酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ブラッドベリ「華氏451度」

寒さに滅されそうになりながらブラッドベリ華氏451度」に取り憑いている。
年末に火星年代記をレビュしたとき、こんな風に予告しちゃったしさ。

~さて次は「華氏451度」にいこうかな。「100分de名著」で一通りのあらすじや指南役の先生の解釈を聞いたけど、たぶんここで語りつくされていない豊潤な多面性としての詩情やテクスト、ブラッドベリすべての作品を貫くテーマが満たされて描かれているはずだ、と私は睨んでいる。~

…で、まあ予想通りである。

TVの方内容忘れちゃったので、100分d e名著録画再度視聴と、指南役の先生が採り上げたトリュフォー映画もついでに、原作比較対象しつつ三つを並行してぼちぼち。

ううむむむむ、比較対象するとそれぞれが深まる。様々の解釈の可能性が格段に深まるから。

そしてやはり、当たり前だけどすべてが汲みだされる源泉は原作なのだ、原作の中にすべてふくまれている。あるいは、すべての思考へと広がるためのトリガーとなっている。唯一の正解の読みなどない。そもそもテクストの中に作者の多面性と無限の曼陀羅宇宙がすべて封じ込められているのだから、読者との関係性の中、作者と読者が物語の現場を開き、スパークしたときにそこに読みだされる物語は多面と無限によって組成されることは道理であろう。

私は私の中で掴み取ったブラッドベリのイメージ、たんぽぽのお酒や火星年代記からその断片を汲みだした通奏低音のテーマ(前回のブログ記事で主張したやつ。ここです。)で掴みたいんだが、何か掴めそうで掴めなくてなかなか読み進められなかった。

それにしてもトリュフォー映画、さすがさすがのこのインテリアやファッションの秀逸さよ。これはまあ映画の力、なにしろ映画の強みはイメージの官能である。大切な文学的要素の、論理としての言語の豊潤さを敢えてそぎ落としながら、しかしまったく質の異なる豊潤さを孕んだ官能をそこに付与してゆく。

オマージュ、換骨奪胎、或いはオリジナルイマージュ。
ラストの解釈もクラリスの解釈もビーティの解釈も老婦人の解釈も、もちろん主人公の内面の解釈もすべてすべて違う。テーマは論点がずれ、わかりやすいエンタテイメントへの慮りの方向に絞られている。モンターグに引用される書物の一節の選択も意味が異なる。既にトリュフォーカラーの別物だ。

原作ではただ世界と遊びまわる無垢な17歳の少女で「狂気」として放任されていただけ、純粋な魂の象徴として儚く消えてゆく存在であったクラリスは、映画では20歳、寧ろ信念をもったグループに繋がる「オトナの女性」としてのイメージがつよく、最後までモンターグを導く役割をもったパートナ―、焚書社会の犠牲者として描かれる。

作中で引用される詩も、炎に焼かれる書物のなまなましいリアルなイメージのその選択もトリュフォーの恣意的なものだ。燃え上がるダリの絵や地下鉄のザジ掲載紙の映像があったりね。炎の官能の表現としては非常に優れているのかもしれない、と思う。(それにしても何しろけれど、あの焼かれる老婦人の書斎の風情には憧れる。欲しいなあ、あんな秘密の屋根裏書斎。豊かな世界の豊潤につながる秘密の屋根裏部屋。)

そして映画のラストシーン、ブックピープルが本の中身を呟きながら静かに行き来する林の風景は非常に奇妙だが魅惑的な幻想に満ちている。あのシーンにはさすがに感銘を受けた。

私は、原作のクラリスは寧ろあのラストシーン、ブックピープルの中の少年少女たちの中に読み込まれていたのではないかと思うのだ、あの映画の中では。無垢に真っ白に優しく灯る純粋な知の喜びという存在。

 *** *** ***

さて、原作から私がくみ取ったすべての作品の通奏低音としてのブラッドベリの「失楽園」や「永遠」のテーマである。私はこれを、次のようにモンターグの魂を打ち、その引用する詩の一節に込められていると考える。

燃え上がる焚書たちのすさまじい風景の中、モンターグが最初に書物の言葉に心を焼き付けられた重要なシーンだ。

「その場のあわただしさのうちに、モンターグはほんの一瞬、一行だけ読みとったが、つぎの瞬間には、赤熱した鋼塊のように、それがかれの心に、烙印となっておしつけられた。

~時は、午後の陽光のうちに、眠りに落ちた。

かれはその書物を、手から落とした。」

時を失い、記憶を失い(失わされ)、己も周囲の人々も、刹那を燃やしながら生きている虚しさと苦しみ、幸福の欠如の理由にはじめて気がつくシーンである。

その詩に表現された、眠りにつく「時」、その場からは失われ、かわりにテクストとして美しい午後の中の魂の中に永遠にしまいこまれた「時」のイメージは、「時間」の意味を、その豊潤の意味を、テキストに秘めて封じ込め、心によみがえらせることを可能とする己の人生の意味を取り戻すよすがなのだ。

そして、「記憶」「記録」の意味は、次に述べるこの作品の中で私の一番好きな場面、(あきらかにたんぽぽのお酒や火星年代記の中に示されたものと同じ)一番切なく美しい少年時代への永遠の追慕のイメージの中にこめられている。

モンターグがビーティを焼き殺した後、警察犬、そして社会組織全体から追われながらの孤独な逃避行のシーンである。暗闇の中で川に飛び込んだ後、暗黒の中、仰向けになって流されながら彼はあたりの風景を己の幻想的な内面に重ねながら不思議に優しい川の流れの中で内面的な思考の中に入り込む。

生まれて初めてのすべてからの解放と平和の感覚、個としての存在の充足感、世界の豊潤なうつくしさ、そして考えるための時間。
「心臓の鼓動がおさまってゆくのに、耳をすませた。思考は、血液といっしょに、泡立ちながら駆けめぐるのをやめた。」

穏やかな深い思考。彼は燃やすことの官能と恐ろしさ、そして時間の意味を考える。太陽が燃やす時間。月が照らし残す時間。太陽に燃やさなければ時は動かない、宇宙の運行は成り立たないが、その刻々と燃やされ美しく恍惚と燃え上がり失われ続ける「時」は、月の光と心の深奥を暖めるぬくもりとなって人々の魂のうちに残され記録され記憶され、そこで永遠となって受け継がれることができる。

そこに、常にこの作品のなかに強調され続けた「両義」がある。
ビーティの知の深さ、その思いの重さとそこへの反動的な恐怖と敵意。(彼は知の敵であるが、知の守人フェイバーと表裏をなす同一の存在だ。)彼の内面に秘められた受動的自殺への願望。彼はフェイバーやモンターグの最大の友人であり最大の敵であった。

そして、妻やその友人たちの隠された魂の苦しみと、その刺激と享楽でのごまかし。忘却と常に新しくなる刺激、悩みも苦しみも悲しみも深みも愛も救済も、面倒な思考は不幸な少数派に属するものとして一切消去し、すべて強烈な笑いや刺激で燃やし尽くす多数派の論理、その社会システムに個々の魂の記憶を受け渡していった人々の内面に鬱積してゆく歪みと苦しみ。

彼は、この川の中の思考シーンで、初めて社会によって燃やされ続け、失われた己の全体性に気がつき、取り戻し、大きな世界に「参加する」。一体化する。個として成り立ち、同時に他者と外界に開かれる。思考によって、積み上げられた知によって。

この後、モンターグは岸辺を這い上ることになるが、その前に、まずそのシーンを想像する長いくだりがはいる。

描かれた詩や物語のように彼は自分の物語を再生させる。
そこに見出す風景は、彼の魂の故郷であった。

そしてそれは、まさに「たんぽぽのお酒」で描かれた少年時代のあの風景、その田園の夏の幸福のイメージだったのだ。

幼いころ訪れた農場の記憶。干し草の匂いの中で眠り、獣や虫や木々の様子、そのざわめきに耳を澄ませていた。彼の幼い心にやきつけられたそのときの記憶は想像の中で豊穣な幻想を描く。うつくしい娘がクラリスのイメージを重ねてあらわれる。彼女は月光に輝き、その光に白く洗われた二階の窓辺の部屋で髪を編む。優しい川の水の中で仰向けに浮かび流れながら、微笑み、彼は考える。安らかな田舎風景の、優しい干し草の眠りのあと、彼のために用意される新鮮な牛乳のはいったつめたいガラスびん、いくつかのリンゴと梨。

その幻想の重なる世界を魂に照らしながら、クラリスの世界、今自分はクラリスのたどった道を辿っているのだ、と、目を開き、岸に這い上り、物語に照らし出された現実を歩きながら彼は確信するのだ。

で、その精神的革命、世界の書き換えの後出会うのが映画でのブックピープル、知と記憶と書物を残そうとする人々の共同体なのである。

 *** *** ***

この先の怒涛の展開、戦争による社会の滅亡、死と再生、フェニックスのイメージは、賛否が分かれるところのようだ。100分de名著の指南役の先生は、「再生」は古いシステム、人々の滅亡、自滅、破壊でなく、啓蒙でシメるべきであるという。

まあねえ、これはブラッドベリの滅びの美学みたいなのがあるから。

それもそうだしあれもそうだ。
あえてその蛇足的なラストを切り落とした映画が正解なのかもしれない。

まあね、再生の方法論は、読者のゆだねられていると考えることもできる。
我々自身のイマの選び方もまたこの作品によって思想的に深めることができる。救済の方法を。

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