酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

疲れたなあ

僕は少し疲れたな、サンタマリア。

夜、やっと自分のごはんにありついて、酒にありつく。今日は自分のために珈琲を淹れる時間もできなかったけど、この時間になって音楽と麦酒さえあればなんとか今日一日OKさ。

自他への恨みつらみ憎悪からも解放される。


何もかも誰もかれも本当に悪くないのだ。誰もが仏なのだ、としみじみ思う。それでやっと自分も許される。みんな一緒だ。みんながワガママに生きればいいのだ。

やっと何もかも素晴らしくうつくしく素敵に見えてきてほっとしている。しあわせだ。今この瞬間にもガザやウクライナでどんな理不尽で辛い目にあってるひとがいるのだろうか。こんな幸せで申し訳ないと思わねばならぬ。こんな風にひとりになれて、あったかいお布団でぬくぬくと眠ることができるんだよ、俺。

理想の死に方をあれこれ考えてこんな言葉を連ねて、言葉で物語を拵えて自分の心を慰める。(つよぽんの「僕の生きる道」をみなおしていて、中村先生とまり子先生がうつくしい結婚式をあげたシーンも見たので安心だ。このドラマ、20年前だからな、突っ込みどころはさておき非常におだやかでうつくしい気持ちになった。音楽と映像と優しい心。優しさと、尊重と、尊厳と、誇りと。距離感の正しさを考える。小日向文世が相変わらずいいなあ。)

畳の上で血を吐いて死にてえ、といった友達が高校生の頃いて、「実に迷惑な変人である。」と思ったけど、まあ今更ながら自分、実はそれであったんであることよ。しみじみ。

迷惑をかけると困るのでまず天涯孤独を勝ち得てから、金銭のための商売で後始末をしてくれる見知らぬ方にのみ仕事と割り切って鼻をつまみながらの汚物まみれになった遺体処理としての私の残骸をゴミ袋で焼却処理してもらうように、ご迷惑を片付けてもらう算段をつけ、それを信じて世界と存在と幸せだった記憶と優しくしてもらったひとたちに祈りと感謝をささげながら幸福に意識をなくしてゆくのだ。うっとり。(ああ、最初から己をすべてごみ袋でつつんでからそうすれば手間いらずなのだ。それがいいそれがいい。幾重にも重ねてもぐりこもう。…やっぱアタマいいんだな俺。)

本当は火山に身投げとか最後の処理が要らないのが一番なんだけど、チキンなので怖い痛い苦しいはダメなんである。

こないだ愛された一生に穏やかに別れを告げ、ちょうどそろっていた姉一家に見守られ抱かれながら虹の向こうに渡っていったリクちゃん。

きれいに洗われて一番かわいらしくブラッシングされてつやつやとした姿を取り戻し、花やお菓子に囲まれ一瞬の炎に葬られ、またあたらしく日々大好きだったお菓子や花にかこまれてきれいなリボンのかかった箱に小さな骨と愛らしい写真になった姉の家の小さなヨークシャーテリア、私はみなが寝静まってから初めてひとり夜中に泣きはらして、あんまり寂しくて私が彼に替わってあげたいと羨ましさまで感じた。

本当に、そう心から願ったけれど。

それはやっぱり違ったんだな。嘘ではないけど嘘だ。本当の嘘はつけない(そういう歌があったんだよ。「本当の嘘はつけない♪」)。死にたくなんかないし、実に愛されるには資格が要るのを私は知っている。誰も愛さないから愛されることを望む資格も必要もない。優しくされると泣いてしまうからダメである。なんにも信じてないから。

…死にたくないよ、死ぬのは怖いよ。
なにしろ母が私より先に逝ってしまうなんて絶対だめだ。怖いことがほかの人に起こることを考えるだけで私は怖いからいっそ私がそうなって楽になりたい。誰も損なわず誰にも損なわれないで済む憎まれることも責められることもない存在になりたい。