酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

金色のさかな

ノックの音がした。
部屋の扉を開くと、金色の三日月がひかっていた。

ドアの外に三日月?
僕は瞬きする。ゆらゆらとドアの前に浮かんでいたのは金色のさかなだった。

きれいに光るつるりとなめらかなその肌合いは鱗というよりは透き通る貴石で、それが月の光のように見えたのだった。

黄金の月のように輝く魚はあたりの空気をその柔らかな光で透明な液体のよう変容させながら宙を泳ぎゆるりとぼくの部屋に入り込む。子猫くらい小さく見えたけどゆらゆらと水の中の月の光に揺らめく僕の部屋の中でそれはゆらりと子供くらいの大きさに見えてきた。なんだこの風景は。

「チューリップってはどうもクレイジーな花ですわな、気が変になっていく。奇妙な艶やかさで人を惹きつける麻薬のようなあの色彩とフォルム。きわめて人工的な品種改良の果てのものが逆に春の生命の狂に躍り狂う生の根源の躍動を孕んだ極彩色、なんだか昔の人々の描いた絵画を思い出しませんか、デュオニソスの祭りのような神々の狂ったような饗宴。ヌミノーゼはどの方向にもひろがってますな。深く静かに澄んだ水の中にそして乱舞する生命の狂乱の中に。…結局同じことだ。色即是空、明滅する有機交流電燈、ナンデモアリ、ナンニモナシ。Everything is nothing、9月の海はクラゲの海

かの詩人宮澤賢治は己の心象スケッチ「春と修羅」の中にチュウリップの幻術で、めちゃくちゃに世界じゅうが酔っ払う光の酒の杯と歌ってみせてましてな。生命の喜び存在の喜びは、どこかクレイジーで残酷にすべてを笑い飛ばしてみせる、輝き、極彩色、美しさおぞましさ、酩酊、理性の消失倫理の外側、…破壊の恐怖と一体なものですな。

……どうして向かいの椅子に座りこんだ三日月が親し気に奇妙な話を展開していたりするんだろう。しかもちいさくてうつくしい金色のさかなのくせに表情がいやにじじむさい。

僕はいつものようにひとりの部屋で珈琲を飲んでゆっくりと静かな夜をすごしていたはずなんだけどな。

春はいろんなものを連れてくる。
月の魚は僕の淹れた珈琲を啜っていたのだが、(何だか当たり前のように淹れさせられていたのだ。ぼくのとっときの一番いい豆を挽いた日を狙っていたんじゃないか。この星の向こう側から取り寄せてもらった貴重なおいしい珈琲豆なんだぞ。)いつの間にかやがてそれは金色に透き通り輝きはじめていて、そうして僕らは虹色に透き通ってひかるグラスで光のしずくのような酒を飲んでいた。のどを通るときそれはほんのりと金の微光を孕んでやさしく輝いた。……これならいいや。

「あれ?」
視界が変わっている。
僕らは柔らかく香る月光いろの酔いにふんわりつつまれていた。ふわふわとしたその柔らかな光の雲の中で身体の重みがなくなってしまったようだ。軽く軽く雲は宙に浮かび上がる。
……ほんの数センチね。

ちょっとしたマヂックですな。
太陽マヂックがあるなら月光マヂックがあってもいいでしょう。月の光のカクテルは太陽のやつとはまったく違いますからな。お望みならその月光窓から夜空の向こう側、星々に会いに行くところまで行けますがね。

(月光窓?)
(僕の部屋の窓が?)

太陽マヂックは生命の喜び、華やかに滅茶苦茶に浮かれた極彩色の粒子のダンス、狂乱の光の洪水。

……ああけれど月の光の杯からあふれる柔らかくほのかな光は。

それらは生命の果ての両極のように。

(月光窓?)
(僕の部屋の……)

漱石の、こころ、だったかな。自死を選ぶ人間のこころを静かな寂しさの果てと圧倒的な興奮状態との両極に見出す先生のことを僕は静かに思っていた。あああれは寂しすぎた。ぼくはあの部分がとてつもなく好きなのだけど、同時にそのとき漱石をひどく怖れたもかもしれない。

(月光窓?)

もともとね、
ぼくの口は勝手に開き、言葉を紡ぎ出す。柔らかな月光の中でそれが語りだすのを僕の耳はどこか遠くのもののようにそれを聞いている。言葉がぼくから細い金の糸のようにきらめいて紡ぎ出されるのが見える。月光酔いスペシャルだ。

ぼくは大輪の薔薇より一重の薔薇が好きなんだよ。
華やかな大輪の薔薇の花ひとかかえよりもフランネルフラワーやブルースター、現実感を欠いた奇妙な幻想の野原に咲くようなものがいいんだ。月光に照らされた微光の夜光キノコの森のような。どこかこの世に生きていないような人工的なような、それでいて野の花である、別種のうつくしさとよそよそしさを秘めたものたちの姿に似ている。きらきらと白日の太陽の中のあでやかな色彩の洪水のなかにない、静かな月の光の庭園の中にひっそり息づく柔らかな命の姿。

「物自体」ではなく「感性」と「悟性」の間をさまよう阿頼耶識から滲む個人的な物語を僕は口は語っているのだった。恐るべきは月光マヂック。

そして僕らは随分と奇妙な夜を過ごしたのだ。
心の中の奥底から湧いてくる奇妙で優しい光のようなイデエを紡いで随分と奇妙な話をしたのだ。たくさんの物語を紡いだのだ。ふたりで。

(大切なのは、色即是空じゃなくて空即是色の方なんだよな。)

ああ。
このままぼくもさかなになって泳いで月光窓の向こう側に。

とひどく酔っぱらった頭の中でさかなにそう言おうとしたとき。

 ****** ****** ******

月のさかなの輪郭がぽうとにじむ。
「みんなのところへ帰るよ。」

ああ。

 ****** ****** ******

「また来るかい?」

さかなはなんだかびっくりしたような顔をした。
そして奇妙に嬉しそうな表情を浮かべ、それからやがてあわてたように顔を顰めてみせるとこう言った。

まあね。
まあ時折個体になって君と特別に友達になってやってもいいかもな。

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だからね。
そののち彼はなんだか結構しげしげとやってきたんだよ。(それは決まってぼくがいい珈琲豆かいい酒を仕入れた日だった。)

ぼくらはいつもたくさんの世界の物語を旅した。
ふたりでいるとそれらのあんまり物語がふわふわと漂うものだから、みんなそれが世界の果ての向こう側の雲の中に逃げて戻ってしまう前にこっちのノートに閉じ込めておきたいとぼくは思ったんだ。ぱちんと写真を撮っておくようにね。きれいな残像。そしてこれはその一枚目ということだ。

彼の語った月の物語、ぼくの心がどこかで紡いていた物語。
少しずつね、書き留めておこうと思ってる。

彼との出会いと彼との会合はいつもこんな感じでぼくらは時間の螺旋をきれいに描いて、永遠に繋がっていられると思った。これは一つの物語だ。

彼は時折月光醸造所から月光麦酒の瓶や月光ラムネなんかも差し入れてくれたし、そのときは格別な星の光を添えた特別の素敵な物語が生まれてきた。あれは楽しかったな……だからそれはまた別の話として語ることにしよう。(エンデの「はてしない物語」だな。)

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