酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

新しい図書館

新しい図書館に行った。

都立多摩図書館が立川の不便なとこから、地元西国分寺に移転してきたのだ。一月末にオープンしたばかりのピカピカ。

一般貸出はしてないんだけど、東京マガジンバンク、雑誌と絵本に特化したという特徴を持った図書館で、前から一度は行ってみたいなあと思っていた。

それが向こうからやってきてくれたんである。
これは私の人徳の招いた事態だろうか、と思っても責められるところではあるまい。

個人PC持ち込みOK(電源完備デスク多。)、東京都のフリーのWIFI完備、国分寺の可愛いパン屋が出店してて、「国分寺ブレンド」も飲めるカフェコーナー。(まあ菓子パンとコーヒースタンドと自動販売機のお茶類だけ。カフェのお洒落さ、メニュー、居心地としては武蔵野プレイスに遠く及ばないけど、その分価格が可愛いもんね。)

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来訪したのは、春一番フライングか、と思うような強風吹き荒れる節分の日であった。
青空ピカピカ、街のあちこちで恵方巻特設売り場にひとだかり。

立札。此処だ、広い青空の下、ゆったりとしたつくりの建物。

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まず大きなガラス窓からじろじろ中の様子をうかがう。初めての図書館に足を踏み入れるときは、いつでもどきどきわくわく。

カウンターで受け付け、入館証を首からぶら下げて中へ入る。秘密倶楽部会員っぽくてよろしい。

図書館の空気は穏やかで平和な幸せ。

…でもね、実は、この日行ったときはそれほど堪能はできなかったのだ。こころは体調や表層的な精神状態のくびきにつながれていた。

ただ、その奥底のどこかで、閉ざされた現在から放たれたところを思った。

静かな図書館独特の空気につつまれたとき、窓から明るい光がさしこんでいるとき、いつも私の心はそこに飛ぶ。原初の図書館体験が、いつでも心の中にその至福の風景を呼ぶ。イマココの現実の風景にダブらせてよみがえらせる。

たくさんの物語と夢の翼に乗ってはばたいた場所、世界を無限に夢見たのだ。…そう、その己の心の力の記憶。

…遥か遠い明るいそこを私の心は思ったのだ。柔らかな輝きにみちた自由なところ、夢を見るために、他のすべてから守られていながら開放された時空。(それは過去の方向に求められた場所だけれど、けれどそれは未来を夢見る力を持った過去である。ねじれた構造によって成り立つそのメディア空間。過去に夢見たいくつもの未来、その夢を見る場所。)(永遠のメディア空間。)もどかしい、強烈な憧れを感じた。強烈な。

そもそも図書館とは常に世界の夢を見るためのメディア空間なのだ。
知とはそれ自体力を持たず弱く、その純粋をあらゆる外部の圧力(権力や経済力)からまた何らかの力によって守られなければならない存在なのではないだろうか。図書館とは、それを象徴する場所。

なんとなく、米国の核に守られた非核三原則のような平和の構造を思い出す。誰かの汚れた強い手によって守られる純潔。金は出すが口は出さないパトロンを必要とする、不可侵のシェルター。

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平日の昼下がり、静かで明るい開放空間。採光は申し分なく明るく青空の中に浮かんでいるような気持ちだったし、裏手は武蔵国分寺公園。いい環境である。

大きなガラス張りの光に包まれた素敵な子供のコーナー。

それから、カウンターで申請して特別のバッヂをくっつけて入る、開架書庫。秘密めいた薄暗い空間。


ここは殆ど人がいなかった。書棚の隙間をあるく。細長い天井に薄暗い裸電球的な照明が点々と埋め込まれ迷路のイメージにわくわくする。貴重な雑誌や古い絵本ごってり。

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…もう一度生まれ直して子供になって、こんな図書館をシェルターにして育ちたいと、このとき我が魂の鮮烈な切望は胸に痛いほどであった。

これは、決して得られない憧れという、世界で最もうつくしく貴い幸福なかなしみ。至福と絶望のアンビヴァレンツ。その麻薬のような甘美への陶酔と耽溺。

戻りたい、ただ戻りたい。夢中になって本を読み世界の無限の不思議を感ずる幸福に埋もれていたあのひとときに。今なんか要らない、永遠にあの日々が繰り返されればよい。両親に守られ、未来はただ限りない可能性に満ちていたあの頃に。

…これは逃避と退廃なのだろうか、と私は問う。

そうだ、逃避で退廃だ。
では、胸の中にそれを抱えて生きることに何の意味がある?

無意味ではない、と私は答える。このアンビヴァレンツの持つ強烈さは、決して虚無に向かってはいない。ねじれた形ではあっても、それは欲望、すなわち永遠に何かにあこがれ続けるしたたかな生命本来の力のひとつのかたち。いや、寧ろこれこそが、「反(或いは未)・現実」としての夢と憧れと希望と欲望こそが、生きる力と喜びの本質なのではないのか。

逆説的ではあるが、それは逃避と退廃と背中合わせでありながら同時に「イマ・ココ」の唯一の絶対性を否定し相対化し、そこに閉ざされる閉塞から脱却することによってそれすらを肯定することができる、未来へのエンジンとなる可能性でもあるのだ。

生まれた、というだけで無条件に愛され育くまれた記憶、あるいは世界の驚異を畏れ愛し欲望したその人生のはじまりのところの記憶は、私のアイデンティティの根幹のところに刻み込まれた…私のレーゾンデートルだ。

「決して戻れないことを知りながらの過去への追慕」。己の過去を愛し、そこにあったすべての可能性をすべて愛し、惜しみ、かなしみ悼み、そして一つしか選べなかった「イマ・ココ」を、それらすべてを倍音として包括したものとして止揚し、全肯定とゼロの両義をはらんだまま抱え、その道を進んでゆくための。

諸刃の剣である。これが近代日本文学理論がとらえたところの、ロマンティック・イロニイなのではないか、と私は考える。

そう、実は、これこそが。「イマ・ココ」でないものにあこがれ続ける力。

「イマ・ココの現実」になった瞬間、かなった瞬間失われる「夢」のベクトルの力。欠如でなければ夢という欲望は存在できない。(欲望とは生きる意欲のことだ。)満たされたいと願う力は満たされた瞬間失われる、ロマンティック・イロニイ。

…メディア空間とは、幾重にも重層し錯綜したあらゆる方向への可能性が可能性のままである力の場なのだ。それは、両側にたくさんの世界の扉のある、迷宮の長い長い廊下。扉を開けば、一つの世界が開かれる。永遠に、そのダイナミクスの場にとどまっていたい、という究極の欲望。

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「ああ それにしてもそれにしても / ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!(中原中也)」

いつでも私は「いま、ここでないところ」を夢見て生きてきた。いまここでないところに行きたい、と、いまここでない時空に行きたい、と。

今日も、日曜の夕暮れのベランダから夕陽を浴びて光る飛行機を眺めながら。