酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

家の持つ記憶

高校時代からの古い友人がご町内に住んでいる。
彼女と彼女の伴侶殿が力を合わせて構えた邸宅の向かいには伴侶殿の実家があって、お舅さんとお姑さんが亡くなった後、空き家になっていた。歴史のある古い家屋だ。

で、今回、やむをやまれぬ事情があって、伏してお願いし、そこにしばらく仮住まいさせていただくご縁となった。

考えてみると、既に失われたそのご一家と私とは実に不思議なご縁になる。全く見知らぬ他人のおうちの、彼らの生活の気配がそのまま残った住まいなのだ。

主がいなくなった後の生活の名残の中にある空き家にそのままするりと入り込んで住まわせてもらっているこの状況。

その家に住んでいた方々の家族の歴史、壁に貼り付けられたたくさんの写真や生活の息遣い、台所の使い方、書棚…ここにいたんだよ、という気配が、生活の優しい幽霊がそのまま、己が滅びたことを忘れたままに家の記憶に残っている。人生、生活…「ライフ」が。

晴れた日曜の朝、リビングの中に朝陽が射しこんできたとき、もやもやと感じていたその感覚が突然くっきりとそれである、と腑に落ちた。
するとふわりと懐かしいような気がする不思議な朝陽のようなその光に包まれた風景の感情が優しく柔らかく私の魂に流れこんだ。誰かの感情が私の中に流れ込み、その人を包んでいた時空に包まれる。あたかも憑依されたかのように。

私は飲みかけのお茶をテーブルに置き、時空の枠組みを無化するひかり。その朝陽の金のまばゆい光に目を細めた。

「風景の持つ感情」という言葉が思い浮かんだ。
この家で営まれていた日々、その日曜日のワンシーンの記憶。そこにあふれていた感情。家という場所が家族をつつみこんでいた、その家主的な、家守、神の持つ守護、家自身がそこに感じ取り存在意義となっている満足とあたたかさ。ひかりの中にまどろむような家の記憶への扉が開いている。

そう、家が覚えているのだと思う。この古い家で営まれていた昭和の家族の記憶を。

両親と、一人息子。二階には父の書斎、壁全面にしつらえられた本棚にずらりと分厚い専門書のそろった憧れの学者の、パイプ煙草やブランディが似合う大正昭和の知識人のあのイメージ。揃えられたクラシックレコードと古いステレオ。

母の部屋は明るい一面の窓から射しこむ光、マンドリン、そしてピアノ。

日曜朝の光の射しこむリビングでは、家族の朝ごはんの跡、この古めかしい骨董品のレコードたちが当時はピカピカと新しく名曲を流していたのであろうその風景の記憶を、その音楽を、その平和な暖かい空気を、幸福な家族の物語のワンシーンを、家は覚えているのではないだろうか。

私は事実は知らない。
だが家と私は二人してそんな物語を感じ取り作り出す。だから我々と彼らの関係性はそのようなものとなった。不思議なものだ。

家は私を記憶するだろうか。
取り壊されるときその記憶はどこにしまわれてゆくのだろう。一度存在したものはその存在自体失われることはない。時空の果ての、「忘れられたものの国」の中に、何かの夢の記録、雲母のカケラの一切れのきらきらの中に閉じ込められて、文学の中に、誰かのその夢の中に、そして弥勒が降り立つその日まで眠るようにしてその存在を在り続ける。(エンデの「はてしない物語」で出てくる夢の地層に埋もれた雲母たちのきらきらした希望と、それがもろもろと崩れ落ちる絶望と。ふとそのエピソードのことを思い出した。)