雑誌の特集の見出しを眺めていて目に飛び込んできたのは「ぐりとぐら」のあの愛らしい絵本の写真。
ぐりとぐらは時代先取りSDGsで、あるべき理想の暮らしの姿だっていうのが御説趣旨のようであった。
ということで、ううむ、と、私は己の中のいろいろの優しい匂いのする絵本の記憶を探り、そのほのかな光を探り、そのチャンネルの持つ心持ちの力のことを考えながら拝読したワケである。
確かに。
なんかね、確かに基本の暮らしの中のひとつひとつすべてをうつくしくたのしくおいしく、すべてのものもひとも大切にしながら暮らす究極の幸福のひとつはあの世界の夢でもあるかもしれないのう、って思ったよ。
そのときの記憶を、思いを、心を思い出すだけで幸福になれる風景のチャンネルを、誰にも何にもいささかも損なわれることのできないまったき幸福の定義、その感情。心の深奥に深く己の魂そのものとしてその幸福の風景を保有しているということの大切さ。
だから、そしてことさら特に人生の初めのところで、子供の頃、そんな優しい楽しい世界を刷り込まれることはとても大切なんじゃないかと。
うつくしい言葉や優しい色合いのイラストでつづられたあらまほしきたのしいひとときを描いた物語。ページを開くとその世界が広がる、という書物の確かな奇跡。
子どもの心の集合体の変化によってきっと世界全体の未来は変わっていく。
決して人生これからずっと無毒で過ごせというのではなく。(無理やり子供を強制的にずっと無菌にしておこうというのはエゴであり間違っている。)
男性原理の利害と「現実」で作り上げられた「社会」は子供の頃教えられた正しい倫理や論理という祈りでいろどられた「正しい立派な大人」のものでは決してなかった。
その荒波の中で成長してゆく過程で、ひとは己もまた生きていくために無辜ではいられない。苦しい道を選択していかなくてはならない。
が、人生の基礎のところに、三つ子の魂のところには、無条件の母の愛で限りなく守られて愛され、奇跡のような輝きも素晴らしさも恐ろしさも理不尽も全てを含んだ世界、不思議と可能性と未来に満ちていた世界の姿を己の一部の基本として持っておくこと。それはすべての世界、大いなる自然の恵みや災害という簒奪、それら人間社会を超えたところからやってくる粛々とした多様な倫理の錯綜するマトリクス、カオス、ひたすらおおきな事象への畏怖の心と共に、現実にあるものへの尊重と多様への正しい距離感への眼差しをも育てるはずだ。
…おそらく許す力へ、も、それはつながる。愛された者の持つ、それは力だ。
悪夢に飲み込まれ闇に堕ちそうになって泣いている時、そこから迷う魂を掬い取ってくれるもの。それは母の胸に抱きしめられ愛されている守られていることにより護られた記憶、理不尽の憎しみや悲しみの闇の中、迷子になっても戻って来られる力。それは論理ではなく感情なのだ。
そしてそれが私の考える「お育ちの良さ」なんである。
一人一人の中の、こんな風な小さくて大きな底力。それが世界全体の未来を方向づけてゆく、変えてゆく力にならないと誰がいえよう。
だからこそ、まず子供のまっさらな心に与える始まりの物語の絵本は注意深く選ばれなくてはならない。
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あちこちで戦争が起こっている。
憎しみあい、長い長い愚かしい怒りと理不尽とかなしい醜悪な浅ましさの権力と…何が大切かを見失うかなしい愚かしさ。なんのために授かった命なのかを。
きっとあのひとたちは人生の最初のところで正しい愛と絵本を与えられることがなかったのだ。
その元凶の貧しさはけれど世界の不平等で理不尽すぎる仕組みからまず来ている。愚かしい虚栄や征服欲や…すぐれた能力が愚かしさに発揮される仕組みができる。
無力な人の命が道具として使われている。
攻撃してきたら見せしめに人質を殺す?
愚かすぎて吐き気がした。
これが「大人」の「現実」の世界というのか?
(ニュースでいささか大きなショックとダメージを受けているらしい自分。)
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ううむ、選ぶべき現実は、ほんとうは、夢のようなあのかすてら、みんなでたらふく拵えていただく、あのぐりぐらの大きなふわふわシヤワセの焼き立てかすてらなんであるよ。
すべては人の生きる現実とは人の拵えたひとつの物語にすぎないのであるから。
なあんて言って、実はオレ、「ぐりとぐら」ってちゃんと読んだことないかもしれない。小学校入学前といえば、かこさとしのからすのぱんやさんとかは確かに熱烈に愛読してたんだけど。
絵本に限らず、まだたくさん読み返したいものも読みたいものもあるんだよ。
死ぬまでにやりたいことでも書き出すか…
やっぱりもう少し生きていたいな。