これとこの続編の「冬虫夏草」の感想は最初に読んだとき、とりあえず考えたこととして記事は書いてある。それなりに一生懸命。
コレでまあほぼ、私なりにわたしにとっての「冬虫夏草」の作品としてのひとつの読みの骨組みは、そのエッセンスのところは,、荒いなりに掴んで書いているとは思う。
だけど、再読して、その「読み」のためにどうしても追加しておきたい大切な要素を少しだけ。
すべての骨組みを確立させそれを動かすためのすべての源、動力…「情動」の話だ。論理とは論理以下の識域に潜む情動的なるものにアプリオリに仕込まれたものの表層化された部分、歴史ごと想像されたもの、ダイナミックな全体性の一部に過ぎない。そう、それはそれが存在したとき初めからその歴史ごと存在を始めるものだ。論理以下の衝動と不可分の一体としての関係性というダイナミックな全体像を持ちながら。
「〈言語(ラング)〉というものと〈言葉(ランガージュ)〉というものがあるのではない。言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿を共に有しているのである。
言語哲学者・井筒俊彦氏によれば、〈アラヤ識〉こそが深層意識の言葉であり、この言葉は、概念的文節の支配する表層意識の言葉(=ラング)と違って、明確な分節性の無い〈呟き〉のようなものである。」(丸山圭三郎)
論理とは言葉の別名である。そして「呟き」とは呟く原動力、心の中の「動き」すなわち個的な情動と分かちがたい関係性をももった差異の蠢きのことなのだ。
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とにかくなにしろね、どうしても好きな文体、というのはあるんだな。
文体というのには癖があって、激しいものは劇的な吸引力も強いけど、ちょっと鼻についたりしてしまうことも多い。激しい感情をうたい上げた歌のように。
私にとって、いつでも間違いないのは、漱石、それから梨木果歩さんのこの「家守綺譚」みたいなもの。文章の味わい、品格、知性と諧謔と抑制された感情の豊かな存在感。…うつくしさ。
ここしばらく、人生はあんまりにいろいろ厳しかったがこの作品を少しずつでも読み返せてよかった。ふっくりと余韻のある、本当にいい文章だ。
精神が弱って涙もろくなっている。
この掛け値なしの優しさのまっすぐな描写に反射的に目頭が熱くなる。
そう、今回、この部分を書き留めておきたかったのだ。
「家守綺譚」の「ホトトギス」信心深い狸の話。
成仏できないで苦しむ衆生の魂魄をつい拾ってしまい、そしてその苦しみを引き受けてしまい、のたうち回る狸。その頼み通り、訳も分からず頼まれるままにお経を唱えながら必死でさする主人公征四郎。狸は回復するとふらふらした身体のまま、律儀にお礼の松茸を集めてくる。征四郎の胸がいっぱいになる描写、なんともこのさりげなさがストレートに胸を打つのである。
「私はなんだか胸を突かれたようだった。(中略)何度でもさすってやる。何度でも称(とな)えてやる。」
なんの計算もない純粋な思いの、そのうつくしいところ、混じりけのない良心や優しさの噴き上がる瞬間というのは本当は、本当に、日々いつでも誰にでもあるものだ。さまざまの生活の思考の中の濁りでそれは消されてしまうことが多いのだけど。
例えば漱石の「こころ」で、Kと先生のやり取りの中、決して弱くない、Kに対する先生の罪の意識、告白と謝罪と懺悔のための純粋な良心の衝動の描写がある。賢治の童話の中で、釣り合う返礼、というのではなく、圧倒的な、絶対的な喜びを相手にあたえたいという、相手が踊りあがるほどただひたすら絶対的に喜ぶものを挙げたいな、というこどもの思いの描写がある。掛値のない相手への尊愛の念の噴出。圧倒的に純粋で無限な「自然からの贈与」と同じもの。
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私はその刹那に、彼の前に手を突いて、あやまりたくなったのです。
しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。
もしKと私がたった二人曠野(こうや)の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。
しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。
そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。 (こゝろ・漱石)
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亮二はなんだか、山男がかあいそうで泣きたいようなへんな気もちになりました。
「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな」
「うん、今度夜具を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」
亮二は叫びました。
「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ」(祭りの晩・賢治)
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…家守奇譚、冬虫夏草。作品を通して、このような素朴な優しさが、にじむようなヒューモアと溶け合いながらそのベースを成して日常性の中に瀰漫しているのだ。
人間の、基本のようなものが、ただただひたすら濁ることなくこのような生命と自然全体に対する態度であったなら。このように溶け合っていたなら。
この作品の中のソレのかたちに、私は救われる。
生も死も生命のとしてのかたちの違いをも乗り越え、命や世界がすべておおらかに流通する世界をベースに日常が成り立ってゆくこのあわあわとした世界。
三部作みたいになってる、主人公の友人がトルコ留学をしていたときの話は未読であった。「村田エフェンディ滞土録」次はこれだな。