酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

不幸と孤独は悪である。

人間は不幸になってはいけないのだ。

孤独な不幸は悪である。

なぜならば、全世界への、関わるすべての相手への恐怖と憎悪、感情的に反射的な反感「敵認定」はすべて孤独な不幸に起因するものであり、それは結局は、戦争の根源、不寛容の根源、多様の否定、無知蒙昧、諸悪の根源であるからだ。

道を踏み外した恐るべき犯罪や「やなヤツ」なんかも結局そっから生み出されてくるものなんじゃないかと思う。

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悪はもちろん不幸になる人間の側に属するわけではない。
だが誰かのせいだ、ひとりワルモノがいてそいつがワルモノだから責任がそこに一方的にある、というわけでもない。そして両方悪い、というわけでもあるしわけでもない。

そして外的な環境要因が主たる理由であることもあるし、内的な人間それ自体の持つ、その存在自体の欲望や恐怖や心配や理不尽のかなしみが主たる理由であることもある。

大抵総合的にひっくるめて不幸は呼び合う。体調と心の調子の関連性みたいなもんだ。心身一如。

不幸は理不尽であるが必ずある。だが悪なのだ。あるから是とされるべきではない、とまず認識することだ。理不尽が何故あるのか。考えても必ずある。消えない。だが理不尽は理不尽である。「大人の事情」やなんかで個人になすりつけて是とされちゃってるとこだってある。

だめでショウ。

だから常に誰もがその場その場がよりよく不幸を避けられるように現場現場で考えてかなきゃいけない、っていうのとおんなじ。不幸は個人に属するものではない。だから大切なのはそこで個人を孤独に追い込まないことなんじゃないかと思う。

不幸にさせる原因とは、不幸になってしまう理由、人間社会構造のそのソモソモに関することなのだ。

所詮世界は誰しも持っている微細な心のひだひだの心理、欲望、システム、権力構造のしがらみから、それらが複雑に絡んで構成されたもの。その外側が無限でも言葉を介して有限にしておかないと人間社会は成り立たないからね。

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(これはこないだ友人と話してたときのお茶のみ話である。)

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健康が大切なのは、人間心身が幸福でないとこのようなヤミクロ(春樹臭)ダークなあらゆる悪徳不幸の闇世界を切り拓き呼びいだし増殖拡大し、周囲一面に振りまくようになるからだ。多かれ少なかれ。

悪いヤツだからだ、いいひとだからだ、なんていう性悪説性善説もない、そんな真理なんかはない、それは人間によって創造される仮説なのだ。真理は捏造されるということもまた真理である。捏造されれば存在してしまう。虚無としての中心を持つ真理。

…という構造は、不幸に絡みついてくる恐怖と孤独の寂しさにも同様にいえる。

この苦しみ悲しみ理不尽への怒りが誰にも理解されない、誰にも寄り添ってもらえない、それはひょっとして自分が悪いせいのか?

追い詰められてこんな発想に行き着いたとき、この殻に閉ざされた底なしの寂しさは、自他への攻撃エネルギイに変じる。いじめる側に回ってやる、自分なぞ生きる価値はないダメなヤツである、死んでしまいたい生まれてきてごめんなさい…これはウラオモテ、同じことだ。賜った命を穢し損なうことは自分でも他人でも。(この考え方が後述する存在のマトリクスへの「畏怖」につながる筈だ。)

いじめられる子に強くなれと励ますことも同様に、そのかなしみの不幸をその個人に属さしめ、彼を孤独の罪の深淵の闇に突き放すことである。何故自分の方が悪いのか。その子の心の中に内在化されるモラハラの倫理。

加害のあのひとも哀れなひとなの、大きな心で許してあげなさい。大した悪気はないんだから。

…ダメである。その痛みの只中にある者にそれはダメである。己の存在を、魂の中心を、自尊心を、心身を傷つけられ、せせら笑われることは理屈ではなく純粋な痛みである。

誰かが、そのときたとえ解決にならなくても、まずはただ寄り添って絶対の味方でいてくれる、問答無用で味方であってくれる、私の存在のありようが間違っているわけではない、と思ったとき、それさえあればひとは決定的に踏み外すことにはならない。逃げ場所がこの世のどこにもない、己の心の中のどこにもない。その孤独感、誰にもどこにも理解されない受け入れられない、という感情的な孤独の感覚が絶望と虚無の闇、死や破滅に通ずる道を開くのだ。

存在の否定、不幸誕生。

理解とは論理ではない。論理以前のレヴェルに寄り添うものだ。論理は多様で相対的なものだ。

それは多様への寛容、言ってしまえば世界の多様な存在のありようそのものに対する許容と愛としての知性のかたちである。存在のかたちをまず肯定からはじめることだ。何の役に立つ、というその場の限られ閉ざされた論理倫理の功利性からとかからではなく。

だからポイントはその考え方のスタート地点、ていうとこだっていう話でさ。

理解できないから、と、上から目線で相手の気持ちのありようをかってなものさしで浅はかに分析判断して裁いたり否定したり論理的道徳的に支配しようとしたり指導しようなんていう外濠から攻めることじゃないんだ。限られた脳みその自分が理解できてない不可知で対等な他者の心の中心部、わからない相手の心持ちをわからないままそっと抱きしめる。まずは尊重してみる。他者をね。

愛でしょ、愛。

心の扉をお互いに内側から開き、話し合う可能性はそこからしか生まれない。

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多様性の素晴らしさを人は謳う。
だが多様であるとは人間を不安にすることがある。ひとは安心と安定を求める。
そして多様から目をふさぎ己が理解できない外側を闇として全否定し、「聞く耳」を塞ぐ。小さな声なぞハナから聞こえない。

その集団の安心と安定に身を委ねたときとは、その人が日々の生活に、人生にに、世界に、解放と陰影と緩みを失ったときと同義である。ひとはこのとき、生活、社会に暗黙のうちに根付いたはずのそのマトリックスである多様性と調和とゆるみの調整機能をもった異界(自然)への畏怖を失った「明朗の牢獄」に自ら入ったのだ。これは植え付けられ内面化された己の中の牢獄だ。権力に支配されることをそれはおのずから求めるようになる。

多神の寛容から一神教の安定へ。
(神が価値観と置き換えられてもよい。近代科学。合理性。)

内村鑑三がクリスチャンになったのは、近代以前のアニミズム社会の中で、あらゆる多神のあまりの論理の多様、倫理の多様に怯えたからだ。日常を歩いている中で道端にあるひとつひとつのすべての信仰対象にゆるみを知らずただいちいち怖れ、その畏敬を示し続ける内村の繊細な感受性と精神は疲弊する。その「ゆるみを持てない合理」の精神が、ひとつの絶対に自我を預けてしまう安心にながれるのは蓋し当然といえよう。唯一神の真理の絶対はひとのこころを安定させるひとつのアクセスではありテクニックである。人は普通己の存在の不確かさ、その孤独と責任と自由の恐怖には耐えられない。何らかの「愛」に支えられ目をふさいでもらわなければ生きられない。

ただベースが愛であればそれは構わない。その根っこは本当は多様から来ている。個々の具体例に適したアクセス法、「方便」ってやつだ。だが危険なのは、そこからは高い確率で権力と結びつき濁った蒙昧と不寛容が生まれることだ。

 

些細なすれ違いから国家間の戦争まで、実は小さな小さな見えないひとのこころのひだのところからうまれてくる。集団心理化、複雑化していって誰にもどうしようもなくなった構造は、けれど現場の具体のそれぞれの根っこを問いただせば、規模の大小を問わず同じなのだ。感情がお互いを「敵認定」する、ほのかだが決定的な瞬間。

己を針で覆ってハリネズミになって防御と攻撃の姿勢を取り、柔らかな部分を守る体制に入った瞬間、相手のコトバも心もシャットアウト、すべての言葉は意味を失ったうつろなものとなる。

また、自ら支配を受け入れた人間社会の定義以外への、たとえば理解不能なもの、隙間、その秩序の外にある自然からの贈与から目をそらしそこへの畏敬の念を忘れ魂のない収穫物やデータ、化学組成の物質としてのみ見るようになったとき、権力は化け物となって、誰のせいでもなく「カオナシ」的に人を欲望で操り傷つけあう暴力の猛威を奮う。

わからないものを心の中にまるごと飼っておく。
他を否定する居丈高な真理なぞどの分野にだって存在しない。物理学を極めればただ神と真理の無限のわからなさに畏敬の念を抱くしかないという。心の森の中にその畏敬の念をわからないままに祀っておくことだ。探索し続けることだ。ただ寄り添う。耳をすましたとき、やわらかな小さな悲鳴が聞こえたら、モトを探り、ただそっと抱きしめる。できるひとができるときだけね。

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だが、だから、そう、それである。

畏敬。
ということで、我々は麦酒と珈琲を愛するのでそっちの方に話は流れた。

そう、例えば。
何故にエビスビールの風味は一定であり得るのか。

考えてみれば不思議なことだ。実は大手メーカーのそのすべてが科学的にデータ化されたような醸造研究現場でも、様々の分析データの果てに、結局最後は人間の感覚。達人のテイスティング、すべての科学的成分分析データを超えたところに在る天才の超次元に頼っているのだという。人事を尽くし天命を待つ。真理のマトリックスがそこにあるという。(虚無ともいう。)真理=虚無。

ただそこに真摯な姿勢、畏敬の念、向かう祈りの中にだけそれは存在し続ける。すべては自然物から汲み出されそこに畏敬を示す方法論によってのみ人間はそこから無限の贈与、歓びを保障されることができるのだ。

とまあそういうことで、とりあえずエビスビールはうまいのだ。

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…というようなことを珈琲と麦酒の味わいについて論争しつつ我々は語ったのである。ナショナルブランドクラフトビールの違いとかからね。

不機嫌も悪だからね、しおしお萎んだ心が静かにふくふく膨らみなおす避難場所なんかも探そう。