酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

宮崎駿「君たちはどう生きるか」

映画館で映画を観るってのはやっぱりいいもんだなあ。

チケット発券、境界関門で係のケルベロスさんにもぎってもらって(チェックするだけだけど。)洞窟みたいな薄暗がりの灯りの灯る異界への迷宮廊下に入りこむ。深い暗がりを湛えた地下階へ深く下ってゆく長い長いエスカレーターも盛り上がる。

この一連のミッションってやっぱり異界に入り込む心のときめきなんだよね。(ハイロウズの「映画」って歌思い出した。あの歌大好きなんだなオレ。「楽しみにしてた映画が来るんだよ~♪」)

一回300円くらいだったらもうじゃんじゃん行っちゃうのになあ。みんなもじゃんじゃん行くようになるから映画文化ものすごい発達すると思うんだけどなあ。

何しろ涼しい。椅子もお尻に優しい。(願わくはもう少しリクライニング機能を…。)(ちょっと肌寒すぎるけどちゃんと羽織もの用意しとくとな、これはこれで世間から切り離された映画館独特の特別な気持ちになる贅沢なんだなウンこれが。)(言いたい放題)

(そしてしかしやはり最低限やめてほしいことはある。妙ちきりんな安物の車用芳香消臭剤みたいな匂いがするのに大層閉口したのだ。気持ちが悪くなって困った。周囲の人が遠慮がちに齧ってたポップコーンの香りの方がずっといい。あれは素晴らしい。しかしあんなに大きな紙バケツみたいなのに山盛りポップコーン食べていいのかみんな。あんなに大きな。)

映画はと言うと。
なんか言いたいこといっぱいあるようではあるんだけど、とりあえずは鳥たちキャラクターがあれこれよかった。就中セキセイインコたち、そしてインコ大王が。

それからまあこれは個人的シンクロニシティなんだけど、こないだつい観てしまった「不思議惑星キン・ザ・ザ」との響き合い。

この映画、途中あまりのディストピアっぷりの不愉快さに挫折しそうになったが、後半部からラストシーンへの怒涛の展開とカタストロフに揺さぶられた。観てよかった。そしてここで大きなポイント、ほのかだが深く強く心に残った優しい優しい涙が出そうな快さがあったんだが、この宮崎駿作品にもそれに通ずるところがあったのだ。直前に観ていたからこの一筋の論理、思想を自分の中に物語のひとつの響きとして見つけたのだ。これはいつか言葉にしてきちんと書き留めておきたい。

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とりあえず、ちょっと備忘録なメモとしては、決して正義や正しさや倫理によって軌道修正もされ得ない、背負わされた原罪、運命のような理不尽、或いは呪い、哀しみに満ちたにんげんの罪の醜さ、どうしようもなさとそれに対する圧倒的な許しの浄化の可能性。滑稽さの中にのみにじみ出る涙…宮崎駿作品に、これに似た快い読後感、もとい鑑賞後感を感じたんである。

その一筋の、あきらめに似た、けれど圧倒的な意思と祈りと希望に満ちた優しさの光。(それにつけてもこの映画に対しては実にソ連映画恐るべしと感じ入った。キンザザ恐るべし。)(当時、表現規制ってなかったんだろうか。ここまで露骨な権力批判表現。)(昔の庶民や芸人たちが戯言歌謡で政府の批判をパロディやコメディにしたような。馬鹿馬鹿しい大笑いと胸の奥の痛みがじわじわと沁みてくる。)

そしてだな、ここでのポイントというのはだな、自ずからそこに組み込まれなければならなかった、選べなかった、その社会構造に隷従と同化することでしか「生きていけない」ことになってしまった、そうしてそうなってしまう人間の性(サガ)のような眼をそむけたくなるほどの弱さ醜さ愚かしい浅ましさとさびしさ、けれどその中に潜む一筋の無垢さ、失われていない正義の、それらすべての人間の中の十戒互具、すべての共存。

多様性とは、愚かさとは、知性とは、そしてどうしようもなさとは。…と考える。そしてそれらを全て覆うのが 物語という力の持つ浄化の可能性、圧倒的な光と許しへの意思、無条件の愛に寄り添う、それへの、「正しさへの祈り」なのだ。「祈り」。

それはあるいは多様性への可能性を秘めたもの…共通キイ・ワードは、ラストに一言だけ呼びかけられる「トモダチ」という言葉の物語まるごとを背負った重み。

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ということで、宮崎駿である。
この話題作に対する世の中の賢い人たちの言及はいちいちおもしろい。
たくさんの謎解きと宮崎駿のそのモチーフへのモトネタモデルを探り出すような謎解きもたらふくあって、そのそれぞれがいちいちうなずけるものである、と思う。

これら謎解き考察を眺めているとそれらすべての深みと鋭さの指摘に、その批評者の個人的イメージからの含め、作者も読者も豊かにインドラの網のように個の具体の思いや考えがすべてが響きあい深め合う、インドラの網のような抽象のイメージの世界を形作ってゆく、ここにわくわくしてしまうのだ。

そうしてそれらの個々の考えの方向性としては、ほとんどすべてが大意としてはそれほど相違したところはない。

(もちろん、例えば作者、監督の生い立ちや思い、例えば基本元ネタといわれている、ストーリーの設定やあらすじにそっくり借用されたジョン・コナリー著の『失われたものたちの本』(2006)という下地やなんかも非常に重要なファクターである。その悪夢と異界のイメージの不気味さ、その理不尽、その呪いのようなやるせなさのオブセッション。)


それは何故か。それらの賢い考察にももちろん言及してあったが、これが開かれた神話としての暗喩のテクストだからだ。不正解はどこにもない。固定された正解も謎解きの答えもどこにもない。まあ大枠の物語構造ってのはあるんだけど。神話や物語のイメージの力のみがあふれている。

例えば大枠を考えたときは、こんなものだって考えられる。複雑に絡んだ、銀河鉄道999メーテルと鉄郎の関係性のように。

失われた母への思いから、未来の女性へ向かう、マザーコンプレックスを孕んだ少年の心の、大人へと向かう成長。それは、言うなれば与えられる愛から与えあう愛へ。決意、意志、過去の喪失の寂しさと、その痛みを抱いたままで昇華されたかたちでの未来の光、その明るい希望の同時性。

そして物語の中には、あふれる意味象徴のめくるめく鮮やかなイメージ。関門や境界、学問、炎や水や墓や産屋、穢れや禁忌。

何しろ、構造としていうならば、これはただひたすらものすごく多岐にわたったあらゆる領域に限りなく触手を伸ばす菌糸をもって世界を覆う物語の迷宮そのものであって、何をどこからどう語ってもいい、それが神話なのだから、というしかないと思うんだな。

神話とはそういうもの。それが可能であるからこそおもしろい。大切なのは、心にまず響くこと。面白さそのものが。官能が。感覚が。すべての論理はそこから始まる。

そしてもちろんそれを支えるアニメーションとしての技術へのわくわく。

ナウシカの原作なんかもう夢中になったんだよオレ。徹夜してしまう勢い。

それらおどろおどろしい悪夢を見事な娯楽アニメーションへあでやかに変身させたときの独特の動きとリアリティ、その色彩と動きに昇華していったジツリキとかさ。風の表現やおいしい食べ物のものすごくおいしそうな表現。スタッフ全員の力で築き上げたものではあるだろうけど、ある程度彼のワンマンさがなければ実現しなかったのではないかしらんなどと勝手に妄想したりしつつ。

とりあえず。

…いやあ~、映画って本当にいいものですね、というか、しみじみジブリじゃなくて宮崎駿作品が好きなのやもしれぬ、基本的には、自分。

いや、やもしれぬ、じゃなくて、多分、おそらく。

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主人公は過去の鬱屈を洗い直し諸刃の知識の門と墓と産屋で死と再生を経た異界での物語ミッションを経て己の意志で選び取った新しい未来へ向かう現実へ生まれなおした。

映画館異界を経てケルベロスさんの脇を通り過ぎ、物語ミッションを主人公と同時に終えた私も新しい日常現実に戻る。そして生まれなおす前に、私自身の真新しい日常現実準備ミッションとしての…

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これである。シネマのあと、余韻に浸って頭が別世界にぽうっとトリップしたそのまんま、日常に戻っちゃう前にポンとカフェ、っていう商業施設シチュエーションも、ときにとってもありがたい。

本日のブレンド、カティカティブレンドだって。

ほのかにフルーティで華やかな香り、後にふわりこくりと優しいスパイスの甘さがあって、なかなかよかった。(宣伝文句コピーでその気になるように味覚五感を盛り上げるのだ。)(最近珈琲に選り好みがなくなってきた。一時はスタバの深煎りは好みではないとかあれこれこだわってみたりしたが。どれもおいしいといつも楽しい。)

珈琲の香り、カフェ独特の優しい灯りや静かなざわめきと音楽に包まれて、あれこれ考えてはメモしたり。鳥が出てきたから鳥の絵なんか眺めながら。