酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

風の谷のナウシカ試論(ますむらひろし「アタゴオル」「ギルドマ」との対照から)

ナウシカ再読、了。(アニメじゃなくて原作ね。)

学生時代、読み始めたらとまらなくて一気読み、深夜に興奮して眠れなくなった記憶がある。


やっぱりおもしろい。神話だなこりゃ。

やっぱりね、ナウシカ原作…なんかなあ、なんかないのかなあ。この面白さをきちんと分析したものが。ものすごいたらふく神話的モチーフ並べてきれいな構造をもって、そしてそれはただしく野生の思考で。

ちなみに私は必ずしもナウシカに賛同するものではない、と思う。(ラストシーン、クライマックスの究極の選択んとこ。)寧ろシュワの墓場に秘められた知恵と技術の、人類の永遠の夢憧れ祈りの上澄みを愛するのではないか。ナウシカが破壊したそれを。

殺戮と汚辱と差別と。既に罪業にまみれ、血塗れになった存在、汚染されつくした世界に心身ともに適応してしまった「穢れた存在」として(実はそのようにプログラムされていた)自分たちの姿をよりくっきりと相対化し「間違った存在」と明白に規定する、「正しい」無辜なるものとして生まれるべき新しい人為的生命のタマゴ、その未来像プログラムを。

だが彼女は破壊した。古の人類の智慧を、信仰を、新しい美しい理想郷への祈りを破壊した。

ナウシカのこの行為は何を意味するのだろうか?
これはまさにひとつの世界の破壊と終焉のあと、再生するべき新しい世界の運命を「決定づける」行為なのだ。

どの宗教の教えにも含まれる、終末論、破壊と再生のイメージと意味付けにこの問題意識はがっぷりと取り組んでいる。

来るべき新しく再生された清浄な世界の朝が訪れるとき。プログラムどおりなら、そのとき、浄化のプログラムの一環として仕組まれた人工の生態系の中、今まで汚穢と恐怖と嫌悪の対象であった蟲たち、そして穢れた臭い者として差別されてきた蟲使いたちの、その立場に、実は今まで彼らを差別してきた側の者たち全員がまるごと同じものであったとして立つことになる。

そのとき、王蟲たちの友愛を知り、蟲使いたちを等しい価値を持つ生命として愛する全体性としての友愛を受け入れることでしか、血塗られた自分たちの魂が論理的、構造的に救われることはできない。存在したことまるごとをすべて否定されることを避けるために。…ナウシカが立つのはその立場だ。どのようなかたちであっても、一旦生命として存在してしまったものはすべて同じ尊さをもつ、と。真の存在のための影であった、存在自体は無意味なものであったとして貶められ否定され、人為によって淘汰されたりするべきものではない、と。目的のための道具として生まれ生きたものではない、と。

…このような構造への洞察と決断を、ナウシカの凄まじい戦闘の選択は露わに描き出す。
そして彼女の選択とは、その「今」を貶め相対化する存在としての未来像そのものを、新たな、無辜なる差別者の存在する世界という未来まるごとを拒否することであった。換言すればそれは、彼等の、理想を追い求める、「光の純粋を追い求める」ことによって必然的に発生する「まったき影への嫌悪と否定」を見抜き拒否する行為である。純粋な光へ素朴な賛美は、影の排除、そしてそれへ憎悪や侮蔑によってしか存在できないものだから。

ナウシカは現世の智慧としての神話的存在だ。彼女が破壊の女神であることは非常に意義深い。シュワの墓場の理想へ至ろうとするための智慧と祈りは男性原理的な合理的純粋さであるがナウシカは女性原理としての混沌と全体性、更にはその先の世界存在への「愛」のような、存在してしまったすべてを包む母としての性質を持っている。

…それ以外に救済はありえないのだ。そしてそれは闇をも包含することを前提とする。己の生が決してスタンドアローンなものでなく、たくさんのたくさんの死の闇の上になりたったたったひとつのあえかな輝きであることを彼女は奇跡として、生命という、死の闇の中にまたたく光の奇跡として、その闇を包含したまるごとを、己を全体性の一部として激しく感覚するのだ。

「違う、生命は闇の中に瞬く光だ。」という有名な科白がある。

トルメキア王の道化に憑依して(それにしてもこの「つくられた知の神が道化に憑依するってやりかたは絶妙だな!滑稽と究極の知が同一であることを体現する者」)語る、古代の智慧と理想の象徴、その「人工の神(純粋な理想郷、永遠の正義への祈りの人類の技術知の結晶だ。)」を彼女は「哀れな不死のヒドラ」と呼ぶ。

彼が、ナウシカにみだらな闇の匂いをかぎとり糾弾し「生命は光だ!」と叫んだ時の答えが先のナウシカの科白だ。光のみを肯定し闇を否定する彼と、闇と虚無と共に生き、繰り返し死を乗り越えて生きる生命のかたちを主張するナウシカとの決別である。

「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとしてやがて再建への新しい朝が来よう。」という技術の知の言葉をナウシカは拒否する。彼女はそこでひそかに闇に追いやられ否定される者たちへのまなざしを閉ざさない。「お前が知と技をいくらかかえていても世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか。」この議論のシーンは「異邦人」(カミュ)の理性の神父と怒りに満ちた生命のムルソーの議論を思い起こさせるようなエキサイティングなシーンだ。

「私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!」

穢れの極致、猛毒の深奥にのみ、極限のうつくしさが真理が存在しうる(それは構造としてセットなのだ。)、というテーマがこの作品の随所には現れている、王蟲の体液、神聖な腐海の森の奥の聖人セルム。存在全てを肯定するためには、言い方を変えると世界の一部(闇なるもの)を言下に否定する殺戮行為を避けるために、そのようなかたちの世界構造を示しだす宮崎駿の物語構成は非常に効果的なのだろう。

虚無と共に生きることと、友愛と共に生きることの同義、その全体性を生きる、ということを。

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で、巨神兵、オーマ。これが泣かせる。…これはシン・ゴジラ的なるものなのかねえ。
共通点が多い。世界を破壊する力、武力、力としての存在であり、人間の作り出した、いや、呼び出した、そして己の手に負えなくなった破壊神のイメージを帯びた巨大な力である。だがそれはあくまでもただ純粋な(力)である。ナウシカが彼に与えた「オーマ」という名が「無垢」という意味であることは明らかにその思想をあらわしたものだ。

そしてナウシカから名づけられた彼はその瞬間、その存在をナウシカ的論理による正義に属するものとして知性を伴いながら「規定される」。名を与えられる瞬間とは、混沌からやってくる純粋な「力」がコスモス側に取り入れられ、その力が解釈され得るかたちとして、意味と性質(或いは人格)を持つ瞬間だ。ナウシカを母としてのそのオーマの覚醒は、ひとつの意味を持った生命のこの世での誕生の瞬間でもある。

爆弾や核兵器、ただ殺戮のための武力のかたちのはずが、物語の中で魂や知性を持ち得ることを示唆した生物体のかたちをとって象徴されることの意味は深い。ゴジラ然り、巨神兵然り。たくさんの議論の可能性がここに開かれる。あたかも、古今東西の神が神話の中で人格神として規定され続けてきたように。

善悪の彼岸からやってくる「純粋な力」がこの世界に取り入れられるとき、それがどのような性格をもった存在となるか、という定義づけのミッションのテーマもまたここに可能となる。

ここでの「己の現世での生を育てる親を選ぶ『神』」という構造で思い出すのは、イエスを生む処女マリア的なイメージもあるだろうが、思うにこれはいささか薄い(現世でのマリアとヨセフはイエスの性格付けに決定的な影響を与えるものではないように思われる。聖書はワシちゃんと読んでないんでこのへんあんまり言えないけど。)。私がすぐに思い出すのは、ますむらひろしの漫画である。「アタゴオル」シリーズに、主人公の自堕落で放埓なデブ猫ヒデヨシを父として選んだ植物の王の話があるのだ。

「ギルドマ」。(ここでは男女の役割が反転している。規律は闇の女王に属し、自由は光の王子に属する、したがって、光の王子が選ぶのは母ではなく父なのだ。)

ある日、ギルドマの地で、封印を解かれ、規律と支配の植物女王ピレアが復活する。(これは繰り返される神話としての約束だ。)己だけの唯一の秩序の美を尊びそれを乱すものを憎み殺戮することによって成り立っている女王。世界が彼女によって支配されあらゆる個性を否定されようとする危機に陥ったとき、必ず生まれる約束になっている対立項が、植物王「輝彦宮」だ。

植物王の種として生まれ出でたとき、輝彦宮はこの世での力の強いものを父としてその力と性格を担って育つ使命を負う。ピレアの憎しみの闇を封印するための生命の輝きの力を育む対立項として生まれる者だ。

…ここで興味深いのは、ナウシカとヒデヨシ、この父と母、男女の原理の反転した物語の解釈である。

穢れを蔑み否定した唯一の究極の調和と美の理想を掲げる敵(古代の知性・ピレア)と、穢れをも包含した全体性としての生命の輝きを重んじる主人公側(ナウシカ・輝彦宮)の闘い。同じようなテーマを掲げながら、この二つの物語においては男女の原理が全く反転して描かれているように見える。父の正義と母の正しさの相克。

…闇と光、という比喩が共通している。正義とそこからはみ出るものについて。これについて考えてみよう。

ここで問題となるのは、個と全体、という要素でもある。

例えば、正義を掲げ理想を追う個を光としたとき、それ以外の外側は闇となる。世界のベース、その基本は虚無と闇だ。虚無の闇のなかを、それを否定しながらすべてを己の光で支配し照らし出そうとして行く光としての個、自我。永遠にそのままの己自身であろうとする自我。この図式の物語を掲げているのがナウシカと輝彦宮の敵である。不死のヒドラ。憎しみのピレア。

ナウシカと輝彦宮はその双方が穢れと闇を包含した全体性を生命の豊かさと輝きそのものであるとして掲げるが、ここでの男女の違いは、ナウシカが個を超えた全体性の中にそれを見出し、輝彦宮がファッショとしてののっぺりした一様な価値観に閉じ込められた世界の全体性として定義する闇の母ピレアを、個の多様さ、その自由で放埓な無条件の生命の笑顔の輝きでもって破壊する解放の中にそれを見出した、という、いわば反転性を孕んだ違いである。だが、双方が、多様への、全ての存在を肯定する「世界の解放」であることは共通している。

それは、やはり母という要素が闇を孕んだものである共通した原理に基づいているが、その「母(世界・マトリックス)の闇」の両面性を如実に現した違いであるところがキモなのだ。母は闇から光(多様)を生み出すものであり、光(多様)を闇(本来カオスであるはずのここが、「ギルドマ」ではファッショへと読み換えられる危険をはらんだものとして解釈されている。)へ戻そうとする両義の存在であるから。

ナウシカを見てみる。
ひとつの光「個」が己だけをスタンドアローンな唯一の光として他の存在、その多様を否定し、換言すれば闇の中の光の多様を否定することによって闇という混沌の全体性そのものを否定する動きを持った時、その光は全体性を失ったヒドラとなる。純粋と不変と不死を願うもの。それはいつしか他を憎み殺戮と差別を生むだけの権力構造となる、歪みとなる宿命を負っている。…純粋な願いであったはずのものが、腐るのだ。

で、ギルドマ。
闇が、調和と静寂という全体性の美を掲げ、散乱する個的な光の多様を圧殺しようとするとき、その闇は逆に多様としての全体性を既に失ったものとなる。反転だ。

このような反転はいわば、闇の中をゆく光としての自我を感じながら、それがいつしか反転した光の中をゆく闇の中の自我となっている構図、ネガとポジの物語が常に共存し反転しながらどこか等しいものとして認められている、という両義の構図へとつながるものであることを意味するのではないだろうか。

蟲と腐海の穢れの中をゆく己という図式が、いつしかその深奥に腐海の深奥の清浄と王蟲の内部の友愛と癒しの美の真理の中に包まれた小さな闇となっている図式に反転していることの物語を。

 

男性原理と女性原理は、ただ、構造を示す、文字通り「原理」である。相克するものでありながら常に両義を孕み止揚され続けなければならない神話のための闇と光の反転の原理。それが仕組まれた装置がこのような「物語」なのだ。

何しろ、結局どっちにしろ多様性をいかに許容するかってハナシなんじゃないのかねえ、と私は思ったんだけど。

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「己の外部」その理解できないものの存在を許すか、許さないか。それはすなわち世界の多様を許すか、許さないかの問題である。多様性、ダイバーシティの本質はここにある。理解するのではない、それは不可能だ。理解できないものの存在を己の存在と同じものとして許すのだ。己のキャパの小ささを理解するのだ。理解しえないという前提を理解し合う。その不協和のなかにこそ個と全体の共存と調和は極めて逆説的にだが初めて存在できる。

個を超えるものが女性原理であり、個にこだわるのが男性原理である、とすれば、その全体性や個を支える基盤を何かに仮託するとき、己を失うとき、ファシズムがうまれる。己の頭で考えることをやめるとき。唯一の正義のみを信奉することの美学のお気楽さに帰依するとき。アクセスのためのルートが違っても構造としては同じなのだ。

共に、ファッショへの恭順と被支配に通ずる。

闘いの神話は、常に「現在」する物語としてある。

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たくさん言いたいことあるけど、風呂敷広げたら結局なんにも言えない。
オチがうまくついてないんだが、とりあえず見切りアップ。風邪ひいてツライのよ、今、オレ。

とりあえず寝ます。おやすみなさいサンタマリア。よっぱらいだから、きっとまたこれ書き直します。