酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「TENET」「ジョーカー」「おみおくりの作法(still life)」

(ちょっと前置き。***のところまで省略可)

…イヤだからね、このことを私は日々何度でも新鮮に感じていて、そして何度でも永遠に言い続けるけど。

「書くことは生きることだ。」
そして救済だ。

なんでもいい。
忘れたくない。そう思うこと。特に感動した映画や本やなんかのことをいちいち。それは人々と共有し響きあうことのできる共通カテゴリとしての批評であるから。外部へ、社会へ、人へとつながる要素がおおきいから。

小さな己が個として感じてきた、大いなる世界そのものとしての混とんとした名前のない感覚。

その全体性を小さな既成の物語にあてはめない。
あてはめて「わかった」と思った瞬間、それは権力構造に巻き込まれることだからだ。そう、その多様という本体を失わない、また逆にそこに個が失われ溺れてしまわないため、そのままに味わい愛するために探る。そのためのひとつの手掛かりとなるのが言語、テクスト、生きた物語へとオリジナルに言語化する行為。

それは、物語を保ち続けながら死んだ物語を否定し続ける矛盾を止揚する物語とテクスト生成への存在としての衝動なのだ。

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

そう、それは「いかにもたしかにともりつづけるひとつの青い照明」であるための点滅という「点いていて、消えている」矛盾を実現しているダイナミクスをはらんだ「現象」。

それがよすがと止まり木なのだ。それがないとおぼれてしまう。その危ういひと時の自分の小さな居場所から見はるかす世界。そこだけなのだ。そこから初めてすべてを物語として風景として愛することができるようになる。

 *** ***

ということで、ここからね。
最近友人たちからとっても勧められたので、「インセプション」「マトリックス」を観なおして予習してから「TENET」を観たんである。

実はだな、これ評判通りの難解さでだな。
実はだな、そう、ワシには最初から最後まで全然わからなかったんである。

それなのに、だけど面白くて感動して素晴らしかったのだ。
なんなんだこれは。

何度も見て論理的に謎解きするのがポピュラーなファン心理みたいだけど、わしゃ、なんか十分面白かったから今はもうこれで堪能しちゃった。そしてこれでいいんだと思っている。エッセンスはこれで十分だと。

つまりね、時をかける少女的にさ、未来に出会うその一瞬の運命までの長い物語の映画、その運命と永遠の長さみたいな時の感覚がこの映画のキモ、コアなエッセンスのところすべてだと思うのだ。感覚と感情をゆさぶったもの、感動。

パラレルワールドの世界全体の豊穣、その限りなく深化されてゆく祈りや想いやを織り込んで。

もちろんエスプリもセンスもアクションも映像もなんかもすんばらしくてさ。そのあたりから語ってゆくと本当に限りなくなりそうだな、と思う。

…でね、もうひとつ。
例えばインセプションマトリックスってよく引き合いに出されるから予習としてこの二作品を観なおしておいたんだけど。

けど。

小学生男子が好きそうな娯楽一色浅薄なマトリックスなんかより(イヤその分確かにアクションがカッコいいんだけど。痺れるほど。)ずっと深くて好きだな、ノーランの感覚、としみじみ感じた次第で。

深々とした愛と情趣、世界観が伴われている。

ううむ。未見のものも観なければ。インターステラーやなんかも観なおさねば、と思っている次第である。生きねば。

 *** ***

で、それから続けざまに観たのが「ジョーカー」、そして「おみおくりの作法(still life)」。
双方素晴らしい、と思った。そして、あらゆる意味で実に対照的な映画である、と。

「ジョーカー」の感動のほうがあらゆる意味で派手で激しくわかりやすい。激しく感情を揺さぶる。論理の組み合わせは脳みその中ぶんぶん揺さぶられるほどエキサイティングに、むしろ暴力的に「おもしろい」。

愛されたい。愛したい。幸福に。

家族の愛。無条件の愛。
人生のはじまりのところで両親から与えられておくべき三つ子の魂の、赤子のときに与えられるべき、存在の基盤、己の魂の基盤、一生の波風から心の平安が守られることのできる基盤を構成する無条件の絶対的な愛。存在の肯定という基盤。それが与えられていなかった時の人間のかなしさ。信じていたものからの裏切りの物語。

残ったものは、ひたすらの、圧倒的な、寂しさ、寂しさ、寂しさ。
子供のままのピュアで無防備な魂はたやすく狂ってゆく。(しかしこの狂気のうつくしさは一体なんなのか。芸術のマトリックス、本質のところはこの狂気と同根のところにあるのかもしれない。うつくしさ。)

巨大な街ぐるみの狂気は、隠されていた理不尽への鬱屈の犠牲者たちによる集団的祝祭として、祭り上げられたジョーカーの狂気を旗印として革命と混乱を巻き起こす。物語は世界の破壊と再生の黙示録的な様相を帯びてクライマックスを迎えるのだ。またそのラストシーン、謎の含みもねえ、いいんだなあ、これが。(映画自体のどんでん返し、どこからどこまでが、一体誰が狂っているのか、狂気で妄想なのかわからなくなってくるシーンが仕掛けられているんである。どっちともとれる。)

だがなによりも、この映画の持つものすごい切なさと痛みは、「誰も『それほど』悪くない。」その権力構造、弱者に口無し的なモラハラ・イジメ構造を露わにしているところにあるのではないかと。

イジメられる方が悪いのだ。強くならなければならない、と。

虐待や戦争なんかも根っこの一番怖いとこはそこなんだよなあ。

ほんの少しの想像力の欠如、小さな小さな保身、他者への無関心、取るに足らない小さな愛すべき凡人たちの小さな罪の積み重ねの本質としての甚大さ…大いなる厄災と残虐さと悲劇を生むものは、小さな小さな罪の積み重ねから身動きの取れなくなるところまで、愚かしい戦争まで発展してゆく、トリガーさえあれば爆発する。この構造に気づくことは読者(視聴者、傍観者)一人一人の胸の奥を刺し貫き血を流させる、はずだ。傍観できるものはいない。誰も無辜ではいられない。

 *** ***

で、だが「still life」。(ちなみに原題のほうが、邦題よりもずっとずっと素晴らしい言語センスだと思う。単語の意味の深さが。邦題おセンスはっきりいってよろしくない。)こっちの方は…

お国柄もあるだろう。イギリスとアメリカ。
だが、これは本当に昨今稀有な「オトナ」のかなしみ、絶対的な、存在そのものへの、己という個を超えた無償の愛。その、静かな、静かな、ただ存在そのものへの思い、賛歌。誰に評価されることがなくとも、なんの倫理も道徳もないところから発することのできる、ただ純粋な存在そのものへの思いのマトリックスに届いている。この静かな佇まいをもった「うたいかた」は。

ジョーカーが子供のように求める愛ならばこっちの方は母のように与える愛。

どちらにとっても、世の理不尽は、理不尽だ。
だが、主人公ジョン・メイは、ただ受け入れる。受け入れる。ただ、静かに受け入れる。still life。訳してはならない。

これが、母の愛だ。無償の、無限の「自然からの贈与」と同じ構造。限りなく雑念は0に近い。与えられた道を受け入れる。己にできる精一杯をただ静かに無心に、あきらめにも似て、けれど投げやりに踏み外すあきらめではなく。

ジョン・メイの生き方。それはおそらく愛情と呼ばれるものに変換されてゆく道筋をたどるエートスだ。

大層地味に正しく繰り返されるルーティンの中で丁寧に暮らしてゆく。やわらかな愛情をおしかくした無表情、プライヴェートもオンタイムオフタイムもありゃしない。ひたすら誠実で几帳面な仕事ぶり。

だがそれは仕事自体を「enjoy」する仕事ぶりであるともいえる。今与えられたこと(理不尽であろうとなかろうと)をただ受け入れ、味わい、人間と存在への愛に満ちた行為への道をただひたすらに歩んでゆくジョン・メイの淡々としたlifeの「佇まい」。すべてが彼が万感を込めてこう表現するもの、「my job」そのものなのだ。

解雇を宣告されたジョン・メイが、はじめてそのルーティンから外れた旅先の出来事のなかで、そこに因んだ飲食物への態度ひとつをとってもそれは顕著に描写されている。己のルーティンの飲み物、注文した紅茶でなくとも勧められた新製品ココアならばそれを頼んですする。故人が以前腹いせに工場内で放尿したというエピソードを聞いたばかりの豚肉入りのパイを手渡され、さまざまの思いをかかえたままかじりつく。漁師から受け取った生魚を焼いて食べる。(少し焦がしている。料理上手ではないな、ジョン・メイ。)ホームレスから瓶ごと差し出された強い酒をせき込みながら飲む。運送トラックが荷台から落としてしまって道路で溶けてしまうばかりになったハーゲンダッツの業務用パイントカップアイスクリームも、無駄にならないように、いつもの机でひとりカップから直接、黙々と食べる。

これらひとつひとつの無言のシーンになんとも言えず漂う諧謔。この情趣はユーモアというよりも、人間味、ヒューモア。いわゆる、ユーモアとペーソスがひとつになったものなのだ。

そして旅の最後。
ジョン・メイの日々のルーティンディナーは魚の缶詰(缶を開けただけ、イメージは殆どドッグフードである。)と一切れの茶色い質素なパンと小さな林檎。これを丁寧にランチョンマットにセットされたナイフとフォークで、というものだった。

その同じメニューを、旅の終わりに愛想のない表情をした故人の親友からごちそうされたのだ。
その時のジョン・メイの不思議なほほ笑みとそのもてなしに対して「perfect」と評するセリフの重み。彼はすべてを丁寧に味わう。喜びも悲しみも…enjoyする。実は深々と人々と人生と関わって生きてきた己のエートスに戻ってくる。彼の今までの生き方すべてがうつくしい物語の結晶として立ち現われたその旅から一回りして新しく戻ってくる。

イギリスの古い街の風景の情趣。酒場の片隅でひっそりと人々の営みをいとおしむように眺めるジョン・メイの視線。故人の人生を追ってゆく彼の表情には無表情なものから不思議な微笑みを滲み出させるものへと深まってゆく、この変化もしみじみと味わい深い。

この風景に、この場所に行ってみたいなア、の、映画としての美しい娯楽要素ももちろん素晴らしいんだな、うむ。

誰に看取られることもなく街の片隅でひっそりと孤独に亡くなっていった人々の人生の軌跡を、丁寧に辿り、その存在を確認し、証明し、それぞれの在り方を、愛を確認して、ジョン・メイは彼、彼女への想いを通じて己を含む全ての世界を肯定し愛してゆく。

何かの形で報われることを期待することもなく。

だからこそ、ラストの彼自身の弔いのシーン、そして幽霊たちの集うシーンでは流石に胸にグッとせまった…全編に流れる音楽もすごくいいのだ。本当になんというかじんわりとただひたすら感性に働きかけてくる。

 *** ***

というような(私にとって)なんだか逃げである歯切れの悪い言葉しか出せなかったけれど。

切れ切れの、そのイメージの断片を力づくでつなぎ合わせる意味は本来ないのだというところに力点を置いてスタートしないとだめだな、と再認識したのだ。

毎朝の目覚めの前後の絶望感の中で私は昨夜の己の感動をそのようなかたちにして考えることができて少し嬉しかった。本日を生きる力を得た。今朝。

…そうしてだけどね、私はおこちゃまなのでジョーカーのほうにずっと近いのだよ。
still lifeを激推ししてくれたのは姉だった。それはたぶん姉が母という存在であるからなのだろうと私は思う。おそらく、男性と母でないものは基本おこちゃまなので論理やなんかの美学、或いはジョーカーのほうに近くなるのではないかと思うんだな、基本的に。