酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

お姉ちゃん、というのは。(続・星野智幸メモ)

お姉ちゃん、というのは固有名詞だった。

ものごころついたとき、「お姉ちゃん」はお姉ちゃんとして存在し、家族皆から「お姉ちゃん」と呼ばれるものであった。「課長」「部長」と同じ。父・母・長女・次女で構成される四人家族の中の役職が呼び名であったのだ。

パパ、ママ、お姉ちゃん。それは既に家庭内においてはシニフィエシニフィアンの関係性において固有名詞である。一般名詞としての意味合いは限りなく薄い。家族間の社会的役割のアイデンティティのなかに既にものごころついたきあらかじめ個は複合体自己として取り込まれている。

で、結局どっから見ても固有名詞として認められる語義通りの固有名詞で呼ばれるのは平社員、末っ子の私だけだったんである。社長や部長とかは役職名で呼ばれるけど、平社員や新入社員を「ヲイ、平。」「ちょっと、そこの新入り。」などと呼ぶものはよほどのキャラクターでないかぎりナシでしょうやっぱり。「ちょっとこっちにきなさい妹。」とか言われたことがない。

だから、よその家族にもその家庭独自の文脈において独自の関係性と顔を持つ個というシニフィエという「意味されるもの」の実体の風合いをもって「お姉ちゃん」という一般名詞的なシニフィアンで呼ばれる者がいることに私は実はかなりの衝撃をうけたんだと思う。「だれだれちゃんのお母さん」「だれだれちゃんのお姉さん」は意味として論理的に理解できても、その家庭内に入りこんだとき、それがそのトポスにおいて固有名詞として扱われていることを認知したとき、私の言語中枢は革命的な激震を受けたんである、間違いなく。

軽やかに意識の表面には出なくても、ボディブローのように深く効いてくるラディカルな言語革命。言語中枢と自己認識、家庭内の関係性認識、個の分裂、或いは疎外の可能性。私とは何者であったのかの根源的な問いを孕んだ視点が開かれる衝撃。

で、振り返り今の世の中。
母になったいわゆるママ友たちの間では「ナントカちゃんのママ」がアイデンティティである。つながりのコミュニティから考えると当然であるとは思う。親のいる老人ホームや介護施設なんかに行けば「ナントカさんの娘さん」になるのだから。

だから、よく言われるように必ずしも妻として母としてではなく個人としてのアイデンティティを尊重して呼ばれるべき、というほどには思わないが、まあねえ、割合の問題だよなあ。確かに固有名詞があるにもかかわらず社会的役割の部分だけを通称とされることによってそこにお互いの関係性の意識が縛られる弊害というのは存在する。社会との関りであるところ(家庭はミニマムな社会である。)。その辺は忸怩たる思いがある。安心感、というのもある。

おそらく時代のニーズに合わせて変革されていくべきところなのだろうと思う。

が、とりあえず、現状というのは現状にあるものが大衆的な力である程度制度側を換骨奪胎してテゲテゲにうまく塩梅してるとこもあるからな。不都合を少しずつ微調整しながらゆっくりとなだらかに時代は動いてゆければいい。永遠の絶えざる微調整による穏やかにしてラディカルな変革。真の保守とはそういうものだ、という。

リベラルと保守は対立しない。…アグレッシブな革命は痛みと流される涙と血の犠牲を意味する。それは激烈で悲劇は激しすぎる。大きすぎる。オールオアナッシングってのは大抵いいことが少ないのだ。

…そういえば大学に入って最初の社会学の授業が社会とアイデンティティの定義、この話であった。無意識に演じていた社会とのかかわり、役割を総合したところで個としての人間はできあがっていると。

そしてそのすべてからはみ出してゆく要素。これが文学哲学芸術宗教が引き受けようとする「どこでもない・だれでもない」ところであり、恐怖にも直結しうるところではないかと。特に制度化されたものから限りなくはみ出してゆく、このカオスの永遠の謎・森としての文学が重要なのではないかと私は文学野郎なので思っている。

 *** ***

ということで。
星野智幸デビュー祭は続いていて、「だまされ屋さん」にかかっている。

家族の問題。
もつれてどうしようもなくなって傷つけあう夫婦や親子のしがらみの中、他者が介入することによる家族解体と再生の物語。役割ではなく人間として解放されるための自家中毒からの脱却のための模索。「誰も敵ではない」ことを感情的に納得する、その精神の解放のための語り合い。責め合うのではなくただ語り合い理解しようとする。

そして外部からの闖入者がそこには必要なのだ。

(「俺俺」でも、家族の中で「俺」という役割を果たすことが俺のアイデンティティなら、俺は誰にでもなり得る、誰もが俺になれるという個の崩壊の「感覚」がきっかけ、テーマの展開となっている。)

そしてここ「だまされ屋さん」では、それは「だまし合うこと」を「許し合う」方向性へとむかってゆく。方便としてのほのかなだまし合いをあえて暴露し合う正直さという「絶対或いは真理というのは存在しない虚無である。」という認識、「真実」からの解放からはじまる関係性のテーマへの方向性がみられるものだ。

相手に嘘を吐かれたことで傷つくこと、または己自身が嘘を重ねてしまったことでの自己嫌悪、それらの不信は鏡合わせで増幅し合い、お互いが果てしなく自己嫌悪から逃れられない業に溺れクズになってしまう展開、ここから逃れるためのテゲテゲさのところを探ってゆく不思議な物語。

本当に望むのは傷つけ合いではなく許し合うことなのだ、と。それを論理ではなくまず感情の解放によって可能とするための一旦のすべての制度の解体。自己防衛と自己攻撃の泥沼からの解放。そうだ、重要なのは、それが論理で分かっていることではない。感情で開放しなければ不可能なことなのだ、というスタート地点の認識である。

どろどろと苦く堂々巡りを繰り返し自他を責め続ける自家中毒。どうにもならないこの人間の業の泥沼を抉るようにえがいてゆくこの作家の一面にうんざりげっそりしながらも現実をどんどんゆがめてゆくような奇妙な味わいを加速してゆく複合と複眼の物語のダイナミクス、その面白さで読んでゆく。…この流れの中で見出すことができる、「他者(外部)からの闖入者による家族解体(そして再構築)」この意識の視点の革命的なパラダイムの変換の発見みたいな感覚を思い出した。奇想天外な設定が現実の逆説的なカリカチュアであるというリアルな実感。

最初の「植物忌」に顕著であると思ったテーマとしては、その己自身から逃れ、飲まれて負けて解放されて行こうとする逃避と滅びという、ひたすら崩壊しようとする、カオスへ帰ってゆこうとする、一種カタストロフな味わいのある「うつくしい」救済の方向性。

だがそれはあくまでも滅びである。生き抜くことはそこからの、いわば共存のためのスタートだ。
社会的人間としての己、そこに縛られているおのれとそこから矛盾しはみ出して動きの取れなくなる牢獄にハマっている己の深奥の構図を自覚する知の力、その苦しみ、その明晰のところが、すべての牢獄からの救済の方向性を探る祈りとしての文学の本質そのものなのではないか、なんてとこでね。修羅を生きるままに仏を生きる。内側の修羅。これは「呪文」の物語のかたちの構造ではある。それを逆説的に外側に解放したのが「焔」「俺俺」「だまされ屋さん」のさまざまの「俺物語の語り合い」による暴発、涙、自己解放という自己崩壊、そして再生としての他者の認識という、一種カタストロフな試練と反転の祝祭の場の設定である。

多義としての個の語るどの物語もどの正義も何かの論理に依っている。何一つ絶対的に否定はできない。だが逆に言えば何一つ絶対の正義もない。だからこそでも多義のなかの「こうあってはならない」の強迫観念にがんじがらめになった「クズ」自覚をことさらにアピールしてくる「俺自身」に閉じこめられ苦しみ自己攻撃自己否定自己崩壊という方向性に向かわないでいるのはどうすればよいか、生きのこり生き続けるためには、

…といったとこだ。

様々の物語は理屈だけではなく感情からくるものである。純粋に。そもそも理屈や論理は本当は人間を、すなわち感情をベースにしているものだからな。

だが「焔」や「俺俺」ではまた違ったこのような他者への尊重としての「他者性」、すなわち己の理解できないものを認めたうえで赦し合うことを知る、愛する、その多様性への認識と赦しと解放、救済の方向性が示されている、といったところなんだよね。
よね…理屈としては。なんだけど…

どうもこの辺りまだ理屈が理屈。唐突な涙と解放の展開が、ちいと独りよがりなというか構造だけのあたまでっかちにねじまげた無理やり感がぬぐえなくて、という気がした。せっかくの圧倒的な筆力の官能が今後の作家としての深みと円熟として調和し繋がって実ってゆくことを期待。

※追記

「目覚めよと人魚は歌う」読了。
三島由紀夫賞を受賞した作品らしいが、これはアカン。くじけそうになったし些かうんざりした。

こっち(読者である私)のコンディションによるのかもしれないが、登場人物たちの精神的な痛みがお仕着せの出来合いの物語の感じられ、説得力を持たないのにもかかわらず、やたらと傷ついていているという設定のうえに、コテコテと性と暴力を幻想へのアクセス手段としたそのトリップ描写は一種美的なものに昇華されているというのかもしれないにしても、なにしろ土台に説得力がないのだからまったくはいりこめずひたすら官能的であることがアタマで理解できるだけである。

構造的にはおもしろいんだけど。妄想傾向の統合失調症的な己に苦しむ個の描写からは、逆に統合されている「常識」「幻想(個的幻想、共同幻想)」の虚偽を浮き上がらせる力を持つ構造が見受けられる。

そう、まさしくこれはあらゆる文学作品共通の「私とは何か」「世界とは何か」のテーマである。