酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

PAPA2 COVID-19

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COVID-19、コロナ騒ぎで様々な側面からかなりダメージを受けている。
…という方は少なくないだろう。

というか、少なくともこの国では今現在ほとんどすべての方がかなりのダメージを受けているように思われる。

あらゆる方面に関しての様々な形でのものすごい不安はすべてを圧殺する悪循環のモンスターだ。多かれ少なかれ皆やられている。自覚無自覚そのリアリティに関しての逼迫感の軽重はともかくとして。

より一層ひどいことになっている他国の惨事を目の当たりに、すべては「明日は我が身」の恐怖。

…ということで、わたくしもそうである。
いや~、正直こんなにすごいことになるとは思いまへんでした。

ニュース見てれば果てしなく怖くなってくる。メリメリと心が堕ちてゆく音がする。
コロナ憎い。心から憎い。何もかも奪ってゆく、希望に繋がるものを。春なのに。

…しかしだな、アタマがあんまりコロナになってしまうとココロがコロコロとコロナ暗黒に負けてしまうのだ。弱いココロの持ち主のわたくしなんかもうイチコロコロリコロナ。煽りや脅しなんかにもコロコロヤられる。コロリコロナ。

愚かである。

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まあねえ。

おこもりしてこんなことしてたら免疫力も下がるしね、とにかく愚かしい敵対関係作らず前向きな希望に向けて知性を発揮すべく路線を調整するだよ、コロナビール風評被害とかもう愚かしすぎて、いや~古今東西人類ってのはホントこういうもんなんですネ。愚かである。

で、心にたくさんのチャンネルを持っておかなくては閉ざされる。閉ざされることから恐怖と愚かしさは始まる。

ということで、心を違うチャンネルに振り向けるべく多数のチャンネルをひねってみるのも有効ではないか。I shall be released!(ボブ・ディランは結構泣かせてくれる。)

ということで、さて。

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父である。PAPA、再び。

愚かしい私は時折両親のところに甘えに行くのだが。
こないだ、帰りがけ。

朝、実家を出発する前、リビングの父と少し話したんである。
バイクでの帰り道にある大学の話題から膨らんで、昔の大学のこと、そしてその学生時代のあれこれを話してくれた。駒場寮での日々。昭和の古き良き時代のあの界隈ののんびりとノスタルジックな風景が浮かんでくるようだった。

父から昔話を引き出せるのはなんだか嬉しい、そして不思議な気持ちになる。今までそんなことあんまり話す機会がなかったから。

おっくうがってすっかりおこもり、マイナス発言ばかりが多い昨今の父を見るのを寂しく思ってたんだが、昔話をしてくれるときはなんだか急にいきいきと楽しそうになってくれるようだった。瞳に光が灯った顔。愛おしむように昔のことを語り始める。それだけでも部屋は優しい空間になったんだけど、それだけではなく私自身もなんだか楽しくなった。時代や自分のルーツのことや、そのリアルを感じたのだ。

高校の途中で東京に越してきた父は、転校編入の空きの具合がうまくいかず、高校を卒業していない。大検を経て入試を受けたんである。で、大学で寮暮らし。

駒場寮、強制的に壊されてしまう前、友人に潜り込ませてもらったことがあるんだが、イヤ聞きしに勝るというかなんというか、ものすごい素敵なとこだった。タイムスリップ或いは異世界、昭和漫画ガロの世界。)(楽しかった。)

夜、部屋にいてもつまんないもんだからつっかけにどてらな格好のままご飯を食べに渋谷の恋文横丁まで皆でぺたぺた歩いて行ったりしたそうだ。その恰好で。高級住宅街松濤を集団でのし歩いたそうだ。のしのしと。「いや~恋文横丁は良かった。安くてうまくて。」「店主がわかってて大盛にしてくれるんだよ。」「懐があったかいときはカキフライとかな、うまかったな。」

「学食ではな、時間を過ぎると売れ残りを馬鹿みたいに安くしてくれてな。」
「合図の鐘が鳴るんだよ、そうすると皆待ち構えててそれ~っと。」
「食堂のおばさんは随分親切だったよ。」

…何を隠そう寮暮らしって憧れである。
子供のころからワシは本当に寮暮らしがしてみたかった。児童小説青春小説だのなんだのたらふく読んで脳裏に好き勝手な幻想憧れを醸成してしまったのだな。実現しなかった夢を振り返っても仕方がない。将来はステキな女学校みたいな老人ホームで友達みんなと住むのを理想として振替えよう。

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挨拶して出るとき、いつもちょっとめんどくさそうに一言「気をつけてな」とか「うん」とか「ああ」とかしか言わないんだが、「また近々おいで。」といつになくあたたかな心持ちの灯ったような表情をまともに向けてくれた、ような気がした。

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人生の一点をふと振り返って、生き生きとした表情を浮かべられるときがその終盤に存在するのだとしたら、その人生は今の立場がどんな状況だったとしても、非常なる幸福、何ぴとも冒し穢すことのできない絶対の幸福に彩られた意義あるまったきリアルとして主張されることができる。それは逆照射され、現在をも染め変える自分だけのリアル、絶対のリアル、絶えず生成される物語としての過去だ。現在を変革し未来を創り上げる生ける過去。

西田幾多郎の言う「永遠の現在」思想とはすなわちこのようなものではないか。
てな、思うんだよ。(これについてはここで言及した。)

喩えこの先私が疫病にヤラれ誰も私のことを考えることもないさびしいさびしい死を迎える、そんな人生だったとしてもね、絶対否定されない。そのときの寂しい絶望がどのようなものであってもそれは否定されない。私の感謝と歓びと、すべての存在のときの記憶は。