酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん 終章

なんかあれこれあってしばらく離れてたらよくわかんなくなって飽きちゃって書いてて面白くなくなっちゃったんだけど、とりあえずせっかく書いておいたものだしそのときのやりたい放題思いついたままの無茶苦茶メモのままこれでひとまず区切り線、栗子さんモンブラン狂騒曲。

いやあ最近の日々のあれこれは激しくて疲れちゃって脳細胞痺れちゃって慢性疲労頭痛胃痛のレヴェルアップにまけて日常生活でも顔に死相は現れるし転ぶし落とすしココアこぼすしなんかもうダメなのよオレ。

ということで深夜泥酔のままアップ。
(あんまりひどい間違い矛盾はこそこそ直していくかもしれません。)

 

 ***

その年のモンブランへの挑戦において本当は一体何が栗子さんに起こっていたのか。

…ここで繰り返し繰り返し挑戦し続ける彼女を襲ったのは、実はその度に繰り返された失望であったのだ。

チガウコレジャナイ。

その失望とは、寧ろ既に永遠にこの希望は叶わないという確信を伴った絶望であった。

…それは口に入れた途端襲ってくることもあったし、一瞬閃いた一筋の光のような希望の後の激しいショックにも似た味覚が感ずる違和感、そして次の瞬間の絶望の感覚であることも多かった。

 *** *** ***

2017年、降り落ちてきた天啓による栗子さんのモンブラン行脚は、各店一斉に限定モンブランを開始する9月中旬に始まった。

栗子さんは、それを人生の初期の輝きを再び得るための儀式だと思っていた。
そして考えた。最初が肝心である。

己の人生のトータルな救済のために芽生えたこのほのかな光明を、うっかり出だしで躓いたりして再び失うわけにはいかない。吟味されない適当なところで精一杯の努力と覚悟なく入手された滅多なモンブランで失敗するわけにはいかない。相応の手続きが必要なのだ。

研究に研究を重ねたのちに選ばれたスタート地点は、食べログ評価東京一との評判、しかもご近所中央線西荻窪の行列必須の数量限定モンブラン。これぞ運命である。他の選択はありえないように思われた。そう、そのように信じなくてはならない。信じる者は救われる。運命は、啓示は、それを信じることによって運命と啓示である。

初秋のある日曜日、きらきらと夏の名残の光のこぼれるインディアン・サマー。陽射しまばゆい美しい朝であった。ああ、今日だ。目覚めた瞬間栗子さんはそう思った。

電車に乗る。幻想四次鉄道TOKYO・中央線。異なる次元へつながる鉄道。どこかで境界を越え、結界を超え、懐かしい見知らぬ街の駅に立つ。そっと懐かしい街の愛らしい洋菓子屋の前で行列の最後尾に立つ。

約一時間後、彼女は高鳴る胸を押さえ、宝石箱のようにケーキの箱を捧げ持ち、ふわふわとした心もとない足取りで帰宅の途についていた。手が震えるような興奮である。眺めて夢見るだけの異次元に属するイデアが今結界を超え、この手の中にあり、己がまたそのイデアにつながる存在として生まれ変わる。今、その驚天動地天地鳴動の前にある。栗子さん的に。

ザ・ミッション。大切な儀礼である。味わう前に心を鎮め平らかな落ち着きで臨まなくてはならない。みそぎを終え、読書をする。

午後のあたたかい珈琲タイム。
穏やかな日曜昼下がり。とっておきの美しいケーキ皿、金色のフォーク。もう後には引けない。最初に禁を破るかのごとき処女航海、そのエクスタシーを存分に味わいながら最初のひと口を運ぶ。ああ、もういい。もうここまでで十分だ、という気もした。

ふわり。「おッ?」
一瞬、狂おしいほとの期待と喜びに瞳が輝く。ラムだろうか、洒落た優しい洋酒の風味、ヴァニラ、ふんわり軽く甘い上等のミルク、クリームの風味が懐かしい官能をかすった。優れたパティシエの魂のエッセンスを感じた。

…だが、次の瞬間がっつりとやってきたのは、その洋菓子の味覚の全容。その衝撃をまともに食らったダメージはあまりにも大きかった。そう、ダメージ。栗子さんの無防備な味覚は、その味蕾は、衝撃的なその未曾有の爆撃弾連続掃射によって殲滅された。一気に奈落の底へ。洋菓子そのものへの拒絶反応である。異様に肥大した脂肪分の旨みと鋭く突出した砂糖による甘み。他の繊細にして美麗なる官能の芸術としての美点を全てをぶっ飛ばすその破壊力。

その味わいとは間違いなく本来の人間のキャパシティを越えたものであった。一瞬何が起こったがわからなくなる過剰な味覚刺激。その激越な甘さ、ごってりとまといつくクリームの臭みとしつっこさの猛烈ぶり。大脳前頭葉の理解のキャパシティを越えて振り切られるメーター、人間による文化としての味覚刺激物。作られたもの。これは被造物としての人間の食すべきものではない。神のたもうた恩寵ではないところからくるもの。人間が魂と官能の喜びという尊い賜りものを冒涜しつくしたあげく知恵と祈りの栄光を自ら創造しようとした結果の芸術というかなしい罪業。似て非なるミメーシス。甘く優しい無垢なエデンの恩寵は、薄皮一枚間違った時空で、人類を地獄絵図の滅亡に導くものとなる。天使が薄皮一枚の違いで悪魔となったように。

間違っているのは私ではなく世界の方だ、と栗子さんは断定した。

こんなものに耽溺していては世界はどんどん間違ってゆく。途上国は搾取され先進諸国では心身が病まれ医療費はうなぎのぼり、戦争が起こり天変地異が発動され、人類は愚かしい種としての成人病(生活習慣病)で滅びることになるだろう。そしてそれは世界自体にあらかじめ内包されたプログラムによる宿命なのだろう。

 

***以下、ちいと脱線。読み飛ばし推奨メモ***

食べる、という行為は、呼吸と並び、世界と自分との関係性のかたちを優れて端的に示し出す行動である。

すなわち、交換、交感。

己の内側に外部の世界を取り込む行為は外部を内部に呼び込むと同時に内部に入り込んだ外部はその内部を外部の一部とすることをも意味する。取り込み、排出する。呼吸する。

ここで己はその有形無形の化学反応の行われる現場、その現象の過程に過ぎない。また世界のパーツである。外部と内部を交換しつつ分裂増殖破壊を続けエネルギーを発生させる現場としての細胞体であることを示しだしている。自我の枠組みの堅牢性は全く意味を持たない。

従ってそれに対する仮主体としてのスタイルがすなわち個としての世界との関わり方の認識スタイルを示すものである。要するに個としての己と全体との関わりを規定する認識であるということができるのだ。それは身体性、体感としてのリアリティからくる構造の論理である。

食べるもの(外部・全体性)が己に取り込まれ(内部・個)やがてはそのもの自身となってゆく、という生物学的な身体的な構造を、精神および概念、存在そのものへあてはめた適用、応用である。

例えばそれは、食べ物に対する認識としてまず浮かんでくるものが料理名という概念であるか、コンビニ・フードの概念であるか、食堂や料亭のイメージであるか、はたまた記憶の中の食事シーン、お母さんの味噌汁の味的なイメージであるか、その基準がその人の世界との関りをひとつ象徴する基準でありうるという考えである。

己が世界をどのようなかたちで認識しているか、という問題は、とりもなおさず己が己自身をどうカテゴライズされる人間として規定しているか、という問題なのである。

素材ではなく料理名で食べ物を認識するのなら、世界を素のかたちではなくより限定されたある一定の文化圏において成り立っている世界の概念、規定され名付けられた意味の物語で構築された物語内での意味で認識していることを示しているし、コンビニ文化内での認識もしかり。双方、鮭があの生物としての魚の形ではなくバタ焼や塩焼きやおにぎり、つまり命の連鎖から切り離された食材としてのパック詰めされた切り身としてのイメージしか持たないものであり、後者は特におにぎりや瓶詰フレークのブランド名、商品名による味の評価、経済流通の中での資源の意味合いの強いものとしてしかとらえられないものであることを示す。己がパーツである世界をそう位置付けるなら、己の価値もまたしかり。その価値観の中で位置づけられるものとなる。例えば生物としての人間或いは生活するものとしての人間、というよりはそこから遊離した貨幣価値の中、限られた文化圏(例えば因習、国家)としての社会制度の中に組み込まれた、文化的なるものとして価値づけられ存在するモノである、と。例えば有産者階級、無産者階級、あるいはお上と下々という上下関係、カーストみたいな。…人間としての価値がソレなのだ。知性でも人間性でもなく、身分で貴賤が決まる。汚らわしい生まれ、尊い生まれ。社会制度においてどのパーツを請け負っているかによって己を価値づけることになる。光と風と四季の美しさと己との呼応、星空と秩序と己の内部の道徳律の共振、生まれ育てられた愛情、生命のつながり、連鎖、感謝や祈り、他のすべての世界の美しさの価値とは切り離されてしまう。計算できないところにある別体系にある価値とは。(それらはすべて呼吸する大気、食する食べ物ともつながっているのだから。)

認識イメージがこれらに偏重した場合には、金を払って購入したものをどう扱おうと自由であり、生命や労働への感謝やいただきますという畏敬や礼儀も必要ではなく、不味さを罵倒し踏みつけて捨てても何ら良心に恥じることもなく倫理的不都合もない、ということになる。(なりがちな可能性を持つ。)さらにそれを贖う資本力をもたぬ者はその社会の中では人間としての価値もない、と。

食べる、着る、住むという基本的な「衣・食・住」が、あたたかな生命の通った基礎としての意味よりもむしろ社会的な立場、身分を象徴する意味合いを濃くしていった文化が飲食店に対する虚栄を孕んだスタイルであろう。そこではより一層生活という基盤からは遊離したものとなってゆく。一流店に行った、ミシュラン五つ星に行った、SNSでそれを吹聴して喜ぶ、あるいは吹聴していると言って蔑む。いい店を知っていると自慢する。そのセンスを持っていると自慢する。

自慢のしあいっこはいい。前向きだし楽しい。だけどさ、マウンティングとか貶め合いっこになってくるとねえ、ちいと参っちゃうんだよな。疑心暗鬼のスパイラル。なんかどうしても大切なとこ忘れすぎてるよな気がしてして疲れる。命をつなぐための食が文化に偏重しうっかり命や喜びから遊離していった結果、逆に最も大切なものを損なう構造を持つに至ってゆくことを思う。何のための国家か何のための文化か何のための制度か、なんのための愛国か。(そして問いは浮かぶ。なんのための美学なのか?)

とにもかくにも良くも悪くも、そういう人たちは、人の間の物語の中に生きている。それは男性原理的なるものに重なる度合いが高い。すなわち、社会的に生きている、より強く社会的生物としての人間である、という気がする。逆に、まったくそういう方面に注意を払わなすぎると社会不適合人間となる傾向が強くなるってことなんだがね。

モンブランで言えば、芸術としての洗練を尊ぶか、素材としての栗の風味を尊ぶか、というようなレヴェルの話である。栗子さんは栗風味のケーキではなくケーキ向けアレンジを施した栗、その素材の洗練というレベルを求めた。チガウコレジャナイ、は、イデアと具体とのズレでもあるが、多分にその要素も強い。社会不適合側に近いわけですな。

…まあね、理想は双方のバランス或いは融合。…平たく言えば好みである、というだけの話だが、ここでは単に偏重傾向のことを言っているのだ。

***閑話休題***

 

…ということで、苦痛であった。現存するモンブランは、夢のように思い描いたかつてのモンブラン、既にイデアの領域に投げ上げられたあの幸福なモンブランとは似て非なるもの、まったく非なるものとしてそれはそこに存在していたのである。

失われた楽園とはもう二度と取り戻せないものであるからそう呼ばれるのだということを彼女は知った。純粋な消費の楽園には戻れない。

そう、もう己はここに生きてはいないのだ。今ここにあるのは現在だけ。
現在するモンブランのことを実は既に愛することはできないのだ。感知しその味覚を分析評価することはできても、それは概念である。対象と一体となった官能の中に埋没し忘我恍惚となり三昧境に至る道筋は最早彼女のものではない。遠い記憶の、懐かしくかなしい、あの世界と一体化した生への憧れとして、その感覚は遠い春の日の記憶が淡くかすむようにほのかに輝いていた。

モンブラン

けれどそれでもそれは唯一の救済の道であった。
永遠に失われているからこそ、決して取り戻せないものであるからこそ、終わったもののもつ生きた物語のリアルがそこには逆説的に永遠として生きることができる。概念がその憧れでもって囲い込みその輪郭をこねあげ創造するものである真実。

栗子さんはそして今なお己のモンブラン道をひたとみつめていた。
その道の向こう側を見つめていた。あれは決して失われてはいない、というその論理の矛盾が矛盾でなくなるどこにもないその場所の存在を彼女は確かに確信していた。

牢獄からの救済の道であるであるところ。この世の生の牢獄からの、唯一の。トラップにあふれた細い細いかそけきその道の向こう側のイデアを。

そのときはじめて彼女は悟ったのかもしれない。人生の終わろうとするこの時期になってもたらされた、あの優しい春の陽射しのあの高いところから降りこぼれるようにしてやってきたモンブランの啓示の理由を。その必然、その意味を。

 *** *** ***

その秋冬、彼女は彷徨し続けた。名店と呼ばれる店を探し求め、週末ごとに淡い期待をこめた挑戦は続けられた。幾度でも幾度でも裏切られ続けた。期待と失望を繰り返し、その度に心挫け、もうあきらめようと思いながらも彼女はその冬、虚しく報われない努力を続けた。そして彼女はその徒労のプロセス全てをあらかじめ知っていたのである。

それでも。
それでも、もう一度、あの片鱗を、どこかこの風味を感ずる己の楽園の場所を、その存在の確信を得なければならなかった。手立てはこの虚しく繰り返される徒労を繰り返す以外にはなかった。

たしかに、この向こう側にかすかな記憶が呼び覚まされる思いはあったのだ。それを探りながら繰り返すことによって、個々のモンブラン体験、その個々性を奪われた向こう側に形成される抽象としてのイデアモンブランがある。それはイデアであることによって失われた過去を現在と未来に永遠に生きさせるものとなる。

誤解のないように言っておこう。個々のモンブランはそれとしては各々それぞれ素晴らしい味わいの優れた芸術品であり、現在を生きる人々の心身の幸福、喜びを生み出すことのできる品々であった。ただ、栗子さんが求めるものはそれではなかったというだけの話である。求めても得られないものを彼女は求め続けていた。求めても求めても決して与えられ満たされることのない永遠の空腹。

年は明け、光の春。凍るような空気の中に明るい光だけがまばゆい如月であった。
栗子さんはとぼとぼと寂しい街を歩いていた。凍えていた。空腹であった。頭痛と憂鬱と寂しさに閉じ込められたひとつの修羅が光の世界の気圏の底を澱みながら動いていた。

寒さと寂しさは耐えがたい。
コンビニエンス・ストアに入り込む。明るい人工の町の物語。マシンの注ぎだす熱い珈琲で手を暖める。

少しほっとする。瞳を上げ、ふと見上げる空が光る。
まばゆい。また春が来るのだ。

栗子さんは瞬きをした。何かが視界に飛び込んできたのだ。光の粉。同時に、胸の底を掠めた懐かしさに似たもの、艶めかしい光の擦過。

そのとき、突如己の中に何かが閃き目覚めるのを感じた。降り積もっていたもの。

それは荒々しく激しい欲望であった。それは寒空の下、血管を駆け巡り魂まで熱く満たした一杯の熱いコンビニ・コーヒーの魔法のせいかもしれないし、奇しくもその瞬間通りがかった洋菓子屋の窓の中に素晴らしく美しいモンブランを楽しげに食するご婦人方を目撃したせいかもしれない。

欲望。渇望。
今必要なモンブラン

それは今回のモンブラン行脚の中で一番だと認定した目白エーグルドゥースの柔らかく洗練された甘い夢ではなく、西荻窪アテスウェイの少々の主張と意地を密やかに示したあれでもなく、ピエールエルメの前衛を感じさせるとんがった芸術でもなく、力業なホテルニューオータニスーパーモンブランでも、素朴さのバランスを追求した中野ラブリコチエのものでもなく、素材ガッツリの三鷹の究極のモンブランでもなく、また菓子屋の洗練を栗という独自性ではないところに求めた類の基礎的素材上質さをもつ誇り高き吉祥寺レピキュリアンのものでもなかった。(ジャンポールエヴァンはここに属する。)

それは、理想のモンブランでなくてはならなかった。イデアとしてのモンブラン
銀座で一番うまいと豪語して見せる老舗みゆき館のどっしりとしたあの重ねた歴史の風格、その誇り、モンブランの権威の論理にも取り込まれえない、けれどそのすべてを包含した、その外側に位置する絶対の幸福としてのモンブランでなくてはならなかった。過去のすべての幸福を連ね統合凝縮した虚構にも似た真理のモンブラン

決して得られないそのモンブランのことを考えながら、満たされ得ない飢えのことを思いながら、栗子さんは突然「幸福になった」。柔らかく優しく寂しく甘い光によって心がいっぱいに満たされていた。

矛盾である。だがそれは確かにそのとき永遠の現在としてまた儚いひとときの現在として同時に成立していた。栗子さんは、既に得ていた。

…欲望さえあれば人は生きられる、欲望の持つダイナミクスこそが未来を拓く希望と光に満ちた幸福を開く力なのだ。イデアを希求する心がイデアをあらしめる力なのだ。たとえそれが決して得られないロマンティック・イロニイだとしても。

それを或いは単に夢見る力と呼んでもいいだろう。生きる力とはすなわち夢見る力である、と。痛ましい残酷さをまるごとその輝きの中にのみこみつくし、至高は、至福はただそのままにつよく輝く。

そして幸福とは、自分を幸福にしてくれるもののことをよりしっかりと抱きしめられる時空が次々と開かれてゆく現象を生み出す力の別名である。それは世界を読み変える、染めかえる力であるから。

巻きなおされ読み直される時間。概念と記憶、欲望と幸福の理論から成る物語界に存在しながら生きるための切符を得る。

 *** *** ***

…そう、栗子さんはただもう、何もかもから逃げたかったのだ。この限られた風景から、閉ざされた未来から。この家からもこの自分からも、あの場所からもこの場所からも、誰からも彼からも、何もかもから逃げ出して、この世界から逃れたかった。ずっと、ずっと。ずっと長い間。

理不尽な、この世界。己の存在にとって不都合な、己のありようが彼らにとって不都合であるという、この世界から。そして不都合と裏返しの欲望に縛り付けられている自分から。

更には、かつて己をあんなにも幸福にした物語の風景からすら。…ただ、だれでもないものになりたかった。愛や繋がり。夢見た幸福な風景からすら逃れたかった。

なぜ生まれたのかわからなかった。

だけど。
だけど、と栗子さんは呟く。

だけど、今、その過去に対し、ひとかけらの後悔もない、と。

ありがとうモンブラン
与えられた恩寵。

胸苦しくなるほどのがらんとした空虚、寂しい痛みを伴った終末感。そして何もかも忘れてゆく。誰でもなくなってゆく、至福だ、と栗子さんは思った。これ以上幸福な人間はいない、と思った。

だって、それでも自分の人生を自分は覚えている。そして少しもそれを否定する必要なく、ただ、そっと抱いていられる。

 *** *** ***

そして桜の舞い散る四月。
あちこちのモンブランももうおしまいである。

栗子さんはぼんやりと窓辺に座って桜吹雪を眺めていた。

この非日常的な淡い幸福感。もうなんの希望もないところにいるけど、春の陽射しの中、ただ世界がうらうらと美しく見えるとたゆとう光の色の中に思いだすことばかりだった。生まれてきてよかった、という言葉が浮かんできて、ありがたいことよなあと栗子さんはつぶやく。なんの意欲もなくて未来もなくても。

そして楽しかったこともかなしいこともその差異が峻別し難くなってくる、その距離の向こう側を眺めていた。

思い出のリアリティとは、ただ、存在というだけである。他の何もかもの雑物をそぎ落とされたピュアなもの。

ああ、存在だな、という、ただそれだけ。
それだけで、どうってことはない。それは意味でも無意味でもない。

だが。

世界が存在することそのものが、おもしろいなあ、おもしろかったなあ、と、理解し尽くせないけれど大好きな本を読みとくようにそれを眺めるということが栗子さんにはそのときできたのだ。わからない中にあわあわとしていて、恐怖や痛みの圧倒的な現実感が淡い概念と変わり、その多重の世界観のリアリティの中を純粋に遊ぶ。それがなんだか至福なのだ。世界の果て、世界の終わりの風景が広がっている。空と、海だけが見える。向こう側には、その至福感。

ひどく寂しいのだけれど、少しも寂しくない、それはただこころの静けさが多層に奏でられる場所。

鈴木慶一の歌を口ずさんだ。幸せの洪水。そのきらきらと輝くイメージを思い出す。なにもかも、間に合わない。幸せの洪水に飲み込まれる。流された愛の果てにいるのは砂の妖精。…そんな風景を描く歌を。「幸せ掴む手が沈む。愛してるっていっても間に合わない。君の右手を離さない♪」

小学校の校庭の桜がひかってはらはらと散っている。遠い記憶の風景が目の前の桜に重なってあるようで、なんとなく切ない。至福とはこの胸の痛みや悲しみがそのままがらんどうになって染め変えられたもののことをいう。

人生のはじめと終わりが近しく親しいものとして彼女の傍らに優しく寄り添っていた。

そしてね、うつくしい桜のひかりばかり見ているものだから、心がすっかり桜餅になってしまったので、それはやわらかな桜餅のように優しい終末であったのだよ。死後未生。

終わりであっても構わない。終わりを恐れず抱きしめながら、そのままもう少しだけ生きていることだろう。
春は何かが終わって、そうして始まる時期なのだ。


心を占める、桜餅とモンブランの映像。…もちろん、もはやさくらモンブランなんていう安易でラブリーで外道な商品に惑わされるような栗子さんではなかったのだけれど。

目の前の桜色の光と香りの中に、栗子さんはくすくすと笑っていた。間違ってないけど、やっぱりくだらないな、一生懸命考えてることが桜餅とモンブランだって。

ゆらゆらと桜色の木漏れ日が彼女を優しいまだらに染めていた。
だけどな、くだらないけど、だったら世の中にくだらなくないことなんかない。だから、その奥のどこかにまたまったく別の正しい欲望と希望が隠されているかもしれないさ。桜餅とモンブラン

 

…というような気もした。
ああ、くだらないな。幸せの、幸せの、洪水