酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

至福と哀しみ

晴れた夏の午後、晩夏の斜めの光、懐かしい、透き通った光の色。

正しい土曜の夢、再びそこに触れたかった。

現実とされる自我の牢獄の幻想から逃れ、繰り返し戻ることのできる場所、心の中の、魂のその深奥に仕舞い込んだ絶対の故郷へのアクセス法を確立したくて私はその場所へと出かけたのだ。全てが許され解放される場所、個を確立し、そして個が失われる、反転する臨界地点、そのアルケー

場所と風景の力は心の風景を染め変える力。願う場所への方法論、アクセスの成功率を上げていきたかった。魂の故郷、個の極まり個の果つるところ。死後未生と人は言う。

成功してよかった。何度でも失われる、けれど何度でも恐るべきリアリティで現在し開かれる。心の内側と外側双方に開かれるいみじいその時の永遠は決して失われない、損なわれない。

それは絶対の真理だから。
虚無だからこそ存在することができる、アクセスへの祈りというダイナミクスによってのみ創造することのできるすべての存在の空虚な臍。臍の緒は反転し全ての存在のマトリクスに通ずる。

いつもの明るい大きな窓のカフェ。
氷カラカラ、ひんやり香りのよい冷やし珈琲。府中の欅並木の木漏れ日がゆらゆら揺れる中で、記憶の扉のかたい鎖がゆっくりとほどかれてゆく。昔夢見たことや眺めた風景が私の内側から開かれてゆらゆらと外側に流れ出して広がり、私の思考を違う思考形態のものへと作り替える。それは例えばゆらゆら揺れる八つ目鰻的思考(春樹「シェヘラザード(女のいない男たち)」)。すべて事象は心の中にある。内側も外側もなく。善も悪も裁かれることなく。

曼荼羅世界が豊かに繰り広げられ、私の魂をアイデンティティという自我を遠く眺めるようにして保ちながらただ明滅し、社会的幻想の牢獄から解放し、幾つもの風景が幾重にも重なる多様な自分と世界の無限の豊かさの中に解き放つ。

ちらちらと青くあえかに明滅する有機交流電燈。
賢治の有機交流電燈の世界構造は主体と客体の区別を失った次元に於いて無限を孕んだ曼陀羅の網だ。

夕暮れの光の中を、痛む足の現実を遠く感じ、重なった夢の開放空間の二重の風景の光のひとときに酔い、その開かれた酔いの中にふわふわと歩く。春と修羅の二重の風景の、あの苦しみは反転しうるものなのだ。

夕暮れのほっとしたひとびとの街の空気、帰り道に寄る安らぎのくるみ色の光に包まれた大きな本屋。書物という沢山の世界のインデックスが限りなく並び、その内側の豊かさに私のちいさなまずしい意識は恍惚として崩壊し、内側を感じようとする心はその中でくるりと反転して外側に開かれてゆく。

涙が出るほどせつなくかなしく私は欲望した。その世界の美しい絵本を思うままに買い求め、そこに遊び、併設されたカフェの珈琲の香りと柔らかなステンドグラスに照らされた椅子に身を沈めてそれを広げ、そのままここではないどこかへ旅の空へ帰ってゆきたいと。

三好達治が「測量船」で身を沈めた「暗い旅籠の湯」、その小さな温泉宿の一室。万平ホテルの一室。「羊をめぐる冒険」の「いるかホテル」。どこでもドアがあることをうっとりと考えた。…そう、この感覚なのだ。決してかなわない夢、かなってしまっては失われる夢、この現実を歪める心の無力さと万能さというアンビヴァレンツに引き裂かれる恍惚。小さな自分、大きな世界。

物語をかきたい、読みたい。この時訪れるこの祈りを。

もしかして、と私は考える。「向こう側」に取られてしまう神隠しの現象、つまり「向こう側」に魅入られてしまう自我崩壊へのタナトスと言われる欲望とは、神の側、異界の側、死とカオスの領域に引きこまれる時の恍惚を意味するのではないかと。その瞬間とは、ただひたすらに自我から崩壊される解放、魂の故郷へかえってゆく優しい懐かしさの感覚であり、死の恐怖のない永遠の豊かな存在の生と同義であるのかもしれない。

ああ、死とはこういうものであらまほしき。森見登美彦の、あの世界。だが残されるものの痛みを描くことで文学はわからなさの深みにはまり、そのために個のかたちは…

幸福は概念ではない。
そう祈る心の形を探るために生きている。