酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夏休みの図書館

朝から猛暑のカンカン照り。
なんだかもう何にも考えないでただただ笑いだしてしまいたくなるほどの強烈な光に満ちた圧倒的な暑さってあるものだ。凄まじい輝きのエネルギイに満ちた熱風に吹きさらされて世界は真っ白、自分はカラッポ。そしてカラッポが楽しくてくすくす笑い出しそうなこの感じ。(湿度がないのが条件!)

上を見上げて思う。
濃い青いその真っ青にもくもく白い雲、眺めてるのは愉快だな。

こんなにもそれらしい夏を絵にかいたような強烈な金の光と青と白、眩い濃い夏の空というのは夏休みの記憶の中に心をぶんと投げ飛ばしてしまう。あらゆる夏休みの集積、そのエッセンスはもう向こう側の領域に存在する「夏休みのイデア」。こんなにもすべてががらんと暗く見えるほどにあたり一面がまばゆい世界では。

…世界は記憶に染められる。現実は芸術を模倣する。現実は物語を模倣する。内面と外面あちら側とそこちら側の垣根は消失する。こんな光の中では。

ああ夏空、なかなかいいものだなあと思うにつけ、ふと心づく。

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そういえば春夏秋冬のそれぞれの空がそのときいつも一番素晴らしいと思うのではないか、私は。

春のおぼろにやさしい甘いそらいろ、初夏の清々と高く澄んでゆく新緑の薫風の空。未来へ向かう若い生命の希望をはらんだこの初々しい喜びの青い光。

そしてこの真夏。
そして初秋の柔らかな切なさがそこにゆっくりと行き合ってゆく日々の移り変わりの中で。

それぞれの黎明、曙、早朝、朝、真昼に昼下がり、夕暮れの気配からゴージャスな黄昏空。

うつくしいとは幸福の別名であると直結して確信させてくれる、問答無用の圧倒的な美という概念について私は考える。心がそれを受け入れるときアプリオリにそれは存在している。

そしてそれは大層素晴らしいことなのではないか。

つらつらとさまざまの考えが色とりどりの魚のような思考となってこの光の中に揺らめき出だす。(バイクでぶうんと木漏れ日と緑のトンネルを走って、ぶかぶかしゃつの背中はたはたと風が通るのが好きだ。)

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夏休みの光の図書館へ。

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夏休みの図書館でだけ、夢見られたあの頃の世界、本から世界の豊かさを胸いっぱいに感じられていたあの幼い日々の時空のリアルを思い出せる、ということもある。

オトナの時計の客観的時間の中では、限られたほんのひとときのはずなのに、確かに限りなく永遠だった。風も光も窓の外。あの図書館の陽だまりで這いつくばるようにして読んでいた。足りない足りない、本が足りない、私は永遠にいくらでも読めると信じていた。

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アレだなあ。今日の空がいつでも一番うつくしくて幸せだっていうのはエンデのモモがマイスター・ホラのとこで時間の花を眺めてた時の理屈なんだな。

いつでもこの上なく美しい最高の「今」が時間の源泉からモモの瞳とモモの心をすべて奪うようにして花開き、そしてそれはたちまち萎れ、滅び去り、そしてつぎはさらにもっとうつくしいと感ずる花が花開いてゆく。源泉から時間の生まれる場所の流れの真実。

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そして台風がやってきた。
ぐずぐずと長逗留して各地で惨い被害や損失、災害をもたらした。

不快指数だけでも酷く不愉快なその災害の嵐が吹き荒れた後、季節は移ろっていた。

相変わらずの体温に近い猛暑、ものすごく猛烈な酷暑ではあるんだけど、(しかも蒸し蒸しのもわもわ)、やっぱりこの空と光と暑さは、もわりとした柔らかさを帯びている。明らかに残暑なのだ。もう夏は終わりなのだ。ほのかにさびしく優しい初秋や黄昏の光の匂いがする。晩夏の匂い。