酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

パンとインド神話

今日は青空陽だまり春うららびゅーちふるさんでー。

のたのたと街を歩いてビアードパパの前でシューの焼ける香りに包まれ、焼きチョコシューやパリブレストなんかを眺め、その隣の和菓子屋の鶯餅や道明寺、蓬餅のやわやわと雅なそのお姿を眺め(関東長命寺風の薄皮桜餅もあったけど断然道明寺派である。)ああ春だ、と荒んだ心が慰められた。

大体がパン屋やシュークリーム屋や花屋の前を通るのが好きなんである。幸福の香りに包まれるからだ。パン屋は楽しい。

とうことでパンである。

当たり前だがパンとは英語から来た単語ではない。
ポルトガル語に由来する。

つまり鉄砲やキリスト教と一緒に輸入されて始まったんですな。日本でのパンの歴史は。何となく国レヴェルで未来への胎動に満ち、熱い夢の生きていた若々しいドラマな時代である。そのころの横浜の浪漫な洋館に住むお嬢様みたいなのにうまれてみたかったもんだ。

で、ついでに言えばお仏蘭西語でもこの小麦粉製品のことはパンと呼ぶ。大体ポルトガルのパンの菓子っぽいやわやわたまごパンイメージよりフランスの素朴パンイメージの方がワシは好きなんである。ずっしりとどっしりと、なんともいえない母なる大地のような深みのある色彩を帯びた雑穀田舎パンとか、皮がカシっと固くて中身は弾力もっちりボコボコ気泡の麗しい、そしてしっかりと小麦の風味の濃い誇り高いパン屋のバゲットとかがお約束イメージ。

パリジェンヌの朝はエレガントにカフェオレととびきりの本場クロワッサン、なんていうティピカルイメージは幻想だってどっかで読んだことある。普段はもっと簡素なんだって。当たり前だ、そんなパン生活毎朝やってたらえらく不健康だしエンゲル係数が恐ろしいことになりそうだ。

なにしろ田舎パンとか田舎パンとか田舎パンとかな、とにかくがっしり頼もしいやつだ。クララの屋敷の都会派高級ふわふわ白パンではなくハイジの村の素朴な黒パン(消化機能と歯の衰えたおばあさんたちにはクララんとこのパンの方がよいんだが、もちろん。)さらに言えばずっしりどっしりがっしりドイツの質実剛健な黒くて酸っぱい系の雑穀パンは更に好みである。プンパーニッケルなんか大変よろしい。

(厳密に言えばポルトガル語ではパオ、と発音した方が近いらしい。ちいと前に流行った半熟カステラ、パンデローもパオデロー、と発音した方が正確であるという話である。…半熟ってのはつまり、中が生焼けのカステラな。そもそも私は子供のころからホットケーキ大会のときも生焼けを好んで周囲から大変怪しまれハラを壊すぞと注意され嫌がられていたくらいの生焼け派である。《ココアの粉をマグカップで練り練り練ってもにょもにょ食むオリジナルおやつにして喜んだりもしていた。生焼け状態のとこの雰囲気を出したのだ。みょうちきりんおやつ命の子どもである。》馬鹿めらが。ならどうして今更半熟カステラをありがたがるのだ。)(けどプリンだったらクラシックに固い方がいい。フォークで刺して振り回して踊ってもカケラが崩れないくらいハードボイルドなやつ。なめらかとろとろプリンとかプッチンプリンとかあれらはどうもいかん。)

 

…いやだからパンの話ね。
中高校生の頃、母は阿佐谷駅前商店街で最寄りのサンジェルマンでパンを買っていた。おっきなパン屋はそこしかなかったのだ。)(厳密に言えば好味屋もあったが近すぎて身近すぎてなんか近所でやたらと地元密着過ぎて日本パン過ぎて、外国への憧れスノッブ要素が足りなかった。ここの手づくりたまごカスタードたっぷりのクリームパンやよもぎあんパン実は唯一無二に素晴らしくて大好きだったんだけど。)(サンジェルマンではおやつワッフルなんかも買っていたが何しろ母は基本説明書きも何にも読まずに最初に手に取ったものを買うひとなんで、ジャムだったりクリームだったりの指定ができない。「どっちもママはおいしいからいいの。」いやワシはジャムぱんとかジャムワッフル好きじゃないの。クリームぱんとかクリームのワッフルがいいの。ジャムはだめ、優しいたまごの味の濃いぽってりカスタードクリーム。)

で。

買い物の中ではエクセルブランというイギリス食パンが定番であった。これは私以外の家族用である。まあこれはなかなか素敵な食パンで、ひきの強くて濃い小麦の味の上等の山高食パン。姉がこれをさっくりと軽くトーストし、皮がぎっしり入った素敵に苦あいサンジェルマン・オレンジマーマレードをこってり塗りつけて食べるのが好きだったのだ。レモン・ティーかなんかでな。(この組み合わせ朝ごはんがサイコーなの、なんて言っておった。エゲレス貴族め。)私以外はこれを喜んでサクサクやっておった。

で、私はどうだったかというと敢えてこれを好まず口にせず。
私の分だけは、頭をたたくとコンコンと文明開化の音のする固い棒状の黒い雑穀パン、ナッツやフルーツがぎっしりつまったずっしりどっしりがっしりひたすらかみしめるタイプを所望した。あれを、豆をお気に入りのミルでガリガリひいてドリップして丁寧にこしらえるブラック珈琲とともに、というのがよかったのだ。

…これは今でも時折恋しくなるぱんだがこないだサンジェルマン覗いたら置いてなかった。(アレに名前はあったが忘れた。)エクセルブランはあったのに。ワシの好みは少数派で駆逐されたらしい。

 一時は万事なのだ。自分はいつもなんでもそうなんだよなアなどとふと考える。いつでも負け組マイノリティの側、マージナル。優先順位は常に下位、いつでも井戸の底から世界を見つめている。

白い甘いふわふわやわらかな高級食パンが流行してる昨今の風潮を眺めているとなんだかそんなことを思い出す。

上等の、職人技の洗練された白い食パンのキツネ色こんがりトースト、苦くて素敵に風味の高いマーマレードにレモンティ。これはこれで完成された素敵なもので、その朝の光、白いレースのカーテンの似合いそうな昭和憧れ的な風景の物語を持っている。

私には、なんだか意固地のようにただそれを眺めてそれはそれで風景として嬉しくてヨシヨシ、というだけで絶対自分は踏み込むことのできない領域。そういう思い込みのようなものがあるんである。純粋な上澄み消費者の理想というTVコマーシャル的な物語を眺めるスタンス美学の喜び、っていう感じかなア。

 

これはね、別に見下してるとか嫌いとかいう傲慢、っていうんじゃなくてさ、それなりのかたちで愛してんの、愛でてるの。眩しがってんの。笑いさざめく可愛い女子高生たちの風景を眩い気持ちでみつめるように。自分には手の届かない世界として定義づけてしまう、なんというかこれはただ宿痾なのだ。

イヤでもさ、これはこれで、世界のひとつの愛し方だと思ってるんだよな。すごくすごくピュアなかたちでの愛し方だと。 

 *** ***

ササニシキコシヒカリのピカピカの銀シャリとか、磨きぬいたコメの芯だけの贅沢な蜂蜜みたいな風味の大吟醸。雑味のない白砂糖、まっしろな更科蕎麦。こういうものは祭り空間の夢の非日常の食べ物としてしか認めてはいけない。基本、神様に備えるイデアとしての食べ物なのだ。ハレに属するもの。

そのピュアな貴族的な輝きの陰に、そこで捨てられた雑味としての「雑物」の魂を考えねばならぬ。それをまったく視野に入れず、経済的な尺度でのみ消費者が生産者である一流職人をランキングだの品定めなんぞしてはならないという感覚がある。そういうのってなんか狭く閉ざされた人間中心世界しか見えないおバカまるだし恥ずかしいくらいエラソー過ぎて罰あたっちゃうんじゃないかと思うんである。

品評するのは構わないんだ、もちろん。もちろん優れた職人技は驚嘆する、尊敬する、賛美するべきものとしてある。芸術である。

だけどそれが経済的原理をプライオリティとする社会のスタイルに偏重しすぎるようだとさ、なんかさ、なんかどうも目を塞がれてるような感覚でさ、全世界の全体性に対する冒涜であるような感覚があるんだな。

己と己の糧となり交換する交感する世界と自己との関係性は、ひたすらそれら関係性そのものを称揚されるものでなくてはならない。洗練された食物、芸術、イデアとしての食べ物は神に供えて、闇をかくしたその贅沢な上澄みの眩さをそれはそれでありがたがっておいしがってイデアとしての神を「こちら側、内部」に取り込むミッションとして、うむ、ただひたすら幸福になればよいのだ。

そう、そしてしかしケの日常の日々愛するべきは玄米や玄米濁り酒。雑味を深みとしてとらえる。闇も光も一緒くたに愛する世界の全体性のバランスなのだ。心身のバランス、世界と調和した健康はこういうところから来るんではないかしらん。

 

ということで神と悪魔が一緒に世界を拵えたのだというインド神話の本に突如興味津々状態である。ちいとこれは課題図書。

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