酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

梨木果歩「椿宿の辺りに」

仮縫氏「治療というからには、ことを荒立てずにすむものではない」(中略)「もちろん、荒立てずにすませられればそれに越したことはないのです。(中略)だが世代を重ねて深まってきたややこしさを、本気でなんとかしようと思えばーーときほぐすということは、まず不可能にしてもーーある程度はことを荒立てないわけにはいかない。その覚悟はおありかな。」p94

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言うなればこれは「ことを荒立てる。」という物語だ。
澱みを隠蔽し歪みを隠蔽し己の罪を隠蔽し、なかったことのように扱うことによって日々の平穏を得た気になる。…多かれ少なかれ、個人にしろ社会にしろ国家にしろ、現実はある程度この構造によって成り立っている。誰かの犠牲、どこかの歪み。気が付かないふり、忘れたふり、隠蔽。

そしてこれは、犠牲となっているものから目をそらし、とりあえず日々を過ごしてきたことによるその過ちが、痛みという一つの象徴、ひとつのサインとして噴き上がってくる物語なのである。

あたかも、コロナ禍が、隠されてきた社会の歪みを、その膿を痛みに耐えきれないレヴェルへと激化させ、激しい形、革命的なかたちで一気に噴出させたように。コロナ禍という「痛み」であるによって「荒立てられた」この現実の物語。

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実は最初、f植物園の感動の流れのままこれを読んだときは、正直言って少々がっかりした記憶がある。(そのことについてはここで言及している。

この感想の印象自体については否定するつもりはない。

だが、再読というのは実にまったく素晴らしいことに、最初に読んだときとは異なる深みをもたらしてくれるものである。このことを、人生終盤に差し掛かってはじめて私は学んだ。これぞなんだかんだとあれこれありつつ今までをなんとか生きてきた特権である。若いとき読んだ本を読み返す贅沢ってのは年をとったことの最も素晴らしいできごとのひとつなのではないか、イヤホント実際。

たとえ馬齢を重ねてきたにせよ自分、これは誰にも否定させるつもりはない。

で。
「椿宿」はやはり「f植物園」の続編なんである。
いや、続編というより後日譚。

「f植物園の巣穴」。
この、それ自体作品として完結していた植物園を敢えて前半部とし、その後日譚としてかけ合わせることで「椿宿」は、一気にその物語としての豊かさ、膨らみを増す。そして双方がいきいきとした意味を補完しあい開かれた世界構造を持つようになる。いわば太陽と月のような関係性の物語、両者を視野に入れて初めて開かれてゆく宇宙全体への視野。そんな組み合わせの構造の妙味をもったダイナミックな面白さなのだ。

「f植物園」の胸をつかれるような個の感情の持つ痛みや深み、浄化に向かおうとする健気さに対する人間そのものへの切なさと感動。

そしてあの、個としてのこの作品の完結、その完璧さからの、敢えての脱却としてこの「椿宿」は発生する。

繰り返す。前者は既に一度文学作品として完成している。
f植物園では、主人公が個として開かれ、己の記憶の中で封印していた痛ましい記憶、罪の記憶を、時をさかのぼってもう一度心象風景の中にやり直す。処理されるべきであったのに成長することを拒否したことで埋もれ腐れていた乳歯に起因した痛みをサインとしてその来歴を掘り起こし、問い直し洗い直し、そして己の痛みに向き合い、同時に他者の痛みに共振し、お互いに赦し赦され愛されてい愛していることを受け入れ浄化された大切な家族との新しい未来へと向かう。

これは、いわば自己幻想と対幻想(吉本隆明の「共同幻想論」のアレ)、すなわち自己とその周りの大切な者たちの物語である。己という個の周囲の世界が過去に封印されていた無自覚の罪を掘り起こし正しい流れに向けて浄化清算し、理解と調和と愛に満ちたうつくしいかたちで未来の希望を得るすがすがとした読後感をもって、そう、これは「完結した」はずだ。

だがそこで「(とりあえず今は自分の手に余るから知らないヨ、先送りね、の)置いといて~」と伏線的に言及されていた「共同幻想」のレヴェル、個の物語としては担いきれなかった、個を個として成り立たせていた全体性、個から開かれる更なるルーツや未来、その開かれた社会、他者への広がりへの「また別の物語」(エンデの「はてしない物語」のあのフレーズね。)という必然が「椿宿」を産み落とした。

「f植物園の巣穴」は、古い時代をさらに遡る幾重にも重なった入れ子型のスタイル、ここに仕組まれた非常に幻想的な異世界、書き出しから既に心象風景の夢語りのような幻想と現実のあわいを行き交う自在な幻惑、魅惑が、著者の文体の魅力を最大限に発揮していたものである。そしてこの世界から噴き上がった異界的マトリックスパワーが、ここから現代の現実界へとつながり浸潤していったところにあるのが「椿宿」の構造であると言って差し支えない。

これはまた、アイデンティティの枠組みとはどこに定義されるのか、という「わたしとはなにか」のテーゼに対する問い直しとして捉えることができる問題だ。

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テレビドラマの呪いが傍観者だったはずの視聴者に、安全圏にいたはずのインターネットでの物語の傍観者だったはずの者たちに、物語が襲いかかってくるようなドラマやネットの怪談が一時流行った。(貞子とかそういうの)この作品の構造はそれに似ている。

テレビ、ネットというメディアを通して物語に巻き込まれる、物語が己の現実と同じ地平のものとして襲いかかってくる、思いもよらなかった傍観者から当事者へ踏み外してゆく立場の変化のレヴェル変化のぞくぞく感。これら巻き込み怪談のような話のうまれる方向性があったように、他人事の物語のように感じていた神話や先祖の物語、地域の物語が、己のルーツ、いわば己自身を構成している一部であることを社会と人生の参加者へと「痛み」を信号として襲いかかるようなスタイルで物語への参加を、取り込まれることを、その関係性を強制してくる。(サルトル的な社会へのコミット、アンガージュマンに行き着く流れの、実は一種の実存主義的構造を持つ作品なのではないか、これは。)

己の「山幸彦」という兄弟確執の神話から来る名前の由来が、神話という原型に呪われたかたちの先祖代々の兄弟関係の物語の歴史的な繰り返しであることに気づかされる主人公。その謎ときを展開しながら、祖父藪彦から語られたさまざまのその神話の解釈のダイナミクスの中に藪彦の、彼に託した名づけへの祈りが、現代から未来へと山幸彦の周囲で「生き始める。」

神話とはメタファである。
ラストの宙幸彦への手紙で、山幸彦は、母から受け続けた理不尽さへの己の思いから目を塞ぎ、己は何事からも距離を置き自由な個であり、ただひたすら世界にコミットしない、というスタイルを貫いていたこと、そしてその隠蔽からうまれていた「痛み」を契機に、隠蔽から目を開かれ、その運命に対し世界との複合体としての個を自覚したかたちで「コミット」しようとする決意を語る。

そして、自分たちの祖先から彼らに語られ続け親たちから宿命づけられた海幸山幸兄弟確執の神話を、一人の人間の過去と未来を兄と弟に例えられる、と解釈して、立場をおなじうする宙幸彦や海幸彦者たちに共有し、託された自分たちに対する親たちの祈りや思いを受け入れようとする。

(過去と現在の個(自己幻想)が、他者、世界(対幻想・共同幻想)と統合された全体性の調和を目指してゆく未来に向かうために。)

踏み越えられ乗り越えられてゆく兄は「過去」だ。兄と弟の相克の比喩が過去の自分としての先駆者、兄(過去)と「現在」の己としての弟であるとする解釈の中に、中つ神としての「宙彦(そらひこ)」を設定することで現在・過去・未来という己の変遷と己自身の中の相克を自覚してゆく物語としての海幸山幸の解釈。

海を司っていた兄と山を司っていた弟。海と山とを掌握してゆく「治水」というテ―マを兄弟の相克の物語が原型であり、山幸彦の人間性は藪彦の語りの中で強かな悪役であったりもするのだが、さまざまなヴァージョンを孕んで、基本的には過去の権威を象徴する兄ではなく、その過去の重圧をはねのけ現在と未来を担うための弟、宙幸彦を媒介としながら統一された山幸彦を勝者に仕立ててゆく。

いくつものその神話のバリエーション、解釈が祖父によって語られている。山と海、水と大地の関係性を如何にしてその自然の脅威と付き合ってゆくか、そして恩恵を享受してゆくか。

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f植物園での主人公豊彦の、流産により生まれなかった長男「道彦」。
そしてその長男を過去に敷いて生まれた現在・現実の次男「藪彦」という父豊彦の兄弟への名づけへの思いと祈りが描かれてゆく。

この箇所、道彦と藪彦の兄弟の名に込められた思いが解きほぐされ共有されてゆく箇所もまた感動的なものである。

母親の子宮から生きてこの世に生まれ出ることのなかった長男が(まさしく南米ネイティブ・アメリカンのシャーマンのいう)豊彦の入り込むドリーム・タイム、時空と個の枠組みを失い、内外の溶け合った心象風景の中で豊彦にその存在を思い出され、父の行く水路の道筋を示し出してゆく神の遣いとして進化してゆく彼ら二人の道行のダイナミックな気づきの感動。

この「道彦」を兄として現実に生まれてきた次男藪彦に未来のすべては託されていったわけだが、

その思いとは以下のようなものだった。
藪彦が幼い頃豊彦に語られたその名付けの由来である。

後に、己の名についてこのように藪彦は妻に語ったのだ。

「藪っていうのは無数の生命の宿るところなんだよ、(中略)例えば藪の外側には陽のよく当たるところを好む植物が、内側の陽の当たらないところには、本来森の奥にある植物まで見つかることがある、と。外側から内側まで、明るさの度合いに合わせた植物が茂り、かつ動物や鳥も、巣をつくりやすい。昆虫もそっと卵を産み付ける。藪ってね、命の大カタログみたいなものなんだよ(中略)自分は大きい豊かな藪になって、小さな兄さんの道を道として成り立たせる(後略)p257」

「痛みは単に、その箇所だけの痛みにあらず。全体と切り離しては個は存在しえないのです。いやまったく、人間の体というものは自ら、治ろう治ろうと進んでゆくものですな。p298」

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先に私はこの物語の構造とサルトル実存主義アンガージュマンへの流れ)との響き合いについて言及した。最後に、そこから更に響き合うものの可能性について感じていることを述べておきたい。

エポケー(判断停止)、そして現象学的還元。実存という、いわば意志的なるもの。
哲学的なことは小難しくてよくわかんないがね、その動きが、絶対知、真理というものへ向かっていこうとするという。

この「絶対知・真理」が、「うまく回ってゆくうつくしい流れとしての調和である」とするならば、と私は思うのだ。

「治ろうとする人間の体」が「治水」としての正しい水の流れ、治水という行動に対する、神社を介した人間の畏敬の態度、「正しくうつくしい流れであろうとする世界の力の姿」との構造のアナロジーである、というその響き合いである。

…そう、それが「絶対知」であることもできる、というハナシなんである。絶対知とは何か、という命題に対するサルトル的な意志的アンガージュマンとしての解釈としてね。

まずはすべての基準をひとまずカッコに入れて客観化すること。そこから、何かに委ねてゆくこと、あるいは敢えて選んでゆくこと。そのすべての判断と行動へのさまざまな選択肢に対する祈りのような、ほんの少し諦めのような、全てを肯定してゆくような、人間社会を越えた、ひたすら未来の希望と繋がってゆく、巨きな優しい眼差しに開けてゆくラストである。