酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

物豆奇・「ユリアと魔法の都」辻邦生メモ(銀河鉄道的なるもの。)

昨日、どんぐり舎に行こうとしたら満席だったので物豆奇へ。(ほんの2メートル先を歩いてて目の前で店に入っていった老夫婦に負けたのだ。最後の空席、そしてしかもとても可愛い窓の近くの居心地のよさそうな大層よろしい感じのとこだった。ワシは悔しかった。近々のリベンジをひそやかに心に誓った。)

空いてた。正解だ。

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で、ここもやっぱり素晴らしく居心地のいいとこだった。やれ嬉しい。やれこれが一番のさいはいへの思し召しだったのだ、なんてほっとして、マスターに「お好きなとこへ。」なんて言われて奥の隅っこへもそもそと。読みたかった大切な本抱えて行く、古い時間、あやしい時計とランプの秘密基地。

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静かなソロのジャズピアノとたくさんの時計の音。(けれどすべての時計は違う時刻を示し、しかも私の目の届くかぎりの古時計はうごいていないようだった。)(動いてるのも動いてないのもあるんだな。時刻になると、少しずつずれていくつかの鐘が鳴る。ぼーん、ぼーん。少しずつずれた時間。)

店と一緒に静かに時代を過ごし老いていったような風格、痩躯のマスターがひとり。ジーンズと黒いセーター。レジは昔ながらのかしゃかしゃ、ちーん。

ひとりこの懐かしい西荻の町に住み、晴れた日曜の朝やなんかには、とっときの本や漫画を、スケッチブックを、ノートブックを、…レターセットを持って、来たいな。夢のよう。

あんまり時がたくさんあるから、ここは永遠に時が止まっている時間管理室。「モモ」のマイスター・ホラの場所みたいに時間を管理するメディアの場所で、一つの時間に縛られない場所。(モモのための金色の魔法に輝く素晴らしい朝ごはんの食卓の部屋に繋がるところ。このおいしそうな朝ごはんの風景大好きだった。こんがりぱりっと焼きたての金褐色の巻きパン、液体の金みたいなとろりとした蜂蜜の壺に金色のバター、ずんぐりした大きなポットからいくらでも注がれるホットチョコレート…)

そして己のタイムトリップ、本から顔を上げたときは私はもう戻れない時空移動。読んでいる本の続きの世界。(何度も読み返した辻邦生の「ユリアと魔法の都」。こないだ読んだ高楼方子さんの「黄色い夏の日」に「ゆりあ」という女の子が出て来たんで思い出したのだ。辻邦生さんはフランス文学畑からの哲学的な小説家で、童話はこれ一作しか書いていないんだけど、子供の頃夢中になった本なんである。大人になってからも読み返したのに、どんなのだったかもう忘れていたのでもう一度。(私はいくらでも忘れるのだ。特に最近酷い。)ラストシーン、ユリアのかなしみのなか、魔法の美しい都が滅んでゆく風景と響き渡るパイプオルガンのイメージが忘れられないのだ。これについてもちいと書きたいな。)

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心は縛られた自我から解放されて散り散りに遊んでゆく。

そんな妄想を膨らます。こころに物語を取り戻す午後だ。

クリームソーダとかあれこれもあったけどね、もちろん珈琲。

注文してから豆を挽いてくれる。ちゃんとおいしい。スターバックスタリーズなんかとはやっぱり違う喫茶店の珈琲。
(後から白い暖かそうなコードを着た女の子がひとり入ってきて、クリームソーダと紅茶のシフォン頼んでたから、ちらちら眺めてたらメロンじゃなくて苺だった。)

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そう、で、「ユリアと魔法の都」メモ。

主人公のユリアはどこの国の子供なのか意図的にぼかしてある。まあ既にファンタジーの領域ではあるんだが、とりあえず名前もそういうことだ。

だが日本、という土着性を意図的にぼかしてはあっても、父親が炭鉱で厳しい労働に従事しているとかなんとなく日本の時代性、ファミリアーなイメージをも喚起しやすい曖昧さをゆるしたものとなっている。ともだちもゴローとかカリンとかズーズーとかピートとか、さっぱりわからない、まぜこぜなイメージ、しかもカタカナで無国籍性を強調したものだしな。

この辺、賢治の岩手県とイーハトーヴォに似た構造を思い起こさせる手法だ。現実のリアリティとファンタジックに昇華された異界性をもった物語世界を重ねさせる。「そうではあってもそうではない。」

で、ユリアという名前の由来に関してはなんとなく思い当たるところがある。

辻邦夫は世界中を旅して歴史への造詣も深い作家だったらしいんだけど、代表作とされる歴史小説に「背教者ユリアヌス」というのがあるんである。権威と伝統、慣習と権力の中でその根幹が揺るがせになり、腐ってしまったキリスト教社会に反逆した皇帝。ギリシャ・ローマの多神教への傾倒を機に破滅する若く純粋な皇帝。

これはまさしくユリアのキャラクターに繋がってくるものではないか。…イヤ読んでないから単純なカンと予想だけどさ。命名ってのは得てしてこういう単純な発想であり、結構その精髄をとらえていたりもするもんだと私は考えている。

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ということでこのラインから思いついたことメモ。

鉄道、汽車の中でうとうとと眠り目覚めたときにはもう「魔法の都」時空に入っていた。このあたりも「銀河鉄道の夜」である。鉄道は世界を他の世界につなぐメディアなのだ。賢治にとって鉄道が岩手と東京を結ぶ魔法のメディアであったこととユリアが田舎の炭鉱町から初めて都会への一人旅、冒険をするというイメージもまさしくこれに繋がる。またこれはジョバンニが親元を離れ銀河鉄道に乗り、その冒険によって成長する、己の未来を決意し読み替える大人になって戻ってくる構造と重なるものでもある。

そしてこの作品では、ここからがひたすら楽しいうつくしい、理想的な魔法の都の描写なんである。読者の子どもの心に翼を与えてくれる。ドラえもんの未来理想都市のようなわくわくするファンタジックな魔法に満ちた理想都市…

そう、美しい都。近未来の理想のような、きらきらと輝く便利で美しい都会の理想像。
ただ不思議なことに、大人がいない。代わりに子供たちが大人のいた場所で働いている。だが生き生きと、仕事を生きがいと歓びにして。楽しいから働くのだ、と。お金は銀行に行けば誰でもいくらでももらえるという。

素晴らしい、とユリアはその都に魅せられ、楽しみ、見聞を重ねてゆくのだが、次第にどこかで引っかかりを感じてくる。

魔法で天気も決まりも何もかも、街を、人々の暮らしを思い通りにできる、わがままな子供の市議会。このこどもの国の生い立ちや秘密、魔法の成り立ちの根幹に対し疑問を呈するものは密かに消されてゆく。大人がいないのは何故か、聞いてはならないという。そしてみな大人がいたことを忘れている。(ある日いきなりこの国は誕生したらしい。)おぼえているのは特殊であわれな「遊んでいる子供」で権力からマークされている。…制度を脅かす者はタブーなのだ。

後半、もちろんこの国の秘密は解き明かされていくことになるのだが、このあたりがなかなか単純な童話のスタイルならではの発想でありながら深く、そしてものすごく面白い。現実大人社会の汚らしさと悲劇苦しみ悲しみを嘆いた哲学者が「想像したとおりのものが現実になる魔法のメロディ」を発明したのはいいのだが、その不完全さは、想像できない主体は消えてしまう、というところだった。慌ててその譜を封印した彼だが、ペットの猿のいたずらで、ある日街じゅうに流されてしまう…。想像と理想の美しい力を信じられないほとんどの大人は消えてしまったのだ。想像した理想を本当に信じることができる子供や数少ない大人、ユリアの友人となる小説家を残して。

不完全なかたちで放たれてしまった理想は、やがて「ワガママ」「不自然」「権力構造」という残されたスタイルを踏襲したままであったために、暗部を残した。その理想が生まれた理由が隠蔽されてしまう。うつくしい楽しい夢が志がどんなかなしみや辛さを救うものであったのかという本来の成り立ちと全体像を失ってしまう。…腐敗と歪みが残される。

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ここに、ユリアヌスでの話で、理想のキリスト教が人々の救済のためであったはずなのに、却って人々を苦しめている奇妙な歪みと腐敗を必然として抱えた「大人社会」を重ねて考えてみるのもよいかもしれない、と私は思うのだ。素朴で純粋に、そのうつくしい理想を愛するが不完全である暗部をさらけ出し、常に原点に立ち返り精髄を磨き、常に皆で語り合いなおしてゆこうと提案する異邦人(他者)ユリアをワガママ(同一性)の楽しさに慣れた権力は怖れ、ユリアを襲う。そしてユリアに賛同する子どもたちによって革命がおこる。そのとき同時に、地下でだれからも隠されて老朽化していった街の基部、暗部が崩れてゆく。

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…とまあこんな感じなんだけど、哲学者が現代社会を悲しむその痛み、その素朴さ、そして街じゅうに響くパイプオルガンの音楽がきらきらとした夢の砂糖菓子の世界のような都を構築し、またそれが夕焼けのような燃え盛る週末の中で滅んでゆくイメージがまるで映画のようで素晴らしいのだ。

そう、とにかく、命名にキュンときたねわしゃ。
先に述べたユリアヌス。素朴に抑圧である一神教へのタブーである多神教へのただひたすらの幸福への可能性の傾倒を述べた反逆者であったことと繋がり得る、と。ゴローとかカリンとかズーズー、ピートとかもなんかあるんかしら。主人公だけかな。

名作童話ってのはやっぱり面白いよ。