酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「村田エフェンディ滞土録」梨木果歩

ディスケ・ガウデーレ。楽しむことを学べ。

鸚鵡の生命力とエスプリを根こそぎ奪い取り、魂をうちひしいだ喪失の痛みから、その目の輝きを取り戻させたのは、村田のこの囁きであった。戦争前、嘗ての日々の、そのかけがえのない平和と友愛が当たり前に存在していた日常の貴重な暮らしの物語、その存在の証左、その言葉である。

そして目の光を取り戻した鸚鵡は叫んだのだ。
ーーー友よ!

失われたあの日々が確かに存在していたのだという証明がなされる瞬間。

村田の言葉で、鸚鵡の叫びで、それは新たな物語、真実としてイマココによみがえり、現前するものとなった。

その物語は、人々の心を、存在としての誇り、矜持によってよみがえらせる。幸福への権利を、失われた命の喪失の痛みとともに、そのかなしみの証明とともに日々を生きる意志を。

涙腺崩壊のラストである。

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この作品は、1899年、政変から第一次戦争に流れる前にトルコに留学した考古学者村田君の青春の日々の記録のスタイルをとっている。村田君は「家守綺譚」「冬虫夏草」にも主人公綿貫への手紙の主の話題として登場している、綿貫の帝国大学時代の学友だ。

考古学の浪漫を、歴史ドラマを、出土品に込められた「物語」として。その時代の土地に根差した気候風土に育まれた人々の日常生活、その思いと生活と文化、信仰のリアルの物語を中心として捉えた村田の、その明晰な理性がヒューモアを柔らかくにじませながら語る言葉。それが世界の理不尽、暴力や矛盾やキナくささの漂う時代と土地柄の中で真摯な祈りの言葉となり、鋭く痛ましく心に響く。

植民地時代。
宗教や思想の多様性を無神経に押しつぶす者たち。

収奪されるもの、虐げられたものと虐げるものたちの心根の構造。…誰しもが持ちうる弱さという浅ましさだ。だがその結果うまれてくるのは、すべてを打ちひしぎ、ひきつぶし、滅ぼす、多数派という構造。

強者としての力づくの人間の正義という狭量な利己、無理解と無寛容からくる戦争への、かなしみといかり。そうだ、すべては、人間の不遜で狭量な「己は正義」の意識からやってくる。

例えば語られるのは、多神教の神々と一神教の次元の捉え方との違い。
マイノリティや多様性、大切な心の繊細さをローラーのように一律に押しつぶし侮辱し収奪し、戦争への流れへと押し流す権力と結びつく一神教的思想の萌芽のその構造が、ドイツ人オットーや、ギリシャ人ディミトリス、下宿の女主人、イギリス人のディクソン夫人、奴隷階級でありながら家族の一員、イスラム教徒ムハンマド、そして鸚鵡というメンバーの議論の中に、ヒューモラスな日常の中に守られながらも真剣に語られる。

…だがとにかくここで何よりも一番重要なのは、そのすべてが、語られているすべての主義主張民俗宗教の立場の違いを越え、最後にのこる大切な、その日常それ自体が純粋な友情の日々の思い出となってゆく、という最後に残すべき「大切なもの」としての物語が顕現してゆく構造なのだ。

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p150
___どうも一神教というのは単純で困る。周りが迷惑する。

p230
……国とは一体何なのだろう、と思う。
私は彼らに連なる者であり、彼らはまた、私に連なる者達であった。彼らは、全ての主義主張を越え、民族をも越え、なお、遥かに、かけがえのない友垣であった。思いの集積が物に宿るとすれば、私達の友情もまた、何かに籠り(後略

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古今東西、いつどこにでも存在していた、ただ普通にそれぞれの日常生活を送っていたひとびとの、一見些末な思いや生活の濃やかさ、その大切なものを考古学の浪漫のなかのエッセンスとして見出していたこの村田が、「家守綺譚」でおおらかに異界と行き交う綿貫征四郎や死の世界、「あちら側」の誘惑に引き込まれていった高堂と精神的に同類な学友同士であり、最後彼らと飼い犬ゴローと共に暮らす日々の物語、その内実は(予想はつくが)非常に興味深い。いつかこの日々の物語が読みたいものだ。

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綿貫は静かな小説家としての世捨て人的な暮らしの中で平和と純粋さの保たれたおおらかな生命観の中の世界を保ち続けるが、現世の大学での勢力争い等に巻き込まれて矛盾、理不尽、醜さへの疲弊に片足をつっこみ、こころを引き裂かれてゆく村田のこの物語には、彼らの柔らかく純粋無垢な知性、明晰さの外側の、不遜さ、理不尽と暴力、利己心のもたらす不幸が強く描き出されている。その厳しい現世社会との対比が浮き彫りになって力強く痛ましく、哀しみや怒りにも似て心に響くのだ。

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