酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

小森香折 エゼル記

何故この叙事詩のような神話のような、荒唐無稽な設定の幻想物語がこうも私の心を打ったのだろう、感情を揺さぶったのだろう、とずっと考えていた。これは情趣に満ちた風景描写や幻想の美しいイメージからくるものではあるんだけど、それだけ、と言うことではない。

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書き出しは、港町の風景だ。ありふれた、さびれた漁村のシーン。
売春やこそ泥と汚職。荒れて寂れた小さな村の役人が登場する。

世界中どこにでもある風景、と思いきや、その最初の頁から、いきなりミステリアスな謎や伏線のちりばめられた設定の世界がぐいと描き出されてくる。この世界で口にしてはならぬ禁忌を口にし、囚人として捕らえられる謎の少年。「ぼくは十三月城を探しているのです。」これがエゼルの登場シーンだ。神聖な太陽王の存在、様々の意味ありげで思わせぶりなその歴史の謎、タブー。

その奇妙な設定の世界にするりとひきこまれる。物語構造や意味が読み取れそうでいて捉えきれない。
「これはどういう意味?」と読者は幻想的な風景の中でエゼルとともに重ねられる物語を共に生き、そこに遊びながら必死で考えることになる。

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…そうだ、ポイントはそこなのだ。
「野生の思考」(レヴィ・ストロース)の存在する限りない意味の迷宮の中を彷徨い躍動する知の力、ダイナミクスの発動する構造、そのようなテキストの場所。

「今現在」に応用可能となる生きた知の仕掛け。そのありかたが「神話的」であり「叙事詩」的である印象の所以なのだ。

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そう思い至るとつるつるといろんなものが見えてくる。
過去に起こった戦争の意味、勝ってはならかった裏切り者の悪しき少年王と殺害され支配された自然の力の象徴、賢者の王狼。圧倒的な神秘の独裁者の発生、それ以降歪み狂った世界に苦しむ善なる人々の姿。

秘密警察はその王の畏れるものを取り締まるための組織だ。隠された過去のあやまち、その歪みの中心としての狂った「太陽王」の居場所「十三月城」を探る者は彼の栄華と権力を脅かす反逆者として秘密裏に抹殺されることになっていた。あたかも予言の子、イエスの出現を怖れ、ベツレヘムのあらゆる赤子を殺そうとしたヘロデ王のように。

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失われた昔、人間は光と昼の世界を、狼と精霊たちは夜と闇、月の世界を住み分け、バランスをとっていた。これはもちろん神話によくあるような、人間社会と自然の恩寵と脅威として読みとることができる。だが父に愛されなかった賢すぎる王子、太陽王は知の力に溺れ、父王を殺す。そして自ら太陽王、神を名乗り、狼たちとの戦争を起こして彼らを滅ぼし支配する。その神聖なる精霊の力を邪悪なものに変えてしまう。

…自然対近代科学による自然破壊という構図はここにたやすく読み取れる。自然への畏怖を失った人間たちの不幸から物語ははじまっているのだ。

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エゼル。これは「愚か者」という意味だ。
彼の出自の謎は、クライマックスシーンにはじめてあきらかになる。

太陽王がその魔力でつくりだした己の分身、コピーなのだ。
愛されず育ち心が歪んだために、失われた太陽王の純粋な人間としてのうつくしい心を、愛の心や叡智を、「愚か者」としてのまっさらな王自身の分身は、物語の試練の中で獲得してゆく。最後に、彼が己を犠牲にする激しい痛みの中で、本体であった罪業の王の悪しき姿は滅び、新しい「エゼル記」がはじまるのだ。叙事的神話。

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大層快い読後感でありやした。
絶版で図書館ですら入手困難な貴重品になっている。

なぜこういう本がそんな扱いになってしまうのだろう。
深々とした難解さをもつ良書は昨今では駆逐されてしまうのだ。

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さてところで、このエゼル記に前に読んだのは、実は今回の我が小森香折連読のきっかけとなった新刊「青の読み手」であった。

これはだな、「いや~児童書かくあるべし」、な楽しい本である。こういうものを子供の頃夢中になって読んだ。

権力者たちの歴史を深くよみとく密教的な神秘宗教や魔法や智恵の書庫、王家とのかかわり、暗躍するスパイ、まつわりつく歴史的陰謀、お姫様や悪役魔法使い、主人公の魔法の「読み手」としての能力、そのミステリアスな出生の秘密…わくわくするようなスリリングなアクション冒険物語だ。そして、悪役、正義の味方、と単純さではなく、それぞれの心のありようで鮮やかにキャラクターの際立つ魅力的な登場人物たち。これは勧善懲悪的な道徳や教訓としての子供だまし、ということではないということだ。他者を他者として、また己との関係についてさまざまに考える力を育む。

児童書には子供をバカにしたものとバカにしていないものがある。いわゆるよいこ育成のための「こどもだまし」が子供をバカにしたものだと私は思っている。これは悪、こうしなければならない、これが正しいと決まっている、外れたら恥ずかしい、という「押し付け教育道徳、大人の権威をかさにきた上から目線・良書」。それがおもしろかったとすればそれは洗脳のためのワナだ。

そうではない読み物は何かしらの「考え続ける力」「世界の不思議を楽しがり続ける己だけの力」を一生その魂に焼き付ける心象風景となり、その子どもの人生の一生を支えるものとなる。私はそう確信している。

そしてついでに「夢とき師ファナ」「ウパーラは眠る」。双方期待を裏切らない面白さであった。


いちいちいろいろ言いたくなるし、続編も期待している。

ああ何だか私はたくさんの本が読みたいよ。生きてゆくために。

書いて~!大好きな作家さんたち。

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