロスはその圧からの逆流として必然としてその抑圧された個の深奥から顕現される現象。春樹作品にはこれが実にクリアな構造として表現されているのだ。

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「モモ」においてそれは時間泥棒の概念として示される「リトル・ピープル」的なるもの。自由と解放をしばり、時間(生命)の本来の輝きを奪う。がんじがらめになる。小さな小さなそれぞれのすべての人々の内側にある日々の凝りのようなものたちが無意識の集合意識のような「空気」を醸成し、それが巨大な力のビッグブラザーと同じ表情をしたものとなって社会を動かしてゆく。……ここ(近・現代社会)ではそれはもちろん欲望と経済をベースにした管理社会である。

そしてここでキイ・ポイントが、救済のカギが、モモの特長である「聞く力」なんである。
ひたすらにひたすらにただ「聞く」力。

なんなんだ「聞く力」って。
わかったような意味ありげな言葉に皆うなづいているが。
……意味ありげなのは意味があるからだ。(意味を醸成できるからだ。)この上なく深く尊いものを感じることは本当に真実として誰にだってできる。(まあなんという「仏性」ネ。)だけどそこでとまると知は濁る。こういうものなのだ、と既知で周知の制度による物語にひきよせ当てはめた小さな事実に固めてしまう。賢し気なパリサイな無自覚で無知な阿呆に染まる。地獄への敷石にだってなる。

「第二章 めずらしい性質とめずらしくもないけんか」
では、モモが話を聞いているだけでけんかが治まってしまうエピソードが描かれているんだが、その章に「聞く力」の本質的なものが示されている。もちろん「100分de名著」で示されていたように、心理学的なカウンセリングの論点から、「モモは自身の鏡である」、という論理が人間の心においてはあてはまるかもしれない。だがここで、それは人間のことだけではない、というところがまたミソなのだ。歌を忘れたカナリア、昆虫の鳴き声、木々のざわめき、風の音。世界の音、世界の言葉、……それは、モモにとって、「聞く耳」にとって、すべて世界の紡ぐさまざまの物語(意味と豊穣)なのだ。聞く者がいるとき、はじめて世界はその物語と意味を紡ぎ出し、「歌い出す」。すべてのいのちと存在は関係性の中にのみ明滅するエネルギーとして「存在」するという本質を持つことがここに顕わになる。

古い時代の失われた「劇場」の廃墟に住み着くモモ。
そこは、幾世紀もの昔に古代劇場としてさまざまの悲劇、喜劇が演じられ、人々が芝居を愛好した場所だ。

「ふしぎなことに、ただ芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかないかと思えてくるのです。みんなは、このもうひとつの現実に耳をかたむけることをこよなく愛していました。」

その廃墟で、彼女は夜ひとり耳を澄ませ、夜空の歌を聞く。ここで上映されたものの記憶を伝いながら古今東西の物語をイマココに聞く。世界存在の美と豊穣、世界の語る(歌う)その物語は、見せかけのただ一つのゲンジツではなく「もう一つの現実」、いうなればひとつの定型をなさない仮定された無限の不定形なマンダラであることによって真善美としての神であり、生命であるものとしての時間を満たした「永遠の一瞬」(西田幾多郎)の物語上映である。それは宇宙の歌ってる存在を寿ぐハーモニー。

「友だちがみんなうちに帰ってしまった晩、モモはよくひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちの中にすわっていることがあります。頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。/こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。/そういう夜には、モモはかならずとてもうつくしい夢をみました。」

モモは世界に音楽を聴く。
それは、時間管理人マイスター・ホラの「どこでもないところ」で聴いた壮大な世界の神秘の音楽、あのうつくしい感動的なシーンへと繋がってゆく伏線として在る。

ーーーモモがマイスター・ホラの「どこにもない家」、時間の国で、時間(生命、存在)の花の生まれる源泉を見せてもらうシーンだ。荘厳な宇宙を象徴する丸天井の下には時間の振り子(これってフーコーの振り子のイメージかしらん。)と時間の花。それら奇跡のように壮麗な美に満ちた風景の光と音楽は瞬間瞬間を遷り変わりながらひたすら限りなく惜しげもなくもたらされ続け、世界の豊穣は贈与され続け、……それはただ静かに運行し続けている。

すべての時間は、生命は、存在は、唯一のそのかけがえのないひとりの一瞬のためだけの、生まれては失われ続けるたよりない一つの生きたうつくしい花としてそこで表現されている。前述した西田幾多郎の「永遠の一瞬」の概念はまさにここに一致する。絶えず滅び再生し続け明滅することによって非連続の連続を構成する世界、生命のかたち。失われては次々咲き続ける、そして絶えず「今」が一番かけがえなくうつくしい花であるとしてとらえられるものであるというエンデの認識。

「それはモモがいちども見たことがないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているように見えます。このようなうつくしい色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。(中略)モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。(中略)花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととりもどすことのできないものが永久に消え去ってゆくのを見るような、悲痛な気持ちがしました。(中略)こんどの花は、さっきとはまったくちがう花でした。(中略)新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。」

そして、モモは聞くのである。

「けれどそのうちに、ここではもうひとつべつのことがたえまなく進んでいることがわかってきました。いままでは気がつかなかったことです。
 丸天井のまんなかから射しこんでいる光の柱は、光として目に見えるだけではありませんでした。―モモはそこから音も聞こえてくることに気がついたのです!」

それは、風のざわめき、岩に打ちよせる滝の音、たえまなく新しいハーモニー。モモはそれがきらめく星空の下ではるかに聞いていたあの音楽と同じものであることに気づく。そしてそれにじっと耳をかたむけていると、それはことばとしてとらえられるようになってくる。

「それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちのそれぞれのほんとうの名前を告げていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをやり、どのように力をおよぼし合っているのかを知る鍵となっているのです。」

歌はことばであり、そして物語であった。聞く力とは、世界に真理と意味の物語のハーモニーを見出し醸成しようとする力。「世界のほんとうのなまえ」を聞く関係性と祈りの力。阿頼耶識からすべての識を、すべての事象を生きたまま解き放つ力。

モモはマイスター・ホラの家で一晩を眠った後、自分がその歌を歌えるようになっていることに気づく。
ラストシーン、大団円のひとびとの喜び集う町の広場、そこで澄みきった声で歌われるのがこの歌なのだ。世界の多様性とハーモニー、その物語の豊穣、みちわたる宇宙の深奥からのほんとうのなまえ、ことばにならないことばという歌。

「もうひとつの物語」。

 *** ***

モモの親友ふたり、口達者でお調子者でホラ話大好き観光ガイドの若者ジジと、嘘を言わないことを何より重んじ、自分の中の真実だけを語ろうとする言葉少なな老人、道路掃除夫ベッポ。一見両極にいる二人には実は共通点がある。

二人ともモモがかけがえなく大切でものすごく好きだ、という他者への愛という一般的な倫理としての「既成の物語」にそれはとどまる話なのではない。自分の中に自分だけの真実の物語をもっている、その大切さを周りの権力としての物語に踊らされることなく己が己である誇りとして、或いは生きるための「道」だとして自覚していること、把握していることなのだ。矜持。(そしてそれはしかし同時に、前述したモモが大切で大好きだ、という愛の物語と重なるものでもある。己の物語への自信と誇りは「聞くもの」の存在という己と他者の存在の関係性に関連してうまれているからだ。)

ベッポは己の心の深奥に潜むものに深く沈潜しそこからゆっくりと言葉を紡ぎ出す方法で。
ジジは自分の中から次々湧き出てくる夢とホラに満ちた想像力の世界を華やかに構築して世界を彩ってみせるという方法で。一見真逆なようでいて、実はそれは同じ構造を持ったものだなのだ。

 *** ***

「時間泥棒」という物語。それが彼ら欲望の権化が権力として概念化されたところに生まれた、他を抑圧する唯一の権力の物語となったビッグブラザーやリトルピープルである。「たったひとつの物語、たった一つの現実」という権力構造を伴う虚構を彼らは人々に強制する。彼らはシステムそのものだ。

……そしてそれにあらがう唯一の方法が、この「もうひとつの物語」なのだ。
モモという「聞く者」が焦点化された結節点となり、物語の源泉、時間の源泉、生命の源泉を見極めようとする「もうひとつの現実」すなわち「もうひとつの物語」がうまれる。それは、大いなる支配、暴力、抑圧のイデオロギー、権力に拮抗する唯一の「源泉の力」だ。

 

だがまた「もうひとつ」のそれは、時間泥棒の出で来た故郷のカオスの森を同根とした、同じ生命の神秘の力、時間の花の力を利用したもの、いわばお互いを厭みあいながら決して単一では生存できないシャム双生児、欠くことのできない光と闇の宇宙の摂理を体現し関連しあいながら存在しながら共存できない光と影の世界、夜と昼、太陽と月。善悪のない故郷のカオスのただピュアな存在パワーから、各々の物語を紡ぐ、それがいかに個的に生きた自由なものであるのか管理された権力に抱かれた欲望と暴力に流れた「故郷を奪われた冷凍。乾燥の花」ものとして分かたれるのか……己の輝きの源泉を見極め守るという個の意志と祈りに支えられたとき、それはすべてに打ち勝つエネルギーとしてオリジナルな物語を紡ぐ世界存在の豊穣の喜びを汲みだすことができる。それはただ透明な力なのだから。

時間泥棒の最後のひとりが消滅の間際につぶやく言葉は意義深い。
「いいんだーーこれでいいんだーーなにもかもーーおわったーー」
ほんとうは彼らは善悪に属するものなどではないのだ。彼らはただ人々の中から顕現し機能する社会的システムに過ぎない。そしてそれがこの作品において「わるもの」であると表現されているのなら、ということなのだ。力が、時間が、生きた花であるか、本来の場所から奪われ閉じ込められ冷凍されたものであるか、という違い。

彼らは永遠にいつでも顕現するものとしてある。
この作品を一番外から枠どる「モモの物語」を語る語り手が、それを語った(おそらく)マイスター・ホラと汽車の中で出会い、この話は過去において起こったことでもあるし未来に起こる話でもあるのだ、というなぞかけをしてあることは意義深い。(この汽車のシーンが映画の中では極めて賢治の銀河鉄道を想起させる映像であったことは感慨深い。)(すごく素敵)

その源泉の力は、例えば宮澤賢治が「その透明な風や……こどもにうつれ」と表現した澄んだイーハトーヴォの物語の世界に満ちるうつくしい世界の豊穣のちから、その祝福を歌や祈りのかたちで表現したものにほかならないのだから。

 *** ***

これらは、「モモ」では豊穣と喜びとしての物語がクローズアップされているが、(童話だしね。人生のはじまりのところにいるものたちの魂の基盤にはまず世界のうつくしさ、限りない贈与、愛、生命の喜びという感覚のベースを確立させておかなければならない。未来に起こる嵐はその基盤さえあれば間違った方向にはいかないはずだから。……三つ子のたましい、でんな。)

だから、だが、である。これが反転したときはそのまま「物語の呪い」として春樹「海辺のカフカ」や川上弘美の新刊でしめされたおんなたちの悲劇の物語へと繋がってゆくものとなっている。物語の両義性についてその必然としての矛盾構造は見極めねばならない。

 *** ***

物語の豊穣と物語の呪い、物語というその形による限界。そう、これらはひとつの人生の物語としては限られているからこそ形になる。その存在が複数にわたってゆくとき、アバウトにランダムに有機的に響き合って運命的なものとして幾重にも重なる曼陀羅を描く解放のエナジイが豊穣の構造。

だとしたら、それは裏返してみれば、ひとつの物語に囚われた瞬間、呪いの構造としても機能するものである、ということなのだ。

……というような構造をぼんやりと考えているんであるよ。

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今朝の朝焼け。この季節空がとても美しい。毎夜の壮麗なオライオン。