酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

100分de名著「戦争は女の顔をしていない」 2021 8月放映

興味深く観たんだけど、歴史の中の、その事実の残酷さ、恐ろしさ、深い痛ましさやるせなさにショックを受けたんだけど、そしてこの番組は確かに相変わらず深い知性と忍耐力、実力を備えたバックボーンを感じさせる優等生なつくりなんだけど、なんとなくあれこれどうも消化不良な気持ちが残っていた。

「もやもやとしていた。」

きれいな論点が見えなかった、よくわからなかったのだ。
どうしてだろう。

ということで考えていた。これは自分の頭の中で消化・昇華しなくてはならん、と私の中のゴーストが告げていた。(草薙素子
…これは、番組の内容、論点、言いたいことがわかる、わかった上で面白くない、というのとは違うのだ。

そのために「モヤモヤ」という今よく流通しているような、この未だ既成の概念を得た言葉になっていない水面下の、その曖昧なニュアンスの表現がある。モヤモヤ。ひっかかり。言語以前。自分の言葉にするべき部分。大切な部分であるとゴーストは告げていた。(草薙…)(しつこい。)

構成はやっぱりきっちり作りこまれている。追ってみよう。

 

第一回「証言文学という形」。

2015年にノーベル「文学賞」を受賞した、ノンフィクションの証言集であるこの作品とその作者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが、どのような来歴を持つものであり、ノンフィクションの証言集でありながら「文学」としての評価でノーベル賞を受賞したのか、その理由、そのプロフィールを解説する回。

これは、作品内容とは別に、その外枠、つまり、この作品の成立と発表をめぐる外枠の事実を解説するものだ。それは、我々視聴者に「そうか、歴史の中には隠されていたこんな闇があったのか」という歴史的事実の外枠と内側のダイナミクスへの構造認識から、「事実を語ることと文学性」の関係に対する認識に新たな視野を提供するものでもある。

出版事情それ自体に、そして証言を言いよどんできた女たち自体の逡巡という内容とその「外枠」は響き合い、強きもの、権力によって抑圧されてきた人々、ひいては今現在も同じような構造のものとに隠蔽されている人々や社会的な構造の基本、そのリアルな人々の苦しみや悲しみに思いをよせる証言という可能性の光をあてる。

「文学性(物語性)」の本質的なところが、虚構にではなく、私たちが今現在世界を認識しているその本質的なところに関わるものであるところに気づかせてくれる、それは「可能性」なのである。

この初回は、その「文学性」の評価の理由という、深々とした内容と隠蔽されてきた歴史の深さを予言する概略である。

作品をひとつの論理にまとめてしまう一人の作者が全面に出てこない、ひたすら、たくさんの元女性兵士たちの声、声、声。

そう、あくまでもこれは、様々の体験が、多数の個々の、彼女らの持つその戦争体験の側面の、その末端のリアルの多様さが投げ出されて、ちりばめられた「証言集」なんである。

「ポリフォニイ(単一のメロディを歌う「モノフォニイ」に対し、多数のメロディ、歌声による複声合唱という概念)」と表現され、戦争の末端のリアル、ひとりひとりの戦争体験、その人生の「小さな物語」が、無数に集まって、それらがいかなる形で複合しひとびとの歴史という総体を成しており、さらにはそれが「大きな物語」という男たちの、権力者たちの拵えあげた歴史という物語の中に隠蔽されていったかを暴き出すスタイル、証言集。

そしてそれは「文学」としての構造を内蔵している物語構造を示すものなのだ。

指南役の沼野恭子氏が「『戦争は女の顔をしていない』の証言者は、為政者や高官といった「有名人」ではなく、何百人もの市井の人々」である点を強調したことは、このことを示唆している。

うむうむ、まとめていくと少しずつ見えてくるようだ。

 *** ***

で、いよいよ内容紹介として。

第二回「ジェンダーと戦争」

…そうなのだ、この回でなんだか私はちいとひっかかったのだ。

ここで強調されているのは、女性たちが女性としての喜びや感性を花や服や新しいハイヒール、ドレスへの夢や女性らしさの象徴である長いみつあみの禁止、男物の服しか配給されない苦痛を、殺し、殺される究極の現場の恐怖や苦痛よりもリアルなものとして語っているところに在る。

私は、末端の男性兵士たちと彼女らの、戦場の異常さの中での共通の人間性の喪失の悲劇とどう違ってくるのか、違いがよくわからなかったのだ。あえてそこで女性的感覚のみを取り上げる意味が。

…女性兵士たちの大量殺人の現場に参加してゆくショックはやがて麻痺し隠蔽されてゆく。敵兵を同じ「人間」として見ないダブルスタンダードな感覚を、男たちと同じく身につけてゆく。ここは男女を問わず人間性の喪失の悲劇として、同じだからだ。

男性と女性の違い。男尊女卑的なヒエラルキーの社会観の中、より抑圧されより下位に置かれた最も厳しい立場にある、という以外に?男物の下着しか与えられなかったことの屈辱は、その身体性の抑圧の協調は何を意味するのか?端的に言って、ここでの男女の違いはどう関係してくるのか?

身体性や日々の些事を決して大きなものにとりこまれることなく、男性と違う感性を苦痛として重要視し続けているその意識、そのリアリティの強調意識は、「大きな物語」の末端としてその同質性に完全にとりこまれた末端男性兵士たちの些事としての悲劇や個人性とは異質な要素としてそれをまるごと異化しその異常性をあぶりだす、質的に異なる次元での「小さな物語」としてここで語られてつづけているものだ。

同じように権力によって虐げられたもの、抑圧されたものとしてあっても、ジェンダーによって分け隔てられた女性にとっての戦争は、彼女らがそれを語る言葉は違う意味をあぶりだしてくる。端的に言えば戦争は「女の顔をしていない」。(では何の顔をしているのか?)

実はこの回はもっとも重要な問題提起の要素を孕んでいる。ジェンダーが、単なる女性の、いわゆる「些末な乙女心」が大義名分に押しつぶされてきた、つまり人間がただ普通に人間として個々の多様が尊厳を持って生きる、そのための重要な要素が一体そもそもどこに置かれていたのかという問題を提示しているからだ。

人間の正義、倫理が両義をもつ。その両義自体がダブルミーニングの矛盾と(おバカ性ともいう)大義名分正義、大きな物語としての権力構造に隠蔽されてきた構造、その中での抑圧と歪みをあぶりだし映し出すための異化力であることを強調することが必要な構成であったと私は思う。もっと、もっと論点として強く。

何故なら、その両義の倫理とは、つまりは古くからこれもまた男性たちによって捏ね上げられてきた貞淑で優しいうつくしい妻、良き妻、良き母、と言う価値観という日常と両義でもある、という構造をなしているからだ。つまりともに同じように彼女らに植え付けられてきたもうひとつの「大きな物語」ではあるのだ。このあたりが特に私の「もやもや」の出どころではある。…それに関しては第三回の放送で別個に解説が施されてはいる。(私に言わせれば、ほんに「論点がはっきり明示されていない。」「足りない」。これがもやもやの出どころなんだな、ウン。)

ジェンダーとしての視点。末端の兵士たちの極限状態の悲惨さが、男性よりも更に下位に置かれた女性たちの、そして男性とは異質な性質を持つ女たちがセックス(身体としての性)ではなくジェンダー(社会的役割としての性)からくるものでもあったというその複合要素、複雑さは、ポリフォニイという、ひとつの物語に収斂していかない、常に蠢く矛盾を孕み変化し続ける人間の野生の思考を喚起し続ける「文学性」を持って語られなくては語られ得ない物語なのだ。

「文学性」とはそういうものなんであるよ、おそらく。

 

第三回「時代に翻弄された人々」

この回はとにかく理不尽と痛ましさがひたすら感情を揺さぶる。
かなしみ。怒り。

スターリンによる家族的な愛情の愛国主義の洗脳、正義のために、故国のために、祖国のために、大地のために、母たちのために、大切な者たちのために、と鼓舞され、正義という大義に捏ね上げられたイデオロギーに己の命を捧げに行った者たちが見事にその心のない「大きな物語」政治的トップメンタリストたちの権力に利用される。

心身共にボロボロになって生き残って帰ったものたちも決して報われることなく、他国のうつくしさを目撃してしまった者たちはひそやかに抹殺され、或いは口を封じられてゆく。

特に女性はかつての同僚、一時は命を共にした戦友たち、男性兵士たちからも見限られ、「戦争の雌犬」「売女」として古来の価値観に縛られた女たちから蔑まれ、最底辺の差別対象となって社会から排除されてゆく。先に述べたダブルスタンダードの犠牲者である。

国家や正義の「大きな物語」が圧殺してゆく「小さな物語」。この社会構造は、やり場のない弱きものたちの怒りが理不尽な方向でより弱きものへの差別へと向かう、そんな人間のかたちを「作り上げる」。人間がシステム、国家や制度の犠牲になるのだ。これは一体なんのための国家、誰のための制度なのか?

正義のために戦ったはずの者たちはただ権力に抑圧され抹殺され押しつぶされただ苦しみ殺されてゆく。魂を傷つけられ人間としての尊厳を奪われ己の存在の意味をも見失う。

そしてどちらの倫理(大きな物語)からも排除され、その狭間に陥った犠牲者たちの封じられた言葉たちだけが、双方の矛盾を共に炙り出す異化の力を持った陰の言葉として知性が捉えることのできる可能性なのだ。

…まあとりあえず、感情的に揺さぶられる要素があまりに大きく、大いに気分が悪くなったところでの最終回。

 

第四回「『感情の歴史』を描く」

さすがにここではうまくまとめてくれた。
ここはとりあえずNHKのHPがまとめてくれている概要を抜きだしておく。

「憎悪と慈愛の共存、平時では考えられないような感情のうねり、戦争終結後も人々を苛むトラウマ…。英雄譚や大文字の歴史としてしか語られてこなった戦争(中略)それは、これまで決して描かれたことのない、人間の顔をしたリアルな歴史だ。第四回は、「感情の歴史」という概念を通して、私達が戦争をどう記録し語りついでいったらよいかを問い直す。」

さあっと視聴しただけではモヤモヤが残る、消化不良が残る。
やはり100分の中での構成は優等生というだけでは視聴者に余すところなく、というわけにはいかないが、この「モヤモヤ」がキモなのだ、おそらく。自分の中で、何だろう、何故だろう、と問い直し問い直す。

という言う意味で、ほんにこれはNHKに残された良心の部分だ、なあんて友人と語り合ったりするのだよね。

ウン、我々はここでまさに今現在の世界の危機に大切な知性のかたちの提案を受けたのだ。
論理の流れがものすごく納得できてとりあえずすっきりほっとした。

「小さな声」「小さな物語」「隠蔽と抑圧の構造」
重要なのは、論理の流れ、見えにくいものを見るために、「小さな物語」が「大きな物語」とは大小や強弱の関係というだけではなく「異質性」を孕んでいるということを認識することだ。

何故なら「大きな物語」を作り上げているのは「小さな物語」の多様がポリフォニイとして奏でている総体をイデオロギーとして概念化したもの、本当はナマの人間たちの日常そのものであるから。大きな物語がどのような権力構造によって組み込まれ小さな物語たちを抑圧しているのかを見極めること。権力構造が己自身の中にどのように組み込まれ作用しているのかを見極めること。

個と、異質性のその理由を考えることは、それは今現在を「異化する」ための方法論なのだ。多様性とは「わからないもの」とどう向き合うかという姿勢によって己がどのような者であることを知る行為でもある。

間に合ううちに、目を開いておかなくてはならない、誰がどのようにそれを考え一生懸命に探しだし、その世界の、社会構造の在り方をよりよくあらしめるためにどのように頑張っておられるのかを見出すこともできるようなまなざしを失わないために。己の中に埋め込まれたもの(それは逃れることができるとかできないとかいう問題なのではない。寧ろそれは運命といってもいいレヴェルのものだ。自分が自分であることの所以であるところのものだ。)に気がつくために。

f:id:momong:20210922103106j:plain

f:id:momong:20210922103118j:plain
昨夜は素晴らしい中秋の名月でしたな。
近所のだんごの輪島のお月見団子初めて買ってみやした。安いのにおいしくて、きなことあんことみたらし三種類たれがついてて大変よござんしたというレポートであります。

 

深夜に月影さやかなベランダに出てみれば煌々と満月、堂々たるオライオンに見下ろされ虫の声の大合唱に包まれる。小さな自分が悲しいほど幸福に感じられる。もう夏ではないんだな。