酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

安房直子「ハンカチの上の花畑」再読。アイデンティティ崩壊の向こう側に繋がる異界(読後感メモ)

さて、ちいと前の話ですが、9月9日。
あんまり騒がれないけど、重陽節句だったんである。

日本では3月3日や5月5日が有名なのに対し、知名度は低いけど、本場中国では実はけっこう重要な節句であるらしい。陽が重なって重陽。めでたい、と。

重陽の日って何すればいいんだろ。やっぱ菊酒。日本酒に菊の花びらを浮かべた香りを楽しむ風流なお酒。不老長寿の妙薬になるそうな。

で、思い出す。私にとって菊酒と言えば安房直子さんのハンカチの上の花畑なんだな、やっぱり。あれは飲んでみたい。

確か短いお話だった、読み返してみよう。
ついでに金色に輝きとろりと花の香りのするお酒、という連想からやってきたたんぽぽのお酒。…そう、実は読んだことがなかった有名な古典、ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」。これに関しては最後にもう一度述べておきたい。

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さてということで、安房直子さん「ハンカチの上の花畑」再読に関して。

もちろん安房直子さんはまずは相変わらず間違いのない私のバイブルであった。最初の一行からすうっと惹き込まれる、浄化される、魂を救ってくれる、あらゆる恐怖や痛みの牢獄から逃れた異界と陶酔の中に、切なさと哀しみと畏怖に満ちた不思議な世界。そしてそれはおそらく自我の枠を越えた外側としての異界「向こう側」に繋がっている。

死後未生にも似た根源のヌミノーゼ、恐怖、開放の陶酔に。
彼女の文章の持つ独自の力とは、あらゆるそれらの恐怖をただ優しさと美しさの中に包み込む祈りの力に他ならない。

この作品も、例にもれず、うっとりするような(わくわくやぞっとする恐怖とそれは一体である)不思議な街のイメージがあらわれる。記憶どおりのそのシーンに変わりはない。

しかし、物語の流れとイメージの奔流の中に陶酔し、ただ幸福に遊んでいた、魂が溶け込んでいたそのとおりの当初の記憶には、今読み込んでみるとまた新たな発見が隠されていた。さらに様々に複雑に構築された物語構造の深みを、一歩離れた視点から見て新しく感じさせてくれるものであったのだ。

またそれは、とりもなおさず己の中の迷宮構造を探り出すことにほかならないものでもある。物語とは、己自身の内部に潜む外部世界へのまなざしの構造の別名であるからだ。つまりそれは、物事の正邪を無意識にはかりながら「判断」しつづけている、いうならば裁き続けている「自分のものさし」を成立させている世界の構造の幻想を暴き出すものでもある、ということだ。

 

複雑に入り組んできて、とても短い文章ではまとまらない。
だからこれは思いつくままのたくさんの切り口のヒントになるだけの箇条書き的なメモである。メモ。もし誰かの何かの読み方への理解の切り口がこの中のどこかの一文に潜んでいたらとても嬉しいし、このバラバラとしたまとまりのないメモをもとに、いつかきちんともう少しきちんとわかりやすいまとまった文章を書いてみたい。

安房直子ファンである私の備忘録である。

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郵便配達人の良夫さんが、ある日さびれた酒屋「きく屋」に手紙を届ける。廃墟と見まごうその酒蔵の中、彼はその不思議な空間に誘い込まれ迷いこんでゆく。怪しい店主のおばあさんがよい便りの配達のお礼に、と仕事の最後にお酒をいっぱいご馳走してくれるという。そこで見せてくれるのが魔法の小人の入った家宝の菊酒壺。おばあさんがハンカチを広げて呪文のような歌を歌うと、小人の一家が壺から出てきてハンカチの上に菊畑を展開し、収穫し、壺に取り込んでお酒にしてくれるのだ。苗を植えてから収穫がおわるまで10分から15分。花の香りのするとろりとうつくしい菊酒は、ひとくち飲めば心が優しい菊畑に遊び、心身の疲れが取れてしまう幸福な魔法のお酒だった。

ひょんなことからこの壺を預かることになった良夫さんは、週に一度の秘密の儀式でこの魔法のお酒を楽しむことができるようになり、始めたばかりの一人暮らしの慣れない暮らしや寂しさや疲れを魔法のお酒で癒すことによってどんどん幸せになっていく。友人ができ、身体も元気になって仕事も充実、心楽しく日々を過ごせるようになる。そして優しい恋をして、ついには可愛らしいお嫁さんがやってくるのだ。

さてお約束、壺の儀式には禁忌がある。人に言ってはならない、お金儲けをしてはいけない。

だが、狭いアパートに一緒に暮らしていては、秘密を守ることなど不可能である。奥さんのえみ子さんはある日あやしい良夫さんのふるまいから、壺の秘密を探り出してしまう。

えみ子さんは、実は小人のことを知っていた。子供の頃、お母さんがパンを焼いているときに、パンを膨らませる仕事をしている小人を見たことがあったのだ。

…「小人さん」とは、暮らしの中で人々の暮らしに役立つ発酵の力、その「人間の暮らしに有用な」微生物のはたらきの擬人化である。ヨーグルトの小人、ぬかみその小人、パンの小人。

老舗の店舗で酒や味噌の醸造を神聖なもの、神が支配する聖域としてその場での儀式を大切にしたり、アイルランドの家を守り暮らしのこまごまをうまく働かせる気まぐれな妖精という風習、考え方にもよく似たものがある。(家の中のことがうまく運ぶように、ホブゴブリンやブラウニーという家憑き妖精に毎晩そっとミルクを供えておく風習があるんである。で、洋服など与えてしまうと、それを他の妖精に自慢しに家から出て行ってしまって仕事をしてくれなくなるという。)

小人は無心に働くことで幸福になる、身なりにも構わず他に楽しみを持つこともない。けれど楽しく働き、そのようなかたちで幸福なのだ。謎の酒屋の老婆は言う。(こりゃ魔女だな、魔女。いわゆる。)

「もし、この人たちが、きれいな服を着たいとか遊んでくらしたいとか思いはじめたら、もうお酒の小人ではなくなってしまうんです。お酒をつくる力を失って、ただの小人になってしまうんです。」

えみ子さんの無邪気な善意はしかし、次第にすべての禁忌をあからさまに犯してゆく道筋をたどってゆくことになる。
働いてくれる小人に何か贈り物をと望み、みすぼらしい身なりの小人のために可愛らしいビーズや可愛らしい靴、洋服をそっと置いておく。

お礼をすると張り切って働いてくれる気がした。そして友人知人への贈り物として菊酒をふるまってしまう。…お礼をもらうようになる。お礼で豊かに暮らす味を占め、欲望は際限なく膨らみ、小人をこき使い、ついには酒屋に卸しお金を受け取り貯蓄をするようになってしまうのだ。


だが小人にバイオリンを送ったとき、小人はついに着飾り楽しむことを知り、働く酒の小人であることをやめて、壺からいなくなる。禁忌を犯したことに気づき、おばあさんに壺を返さなければならない事態におびえ、夫婦は菊酒で儲けたお金でちょうど買えた見知らぬ街の家に夜逃げのようにして越してゆく。

トンネルを抜けありもしない駅に停まった、その町は異界であった。小人たちの世界。

記憶を失い、その小人たちの世界に引き込まれた夫婦は、遊んで暮らす件の小人たちの隣人になってただ楽しく遊んで日を過ごす。夢の中のようにただぼんやりと永遠にくりかえすかのように彼らの泡沫の日々は過ぎる。

記憶を取り戻し、自分たちがハンカチの上にいて、大きな現実の人々に見下ろされ支配されている感覚を得たとき、ぞっとした夫婦は命からがらその小人の世界から抜け出して…

というのがあらすじである。

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で。

何が気づいた命題、問題提起の感覚かというとだな。

まずは物語の大枠として、社会とは自然からの恵みを得てその豊かさを存立させ、その楽しみを得て暮らしているのだということがある。

ひとつ、そのための何かの労働の存在を前提とする考え方ということ。

そう、人間は人間社会の論理のマトリックスとなる、より大きな混沌から生じている論理化しえない論理という感覚的なルールの中に暮らし、己の小さな思考形式の及ばないもの、その「理解してはならない」ルールを畏敬と感謝の中に暮らしているのだという、そのかたちへの意識のこと。

また、もうひとつの別枠の命題として、小人という発想から、誰かのため何かのために役立つという存在形式の考え方のこと。或いは利用する、利用されるということに対する倫理観の是非。

見えない形で大きな権力(利益)構造に組み込まれ一方的に支配されているということの発見。(あるいはそれは一方的に。)このとき、己の存在の尊厳はどこにあるのか、ということ、そして、異界としての自然界、別世界、それら人間ではない生命界全体との共生のありかたということ。

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社会性を持った人間が、生活を、世界を楽しむということ、生きているということの意味を問う、その姿まるごとを問う蠢くような意味の磁場構築、生成と崩壊の中をさまよい続けるその「意味まるごと」を混沌のエネルギーのかたまりのまま投げ出して、あらゆる正邪を超えた世界構造を問う、そのような物語構造が読者の中に立ち現れるべく隠されている。

例えば、人間は物語の中で労働を楽しむみすぼらしい身なりの小人を宝物としてその恵みをただ受け取る、それは「自然からの贈与」に他ならない。発酵によって恵みを、そしてそれによって社会的な利益、豊かな文化と富を得る。

自然(異界=人間社会の論理の外側)とは、惜しみなく無限にただ贈与するものとして位置づけられる。社会生活の基本である。

そしてそこにはお約束の禁忌、異界のものが贈与のスタイルをとるための論理構築として、一種のルールが設定されている。

ここで問題となるのが、自然と人間との境界線、異界との結界領域である。

シャーマンのダイブ、呪術師のミッション、魔法陣での呪文の呼び出し、祭りの死と再生の儀式、ケが枯れ、社会がケガレたとき、歪みが顕現したとき、その穢れを払う祝祭のハレの時空は日常の世界構造、ルールを異化する。それはやがて再生された新しい贈与のスタイルを受け取るため。(魔法の恵みを得る儀式、その禁忌のルールを守る難しさ、やぶったときあらわれる、「試練」による自然の恵みという大きなルールの意味の構造。)

自我の崩壊した先にある異界と接するメディア領域から取り入れる幸福の魔法の恵みという贈与の熱狂の中、それはその恵みを享受する試練を失敗すれば死、あるいは「向こう側」に取り込まれる、食われる、という表現のふさわしい、危険にみちた時空である。個の崩壊、秩序の外側、その境界を「向こう側」へと越えていってしまうことはこの世的な個の崩壊、すなわちこの世での死を意味するからだ。還ってゆく、といってもよいが。

人間社会とはその存在形式が異なるところからの贈与の発生によって成り立っている、そのための死と再生の儀式が「魔法」や「異界」のスタイルの物語として脈々と語られ続けている。

この構造が、より複雑な物語構造の中に組み込まれたのが安房直子のファンタジー作品の基本構造であると考えられる、…「基本」ね、基本。

 

そして「ハンカチの上の花畑」本作品では、この形は、社会・人生の理想の形を、労働を搾取、ということではなく、日々の労働を喜びとする可能性、そしてひとつには欲望を満たし遊び暮らして日を過ごす、ということの二極にわかれた倫理性の是非の命題として語られている、という側面をも捉えることができるものとなっている。

ただ消費し遊び暮らす、それが虚でぼんやりとしたものであり、大きなものに真実を隠され、小さな壺のように作られた世界で踊らされている、という構造が描写される。ハンカチの上で。

それは、経済発展が人々の欲望をひたすら呼び起こし、大衆は餌を与えられ、他を考える必要性を奪われ、知性を奪われ、構造について把握するための自然への畏敬の念や感謝や不思議への新鮮な本来の生命の実感を忘れさせられてゆく現代社会の構造を思い起こさせるものである。

あるいはそれはあらゆる歪みを引き起こす権力構造の基本のかたちであるといってもよい。大衆コントロール、群衆支配の構造、政治の腐敗、資本家の汚職

作品の中で、良夫さんたちは搾取こそされていないが、支配の形式の原型としてはまさにそのスタイルがここにある。生ぬるくぼんやりとただ遊ぶことはできる日々、己の意志で生きかたを選んでいるいるようで、実はその意志すら支配されている構造。…まあいいか、と何も考えない日々の、外部とのつながりや生き生きと艶やかな個の生きがいを持たぬ日々の、その泡沫のような虚しい世界の描写。

楽しく働く、世界の、社会の構造に参加し、その充実と生きがいを仲間みんなで、身体で感じることの幸福と、装い遊び楽しむことの、人間のその双方の意識とバランス、というさまざまの倫理の多様をかかえた命題が見えてこないだろうか。

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そして、人間はひたすら贈与し個としての意識をもたない、現象としての「自然」と同じものではない。これら倫理のない世界との境界線に妖精たち、小人は設定されているものなのだ。彼らの半身は人間界の世界に属し関わりを持つが、(「半身」ここがミソ)残りの半身が属するのは論理も倫理もない世界である。

小人はその半々であるからこそ、外部とのメディアなのである。双方を繋ぐ。エナジイを媒介する。恵みと恐怖をもたらす。ただ新しいエナジイ、恵みと脅威のパワーに満ちた混沌、あるいはそれは畏怖すべき、恵みをもたらすべき、(賢く利用すべき)「自然という神」の、半ば人間化した、いわば受肉したかたち、それがメディアとしての存在、場、境界、結界である。

…或いはそれは「父と子と精霊」の、精霊に近いものなのではないだろうか。原初の混沌、人間以前の自然に漂っていた神の霊(エナジイ)、すべての存在の源の力。(すべての存在は神(自然)の贈与による存在である。)

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正解はない。真理が決してない、正義が決して普遍ではないという純粋なエネルギー体である世界のその理不尽の当然を認め、なおかつそこに根差しながら人間界の秩序を保ち豊かに幸福に暮らす愛と智恵と喜び、神、自然へのその贈与と恐怖と畏敬と感謝に満ちた暮らしのための知をひそめたものがこのような「物語」である。

この物語はまた、知が捉えねばならぬ社会と世界の構造のさまざまの蠢きをあらわしたものであり、常に意識していかねばならない異界との関係の感覚を示している。

人間界の何かの歪み、不幸がおこるとき、、バランスが崩れてきたとき、その危険や理不尽を認識し、支配構造を見通す、外部からの視線の手がかりともなっているものなのだ。おそらく。

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人間の生の円環運動を持続させるためには、〈自我〉に風穴をあけ、自らの内なる他者と絶えず対話を交わさなければならない。ただし、この風穴はあけっぱなしでも閉じっぱなしでも停滞を呼ぶ。ルソーが作曲したと言われる童うたの叡智にならって「結んで開いて/手を打って結んで/また開いて手を打ち」ながら、心の奥の欲望を解放しつつ制度へと立ち戻る永続的な運動が望まれるのではあるまいか。
(『言葉・狂気・エロス』「意識と無意識」丸山圭三郎

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さて、冒頭での予告どおり、金色のお酒の芳醇な物語連想ということからのレイ・ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」。

ブラッドベリって萩尾望都のSFのイメージだったんだけど、実はいっこも読んだことなかったんである。(萩尾望都の信奉者でございますもので。ブラッドベリ原作では「ウは宇宙船のウ」、とかね。)

と思い至ったところでヨシ原作は触れておくべし、今こそだな、とこの有名な「たんぽぽのお酒」をうまれてはじめて手に取ったわけである。

アラ結構な大長編。
開いてみたら、…へええ。こういう作品だったのか。

知らなかったことを知るという感覚は、面白い。永遠に世界を、自分の一生を豊かにしていく、とか思うと牢獄にいる気持ちに閉ざされる必要はなく、外の灯りが見えるような気がする、…こともある。

萩尾望都のあの漫画、独特のセンシュアリティで神秘な幻想とまじりあうあの不思議なSFワールドとその原作の印象はばっちり響き合った。ああ、これを彼女に漫画化してほしい。きっと私にとってブラッドベリはもう萩尾望都ヴァージョンがセットとして刷り込まれている。運命のインプリンティング

ということでブラッドベリもあれこれ課題。噛みごたえがある。味わい方に慣れが要る、と思う。なんでもそうだけど。(仮説いくつか頭の中に生成中)キイワードは時間、宇宙、個をめぐる「物語」。(私に言わせれば全部コレになってしまうといえばそうなんだが。キイなんだよ、キイ。)基本は難解であるということ、或いは解をもってはならないということ。文学作品と認められるものの、これは基本であると私は考えている。

「たんぽぽのお酒」から「永遠の夢」、続いて「さよなら僕の夏」読了。

う~むむむ、ブラッドベリ、こんなに難解だとは…。
そしてだが難解なのにひどく感動したのは何故だなんだろう。

とにかくこんな風にイイとは。
…ということで次は「火星年代記」。

またブラッドベリについても記事を書く機会を持ちたいと思っている。

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