酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「真鶴」川上弘美(改訂版)

「夜の九時ごろって、人は何を考えるのかしら。聞いた。
さあ。夜の三時や、あけがたの四時に感じることなら、知っているけれど。
青茲の答えに、顔をあげた。三時や四時?

三時は、少しの希望。四時は、少しの絶望。
きれいな言いかたね。
ばかにしたでしょう、いま、あなたぼくを。
ばかにはしなかった。でも、きれいすぎると思った。希望も絶望も、きりはなすことができるものではない。(p80)」

  *** ***

川上弘美のしっとりといろっぽく、少し怖いようなひらがなの使い方にぞくぞくしている。…「真鶴」再読、了。すっかり忘れていたのでまるで初めて読んだようであった。寝ぼけた蝉が鳴いている、八月終わりの深夜一時。

読了後、不可思議な感動で脳細胞がじいんと振動していた。
情趣とカオスを描き出すことを得意とするこの作家の作品群を分析するのは難解であるが非常におもしろい。極めて感覚的であり繊細さに優れているために、一見情緒ばかりに流れているようにも見えるのだが、実はその基底には論理が、法(ダルマ)とでも呼ぶべき「構造的なるもの」がしっかりと秘められている。だからこそこのジンとした感動なのだ。ここからはかならずその理由となる論理が、深々とした豊かさをもって汲みだされるはずだ。

そしてその論理が何故深く豊かなものであるかという理由は、それが、日常現実において隠蔽されているもの、構築された堅牢な構築物としての現実というひとつの物語の論理を越えようとする野生の思考、隠されたそのマトリックスをまっすぐに見出そうとする神話の論理に近いものであるところであるというところに由来する。

この振動が残っている内に、少しでもこの構造について、その異界の論理の持つ意味について、メモにでも書き残しておかねばならぬと思う。

ということで分析チャレンジ。

  *** ***

作品前半。主人公京(けい)の12年前失踪した夫・礼(れい)と、現在不倫関係(既婚、子持ち)にある恋人・青茲(せいじ)との恋愛関係をからめ、思春期を迎える一人娘・百(もも)、老いてゆく母との女三人暮らしの日々が描かれる。京の独白のスタイルである。この部分は、繊細な感性に流れてゆくような、いささか冗長にも感じられる京の日常生活の描写で、極めて繊細で鋭敏な感覚的情趣にあふれているにせよ、まあありきたりの恋愛小説の体をなしているようでもある。その域である。

が、中盤、一気に流れが変わる。伏線としてちりばめられていた異界性が一気にあふれ出し、この小説を凄まじく激しいものと変えてゆく。薄い膜一枚でようやっと保っていた日常現実のその被膜が引き裂かれ、カオスの闇に沈んだ深層がえぐり出されてゆくのだ。噴きあがる、どろどろとした灼熱のマグマにも似たその深淵と暴力性。

京が一人で真鶴にでかけ、祭りの夜、「ついてくるもの(霊のようなもの)」の女にいざなわれて異界に踏み込んでゆく、ここからだ。いきなりおもしろくなる。ぞくぞくするような川上ワールド炸裂。二重写しの現実と異界のあわいをおぼれてゆく。夢か、うつつか。現実の記憶か、捏造か、己の為したことか、他人の為したことか。或いはパラレルワールドか。…何もかもが現実感を失い、心象の中、主体の在り処さえ定かではない、悪夢を渡り歩いてゆくようななまなましいリアリティ。狂気。そして、そこにあるのは、まっすぐで激しい、心身二元論を無意味なものとするような、現象を成り立たせるものである原初の官能。

このエロティシズムは、 日常生活、社会性、その「現実」とされている論理秩序、あらゆる物語における制度の表皮を引き裂き、矛盾に満ちた「存在」の本質をそのままに突きつける「力」そのものだ。

ということで、全体の物語構造を俯瞰すると、夫の失踪によって精神のバランスを失った京が、東京<日常現実・生活(ふつう)・恋人青茲>の側から、真鶴<異界・夫礼(不在、死)>の側へ境界(祭り)を越えてダイブし、その死の側(ただし生のマトリックスとしての死。個の枠組みアイデンティティを放棄するという意味での死。カオスのエネルギーにみちている。不在と存在の矛盾がたわむれあうカオス。虚無ではない。)に存在を呑まれる試練を経て、そこで、心の中に巣くった夫の不在という<存在の幽霊>の呪を葬る。そして新たな日常現実としての東京に生還するという「死と再生」、或いはいわゆる「行きて帰りし物語」のスタイルをもった物語であると言えるだろう。

参考・ここで述べる現実と異界の二項対立構造は、先だって記事にした西田哲学の生命論理の構造に正しく合致するものである。現実ーロゴス、異界ーピュシスとする図式があてはまる。これを念頭において読んでいただくと、「矛盾」というキイワードの意味するところと共に、以下に述べるものの論旨全体を理解していただくための一助になるのではないかと思う。→参照「福岡伸一、西田哲学を読む」

以下、具体的に本作品においての異界と日常の関係性を追ってみる。

●日常現実と異界の関係・東京と真鶴

冒頭では、京が中盤の本格的な真鶴行きの前触れのようなかたちで、意図的にではなく偶然に降り立った真鶴での一泊が描写される。12年前に失踪した夫のことをずっと考えている。ここで、そこに心を捕らわれたままの京の現在を読者は知ることになる。京のなかでの「夫の不在という存在」という病んだそのかたちが「ついてくるもの(幽霊)」との関わりにおいてあぶりだされてゆく。

この旅は前哨戦だ。夫の残したメモから成立した、中盤の本格的な真鶴行きに先立つ予告編。

真鶴は、ここで、京にとっての「向こう側」の世界、すなわち「こちら側・東京」の日常生活の現実から消えてしまった夫(不在)の側に属する異界というトポスとして決定づけられている。

京の中での夫の不在が「いないのに、いるもの」であることは、恋人青茲の嫉妬心によって次のように看破されているところである。

「『いないもののことを、ぼくに思わせないで』
え、と青茲をみなおす。顔が、あおざめている。どうしたの、のぞきこむ。
『嫉妬だよ』青茲は言った。
嫉妬。すこし、息をのんだ。妙な言葉だ。青茲の口からでると。でるはずがないのに、でている。
『でももう、いないひとなのよ』つぶやく。
(中略)『いないから、嫉妬する』青茲はいった。」(p82)

そしてここではまた続けて、この「いないのに、ついてくるもの」、すなわち、京に憑りついた異界への誘いであるものとしての幽霊が、京の中にある、夫・礼の「不在の存在」につながるものであることが示されている。

「『いないのに、ついてくるから、嫉妬する』青茲はいいなおした。
ついてくる
その言葉に、びくりとした。
『ついてくるもののことを知ってるの』聞いた。
(中略)知らずに、偶然に言ってしまったのだということが、すぐにわかった。青茲に、知られたくない、とつよく思った。
とたんに、ついてきた。密度の高いものだった。」(p82)

●母と娘・女性性の持つアイデンティティの独自性

…そして、帰京。「こちら側」東京での京の日常生活の描写である。

京と娘の百との関係が、京の独白の中、現在の出来事と過去の回想のカットバック的な描写の中に浮かび上がる。血を分けた娘が自分と一体であったところから、別のものへと育ってゆく、その不思議な痛みや寂しみの感覚を母として描写してゆく。

産み落とした赤子は、いとおしい、ではなく、ただ自分に近くて大事なもの。その「近いもの」であった娘がそうでなくなってゆく過程の不思議。そしてこのとき同時に、京自身がその娘の立場であったときのことを思い、初めて己自身の母、老いはじめたその母の心を知ることになる。アナロジーとして重ね共有してゆく、と言ってもよい。母心、母という集合体の持つ心。

これは何を意味するか。

いわゆる母性愛、盲目的に献身的な愛、という単純な物語に帰するものではそれはない。もっと構造的なところに問題意識は焦点化している。

個を超えた普遍、「女」という性の持つ人間たちに共通のその「産むもの産み落とされるもの」の時間の経過による立場の移り変わり、或いは重複。ひとりの女は同時に母であり娘であるというふたつの立場の心を重ねもつ。このとき、個は、産み落とされ成長し個となり、産むことによって分裂し個を超えてゆく、連綿と繋がり繰り返される、この女の一生の歴史の流れの中に己を投げ渡しているのだ。それは或いはまた、「家族」という概念の歴史でもある。制度の中に組み込まれた「個と普遍」の図式が、ここでは、女三世代の日常の暮らしの中で、お互いの血のつながりの関係性の意味が「個とそれを構成しているものとして普遍」そしてそこにある「矛盾のありかた」のような構図であるものとして問われてゆく。

「青茲と結婚したなら、ずっとつづいていただろうと思った。青茲とわたしの仲が、ということだけではなく、もっと長い間かけてつながってゆくものが、きちんとそのままつながっていったろうと、思った。
 長い間、母よりももっと前から、百よりももっと後まで、連綿とつづいてゆくなにか。
 それはただの記憶でもないし、かといって遺伝子のような組成のはっきりしたものでもない、ただ、つづく、としか言いようのないものだ。」(p87)

個でありながら個を超えはみ出てゆくものである集団意識のような「つづくもの」を己の個という存在自体として見出だす。矛盾。それはつまり、「ふつう」であることと、(「ふつう」に属するものとしての「個」の概念は、ここではそれ自体が社会的システムに属するものである。)そこからはみ出る「ふつうでないもの」(個の枠組みを無視したところに発見される自己存在の在り方。)の矛盾にみちた共時性としての個という存在のかたちの発見である。

つまりここには、「ふつう(日常現実)」のところでは隠蔽されているものである、個を破壊する要素が個それ自体として存することによって成り立つ「ふつう」、という矛盾そのものとしての生命の構造が示唆されているといってもよいのではないかと思うのだ。

もちろん母と娘の関係性としては、父であり息子である、というところにも同様の構造が存在するわけだが、徹底的な違いは、それが観念的なものであるか、激しい痛みのリアリティを含めた直接的な身体性を伴っているものであるか、というところにある。「母」という概念には、己が異物(異質なもの、男性)を受け入れ、それによって己から派生した胎児と肉体的に完全或いは不完全の間をゆらぎつつ一致していた時間と、激烈な痛みとともに身体の外部へと産み出されたその己であり己でないもの、そこのある同時性の矛盾を体験する時間の経験が含まれている。そう、そしてここでこの「矛盾」とは、個を引き裂いて破壊してしまうほどの「激烈な痛み」として表現されるものであったのだ。

出産シーンには、その死と生の狭間の時空(或いは個の領域と個を超えた領域、アイデンティティの枠組みの壊れる場所)「ふだんの生活から、遠くかけはなれたところ~(中略)~いてはいけない場所」(p77)を体験したなまなましい身体性、という、存在にとって決定的な意味が伴われている。この「いてはいけない場所」と表現されているのものが、日常生活の世界論理を破壊するものである、すなわち隠蔽されている場所としての異界を示唆するものだと考えてもよいだろう。

これを見事に描き出した出産の際の回想シーンは、非常に印象的だ。
己自身の精神の変遷をどこか客観的に傍観する。ユーモラスなようでひやりと怖いような、この川上弘美独特の語り口。その際の精神の変遷描写とは、すなわち世界構造の認識に関する意識変遷であり、それは日常現実への違和をなまなましくあぶり出すものである。…素晴らしく揺さぶられる。少し長いが引用する。

「百が生まれるときは、ものすごく痛かった。
痛みというものをそれまで知らなかった。知っていたと思っていたのはちがうものだった。
(中略)それなのに、生みおえてしまうと、忘れた。きれいさっぱり、忘れた。
『かわいいあかちゃん』などと分娩してからたった一日ふつかしかたたないのに、平気で言っている自分が、へんだった。あんなに、激しい怒りのように痛くて、ぶつけどころのないものをからだじゅうに漲らせ、人のかたちをもう保っていられないとまで思ったのに、それなのに平気で『わたしのあかちゃん、よしよしいいこ』などと、かるがる言っていた。
(中略)子供を生む前と生んだあとの、妙な感じについては、ほかの『おかあさん』たちも、みなひとこと、あるようだった。
『考えていたのと、ぜんぜん、ちがう』くちぐちに言った。
世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。
生死にかんすることだからちがう場所だった、というのでもない。ただ、単純に、ちがうのだった。ふだんの生活から、遠くかけはなれたところだった。でも、ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じもあった。痛みのまんまんなかに、生むときの、きばって踏みしめている足もとのあたりに。
(中略)いてはいけない場所。そこに、ほんのわずか、踏みいってしまったおそろしさが、子供を生む場所にはあった。
(中略)生んだすぐあとの、戻りきれてない感じは、まだ完全には、なおっていない。たぶん、死ぬまで、なおらない。」(p77~80)

この出産にまつわる異界との関係性の描写は、「日常」「現実」生活というものの、何かを隠蔽したものである不自然さ、異様さを浮き彫りにする。そしてそれはまた「ふだんの生活から、遠くかけはなれ」ていながら、「ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じ」、隠蔽されるはずのいてはいけない場所、異界が実は日常生活と共にあるのだという矛盾構造があらわになる瞬間である。

この出産回想シーンは、真鶴での異界の道行き体験とのアナロジーを成していると考えてよいだろう。「世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」

●「ふつう」と「ふつうでないもの」青茲と礼

「ふつう」について、青茲との関係性に託して記した箇所がある。

「青茲とは、とてもふつうなのだ。ふつうであることは、難い。ふつうでないことは、いくらもある。けれど、ふつうでないことは、たいがい持ちこたえることができない。いずれ、壊れる。壊れに向かうことは、易い。ふつうのことを持ちこたえることが、いちばん難いのだ。」(p89)

矛盾を孕んだまま日常を持ちこたえるという奇跡の現象としての現実、生命存在の構造についてこれは述べている。京は、「壊れに向か」った者としての夫・礼に属するものである異界・真鶴から帰還した。だがその体験は、単純な帰還、元の世界に戻った、というものではない。出産シーンで予告されているように「(いてはいけない、ちがう場所から)戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」ものである。

戻ったけれども戻っていない。つまりこの一連の「行きて帰りし物語」構造は「異界(ピュシス)」と「損なわれた日常(ほころびたロゴス)」のバランスを失った矛盾を止揚するプロセスであった、と解釈することができる。青茲も失い夫の呪も葬り、双方を否定することによって新しく獲得されたもの、「ロゴス化されたピュシス」として新たに再構成された場所としての日常生活を意味づける論理を示しているという解釈。「こちら側に戻っているが向こう側にもいる」のだ。作品は見事に構築された物語構造を完結させている。

向こう側とこちら側の違い、それは、「ふつう」でないところにある夫・礼、そして「ふつう」の世界に属する恋人・青茲との対照として次のように描写されているものである。

「いい、とささやく。青茲には言葉をつかうのだ。礼には、できなかった。」(p52)
身体的な官能の感覚を、相手に対し、言葉として表現するか、否かの違い。

また、礼の名を、京はなかなか呼ぶことができなかったが、青茲の名ははじめからスムーズに呼ぶことができた。

「礼は、引き潮のようだった。
踏みしめていても、からだをもっていかれる。」(p71)

礼に関してはすぐに「もっていかれてしまう」「にじむ」「うるむ」という海や水になぞらえた、存在すべてがするりと飲み込まれてしまうやわらかい官能的な表現がなされるが、青茲のときには「はじめる前は、少しのがれようとする。きもちと、からだと、両方が。はじめたくないのだ。ほんの僅かに。」(p52)という、身体行為に至る前のワンクッションがおかれている。それは、「ふつう」というロゴスの世界、「ことば」の世界の持つ間接性を意味している。シニフィエシニフィアンの間の、隙間。

川上弘美作品において共通した「海」のイメージの持つ意味は重く深い。マトリックス、生命の母胎、存在の故郷。個の壊れるところ、死後未生。それは「わたし」が「わたしたち」という集合体に溶け合ってしまうところであり、個を超えた生命の源泉としての集合体に戻ってしまう場所のイメージを持つ。海の生物の異界物語をあつめた作品集「龍宮」などにその兆候はもちろん顕著なのだが、それがもっとも端的に示されている作品としては、もしかして、まず「海石」《「パスタマシーンの幽霊」収録》をあげるべきなのではないかと私は思っている。読後の簡単なレビュではあるが、ここで少し言及した。)(アイデンティティとは何か、というテーマに関連して、「わたし」と「わたしたち」の関係を焦点化して取り上げた作品として印象深いのは「大きな鳥にさらわれないよう」であろう。ここではSF仕立てで、クローンという遺伝子操作による大勢の「わたし」が登場する。「大勢の、代替可能な、わたし」、「わたし」とは果たして何か。…非常に逆説的ではあるが、アイデンティティという規定されたものである幻想を一旦引き裂いて破り捨て問い直すこと、その禁忌に正面から立ち向かうことによって文学は個の持つ存在の意義、どこか損なわれたものである己への疑問と苦しみを救済する手法となり得るのだ。宗教や神話に親しいものである終末論、また死と再生のテーマのもつ意味、意義もまたそこにある。)

本論の冒頭の引用は、青茲のもつこの「ロゴス性」「ふつう」を端的に示すエピソードである。たとえばそれは希望と絶望をきれいに切り離して考えることのできる「ふつう」であり、それを「きりはなすことのできるものではない」と思う京と青茲との距離を決定的なものとする。

ということで、当然、ことばとロゴスに属する青茲と対立項を成すものとしての礼には、カオス、死と非人情(漱石の定義する非人情。「人情」という倫理の物語の枷から解放されたまっすぐな感性・知性としての意味を持つ「非人情」である。)の影がついてまわる。礼は、死を生の、生を死の一部として何の禁忌もなくまっすぐに見つめる眼差しをもつ。二つのエピソードを挙げてこれを例証してみる。

1.椿

「無慈悲な人だと思った。」(p70)
濃い血の色のままぽとりと落ちる椿の花を二人で見たときのエピソードである。礼は花を拾い上げ、手のひらでにぎりつぶす。
「『かわいそう』言うと、礼は首をひねった。
『どうして』
だって、ばらばらに、しちゃって。
どうせそのうち朽ちるものだよ。」(p70)

椿の残骸のついた指を、礼は京の口の中にさしこんでくる、甘い花の香りに陶然としながら京はその指を吸う。赤ん坊の百が京の乳を無心に吸っていたように、差し出されたものをただ衝動的に、「なにも思わず、ただうっとりと甘苦しく。」(p70)

…この、論理を越えた衝動的なるもの、死と生命の衝動の狭間の場所に直結したものとしてのエロティシズムを礼はまっすぐに体現する存在であった。

2.ナナフシ

礼と京とで滝を見に行ったときのエピソードである。
滝のはじまりについて二人は語り合い、人生の最初の記憶、自分の出てきたところについて礼は語る。

三歳の頃、庭の木についた虫をつまみあげようとして手のひらの中でつぶしてしまい、それを母に見せに行ったシーンの記憶である。母は一瞬その死を抱えた礼にたじろぐ気配を見せたのち、ナナフシという虫であると教えてくれた。
『母はおれをしんと見ていた。』

「『おれはつまり、そのナナフシの場面からでてきて、そこからはじまったんだ。滝のはじまりと同じようにね。それ以前は、全然知らない。自分のことなのに。』(中略)『でてきたところ、わたしは、よくわからない。』(中略)いつもわたしは忘れてしまう。でてきたところも、忘れた。
滝は飛沫をあげ、今さっきでてきたばかりのもののように、あたらしく落ちつづけていた。もう何百年とそこにあるものなのに。」(p146)

集合体としての滝のかたち、水の流れのイメージは、いみじくも先にこのブログで西田幾多郎福岡伸一の生命論に関する先のこの記事でも登場してきた例示である。

「福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。」

そしてもちろんこの滝の構造モデルのイメージは、先に挙げた女の一生においての個の認識、「連綿と続いてゆくなにか」という、個でありながら個を超えたものであるおおいなる生命の流れに連なっている存在、その己の存在形式への認識にぴたりとあてはまるもの、存在と生命への共通のまなざしなのである。何百年とそこにありながら常にあたらしく落ちつづける矛盾として存在するもの。

礼の存在は、その死の場面からはじまっている。青茲のように「ふつう」の論理、ことばのワンクッションを必要とすることなく京を「いてはならない」原初の衝動の場所にもっていってしまう。直結しているのだ。

そして、死に直結した生、その狭間の場所に存在する力が、官能、原初のエロティシズムなのだ。

産みの苦しみ、その激越な痛み、そして異界(死)へ引きずり込まれそうになるときの官能、また性的な官能への欲望の三つが、まったくおなじもの、心身の奥底からなにかが「にじむ」「みなぎる」感覚として描写されていることは、そこが個が壊れる場所であるという共通の意味を持っていることを意味している。生と死と性。

計算しつくされているとしか思えないほどの見事な論理構築だ。痛みの果てが、死が、生のはじまるところが、性的なエクスタシーが、同じように「個が壊れる、個から解放される」ところとしての「高み」である、という図式である。

「ついてくるもの」女の集合体を思わせる幽霊によって異界をさまよう中、礼への思いをかきみだされ、ひきずりこまれそうになるとき、京の中に生まれたのはそのような身体衝動であった。

「にじみを散らして元にもどろうとするが、できない。次第にみなぎりはじめてしまう。礼としたときよりも、青茲とするときよりも、楽々とみなぎってゆく。
百を生むまぎわ、いきまないでください、と言われた。(中略)まだ早いから。あとちょっと。でも、まだよ。
五分ほどの我慢が、無限に思われた。同じ我慢を、いま、している。体は、みなぎりたくてしかたがない。あとひとすじ、ふたすじ、力をこめて目をつぶってにじみの中心に気をやれば、すぐにいちばん高みにゆける。でも、ゆかない。」(p126)

●帰還、そして、光。

「日がかげり、すぐにまた日差しがもどる。三人の、顔から肩にかけて、窓越しに光がさしている。身をかがめると、ちょうど光が額のあたりにきて、冠のようだ。同じ冠をつけ、同じ血をわけた、歳のことなる三人の女。」(p254)

京が最終的に帰京し、決心できず出せないでいた夫の失踪届を出し、新しい生活をはじめたときの平和な日常風景、三世代の女が描かれている情景である。この部分は、前後も含め、かなしいほどにきらきらとした光にみちている。

女たち三人の平和な日常を照らす窓越しの光は、再生された日常において認識される、存在の貴重さ、かけがえのなさを示しだす。それは、この彼女たちの在り方、奇跡として成り立っている存在の日常を祝福する輝きの冠なのだ。

このシーンに象徴されるのは、産み落とされ育ち、或いは理不尽な暴力によって損なわれ、或いは愛し交合し生み育て老いてゆく女の一生の道筋、そのかたちの、個を超えた普遍に満たされながら在る個々の風景。

たやすくこの世の論理枠を超えてゆく異界性を孕んだこのテーマは、川上作品のひとつの特徴である。これをより押し広げ、深め、実験的にピュアなかたちで取り上げてみせたのが、おそらく、「なめらかで熱くて甘苦しくて」であろう。さまざまのライフステージなる女の情景を描く短編を連ねたこの作品は、全編を通してトータルなかたちとして、ここに連なるテーマが打ち出されている。

そして、もうひとつ、どうしても気になるのがここでの「光」の描写である。…この小説の中では、何気ない日常の中の、このような光の描写がひどく印象的なのだ。日常のひとこまを一枚の絵画のように切り取り、意味あるものとする、その「物語化」する美としての彼方からの「光」への意識。これはおそらく作者の意識のなかで半ば意図的な光の持つ意味、その力だ。或いはそれは「向こう側」から「こちら側」にやってくる「力」のひとつのかたちであるということではないかと私は考えている。(精神のバランスを崩しているとき、京は「ついてくるもの」に付随する光の強烈さに目がくらみ、意識がホワイト・アウトする感覚を覚えている。強烈な「壊す力」でもある異界からの力、それは両義の、いや、ただひたすらの「力」なのだ。やわらかく美しい祝福と喜びの神ともなり暴力的な破壊の神ともなる。)

ここでの勲章と祝福の意味に満たされた光の冠の描写は、おそらく「光ってみえるもの、あれは」からの系譜に連なるもの、「ふつう」であることと「光」のもつ意味への関連の意識にもつながるのではないか。

「ふつう」であること、日常であることのいみじさ、そして、そこに射しこまれる彼方よりくるうつくしい「光」との関わりの描写。それは、例えば、希望、賛美のようなもの、…そしておそらく祈りに似ている。その物語の中に、そのようなうつくしさが存在すること、その奇跡のきらめきのようなものに対しての。

「光って見えるもの、あれは」もすっかり忘れてしまっている。気になるのでこれも再読して検証してみよう。再読課題図書である。