こないだ友人がバカンスに出かける前に,まあいらっしゃいなあ、などと愛を持ってご招待してくれたのでやれありがとうと、珈琲をご馳走になってきた。
もにゃもにゃとあれこれおしゃべり。
ここでふと課題が提出される。
近所のおうちのゴミ置き場のゴミがカラスに荒らされるという被害にあい、非常に見たくない生ごみの散乱を目にしてしまったという話をされたんである。
で、友人はこぶしを握るようにしてやるせなさに身を震わせ。あらん限りの力ををこめて眉を顰めながら己のもやもやとした悩ましさを私にぶちまけてきた。
「ものすごくイヤだったの!見苦しかったの!」
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…まあねえ、見たくないよなあ。破壊されたゴミ袋。特にこの季節は悲惨なものが。あれこれ匂い立つ季節だし。カラスもどうせなら責任取ってかけらも残さずきれいに処理してくれればいいのに。人間界の美意識は彼らには不自然で理解不能なものではあろうが。
とはいえ、これは彼女にとって、単純にワー汚い、というだけの話ではなかったらしい。それは、寧ろ倫理的な問題系であったのだ。生活ごみとは日々の生活の仔細が如実に現れてしまう、己の見たくない「人生のごみの真実」だから。己の廃棄した己の生活、人生、ライフの排泄物。生きてきた軌跡の裏面。
「同じようにゴミでも、きちんと暮らしたっていう跡でありたいの。」
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…ううむ。実にこれは大変な高潔への欲望である。むしろ野望。
寧ろ不遜である。そんなに無辜な存在でありたいのか。
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今の世の中、日々都内で暮らしながらこれを望むのは困難を極める険しい道であるはずだ。
仙人生活をしたいというならば並々ならぬ凡人離れした精神を持たねばならねばならぬ。私にはできん。が、彼女なら可能であるやもしれぬ。レトルト・インスタント食品、生鮮食品の廃棄部分、ポリ容器。ティシュ屑やダイレクトメールチラシ。どぎつい消費文化の品格のなさが一層かなしい、そのなれの果てから逃れたエコ人生。
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ということで、我々のだらだら茶飲み話テーマは「美しく生きる」ということに移っていった。
ピアニストの父が、同じく芸術家に育った息子に幼い頃語った言葉のエピソードを友人はTVで観て非常に心に残ったという。「自分が美しいと思った生き方をしなさい。」
何か判断をしなくてはならないシーンに遭遇したとき、自分の選択はどうあるべきか。それによって何が生じ何を感じるのか。得か損か、正義か悪か、利他か利己か、辛いか辛くないか、気持ちがいいか悪いか、正しい判断かそうでないかの物差しをどこに求めるかの話である。生き方のスタイル。
そのときの基準に、それを美しいと感じるか否か、という基準を持て、という話なのだ。
誰かが正しいと言ったから、誰かがそれをうつくしいと決めたから、ではない。ああうつくしい、素敵だ、と感じる力、信じる力を持って貫く生き方をなさい。
…それならば、テーマは美しいとは何ぞや、ということである。
人間が、芸術、絵画や音楽が文学が美しい、と思うのはどうしてなのか。
要するに、ここでテーマは「美とは何か」。その基準の定義。
今の自分の心になんらかの幸福を感じさせるものであるかそうでないかという基準。暖かな光や幸福感、満ち足りたもの、安心、調和。
それは芸術という特化した分野にチャンネルを合わせる時だけ味わう感覚なのではない。生きるスタイルそれ自体に美学としてあらわれているものだ。幸福の定義とそれは重なる。
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世界存在、そのあるべきうつくしい、あるいは幸福な姿。
しかし本来世界は混沌であり、あるべき、という姿が真理なのではない。真理はからっぽの虚無だ。「あるべき姿」という、その幸福感を感ずる瞬間、忘我の境地そのもの、それ自体が世界と己の関係性の発見、存在の発見、その確認であり、論理以前の、そのマトリックスとしての「存在を感ずる」という純粋な喜びとして還元されうるもの。
…だから本来決してそれはキレイゴトや正義のみではありえないのだ。それは高揚、興奮、脅威、タナトスや破壊の喜びですらあるかもしれない。
今の権力構造の中の「オトナの現実」のつくりだす、内面化されたモラル・ハラスメントのくびきから逃れたところから来る美の異化のエナジイ。こないだ読んだ中沢新一の「アースダイバー」のことなども思い出した。きちんとその思想の歴史は地の記憶に刻み込まれている。
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「うつくしさの基準」。ミソはここだ。
その原点のピュアネス、そしてそこから分岐されかたちをなしてゆく様々の論理・倫理・美学たちの各段階。
一体どうして美しさを感じたのか、自分の感覚はそれをどのような基準でもって美しさと認定したのか。それは己自身を探る行為となる。
ここで浮き上がってくるのは、「それでもなお」、という個としての存在基盤だ。
さまざまの倫理、正義、美学にはそれぞれ相反するとこもある基盤と定義がある。多様性だ。
何故自分はまず問答無用にそれを美しい、と感じたのか。どの基準をもってしてもどの論理よりも先にそこに基盤を持つ自分がいることの発見。自分という個の基盤の発見。個とは囚われた関係性の中にのみ存在し始めることができるものだから。
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その、「美の喜び」はどの基準からくるのかの論理は後から必ずやってくる。倫理と論理。それは必ず両面を持つ両刃の剣であること。よきものを考えることはそれを信じる己のいう個の存在の基盤を護ったうえでそれを鑑みることの大切さを知るきっかけをつくってくれる。
そこで初めて倫理と論理の他の存在、その多様性を認め、己が幸福になるという祈りと意志を力強く言い張ることができる。(物語とは「言い張る」ところにある。意志として真理を存在「させる」、換言すれば創造するのだ。)(これは大江健三郎「燃え上がる緑の木」から感じて感動したとこなんだけど。実は読破はしていない、課題図書。100分で名著であらすじだけ。)
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とりあえず愛があり、音楽と本があり、珈琲と麦酒がある限り、美しいものがある限り、私はもう少し生きねばならぬ。
本日は母がたらふく食べさせてくれた西瓜が大層おいしうございました。
道端の小さな薔薇がほんのりと頬を染めるように淡く染まり、とても優しうございました。