酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

アルバムを読むということ。すき焼き鍋。

両親を一遍に失った後、怒涛のような対外事務関係一連のイベントも大方の山を越え、ウチウチ的にはクライマックスである。遺品整理。

その遺品整理のうち、(これら作業はもちろんそのすべてとっても大変なんだが。)(いろんな意味で。)最も辛いことのひとつが古いアルバムの整理である。

両親が生きた証を、いわばその存在を心なくゴミとして自分が捨てて行っている、というような心の痛みを感ずる。(物理的にも昔のアルバムというのはひとつひとつがとっても大変重い。腕が痛い。)思い出を。失ったらもう二度と、永遠に思い出せなくなるものたちとして葬ってゆく。ポイポイと、ゴミ箱に。

…いやしかし、実に。
ココロを麻痺させるしかない、と、泣きながら少しずつ処理してゆく中で、少しずつ私の認識は変化していった。

いやしかし、実に、なんである。

つまりそれは己の心の整理にもなってゆくものなのだ。
その論理をゆるやかに、私は己の心の中の動きとしてなまなましく思い知ってゆく。

ひとつひとつの風景を手に取り、眺めてその時のことを想像してからそれぞれに処理してゆく。
そのときこの心が蘇えらせる、立ち上がらせる思い出、封印されていたものたちの持っていた記憶がふわりと現実の中に立ち現れる。

これらの時空を、その存在証明として掘り起こし丁寧に別の場所に送り出してゆく作業、そのようなものとして私はそれを行っているのだ、と。

捨てるというミッション、その行為の中で、捨てるというその行為による深々とした心の痛みが、よりその思い出のかけがえのなさをわたしたちに思い知らせてくれるのだ、痛みは、寧ろ。

モノたちの記憶していた「思い」はそれを葬る痛みによって一瞬、燃え上がるように最も鮮やかによみがえり磨き直され、新しく別の世界へ送り出される。そのとき、それは二度と損なわれない純粋な「思い (モノ)」となる。(古来の日本語の「モノ」ね。物怪、もののけ、の、モノ)

姉とその思い出を分かち合い語り合う。その場、時空が現在に生まれる。

その心の波紋の時空を生み出す力のためのミッション。それは過去から未来へ伝わるメッセージとしての波動でもある。

すべて存在を価値として、祝福として、喪失が喪失そのものではないのだ、という背反する同時性。それが可能であったのだということをこのミッションを経て私は知る。

すべて、哀しみすら、よきものとして恩寵であるとして意義・価値であるとして。存在そのものが、すべて。

そう。「今、この時」のためにこれらの大量のアルバムは今までひっそりと押し入れの奥に眠っていたのだ、多分。ただ平常の中日々が流れる日常の中では誰もわざわざそんな過去をとっぷりと蘇らせる暇なんかない。

今この時だからこそ、己のルーツを思い、歴史を思い、人との関りを、幸福と感謝を思い、人の一生、生死のことを思い、時代のことを思う。しみじみと心に沁みる。

 *** ***

アルバムは、古いものから辿ってゆく。父母の物語としてルーツをほのかに味わう感覚。両親それぞれの子供時代、出会い、結婚前、新婚の頃。

次第に時が下り、わたしたちが現れる。(二人に子供がうまれる。)(それがわたしたちなのだ)姉と私。四人家族の歴史が始まる。

そして、それはすでに「父母の物語」という客観ではなく、写真という読み取られるテクストではなく、この現存するわたしたちという現実に襲いかかってくる、入り込み干渉してくる「私たちの物語」として躍動するものとなる。読者が物語内に呑みこまれる構造なのだ。その瞬間とは既にパラダイムの変換である。くるりと世界が変わる。読み替えられる。わたしたちの物語、わたしの物語。

…ということで、それは私たち一家、平凡でかけがえのない四人家族の物語。

でね。

その幸せの夜の風景をいつも見守って登場してきていた、両親新婚の頃の旅のお土産、四人で重ねてきた共通の思い出の品、一生ものの南部鉄器すき焼き鍋について一言。

「今日はすき焼きだあ。」(主として母の宣言。記念日や肉が安かった日とかにこの勅令が発された。)

本当にこれが私たち家族四人の(体内ミネラル鉄分を補うとともに。)ともに刻んできた歴史を点々と点描しながらずっと彩ってきたのだ。

TVをつけて週末すき焼きの晩餐の時間と言ったらまあよく想像されるその通りの、当たり前のありきたりの、その平凡な昭和サラリーマン家庭のささやかな幸福の風景である。

そのシーンのひとコマひとコマひとコマを幾重にも重ね、皆の言葉を、周りの部屋の情景を、テレビの音を。そのすべては鍋の前に現前していた。(翌日は母のとっときの「一番おいしい翌日のすき焼き『煮込みうどんあるいはおじやヴァージョンもあり』」)

目を瞑り、つぶつぶと私は記憶の中を探る。さまざまを捏造しつつ物語を紡ぐように思い出す。

それは今このときここにありありと浮かび、今の私を吸い込んでゆく。
そして思い知る。「今・このとき」もまた、その物語の途上にある一枚の絵巻物の書き割りの中であるのだ、おそらく。

私たちの歴史は今に通じていながら既に別の時空に永遠に存在している。ルーツとはそのような構造の力だ。

時空は刹那を重ねて流れ、向こう側に次々と飛んでゆく。(賢治の心象スケッチにそういう世界観があった。仏教的ともいえる。)

その家族の幸せの鍋。
今日マンションのゴミ捨て場に、燃えないゴミコーナーに、私はその、すでに失われた幸せな家庭がかつてあったという証拠の品、その残骸を捨ててきた。

形あるものは寂しく失われる。だが一度存在したその意義はぴかぴかのまま、永遠に失われない。今は感じられない空間にいつでも永遠に繋がる可能性として決して損なわれることなく、存在している。磨かれた魂だけを取り出し、ケガレを背負ってモノそれ自体はゴミ・残骸となって葬られてゆく。

ひとがひとり生きた証のように。
そのクロニクル、出来事も全て同じ原理と構造の中にうつくしく配列されてゆく。

(それにしても付喪神とはよく言ってもんだ。断捨離の苦しさは品物に付着した思い、念が具象化した、この「付喪神」の祟りであるともいえよう、なんてね。)