酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

通俗とアカデミズム(100分de名著ヘミングウェイメモ)

最近M子とよく話す。

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100分de名著、ヘミングウェイスペシャル録画視聴了。回によってのあれこれの視点は散らばって、私の興味はそのあれこれに当たったりはずれたり。とりあえずすべての箇所につかみ取るものはある、などとひとまず思った。

…そうしてその夜、さまざまの概念が変幻自在にあでやかな蝶のように飛び回る夢を見た。

これはそうだ、アレだ。

あたかも「様々なる意匠」(小林秀雄)という言葉のような色彩で。

つかみとった断片的な概念、その思考の入り口の蝶の羽のようなひらひらした断片は、世界に豊かな彩、魂を震わせる芳醇、豊潤さをもたらし、そうしてその風景は私の心を潤した。夢の中で私はただその喜ばしさに見惚れ、艶やかに舞う概念たちとともにゆらゆらと遊んだ。世界を含んだり含まれたりしながら無心に遊んだ。

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夢から覚めたら苦しみと歓びの中で私は言葉と闘うようにしなければならないけれど、本当はただ遊んでいるのだ、と思った。切り落としそぎ落とし残りのすべてを失うことで得るたったひとつのげんじつの「形」としてのひとつの言葉或いはその喪失にまとわりつく逆説的な無限の概念、それは、その向こう側に無限の夢があることをいつでも感じるための「扉」なのだ。ことばの本質とはいつもその矛盾のダイナミクスの無形の中にのみ存在する。

これは虚無としての「真理」と同じ構造なのだ。

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今日のメモ

キャンディ・キャンディ王家の紋章ガラスの仮面なんかの少女漫画の王道或いは物語の王道、その「俗」について。話し合った、話し合った。古くは源氏物語からシェイクスピアからすべての俗の系譜。

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さて、前述の100分de名著である。
第四回。

「移動祝祭日」を採り上げた、若き日のヘミングウェイのパリで日々を創作を交えつつ作品にまとめ上げたものだ。

これは、彼の作家術伝授の書と言ってもよい一作だという。

ここで私のアンテナに引っかかったのは、彼の作品アイデアのあたためかた。物語の先を思いついたとき敢えて中断しあたためる。「そのとき敢えて読む本」の話について。

(敢えて軽いものを読むのだそうだ。)(己の魂のモチーフの文学性がかき乱されないレヴェルの「楽しく読める」軽いもの。)

で、考えたのだ。YAや流行作家の本の読み方について。

そのアカデミックなジャンルとされる「文学」的なるものとの面白さの境目、その違い。
知性への栄養の違い。

思考に、思想に、精神とそして魂に、骨と筋肉を鍛える歯ごたえを与える味わいの深みに至る、ときに苦痛を伴う難解さを孕んだおいしさと、柔らかく甘く滋養に飛んだすうっと消化の良い蕩けるような快楽を与えるおいしさの、文学・物語という「知」の面白さの違いについてね。

言葉を用いたものすべては文学である。もちろん純粋な直線や純粋な大人が存在しないように、通俗小説と純文学という純粋なジャンルの概念は仮定された分類法であり、存在しないイデアである。

だが仮定されたその両極からのグラデーションにすべて文学は解釈の余地を残しながら便宜上分類されうる。

物語としてのわくわくする普遍的な面白さと、そこに響く個の魂の音がどのように響き合うものであるのか。どこまで既成の物語に依拠し、そこから何かを汲み出だそうとしているのか。

「移動祝祭日」の概念にもじいんときた。若き日の、未来と可能性と野望に輝いていたその時空を「祝祭日」とし、彼の中のそのパリの意味が「移動」と「日」という要素をひとつの言葉にあわせたところに込めた時空という概念は、間違いなく時間という概念を空間という意味的な概念に還元して意味時空を成立させているものだ。

(「移動祝祭日」はキリスト教の用語で、クリスマスのように日にちが特定されている祝日ではなく、その年の復活祭の日付に応じて移動する、キリスト昇天祭や精霊降臨祭などの祝日をいう。また一般的な比喩として、「どこにでもついてくる饗宴」という意味がある)

魂の深奥にいつでもその時空を保ち、いつどこにいても己の中から「現在させる」ことができる、そのかけがえのない己の生きた価値と証を見出すことで、個としての存在全体が肯定される、祝福と喜びに満たされることができる。個が個としての価値を、誰にも冒されることのない、己の一部として「その存在についてくる永遠の時空」として奉じるようにして保っている。そんな「祝祭」の時空だ。

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そして、さて例えば韓国ドラマの快楽。
(「建築学概論」観ちゃったんである。)
村上春樹を思い出した。その感情を揺さぶる琴線の、その類似と相違について。感情的に思い出す風景のカットバック、初恋の時代とその十五年後の二人の風景。感情の琴線を揺さぶるセンチメンタリズムの風景がよく似ている。

だが。
ほのかな切なさ甘酸っぱさほろ苦さを快楽としてそれを消費される「娯楽」ジャンルとして済ませるか、個がその底を深め貫き裏返り、ついには普遍の深さまで到達する文学の粋に達するものとするか。私はもにょもにょと考える。

そう、それは通俗といわゆる文学との境目について思考することであった。

それはヘミングウェイ冒頭の、個の人生をひとときかけがえなく輝かせた、魂の奥の誰にも穢されないその個であり普遍に繋がる「戸口・境界・結節点」的な構造を持つ個的歴史、絶対的幸福の時空の場所との関係性に関わっている。

(いつぞや、次のような養老さんのツイートがあった。…四次元的なインテグレードで裁かれるべきキリスト教最後の審判がそのようではない、ということへのその異論の語りのそれを私は思い出す。そして彼の考える四次元的なインテグレードによって裁かれるそれが西田の「永遠の現在」の時空につながるものであるということを。)

ヘミングウェイのように過去と未来の言語論理に惑わされず「現在を生きる」ことを選択することと同じ意味をもつこの「現在」の存在は、おそらく大江健三郎「燃え上がる緑の木」語り手サッチャンのように、概念として「信じ、祈り、そこで言い張るべき物語」の永遠を主張する語り手、作家の自負心と共通している。過去と未来を包括した現在は「永遠」を孕んでいるのだ。過去と未来を包括しながら消滅させる、インテグレードされた無限にして永遠の、「現在」。

信ずることによって真理も存在も、成る。
物語る、表現する、創造する、というのはそういうことなのだ。そして現実は芸術を模倣する。世界構造=認識構造が組み立てられる。数限りない曼陀羅の中から一瞬にして永遠に。

そうだ、それらは皆ただひとつの概念を言葉で語っているのだ。

ヘミングウェイが描くような物語、概念の激越さの中にある矛盾の中にしか生命を感じられないということはひとつの誇張ではあるかもしれないが、それは躍動する概念のカタマリを可視化し物語化する一つの手段である。個としての作者が読者としての普遍へと深化してゆくことは作者―読者の障壁を超え、ひとつの「物語の磁場」「語りの現場」を作り出す。そのような芸術の手法として。すなわち魂の救済の手法として。

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小林秀雄ゴッホの手紙」ぱらりと開いてみた頁。「感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を信ずるためには、書くという一種の労働がどうしても必要の様に思われてならない。」文庫p9

次の一文はまあ性分というか本人自覚してるものいいではあるけど、「書けない感動などというものは皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に思い込んで了って、どうにもならない。」人にはそれぞれの「信じ方」があるってことだよな、たぶん。それが書くことであれ、歌い踊り描くことであれひたすら幻想を描き続けることであれ。小林秀雄にとってそれが「書くこと」であったというだけのことだ。…ただ私はそこに激しく共感したのだ。

語るに足らない思いなどひとつもない。f:id:momong:20220107160035j:plain

散髪した帰り道、夕暮れ時の公園で、胸が苦しくなるほどの懐かしさと寂しさに似たうつくしい風景を見た気がした。芒と噴水のきらきら。