酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「アフターダーク」村上春樹

さて。 

毎朝悪夢と絶望の中に目覚め、少しずつ少しずつその日生きるための燃料を取り入れて辛うじてその日その日の平常心を己の中に育て直してゆく。朝の透明な空から、清浄な空気から、日々の暮らしに伴うルーティン、その動きからその中にひらけてゆく風景から。今まで生きてきた中の風景と現在が繋がる物語を取り戻し日々を救われてゆく。とにかく、今日のこの日だけを精一杯動き生きることだ。

そのことに関して自分の中にコーンと合致した論理を発見したのが、読了したばかりの春樹長編「アフターダーク」の中に出てくるラブホテル「アルファヴィル」(いうまでもなくゴダールの映画から来ている名称である。ムーンライダーズの歌にもあるよね。)の店員の言葉である。この長編は実は未読だったのだ。

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最初の一行から開かれるのは、ちょっとびっくりする文体。今までの春樹になかったものだ。非常に冒険的な、実験映画のような特殊な手法で描かれる文体による風景。

淡々と静かなナレーションに重ねられる断片的な風景の重なりのようなシーンが次々と展開してゆく。

意図的戦略的な映画的味わいのその展開が醸し出す、観客としての読者に対して示されるカメラ視線意識。その特殊な視点の描き方は、我々の視点はカメラである、映画的手法である、と絶えず明言し続ける。不思議な味わいだ。なんというか、登場人物たちの物語、心理状態になるべく寄り添わない、距離感を出そうとしている、というか。小説として実験的な手法である。

言うなればそれは物語の「意味の連なり」よりも、無意味なままの「映像の連なり」、そのイメージの連想、その視覚的な連なりをより重視したものである。

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深夜のファミリーレストランで時間をつぶす浅井マリのシーンから、彼女を核に据え、作品は展開する

東京の裏側、闇の世界の側、彼女をめぐる、アンダーグラウンドな世界にうごめく人の心の闇の側で、そのながい非日常的な一晩の出来事が重なるように記述された奇妙な文体の長編である。

アフターダーク」は作中に登場する曲名でもあり、ラストシーン、闇夜の明けてゆく朝のイメージに連動したダブルミーニング、春樹が好んで使う技法だ。ダブルミーニング、あるいは多重の意味の振幅の中に示されるメタファーやアフォリズム

夜の街の闇世界の中、昼間の社会論理枠から外れ、それぞれの登場人物がそこからはみ出た個としての己の内面に目を向けて語りだす。その非日常的にシーンの断片的な連なりの中で語られる人々のそれぞれの人生。その重みを抱えたところから生まれてくるそれぞれの思いや考えはそれぞれが皆固有のしんとしたいたましい重みをもって心を打つ。

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就中、今、私には「ふつうのOL」の道を踏み外し、法に守られない闇世界に堕ち、おそらくはヤクザ的な闇世界の暴力から逃げ回りながら生きているラブホテルの若い女店員コオロギの科白が非常に印象的で忘れられない。

冒頭の私の日々に響き合ったことば、その論理のことだ。いやむしろ、論理以前の意味のうごめき、阿頼耶識にうごめく意味の戯れのなかに頭をもたげようとして胎動するもの。私はここに何かをつかみそうになっている。

…彼女、コオロギ(仮名)は若い学生の浅井マリと人生のさまざまについてそれぞれの考えを語り合う。

「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくもんなんやないのかな。その記憶が現実的に生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。(中略)それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役にたたんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」。

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大切なのはそれが「意味のなさ」からくるものだ、というところなのだ。

既にケガれた、穢された、損なわれた既存の物語を拒否したところからだけやってくる祝祭としての無意味の炎。それはそれらの記憶の風景はしかしひとつひとつが個の抱える唯一の自分だけのアイデンティティの元手なのだ。ひたすらただ貴重な燃料として燃やされ、今まで己が、個の存在した証明を守りながらその日を新しく生きる糧となる。己が存在した証拠、己の心の自由、己の記憶。

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闇と暴力とひっそりした優しさの世界。ダークナイト。そしてラストシーンにやってくるアフターダーク、可能性、望まれる新しい光の朝、生きた物語、新しいイマここの存在、生命。

大雑把なこの物語の構造はこういうものではある。よく言われる物語の定型、簡単に言ってしまえばそれは死と再生の物語でもあるし解体と再構築の物語でもある。

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フリーターでバンドマン、トロンボーンを吹いている高橋もマリとこころを惹きつけあう不思議な主人公のひとりだ。この運命の一夜は彼らの一生を決める恋愛への将来を決定づける。近い将来音楽をあきらめ、法律家を目指そうとする高橋はマリにその道へ進もうとする動機を語る。その鋭い感受性からくる論理以前の論理へのセンスがいかにも音楽家である所以らし過ぎて笑えてしまう。

彼の語る国家や法、裁判にまつわる闇と「ぬめぬめしたタコの触手のような」暴力と権力に繋がる集合的な顔のない闇。その権力が法の論理から一歩を踏み外した個人を「裁く」ことに際して麻痺してはならない感覚について彼は語り、だからこそ法律家を目指すのだという。

或いはそれは加害の側にある、闇世界に身を堕とさざるを得なかった弱者に対し、どうしようもなく己の内側に抱えられた欲望、理不尽と暴力を加え続けるコンピュータエンジニア白川の端正な暮らしぶり、その、隙がないながら無個性な容姿の顔のなさ、匿名性の中に体現されているのかもしれない。

中国から身売りしてきた無力な少女の売春婦を買い、欲望のままに無力な彼女を殴打し身ぐるみをはぎ裸にしたうえで携帯電話も所持金もなにもかも取り上げてそのまま逃げるような男。昼間は妻と穏やかに普通に暮らす優秀なエンジニア、己の闇の側を隠蔽し、法と権力にまもられるテクニックを身につけた一般市民である。

彼はねじまき鳥のワタヤノボルだ。表の仮面と無間の闇に繋がる内面。個を持たぬ無名性、顔のないぬめぬめとした欲望、権力、暴力の側に属する、そのためのシステマティックな動き。

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コオロギの言う、記憶の、意味のなさを燃料とし生きている、このメッセージの無意味さからふつふつと湧き上がってくる「意味の意味」。都市の姿、その中にうごめく群衆としての人間、個人としての人間のカメラ・パンによる自在な視点の移り変わりが見事に面白い。

意味とはどこにある?

ここで、都市に蠢くたくさんの人々の物語は教訓や意味を素材のまま投げ出され、ただ登場人物や読者の問いかえし問い直しが強いられ続ける、繰り返され続ける。

大切な唯一のもの、意味を、大切なものをそこから己のちからで紡ぎ出す新たな朝、新たな物語のために汲み上げてゆく胎動という物語力。(読者に対してな。)

浅井マリは、成長過程における家庭環境に於いて積み重ねられたコンプレックスによってねじれた関係に陥り、心に壁を築き合い、その孤独の心の闇に打ち沈むようになってひたすら眠り続ける姉との確執を、彼女との心の通った瞬間の記憶を、そのあたたかい熱をよみがえらせることによって「読み替える」力を得る。

まっさらな新しい朝の光、再生としての目覚めと大切なものを関係性の中に新しく築きあげようとする記憶という燃料の力。無意味から意味をつかみだすのは、己を確立し築きあげようとするのは、それを可能とするのは、世界との個的なかかわりにおける、その個的な祈りと意志、その恣意による。(そして、おそらく、愛。男女に象徴されるものであってもよいが、本当は世界存在との関係性、その在り方、あらゆる意味での、愛、或いは、誇り。)

…今きれいな論理構造を語ることはできないが、この感覚は宮澤賢治の心象スケッチの中で幾度も繰り返される「すべてさびしさと悲傷とを焚いてひとは透明な軌道をすすむ 」イメージを私はどうしても思い出すのだ。

ひとが、個人が、現実の日々を生きる、動く糧となるものを自覚すること、それは、現実の外側にある世界の透明な軌道を進んでいることと重なるのだという二重の感覚。

他の春樹作品に比べ、壮大で強固なテーマや物語性を構築していないように見えるこの手法で描かれる間奏曲のようなこの作品、こんなにおもしろいとは。……他の作品との響き合いでこの作品を孕んだ春樹世界は曼陀羅模様のようにインドラの網を構築し無数の意味は響き合い明滅し読者をどこからかどこかへと開放する。

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さてさて、ぢみぢみ地味地味と続けてきた我が半生を振り返るような意味合いを孕んだ絶賛春樹読み返し大会も終盤(長編だけだが)、いよいよ当時、我が春樹読者体験史上最大の駄作と思われた騎士団長行くかなあ…海辺のカフカみたいに新しく深く面白く読めるようになっている可能性はもしかして高いかもしれない。

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黎明の荘厳、日の出前、冷え込み厳しすぎるけど何物にも代えがたい。美しいとはどういうことなのかきゃべつ刻んだりしながら私は考えるのだ。美とは救済である、と。