酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「火星年代記」レイ・ブラッドベリ

以前、安房直子さんについて書いたこの記事の最後で、ついでにブラッドベリについていつか、と予言していたので気になっていた。まあとりあえず今回の主旨はアレの続きである。

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最近いろいろと機会があってM子とよく話す。

旧友である。高校時代から名言の多い奴であった。
なんだか人生トータルで考えると、我々は実に大層な量と質で濃淡で、さまざまにたらふくあらゆる考えについて話したもんだとしみじみしてしまう。とにかく生き抜いてみるものだ。

今回の機会もまた、かなりいろいろと実り多いものであった。いちいちメモを取っておけばよかったぐらいお互いの心に響いたのではないかなどと思う。

うむそうだな、ひとつでも、今からでも。
ということで。

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一昨日だったか。
珈琲啜りながら彼女の家のリビングであれやこれや。

彼女は大好きで忘れられないというオススメ中国映画「太陽の少年」を、私はブラッドベリ「たんぽぽのお酒」を持ち出した。

…ニュースで見た、現代日本での調査による、幸福度ナンバーワンの世代、性別の小学生男子という人種についてから発展した話題だ。

その幸福度の所以についてなんである。
小学生男子(一般)。その輝き、その幸福、その生命力、その強烈にまっすぐなワガママ、その浅ましさ、その高潔さ、その無知、その不遜、その弊害。

そしてそれをつつみこみ闘いながら許し合い理解し合おうとする周囲の社会について。あらゆる世代性別をある種の「ゆるみ」テゲテゲさをも町のバランスの中に包み込む動的なコミュニティの大きさや形態理想形について自治体の自律、独自性、独立性のバランスについてのことだ。

家庭と地域の関わりのありかた、ふるきよきアメリカの「故郷」意識、地域への思いの強い地方の町の(或いは村の)。或いは因習。

(これは「たんぽぽのお酒」で描かれた少年の夏休みの日々の輝きのひとひらひとひらのオムニバス的な断片、そしてそれががひとつに絞られてまとまりをもつストーリーのかたちをとった、続編としての「さよなら僕の夏」に色濃く主要テーマとして打ち出されているように思う。)

(M子の方も「太陽の少年」の映像と音楽の輝きの幸福感をこの共通点でとらえたという。ある時代の中国の村の物語イメージの中に。)

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思春期を迎える一歩手前の、怖いもの知らずの少年たち。あらゆる自由と欲望充足を当然の権利として、周囲のあふれる愛情に包まれながらも、それを恩義として、「恩愛という一種の倫理的社会的くびき」として意識する手前、微妙なその一歩手前の利己の抵抗、それまで馬鹿にしていた女の子たちのうつくしさにどうしようもなく惹かれてしまう、その一歩手前の抵抗。

大人社会の規範と倫理に取り込まれてゆくことへの抵抗だ。

…おそらくその一生を支える、ただひたすら守られたままのかたちで、ただ純粋な生命力にあふれ、ただ世界にあふれる躍動と自在に交流する豊かさを享受していた、その自由な輝きの記憶、その先の大人として生きてゆく中で永遠の少年の魂としてその個の人生の核となるもの。限りなく惜しみなく与えられていた愛によって守られていた自由の時空。

で、ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」である。
少年時代の珠玉の夏の思い出、その一日一日を、その日仕込んだたんぽぽのお酒の金色の夏の輝きの中にまるごと閉じ込め、寒い冬の日々、その一滴の、一瞬の中にすべてが含まれていた記憶の中の永遠の輝きの魔法で、魂をあたためる。

このうつくしさと切なさのポエジイはおそらく彼のすべての作品の通奏低音として流れているのではないだろうか、と私は思った。失楽園。ライフワーク的なる思い入れを感じた、という言いかたもできる。

そう、この切なさこそがおそらく彼のすべての作品の通奏低音として流れているのではないだろうか、と私は既に確信犯的に仮定してかかっているのだ。まだブラッドベリ入門のほんの戸口のとこなんだけどね。

「たんぽぽのお酒」から「永遠の夢」、続いて「さよなら僕の夏」読了。
そして「火星年代記」にかかったんだが、やはり出てくる。

作品中にあふれる発想の豊かさ艶やかさ、SF世界ならではのファンタジックな世界のきらめくような楽しさ、そしてそこに展開される物語の中に滲みだすようなさまざまな人の思いの描写が(もちろん文章の巧みさによって豊かな詩情と共に醸される)魅力なのであるが、とにかく何しろそこに常にながれているのは「失われた故郷」の風景への思いだ。常に流れている、ノスタルジア、心の故郷の風景、限りない追慕というその通奏低音。深みと切なさとやるせなさと、とろけるようなその哀切なる絶対の至福感。

幸福な少年時代への永遠の愛着。そしてその喪失の寂しさが今現在を流れている物語とは別の流れをもったとき、そのズレのところにあらわれる激烈な寂しさ。逆説的に絶対化されるイデアとしての己の故郷の時空。

それは、すべての現実世界とされている世界時空、そのすべてのリアリティへの儚さを感じさせ暴き出す文体をうみだしながら、絶対の「永遠」への憧れと同時に、それを外側から客観視する鳥瞰的な視野を重ねた痛ましいほど怜悧でアイロニカルなエスプリを滲ませる…まあとりあえずこのあたりが彼の作品の基本的な物語構造であり、その醍醐味、いわゆるおもしろさ、となっている。

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「第三探検隊」なんかにそのテーマは如実に示されている。
永遠に続く幸せだった少年時代の夏の日々、隊員たちの記憶に共通にもたれていた「失われた幻想のパラダイス」が火星に突如現れ、探検員たちを惑わし、彼らの一夜を家族との愛と幸福で満たす、そのポエジイにあふれた幻想的な、スペースファンタジー(SFだな。)。

が、それは火星人的なるものによって繰り広げられていた罠であった。敵対者の魂の深奥を、その核を侵し、最も大切な者への痛切な思いを利用し、侵略者「地球」を排除した。弔いの気持ちとともに…なんともいえない「現実」の痛ましさだ。(だが果たしてこの魂への侵略行為は許しがたい敵対暴力であったのか?或いは尊敬と親愛をも孕んだ行為であったのか?…単純には決められないのではないかと私は考える。それはこの最後の弔いのかたちのなかに両義として絶妙な詩情をもって示されているのだ。)

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それにしてもしかし、火星年代記
作者が20代の頃から少しずつ取り出されていた独自の「火星」モチーフのテーマがはじけ、オムニバスとして円熟期に出版された歴史があるために、この作者の中にある様々の基本的要素、モチーフをちりばめたオムニバスとなっている。というわけで、非常に興味深いバリエーションをもっているのだ。

つまり、「火星」というモチーフによって、ブラッドベリにとってのSFというジャンルの意味をトータルに捉える手がかりを持った不思議な作品集だということができるのではないかと。

キイワードは時間、宇宙、個をキイワードとして巡る、幻想としての現実という「物語」。

時間とは、永遠、過去から未来に一定の速度を以て線上に流れるものではない。
そのような近代においてはじめて作り上げられた幻想としての時間の秩序感覚を破壊し、過去や未来という時間の感覚のありかたは寧ろ曼陀羅状、宮澤賢治の言う「有機交流電燈」のインドラの網状態を思い起こさせる世界構造を感じさせ、幻想・ファンタジックな、寧ろ近代科学の要素をくるりとひっくりかえして逆手にとって取り込んだ、日常から隠されている人間の心の奥底にひそんだ壮大なテーマを浮き彫りにしやすいかたちにしたジャンル。それがSFだ。

時間とは、人間の感覚にとってそもそも伸びたり縮んだりだってするものなのだ。

(イヤSF的なイメージのみに限った話でなくて、どれもひとつひとつ味わいとしては「不思議」なんだけど。)(例えばオムニバスとしての「たんぽぽのお酒」の構造が練り上げられきれいなひとつの物語の流れに収斂していった物語としての続編「さよなら僕の夏」みたいにね、オムニバスの中の短編ひとつひとつに、長編作品に発展していくモチーフがあるはずだと思うから。)(それが逆照射され、作品群すべての論理構造がトータルに捉えられる手がかりとなるんじゃないかと。)

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さて次は「華氏451度」にいこうかな。「100分de名著」で一通りのあらすじや指南役の先生の解釈を聞いたけど、たぶんここで語りつくされていない豊潤な多面性としての詩情やテクスト、ブラッドベリすべての作品を貫くテーマが満たされて描かれているはずだ、と私は睨んでいる。

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火星年代記の「火星」のモチーフは、空恐ろしいような冷涼なる暗い宇宙というスケールの中での完全なる「異界としての火星」という設定によって、失われた故郷の暖かな小さな世界というモチーフのイメージを際だたせる役割を担う。

少年の中の様々な要素、もちろんそれは美しさだけではなく、そこにあった無知や身勝手さ、狂気や残酷さ、未熟な男性性の根幹に色濃く潜む、死や倫理を外れた異界、ディオニソス的な禁忌に対する憧憬と歓びの本能をどこかで憧憬する孕んだミクスチュアとして、今後のブラッドベリの作品テーマの要素をすべて内包していると言ってもよい。

名作として名高い「華氏451度」の焚書のテーマも、不道徳なものを焼き払う「力でナニカを圧する正義の仮面、道徳という言葉の中に孕まれる危うさ、権力的なものと人道的なものという同一のものの裏表の顔、その諸刃の剣としての顔、両義としての二面性、…これらは、大人の社会の規範のつまらなさ」への嫌悪と共通なものとして、つぶされた側、抑圧された側としての根強い反感を孕んだ構造としてとらえることができる。

狂気を完全否定することのその「否定」は、とは、とりもなおさず「知」の全体性、ひいては「人間性そのものを否定する」ことと同義である。

火星年代記「アッシャー家」で、狂気と、異界、マイノリティ、そこから敷衍して他者としての火星の尊く素朴でよきものをただ力の一方的な正義で、「残酷に」破壊した地球人の「素朴な善良さ」と同構造としてとらえられていることは特筆に値する。

年末年始、できたらと思ってるけど、まあ年末年始はあれこれあるし、違うものに流れるやもしれぬ。

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そしてなぜこういつも駅ビルのカフェはこうぎうぎうで席取競争率が高いのだこのやろう。f:id:momong:20211229022405j:plain