酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

三鷹にて、トポロジー。

トポロジーという言葉が脳内にこだますることがある。
(ロッテのチョコ菓子の研究ではない。)(もちろんトッポ・ジージョとも無関係である。)
 
もともとの数学的な意味というよりも、心理学寄りに発展した方面のとこである。
 
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三鷹駅、南口に出た瞬間、その光景に、必ずいつも根拠のないいつか見た奥多摩駅前のイメージが擦過する。西側の小さなタリーズの建物を見ると、夏の日の昼下がり、ひとり冷やし珈琲を飲みながら読んでいた本の記憶がその風景ごと蘇る。(本の内容とその風景はセットである。代替不可能な一回性を、あらゆる読書の現場は意味するものだから。)(この意味は、例えば初めての絵本を読んだとき、たまたま出会ったその絵と文章の組み合わせが脳内で分かちがたく結びついてしまう現象で説明できる。同じ作者の同じ文章でも、異なる絵で描かれてしまった絵本として触れたとき、その印象は決定的にどこかで色づけられた読者各々の個別なものとなる。その「読書の現場」のかけがえのない一回性。繰り返し読むこととそれは対立しない。繰り返せば繰り返すだけそれは重厚に重ねられた意味を持ってくるだけだ。)
 
だが、北口は別次元にある。
駅を通り抜ける行為には結界を越えるイメージがある。
 
こちら側は吉祥寺に通じている。初めて北口の風景を認識したとき、吉祥寺中央図書館から歩いて来たからだ。そしてこっちの方が好きだ。ここは大好きな吉祥寺の街から図書館への道行きの世界に通じている、楽しく歩いたその記憶の道。(西側の多摩川沿い方面はそれに先立って歩いたことがあるが、ここはまた全く別。…真夏の昼下がり、阿佐谷や武蔵境の静かな住宅街をさまよったときの記憶のイメージである。そのころやたらと彷徨していたその中央線近辺の風景が、記憶の中で近似値を示し寄り添いあい溶け合うイメージとなっているからだ。)
 
…ことほどさように、風景、場所というのは個的なものである。場所。それは、時空、世界、と言い換えてもいい。

時間や場所とは、本来、普段わたしたちが共有していると信じている客観、抽象、絶対なものなんかではなく、極めてオリジナリティの高い主観を抜きにしては意味をなさない具体、個的、可塑性に富んだ概念なのである。
 
思い出がこびりついてしまった場所は、そのとき個的に所有された意味をもって記憶と存在自体と結びつき一体化し、それは既に見知らぬ土地、更地には戻れない。一度習得してしまった言語のように、意味を持たないただの音韻としての存在には戻れない。

抽象、客観、計測可能なものとしての時空の観念は、ただ共通概念としての理解の便宜のためだけの恣意的な約束ごと、記号に過ぎない。(シニフィエシニフィアンの関係である。)
 
その観念=記号がもつ、<個人に対する空虚>或いは抑圧、疎外について考えるとき、私はエンデの「モモ」を思い出す。灰色の時間泥棒たちが、モモの街の豊かな生きた人々の時間を奪いとっていった、その「時間」への感覚のことを。
 
時間の管理人、マイスター・ホラのところでモモが見た、本来の生きた時間とは、ひとつひとつの一瞬がすべて異なる美しさ、そのときそのとき最高に美しい一瞬の生きた命として次々に咲いては散る花として象徴されていた。時間泥棒たちは、人々の持つその時間の花を盗み取り、その美しさ、その生命を奪い、灰色の乾燥した葉巻にして貯蔵可能な、計測可能な、しかし死んだ時間にしてしまう謎の機関であった。これは、個々のひとびとのゆったりと充足した日々の生活、生きた美しい花としての時間(精神。魂)を食いつぶしながらはびこる病原体、一種、近代合理への批判としてのメタファとなっているといってよい。
 
個に属する(主観に属する)、計測不能な(一瞬は永遠を孕む。)具体としての生きた時間(=美)、そしてそれに相対するもの、共通概念(客観という約束事に属する)、量的に計れるもの(数学的な約束事に属する)、抽象としての死んだ時間(概念)。
 
場所も時間と同じだ。時空、というように、両者は結合し、初めて存在できる。本来不可分な「世界」そのものである。時間を持たぬ場所は存在せず、経つべき場のない時間は存在しない。ということで、以下、トポロジーに関してこの「意味を孕んだ場」としての考え方を「時間を孕んだ場」として扱ってみる。
 
トポロジー(位相学)心理学は、WIKI的な説明では以下のようなものである。(コピペ)
 
「クルト・レヴィンは1930年代にヴェルトハイマーら3人と一緒に研究したことや、ベルリン大学で学位をとった関係でゲシュタルト心理学者のひとりとされている。レヴィンは体験を通じて構造化される空間に興味を示し、それをやがて生活空間と呼ぶようになった。ケーラーが心理物理的な場理論を考えていたのとは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えた。これはトポロギー心理学(トポロジー心理学Topologie psychology)との名称で知られるようになった。」
 
(これは《この後の部分の記述で》個人においても集団においても成り立つ構造である、とされている。ここがまた素晴らしく面白いキモのとこであると私は思う。)
 
「体験を通じて構造化される空間」。…個に取り込まれる、私的な時空の概念。
 
これは既に、外部と内部という概念を超越したところにある世界である。外部であったはずの世界、その風景は認識という行為によって個の内部に取り込まれる、或いは、「認識されなければ存在しない。」唯心論的な世界観の構造である。悟ったと認識した瞬間にそれは悟りではない、というような、「外部」の不在、真理の不在、唯物論や唯心論の議論の中にそれはある。
 
ゲシュタルト心理学にしろ、トポロジー心理学にしろ、これは世界の意味がすべて「関係性」「相対性」によって成っているという共通した概念を底に敷いている。とりもなおさずそれは、二十世紀のレヴィストロースに代表されるような仏蘭西構造主義とつながる、…ええと、なんていうんだろ、相対性理論なんだよな、ざっくり言うと。
 
でね、これ以上広げるともう風呂敷が大風呂敷になって広がっちゃって収集つかなくなるんだけど、私がナラトロジーに、物語理論にものすごく興味を覚える意味は、<テクスト=世界>を読む<主体=読者>、そして「読書の現場」の関係性が、そのままこんな風な、相対的な世界のありかたそのものにあてはめて考えられる構造をもった理論だからなんだよね。世界の在り方そのものを読み解く、なんかもう大興奮である。大興奮なのは、これが世界の豊饒と解放に、官能と至福に通じるからなんである。
 
うまく言葉にできないのがもどかしい。くやしい、でも書きたい。
…まあナンダ、その、ライフワークだな、なんだかな。
 
…で。
 
昼間には、世界は一冊の本である、という命題について考えながら中央線に乗っていた。

五感と論理をもってわたくしは世界を読む。世界はわたくしに読まれることによって存在する。
 
そしてわたくしもまた一冊の本である。内部と外部、主体と客体の、その絶え間ない反転の中に、世界と私の一体化した世界全体が現象する。