おうちの中より外のがあったかい。春ぼらけな青空の日曜日。
どうして春の空はぼんやりくすんでるんだろう。(花粉やなんとかガスでないといいんだけど。)などとぼんやり懐かしい街の風景の中をゆく。キセルを聴きながら歩く。
杉並高校から吹奏楽部が練習している音が聞こえる。いろんな楽器たちを音楽室のあちこちでてんでんに練習する、あの懐かしい無秩序な音たちが。(嘗てあの空間の中に私はいた。)
…そして、視界にこの美麗な高級住宅街の風景が入ってきた瞬間、私は正直かなりショックを受けたんである。
夢を見ているのではないかと思った。目が覚めたら高校の教室で居眠りから覚めた午後の授業なのではないかと。
「阿佐ヶ谷住宅がさあ、すんごい立派になっちゃった夢見てたよ。」と笑って話す。
オレの愛した阿佐ヶ谷住宅よ、おまえはこんな風な陰りのない瀟洒な高級マンション群にされてはいけなかったのだ。おまえは何を売ってこんな風な隙のない整形美女に変形されてしまったのか。
計算されデザインされきっちりと管理された植え込み、文句のつけようのない住み心地、夜はしっかりと門を閉ざされるセキュリティ。
すきま風も雨漏りも鼠もゴキブリもない空調ばっちり快適な住まい。
ブルドーザーでつぶされたのは昔の夢。
大好きだった、あの風景。憧れだった。うっそうと茂った植物とほどよく共生する小さなおうちたちの群れ。昭和に見られた夢。
高校をさぼって友人と待ち合わせ、キンモクセイの木の下でお弁当、夜中にぶらんこ漕ぎながら語り合った高校の日々。あんな隙間はもうここには存在しえないのだ。
(これは2004年の阿佐ヶ谷住宅。)
仕方がないのだ。わかっている。
でも、だめなのだ。永遠に愛してる、あのときのままのあの風景を。あのユルさのあった時代を。
仕方がないのだ。わかっている。時の流れはただ淡々としてときに残酷で。
次々と新しい命が生まれ育ち動いてゆく。
古びたものはトコロテンのように新しいものに押し出されて否応なくこの世の外側に排除されてゆく。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」諸行無常。
でも、だめなのだ。一旦愛したものは一旦愛したという事実は永遠なのだ。
だから人は写真を撮りたがる。うつろいやすい心にそのよすがを残すために。
カメラのない時代には、物語をつくり詩にうたい音楽を拵え絵画として描きとった。その気持ちを。(愛だな、愛。)
どんなかたちでも、己が、己が愛したものが存在したという証明を欲しがる、残したがる。
いつでもそれが確かにあったのだということを証明するために、イマココに「現在」するものとしてよみがえらせるための、そのような「神話の時空」を創出するためのよすがを残したがる。
新しいものはいつでもその時代に合致してその時代の生活の必要に応じて生まれ、否応なく古いものを駆逐する。今必要な、今を生き輝くものが古びたものを押し流して行くのは必然で、そして正しい。年寄りは若者に取って代わられてゆくべきだ。
だが本当はどちらが正しい、というわけではない。その時の正しさは相対的なものであり、移り変わる儚いものだ。だが一旦存在した以上、そのすべての存在は存在として否定されるべきものではない。一度生まれたひとりの人間の人生が歴史の中で丸ごと否定されるべきでないように。
時空の新旧が無意味になる神話的時空はアボリジニたちのいうドリーム・タイムとして秩序ある世界を成り立たせるマトリックスを形成している。
よりよく進化発展して知性がより高いものとして深まってゆくのではなく、ただそれは変化しているに過ぎない。昔の人より今の人の方が賢い、なんてことは全然ない。愚人も賢人もいつも同じレヴェルで愚かしくまた賢く存在している。(だけどそれでも人類の知は文明は進化発展しているのだ、ということもまた否定はできないのだ。始まりから終わりへ、それは必然の流れだ、というただそれだけのことだ。)(創世から終末まで、すべては既に決まっている、とバイブルやコーランは語っている。)
温故知新とはよく言った。残された証明の中には、そのカルチャーの具現したものの端々には、その時代のその時空のまるごとが、そのエートスが知の形として残されている。そのときはそれを否定することでしか進化発展できなかったとしても。
或いは、それは、(漱石が文学論で主張したF+f(フォーカス、概念とそこに付随するフィーリング、感情)の構造を踏襲していうならば)愛を付着させた知の形。それは、いうなれば、生命(意味あるもの)としての世界そのもの。
文化遺産などという日常の実生活においてなんの経済的な益もない「スタイル」が、個人の、地域の、国家の、民族のアイデンティティ、魂の容れ物として大切に保護されることの意味はこれと同じ構造をもっている。それが極度に洗練された芸術としての芸能や磨き抜かれた職人技や天才による美的芸術としての権威を帯びたものではなくても。
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…善福寺川沿いの風景はあの頃と同じだったよ。
あの頃重ねた思いをたっぷりしみこませたまま、今年もまた桜の季節はやってくる。鮮やかなピンクの桜が、既にほろほろと咲き始めていた。サトザクラ「陽光」という名札。この木が満開になるとものすごい華やかさなのだ。
ソメイヨシノはまだもうちょっと先だな。このひこばえが可愛いんだよね。