酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

霞ヶ関

(ちょっと前の話ね。秋の終わり。メモしかけたままほっぽってた。せっかくだからアップしておこう。備忘録。)

 

行ったことなんてないね、と思ってたけど、メトロから上ってきたら、眼前に日比谷公園。アラここか。

あの辺は 意外と好きである。主として大学時代の思い出のイメージだな。あと、日比谷野音のコンサート。たまやRC、ここではほかに誰のがあったっけなあ。もうすべての記憶は曖昧で不確かだ。

何にしろ、リアルタイムであの世代として生き、彼等の音楽の生まれ響く場所を、その時空を共有し共振することができたことを私は非常に幸福なことに思っている。この幸福の意味するところは、己が生まれ生きたことまるごとに対する誇りである。そしてここで私の誇りとは感謝と同義である。

街は都会の夜景。私がこの辺りが好きなのは、道路がはろばろと広いからだ。視界が開けている、街路樹が大木である。歴史がある。それは、合理や経済効率ばかりを優先するのではなく、近代の黎明期、気概と葛藤の可変エネルギーに満ちた時代、都市のデザインに関わる人たちががもっていた堂々たる誇りと理想への夢、気概、矜持のようなものを、時代を超える瞬間の眩暈とともに彷彿とさせる広さである。換言すれば、それを意固地に象徴しているような広さである。エリーティズムのよき面をあますところなく発揮できた時代。歴史を経て風格を、威厳を深めてゆくタイプの、街の堅牢な骨格。生活、という温もりとは異なる次元のところにそれはある。高円寺が、若者がジャージでコンビニおやつを買う深夜風景や、裾の破れた半纏と下駄ばきのお爺さんがそのままぽこぽこお散歩してたりするのがとっても快い日曜風景のものであり、吉祥寺がアコーディオンを鳴らしながら公園の横の道を歩くヒッピー崩れのおじさんがしっくりと楽しい日曜風景であったりするのとは、全く別の美学、快さ。

ライトアップされて狐火よろしくぽうぽうと順番に浮かび上がり、周囲を照らす黄金の銀杏並木、静かな威厳を湛えた老木たち。このあたり一帯が巨大な幽玄能の舞台のようだ。広い道路に威圧的に聳えるビルディング、その隙間からぽうっと光る東京タワー。光の川のように流れてゆくヘッドライト、テールライト。地を流れる天の川のハレーション。この風景の印象が数十年昔の記憶とダブってゆく。

ここで既に奇妙な魑魅魍魎の跋扈する異界舞台に飛び込んでゆく前振りはたっぷりである。

お題は霞が関。舞台に上がれば全員役者だ。

 

ということで、これはやっぱり初めて、夜のお役所内部探訪。いや探訪は別にしてないんだけど、友人がお役所内部でのセミナーの講師をやるとかいうことで、なんだかよくわからないけど「こっそりひっそり部屋の片隅座敷童」的な立場で傍聴することになったのだ。まあ建物の中入るっていうだけで異世界探訪ではあるかもしれない。

いろいろおもしろかった。いろいろ寂しくなった。
そして非常な勢いで脳内にさまざま芽生えたこのぐるぐるした感覚を論理として言葉として、ナンダ、何か、この時間があったことの証明のよすがを残しておきたいという思いに駆られている。

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会場に入る。
ひやりとする、講演会という密室空間の特殊な時空。集団心理のことを思う。

例えばさ、オウム真理教の洗脳セミナーとか、漱石の有名な「現代日本の開化」外発的開化(「皮相上滑りの開化である。」とかもうやっぱり漱石の文章大好きだな。)のあの講演会とかビジネス系自己開発セミナーとかネズミ講販売会とか原理の洗脳部屋(大学入学当時サークル勧誘と称して連れ込まれたので行ってみたけど大しておもしろくなかった。たまたまだったかもしれないけど、当たった勧誘員があんまり賢くなかったのでまるで議論というものが成立しなかったんである。)とかなんでもいいんだけど、とにかく密室で、特殊な一つの部屋でひとつの意味、洗脳効果をどこかに孕んであたかもここで語られている論理が全世界を覆っているものであるかのようにみせる、そんな論理の時空を皆で醸成し共有し共犯関係にあるようなこの感じ。今この空間でおこっていることが、実際外部の時空とどう関わってどう連鎖してゆくのか、(参加した個人の中で、そしてその個人から、社会の歴史への広がりの中で)という時空の立体的、いや四次元的鳥観図のことを考えると頭がクラクラしてきそうになる。そしてこれがまた霞ヶ関という権力中枢に組み込まれ国全体に対し何らかの影響力をもっている場所であるということ、それがこんなに小さな狭いところであるという奇妙な懸隔、そのうっとり眩暈がしてきそうな違和の感覚。

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内容に関してはねえ、いやなんというか、あんまり今言いたくないな。話がややこしくなってめんどくさいから。でもやっぱりとにかく気合いの入ったちゃんとしたプロだなあ、時代を得て(語義通り「ときめいて」)絶賛売り出し中新進気鋭小説家のセンセイ。えらいなあ、きちんと立派な講演で、次々とあっちこっちからの角度から質問飛んでくる質疑応答コーナーでもすべてに臨機応変に対応。立派なおじさんたちに、先生、先生、と呼ばれちゃったりして、友よ、キミはとっても立派な優等生だったのネー、って、なんだかとっても眩く見えたよ。実際、後日のアンケートによると、とっても好評だったらしい。う~ん、さすがの実力である。

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高校の放課後の音楽室であったと思う。
だんだん部員が集まって来て、部活が始まる儀式の前のわちゃわちゃした時間。

男の子たちがふざけて本気喧嘩乱闘直前のフリで周りを脅かすごっこやサラリーマンのフリ名刺交換おじぎごっこや、そういうのやってた、そういう他愛ないシーン。あの頃我々は本当によく笑っていた。(怒ったり喧嘩したりもしたけど。)

高校を出て、それぞれの道を進んで、その日々はだんだん遠い思い出になってゆくという現象が当たり前におこるなんてことは、知っていても信じていなかった。もう10年も過ぎたころ、ひとりの友人がぽろっとこう言った。「あのころはね、高校のあの日々が永遠に続くと思ってたよ。」

そうだ、私もそうだったのだ。10年過ぎたからこの言葉が初めて理解共有できるのだと思った。理屈で知っているのとは別である。この世界が変わるなんてリアリティを感じちゃいなかったのだ、実際は、ずっとずっと。ただ新しく得てゆくことばかりのような気がしていた。失うなんてことを思ってもみなかったのだ、知らなかったのだ。

でも、やっぱりそれは何の特別さもなく当たり前に我々にやってくるものだった。(私は今でも心のどこかでこんな現実なんて信じていないんだがね。)…で、大学も卒業して大分たってからね、みんなあれこれ人生紆余曲折の荒波で、立派な社会人になっていった。取り残されてゆく私のような人間もまだぽろぽろと存在していた。そんな頃。

彼らがあの音楽室でふざけていたシーンがふざけているのではなく現実に目の前で行われていた。名詞交換、自己紹介として職業と役職という付与されたアイデンティティ、そして、互いを挟む、敬語。立場の上下の在り方の暗黙のしきたりと了解。

取り込まれたのだ。システム。
みんなが平たくて自由であったときは過去だった。パロディであったはずのその世界の中に、がんじがらめに捕獲され取り込まれている。

どこからどこまでが人生の演技なのだろう。
上手に己の役割を選び演じてそのひとつの社会システムという世界の物語のゲームの勝者を目指したり、とかさ。そういう物語の役割演技。

春樹の「女のいない男たち」での、役者と演技のテーマのことを思い出す。我々はいつ何を演じながら日々の日常を生きているのだろう。自覚的なレヴェルで、そして無自覚に組み込まれたレヴェルで。人生の物語を。

「キミは演技してるんだよ。」
と、以前ゼミの教官に指摘されたことがある。友人と、これってどういうことかねい、ってあれこれ話したりした。
「演技してない奴がどこにいるってことだよね。」
という結論である。

逆に言えば、本当の自分、なんてものがどこにあるってことで。

否定形でしか語れないもの。構造的にそれは真理と呼ばれるものと同じものである。

 

…で。
それを追い続ける方法論について考える。

例えば、あくまでも制度の中にありながら、不思議に精神が自由であったというときのことを、それが何によって守られていたのかということを、大人たちの祈りが子供の教育制度の中にどのように立ち現れているのかを考える。己がすでに取り込まれた世界、社会(すなわち自分自身《の一部》)を批評批判する心を持った次世代を育てようとする、なんてことが、もしかして人類の隠された逆説的本能なのだろうか。敢えて滅ぼされようとする父たちの構造。アポトーシス

己が捕まってどうにもならなくなっているものに対し、己がその身を毒されながらそれ自身になりながら、核の傘で守られた日本のように不遜にそれ(己)を笑うものを育てる制度の成果を、そのひとつの在り方を、未来に何かの望みをかけたものとしてただ構造として是、というように感ずる。ただそういうありかたなのだ、と。

でもね。

切ない。ほんとうにこれは切ない。奇妙な哀しみに満ちている。
権力ごっこもマネーゲームも政治も「大人の都合」も「大人になったらわかるよ。」も知った風な正義も、それら倫理の相対性、そうしてあぢきない水掛け論も、本当に全部演技で遊びのゲームで、すべてが終わった後のイデアの世界では、それが全部正しい学級会で正しい先生が正しく子供らに道理で正して見せてくれてみんなで笑って小突き合って正しく仲直り、な絶対の宗教みたいな道徳の時間に還元されるような、TVドラマのあとのスピンオフみたいな、悲劇ドラマのキャラクタ推しオタクたちのパロディ二次創作みたいな。

イデアっていうのはそういうとこだと私は思っている。)

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霞が関ビルの中の、官僚たちの、微妙なその権力構造の匂いなんかのことね。

後で、その友人がぽろっとこぼしたのだ。
民間と官僚ってのはやっぱり違う、と。やっぱり彼らは「お上」である、と。お上の人たちのその自意識を感じたと。

組織の権力構造のありかたやその是非や醜悪さ歪み非常識非人間性なんてものがあるとすれば、民間だろうとボランティア組合だろうと相撲協会だろうと芸能界だろう家族制度だろうと、大なり小なり、どこだっておんなじだ。どんなかたちでも。どっちのかたちにより強い正義や美学がある、なんてことは絶対ない。

けど、特殊な場所では、周りに対し双方向のベクトルを以て開かれ平均化されにくい閉ざされがちな場所では、それがより純粋で見えやすくなっている、のかもしれない。そしてここは「お上」というかたちで、開かれ方が一方通行だということなのだろう。

つまり、彼女が「違い」として感じたのは、そういう外部との関係性、ということなのかもしれないな、と私はなんとなく思ったんだけど、なんとなく。関係性がひらたい双方向ではない、という。

イヤでもさ、思うに、拠って立つ基盤自体がそもそも違うのだ。平たい経済という共通の論理の上にあるか、そうでないか。彼女はそれを空気として感じたんではないかしらん。オレにゃあんまりよくわかんなかったけどね。両方知らないから。どっちが正しいとか思わないし。

というか、違ってしかるべき、というか、おんなじ論理基盤にあっちゃいけないと思うんだけど。そもそも。だってそれじゃあ何のために政治システムがあるかわからない。経済がすべての権力の基盤になってしまわないためにあるんじゃないんかね、お上ってのは。学生時代もっときちんと真面目に勉強しとくべきだったな、こういうの。どうやって単位とったかわかんないくらいだもんね。小説とかなんとかばっかりおもしろくて。さっぱりわかんないってのもかなしい。まあとりあえずみんなが共通でもってる皮膚感覚だけは同じように持ってると思うんだけど。

あとねえ、大きな要素としては、エリーティズムがそのよき面といかんなく発揮できない時代性、のようなものが「現在」としてあるってとこかもしれない。あの霞ヶ関の風格と威厳の、あのうつくしい風景を作り上げてきた近代の黎明期とは違うのだ。

時代性っていうのはとてもおもしろいがとても難しい。

漱石が「文学論」で定義づけていた概念として焦点化されるフォーカスFと、そこに不可避として付随する感情、フィーリングfのように、文学(広義でいう概念・或いは物語)が(F+f)として定義分析されるとすれば、Fを個から社会へ広げてゆくとき、fもまた個々のものから集団と組織が織りなす、ひとつの定義や概念としては把握しがたいものとして、曖昧な、けれどどうしようもなくくっきりとした色彩をもった「時代性」として獲得されていく。問題は、その分析の切り口をどこにもってゆくか、己がそれをどこにもっているかを、各々のおえらい専門家たちが各々のその位置を自覚することなんではないか。やっぱり偉い人なんだから、そういうとこまでとことん偉くあってほしいんだよな、偉い人。

…なにしろ、さまざまの分野のさまざまの専門家が、それぞれの切り口をもってそれを語ることができる。それぞれ素晴らしい。

で、けれど、そのすべての声の総合が等しく聞かれ、政治としてのエリーティズムを正しく位置付けてゆかなければ、かならずポピュリズムへのアンバランスな反動は起こる。大雑把に言うとさ。で、どう転んでも、その両極のアンバランスは崩壊と戦争をもたらすのではないかしらん。エラソーに言ってるみたいだけど、これは勿論ぼんやりした感覚でしかなくてよくわかんなけどさ。下々から見上げたトーシローな大衆的感覚から言うとねってことで。

暮らしづらくなって人心が荒れてくると世の中やたらと物騒でさ、で、地震も起こるし長雨異常気象も起こるしさ。こういうのってなんか歴史的にも連動してるんだと思うんだけど。大体野菜がずっと高くてこの冬は鍋もなかなかできなくて大変困っている人々が多いのだ。(私である。)野菜大切なのに。(特に私にとって。)(納豆や麦酒も大切だけど。)

だから偉い人もそうでない人も、みんながみんな、怒る前にとりあえず笑ってみればいいのにさって思うんだけど。怒った後でもいいけど。つよいひともよわいひとも。とりあえず。

すべては、それからだ。

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…ひとりひとりみんなどこかで捕らわれながら、どこかで絶対持っている。個々の魂の自由。自身を含んだ世界をすべてパロディにしてどこかで笑っていることができる。自由。パロディ。

笑いは批評であり、笑いは自虐であり、笑いはそして、解放である。

なんとかそこんとこを、繋ぐことができれば。知性というものが。

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…というようなはげ山の一夜でありました。

まわりじゅう偉くて立派なひとばっかりで、いつもいつもいつでもどこでもどこからも誰からも取り残されていくふにゃふにゃでのろまのワタクシはその夜も大変寂しくくたびれたであります、ハイ。おもしろかったけど。