酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ファイザーワクチン接種、ニーチェの真理

さて、新型コロナのワクチン二回接種ミッションクリア。
副反応的なるものは(二回目の後特に)かなり辛いものではあったがヤマは越えた。

で、免疫細胞というのは大体ワクチン二回接種後二週間で効果が充分発揮されてくるという。

…ということは、私の細胞が今着々とコロナへの耐性を獲得すべく変容しつつあるということである。まさに今この瞬間にも刻々と。

ううむ。
不思議である。ワシはなんも考えておらんし努力も意識もしておらん、細胞からの連絡はなく自覚症状は皆無である。

実に日常生活の中で日々私の細胞ひとつはひとつからして私の意思のものではなかったのだ。

つらつらと思い起こしてみれば、生まれたときから一度も、「やれどっこいしょ肝臓を働かせよう」と頑張ったこともないし、「さあ副腎よ働け」と意識したこともない、「膵臓がかゆいのう」と悩まされたこともないのに、日々内臓たちは細胞たちは無言で働きづめに働いておるのだ。生命の自然によって。自然の摂理によって。

人体の宇宙恐るべし。宇宙はただ法則によって粛々と運行している。人間とは心身まるごと神の賜り物であり奢ってはいかんということであるのやもしれぬ、とふとカント先生の言葉を思い出したりもする。

「わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、 ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。」(実践理性批判2)

これの前者である。まずは決して倫理としての後者ではなく。

そうだ、それはまず、神の賜りものと表現してもよいし、人知によって探求され自然科学の触れることが可能となった「世界存在・その構造の力」と表現してもよいものである。

そう、同じことだ、言ってしまえば。

つまりまずそれは、神なるものの原型は、ただ単に物理的科学的自然科学的なるものでもある、ということである。粛々としてただ運行する。単純に、人知を超えている。不可知論のところに在る。「まずは」具体的なアクセスとしてのイエス様もお釈迦さまもアラーの神も日々の善行も自己犠牲も美学も関係ない。

だが、ということは、なのである。

…そう、これは「神とは何ぞや」という命題なのだ。

 * ** ***

自然科学の扱うものが目に見えるものを統べる見えない世界の現象を分析研究するものであるとするならば。

神が目に見えるもの目に見えないもの世界全体を統べる法を司るものと定義されるならば。

…両者はひとつの真理という虚無の持つ多面体である。
そしてそれは、両者はひとつのもののアクセスの違いとして畏敬の念で頭を垂れ存在そのもの喜びと感謝の祈りの対象として存在すべきもの、なのではないのか。キリスト教の三位一体のあの構造の考え方みたいにね。

繰り返すが、大切なのは、それは決して「まずは」ヒューマニティによるものではない、ということだ。

自然科学の「自然」、という部分の重さにここで私はしみじみ感じいるのである。


「真理とはそれが無くてはある種の生物が生きていけないかもしれない誤謬である」といったのはニーチェであるが、このアフォリズムの力点は、「全ての真理が誤謬」というところにあるのではなく、誤謬であれ何であれ真理なしには「生きられない」というところにおかれている。「丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス』」

祈りと畏敬による知性によってつながれなくては倫理とヒューマニティは自然科学から遊離し、その、祈りによってしか存続しえない「真理」は虚無として暴かれ貶められ失われ、浅薄な権力構造に取り込まれる。その現象は世界に災厄を呼ぶ。

人類のその歴史は愚かさの歴史として繰り返し繰り返し刻まれてきたし、おそらく永遠に繰り返されてゆく。この世界の終わりまで永遠に繰り返される神と悪魔の闘い、修羅の闘い。

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先のカント先生の言葉である。
「わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、 ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。」(実践理性批判2)

天体が一定の法則性のもとで動いているのと同じく、人間のなかにある道徳にも厳密な法則性が存在する──とカントが考えていた、その、宇宙の運行と人間の内面にある法則性を結び付ける、ヒューマニティ、倫理と自然科学がひとつのものとしてはじまる萌芽を、祈りと意志として存在させる生命が「人間」なのだ。(100分de名著より)

そうだ、そうではないのか。
そしてカントの有名なこの言葉には続きがある。

「私は、いまやこの二つのものを暗黒の内に閉ざされたものとして、あるいは、超越的なものの内に隠されたものとして、その存在を私の意識の外に求め、それについてただ不確かな当て推量をするだけにとどまることを要しない。

私は、この二つのものを現に目の前に見いだしていて、その両者の存在のいずれをも私の現実の意識の内にそのまま結びつけていくことができるのである。」

(カント『実践理性批判波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、p317)

 

これは、ヒューマニティが神と自然科学に結びつくものとして、ひとりの人間の中に、(あるいは集団的社会的に)「生成される」、畏敬を孕んだ自然・神の立ち現れるアルケーの現場の物語なのである。常に新たなものとして生成され続けていなければそれは形骸化され本来の姿とその力を見失う。

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ということで、とりあえず粛々としてワクチンが免疫を拵えてくれるのを待っている。
怖くてもさもさの髪の毛を刈りに行くことも行くこともできずにいるのだ。困ったもんだ。

そして本当に早くこの災厄の時代が終わってくれますように。
猛暑も天災ももうたくさんだ。閉ざされた心ももうたくさんだ。

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お洒落してお出かけもしたいのよネ~と三兄弟。(よしお、のぶお、さだお。)