酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「真鶴」川上弘美(改訂版)

「夜の九時ごろって、人は何を考えるのかしら。聞いた。
さあ。夜の三時や、あけがたの四時に感じることなら、知っているけれど。
青茲の答えに、顔をあげた。三時や四時?

三時は、少しの希望。四時は、少しの絶望。
きれいな言いかたね。
ばかにしたでしょう、いま、あなたぼくを。
ばかにはしなかった。でも、きれいすぎると思った。希望も絶望も、きりはなすことができるものではない。(p80)」

  *** ***

川上弘美のしっとりといろっぽく、少し怖いようなひらがなの使い方にぞくぞくしている。…「真鶴」再読、了。すっかり忘れていたのでまるで初めて読んだようであった。寝ぼけた蝉が鳴いている、八月終わりの深夜一時。

読了後、不可思議な感動で脳細胞がじいんと振動していた。
情趣とカオスを描き出すことを得意とするこの作家の作品群を分析するのは難解であるが非常におもしろい。極めて感覚的であり繊細さに優れているために、一見情緒ばかりに流れているようにも見えるのだが、実はその基底には論理が、法(ダルマ)とでも呼ぶべき「構造的なるもの」がしっかりと秘められている。だからこそこのジンとした感動なのだ。ここからはかならずその理由となる論理が、深々とした豊かさをもって汲みだされるはずだ。

そしてその論理が何故深く豊かなものであるかという理由は、それが、日常現実において隠蔽されているもの、構築された堅牢な構築物としての現実というひとつの物語の論理を越えようとする野生の思考、隠されたそのマトリックスをまっすぐに見出そうとする神話の論理に近いものであるところであるというところに由来する。

この振動が残っている内に、少しでもこの構造について、その異界の論理の持つ意味について、メモにでも書き残しておかねばならぬと思う。

ということで分析チャレンジ。

  *** ***

作品前半。主人公京(けい)の12年前失踪した夫・礼(れい)と、現在不倫関係(既婚、子持ち)にある恋人・青茲(せいじ)との恋愛関係をからめ、思春期を迎える一人娘・百(もも)、老いてゆく母との女三人暮らしの日々が描かれる。京の独白のスタイルである。この部分は、繊細な感性に流れてゆくような、いささか冗長にも感じられる京の日常生活の描写で、極めて繊細で鋭敏な感覚的情趣にあふれているにせよ、まあありきたりの恋愛小説の体をなしているようでもある。その域である。

が、中盤、一気に流れが変わる。伏線としてちりばめられていた異界性が一気にあふれ出し、この小説を凄まじく激しいものと変えてゆく。薄い膜一枚でようやっと保っていた日常現実のその被膜が引き裂かれ、カオスの闇に沈んだ深層がえぐり出されてゆくのだ。噴きあがる、どろどろとした灼熱のマグマにも似たその深淵と暴力性。

京が一人で真鶴にでかけ、祭りの夜、「ついてくるもの(霊のようなもの)」の女にいざなわれて異界に踏み込んでゆく、ここからだ。いきなりおもしろくなる。ぞくぞくするような川上ワールド炸裂。二重写しの現実と異界のあわいをおぼれてゆく。夢か、うつつか。現実の記憶か、捏造か、己の為したことか、他人の為したことか。或いはパラレルワールドか。…何もかもが現実感を失い、心象の中、主体の在り処さえ定かではない、悪夢を渡り歩いてゆくようななまなましいリアリティ。狂気。そして、そこにあるのは、まっすぐで激しい、心身二元論を無意味なものとするような、現象を成り立たせるものである原初の官能。

このエロティシズムは、 日常生活、社会性、その「現実」とされている論理秩序、あらゆる物語における制度の表皮を引き裂き、矛盾に満ちた「存在」の本質をそのままに突きつける「力」そのものだ。

ということで、全体の物語構造を俯瞰すると、夫の失踪によって精神のバランスを失った京が、東京<日常現実・生活(ふつう)・恋人青茲>の側から、真鶴<異界・夫礼(不在、死)>の側へ境界(祭り)を越えてダイブし、その死の側(ただし生のマトリックスとしての死。個の枠組みアイデンティティを放棄するという意味での死。カオスのエネルギーにみちている。不在と存在の矛盾がたわむれあうカオス。虚無ではない。)に存在を呑まれる試練を経て、そこで、心の中に巣くった夫の不在という<存在の幽霊>の呪を葬る。そして新たな日常現実としての東京に生還するという「死と再生」、或いはいわゆる「行きて帰りし物語」のスタイルをもった物語であると言えるだろう。

参考・ここで述べる現実と異界の二項対立構造は、先だって記事にした西田哲学の生命論理の構造に正しく合致するものである。現実ーロゴス、異界ーピュシスとする図式があてはまる。これを念頭において読んでいただくと、「矛盾」というキイワードの意味するところと共に、以下に述べるものの論旨全体を理解していただくための一助になるのではないかと思う。→参照「福岡伸一、西田哲学を読む」

以下、具体的に本作品においての異界と日常の関係性を追ってみる。

●日常現実と異界の関係・東京と真鶴

冒頭では、京が中盤の本格的な真鶴行きの前触れのようなかたちで、意図的にではなく偶然に降り立った真鶴での一泊が描写される。12年前に失踪した夫のことをずっと考えている。ここで、そこに心を捕らわれたままの京の現在を読者は知ることになる。京のなかでの「夫の不在という存在」という病んだそのかたちが「ついてくるもの(幽霊)」との関わりにおいてあぶりだされてゆく。

この旅は前哨戦だ。夫の残したメモから成立した、中盤の本格的な真鶴行きに先立つ予告編。

真鶴は、ここで、京にとっての「向こう側」の世界、すなわち「こちら側・東京」の日常生活の現実から消えてしまった夫(不在)の側に属する異界というトポスとして決定づけられている。

京の中での夫の不在が「いないのに、いるもの」であることは、恋人青茲の嫉妬心によって次のように看破されているところである。

「『いないもののことを、ぼくに思わせないで』
え、と青茲をみなおす。顔が、あおざめている。どうしたの、のぞきこむ。
『嫉妬だよ』青茲は言った。
嫉妬。すこし、息をのんだ。妙な言葉だ。青茲の口からでると。でるはずがないのに、でている。
『でももう、いないひとなのよ』つぶやく。
(中略)『いないから、嫉妬する』青茲はいった。」(p82)

そしてここではまた続けて、この「いないのに、ついてくるもの」、すなわち、京に憑りついた異界への誘いであるものとしての幽霊が、京の中にある、夫・礼の「不在の存在」につながるものであることが示されている。

「『いないのに、ついてくるから、嫉妬する』青茲はいいなおした。
ついてくる
その言葉に、びくりとした。
『ついてくるもののことを知ってるの』聞いた。
(中略)知らずに、偶然に言ってしまったのだということが、すぐにわかった。青茲に、知られたくない、とつよく思った。
とたんに、ついてきた。密度の高いものだった。」(p82)

●母と娘・女性性の持つアイデンティティの独自性

…そして、帰京。「こちら側」東京での京の日常生活の描写である。

京と娘の百との関係が、京の独白の中、現在の出来事と過去の回想のカットバック的な描写の中に浮かび上がる。血を分けた娘が自分と一体であったところから、別のものへと育ってゆく、その不思議な痛みや寂しみの感覚を母として描写してゆく。

産み落とした赤子は、いとおしい、ではなく、ただ自分に近くて大事なもの。その「近いもの」であった娘がそうでなくなってゆく過程の不思議。そしてこのとき同時に、京自身がその娘の立場であったときのことを思い、初めて己自身の母、老いはじめたその母の心を知ることになる。アナロジーとして重ね共有してゆく、と言ってもよい。母心、母という集合体の持つ心。

これは何を意味するか。

いわゆる母性愛、盲目的に献身的な愛、という単純な物語に帰するものではそれはない。もっと構造的なところに問題意識は焦点化している。

個を超えた普遍、「女」という性の持つ人間たちに共通のその「産むもの産み落とされるもの」の時間の経過による立場の移り変わり、或いは重複。ひとりの女は同時に母であり娘であるというふたつの立場の心を重ねもつ。このとき、個は、産み落とされ成長し個となり、産むことによって分裂し個を超えてゆく、連綿と繋がり繰り返される、この女の一生の歴史の流れの中に己を投げ渡しているのだ。それは或いはまた、「家族」という概念の歴史でもある。制度の中に組み込まれた「個と普遍」の図式が、ここでは、女三世代の日常の暮らしの中で、お互いの血のつながりの関係性の意味が「個とそれを構成しているものとして普遍」そしてそこにある「矛盾のありかた」のような構図であるものとして問われてゆく。

「青茲と結婚したなら、ずっとつづいていただろうと思った。青茲とわたしの仲が、ということだけではなく、もっと長い間かけてつながってゆくものが、きちんとそのままつながっていったろうと、思った。
 長い間、母よりももっと前から、百よりももっと後まで、連綿とつづいてゆくなにか。
 それはただの記憶でもないし、かといって遺伝子のような組成のはっきりしたものでもない、ただ、つづく、としか言いようのないものだ。」(p87)

個でありながら個を超えはみ出てゆくものである集団意識のような「つづくもの」を己の個という存在自体として見出だす。矛盾。それはつまり、「ふつう」であることと、(「ふつう」に属するものとしての「個」の概念は、ここではそれ自体が社会的システムに属するものである。)そこからはみ出る「ふつうでないもの」(個の枠組みを無視したところに発見される自己存在の在り方。)の矛盾にみちた共時性としての個という存在のかたちの発見である。

つまりここには、「ふつう(日常現実)」のところでは隠蔽されているものである、個を破壊する要素が個それ自体として存することによって成り立つ「ふつう」、という矛盾そのものとしての生命の構造が示唆されているといってもよいのではないかと思うのだ。

もちろん母と娘の関係性としては、父であり息子である、というところにも同様の構造が存在するわけだが、徹底的な違いは、それが観念的なものであるか、激しい痛みのリアリティを含めた直接的な身体性を伴っているものであるか、というところにある。「母」という概念には、己が異物(異質なもの、男性)を受け入れ、それによって己から派生した胎児と肉体的に完全或いは不完全の間をゆらぎつつ一致していた時間と、激烈な痛みとともに身体の外部へと産み出されたその己であり己でないもの、そこのある同時性の矛盾を体験する時間の経験が含まれている。そう、そしてここでこの「矛盾」とは、個を引き裂いて破壊してしまうほどの「激烈な痛み」として表現されるものであったのだ。

出産シーンには、その死と生の狭間の時空(或いは個の領域と個を超えた領域、アイデンティティの枠組みの壊れる場所)「ふだんの生活から、遠くかけはなれたところ~(中略)~いてはいけない場所」(p77)を体験したなまなましい身体性、という、存在にとって決定的な意味が伴われている。この「いてはいけない場所」と表現されているのものが、日常生活の世界論理を破壊するものである、すなわち隠蔽されている場所としての異界を示唆するものだと考えてもよいだろう。

これを見事に描き出した出産の際の回想シーンは、非常に印象的だ。
己自身の精神の変遷をどこか客観的に傍観する。ユーモラスなようでひやりと怖いような、この川上弘美独特の語り口。その際の精神の変遷描写とは、すなわち世界構造の認識に関する意識変遷であり、それは日常現実への違和をなまなましくあぶり出すものである。…素晴らしく揺さぶられる。少し長いが引用する。

「百が生まれるときは、ものすごく痛かった。
痛みというものをそれまで知らなかった。知っていたと思っていたのはちがうものだった。
(中略)それなのに、生みおえてしまうと、忘れた。きれいさっぱり、忘れた。
『かわいいあかちゃん』などと分娩してからたった一日ふつかしかたたないのに、平気で言っている自分が、へんだった。あんなに、激しい怒りのように痛くて、ぶつけどころのないものをからだじゅうに漲らせ、人のかたちをもう保っていられないとまで思ったのに、それなのに平気で『わたしのあかちゃん、よしよしいいこ』などと、かるがる言っていた。
(中略)子供を生む前と生んだあとの、妙な感じについては、ほかの『おかあさん』たちも、みなひとこと、あるようだった。
『考えていたのと、ぜんぜん、ちがう』くちぐちに言った。
世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。
生死にかんすることだからちがう場所だった、というのでもない。ただ、単純に、ちがうのだった。ふだんの生活から、遠くかけはなれたところだった。でも、ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じもあった。痛みのまんまんなかに、生むときの、きばって踏みしめている足もとのあたりに。
(中略)いてはいけない場所。そこに、ほんのわずか、踏みいってしまったおそろしさが、子供を生む場所にはあった。
(中略)生んだすぐあとの、戻りきれてない感じは、まだ完全には、なおっていない。たぶん、死ぬまで、なおらない。」(p77~80)

この出産にまつわる異界との関係性の描写は、「日常」「現実」生活というものの、何かを隠蔽したものである不自然さ、異様さを浮き彫りにする。そしてそれはまた「ふだんの生活から、遠くかけはなれ」ていながら、「ふだんの生活が、いくらでもしみ入ってくる感じ」、隠蔽されるはずのいてはいけない場所、異界が実は日常生活と共にあるのだという矛盾構造があらわになる瞬間である。

この出産回想シーンは、真鶴での異界の道行き体験とのアナロジーを成していると考えてよいだろう。「世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、いる場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまた戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」

●「ふつう」と「ふつうでないもの」青茲と礼

「ふつう」について、青茲との関係性に託して記した箇所がある。

「青茲とは、とてもふつうなのだ。ふつうであることは、難い。ふつうでないことは、いくらもある。けれど、ふつうでないことは、たいがい持ちこたえることができない。いずれ、壊れる。壊れに向かうことは、易い。ふつうのことを持ちこたえることが、いちばん難いのだ。」(p89)

矛盾を孕んだまま日常を持ちこたえるという奇跡の現象としての現実、生命存在の構造についてこれは述べている。京は、「壊れに向か」った者としての夫・礼に属するものである異界・真鶴から帰還した。だがその体験は、単純な帰還、元の世界に戻った、というものではない。出産シーンで予告されているように「(いてはいけない、ちがう場所から)戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない。」ものである。

戻ったけれども戻っていない。つまりこの一連の「行きて帰りし物語」構造は「異界(ピュシス)」と「損なわれた日常(ほころびたロゴス)」のバランスを失った矛盾を止揚するプロセスであった、と解釈することができる。青茲も失い夫の呪も葬り、双方を否定することによって新しく獲得されたもの、「ロゴス化されたピュシス」として新たに再構成された場所としての日常生活を意味づける論理を示しているという解釈。「こちら側に戻っているが向こう側にもいる」のだ。作品は見事に構築された物語構造を完結させている。

向こう側とこちら側の違い、それは、「ふつう」でないところにある夫・礼、そして「ふつう」の世界に属する恋人・青茲との対照として次のように描写されているものである。

「いい、とささやく。青茲には言葉をつかうのだ。礼には、できなかった。」(p52)
身体的な官能の感覚を、相手に対し、言葉として表現するか、否かの違い。

また、礼の名を、京はなかなか呼ぶことができなかったが、青茲の名ははじめからスムーズに呼ぶことができた。

「礼は、引き潮のようだった。
踏みしめていても、からだをもっていかれる。」(p71)

礼に関してはすぐに「もっていかれてしまう」「にじむ」「うるむ」という海や水になぞらえた、存在すべてがするりと飲み込まれてしまうやわらかい官能的な表現がなされるが、青茲のときには「はじめる前は、少しのがれようとする。きもちと、からだと、両方が。はじめたくないのだ。ほんの僅かに。」(p52)という、身体行為に至る前のワンクッションがおかれている。それは、「ふつう」というロゴスの世界、「ことば」の世界の持つ間接性を意味している。シニフィエシニフィアンの間の、隙間。

川上弘美作品において共通した「海」のイメージの持つ意味は重く深い。マトリックス、生命の母胎、存在の故郷。個の壊れるところ、死後未生。それは「わたし」が「わたしたち」という集合体に溶け合ってしまうところであり、個を超えた生命の源泉としての集合体に戻ってしまう場所のイメージを持つ。海の生物の異界物語をあつめた作品集「龍宮」などにその兆候はもちろん顕著なのだが、それがもっとも端的に示されている作品としては、もしかして、まず「海石」《「パスタマシーンの幽霊」収録》をあげるべきなのではないかと私は思っている。読後の簡単なレビュではあるが、ここで少し言及した。)(アイデンティティとは何か、というテーマに関連して、「わたし」と「わたしたち」の関係を焦点化して取り上げた作品として印象深いのは「大きな鳥にさらわれないよう」であろう。ここではSF仕立てで、クローンという遺伝子操作による大勢の「わたし」が登場する。「大勢の、代替可能な、わたし」、「わたし」とは果たして何か。…非常に逆説的ではあるが、アイデンティティという規定されたものである幻想を一旦引き裂いて破り捨て問い直すこと、その禁忌に正面から立ち向かうことによって文学は個の持つ存在の意義、どこか損なわれたものである己への疑問と苦しみを救済する手法となり得るのだ。宗教や神話に親しいものである終末論、また死と再生のテーマのもつ意味、意義もまたそこにある。)

本論の冒頭の引用は、青茲のもつこの「ロゴス性」「ふつう」を端的に示すエピソードである。たとえばそれは希望と絶望をきれいに切り離して考えることのできる「ふつう」であり、それを「きりはなすことのできるものではない」と思う京と青茲との距離を決定的なものとする。

ということで、当然、ことばとロゴスに属する青茲と対立項を成すものとしての礼には、カオス、死と非人情(漱石の定義する非人情。「人情」という倫理の物語の枷から解放されたまっすぐな感性・知性としての意味を持つ「非人情」である。)の影がついてまわる。礼は、死を生の、生を死の一部として何の禁忌もなくまっすぐに見つめる眼差しをもつ。二つのエピソードを挙げてこれを例証してみる。

1.椿

「無慈悲な人だと思った。」(p70)
濃い血の色のままぽとりと落ちる椿の花を二人で見たときのエピソードである。礼は花を拾い上げ、手のひらでにぎりつぶす。
「『かわいそう』言うと、礼は首をひねった。
『どうして』
だって、ばらばらに、しちゃって。
どうせそのうち朽ちるものだよ。」(p70)

椿の残骸のついた指を、礼は京の口の中にさしこんでくる、甘い花の香りに陶然としながら京はその指を吸う。赤ん坊の百が京の乳を無心に吸っていたように、差し出されたものをただ衝動的に、「なにも思わず、ただうっとりと甘苦しく。」(p70)

…この、論理を越えた衝動的なるもの、死と生命の衝動の狭間の場所に直結したものとしてのエロティシズムを礼はまっすぐに体現する存在であった。

2.ナナフシ

礼と京とで滝を見に行ったときのエピソードである。
滝のはじまりについて二人は語り合い、人生の最初の記憶、自分の出てきたところについて礼は語る。

三歳の頃、庭の木についた虫をつまみあげようとして手のひらの中でつぶしてしまい、それを母に見せに行ったシーンの記憶である。母は一瞬その死を抱えた礼にたじろぐ気配を見せたのち、ナナフシという虫であると教えてくれた。
『母はおれをしんと見ていた。』

「『おれはつまり、そのナナフシの場面からでてきて、そこからはじまったんだ。滝のはじまりと同じようにね。それ以前は、全然知らない。自分のことなのに。』(中略)『でてきたところ、わたしは、よくわからない。』(中略)いつもわたしは忘れてしまう。でてきたところも、忘れた。
滝は飛沫をあげ、今さっきでてきたばかりのもののように、あたらしく落ちつづけていた。もう何百年とそこにあるものなのに。」(p146)

集合体としての滝のかたち、水の流れのイメージは、いみじくも先にこのブログで西田幾多郎福岡伸一の生命論に関する先のこの記事でも登場してきた例示である。

「福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。」

そしてもちろんこの滝の構造モデルのイメージは、先に挙げた女の一生においての個の認識、「連綿と続いてゆくなにか」という、個でありながら個を超えたものであるおおいなる生命の流れに連なっている存在、その己の存在形式への認識にぴたりとあてはまるもの、存在と生命への共通のまなざしなのである。何百年とそこにありながら常にあたらしく落ちつづける矛盾として存在するもの。

礼の存在は、その死の場面からはじまっている。青茲のように「ふつう」の論理、ことばのワンクッションを必要とすることなく京を「いてはならない」原初の衝動の場所にもっていってしまう。直結しているのだ。

そして、死に直結した生、その狭間の場所に存在する力が、官能、原初のエロティシズムなのだ。

産みの苦しみ、その激越な痛み、そして異界(死)へ引きずり込まれそうになるときの官能、また性的な官能への欲望の三つが、まったくおなじもの、心身の奥底からなにかが「にじむ」「みなぎる」感覚として描写されていることは、そこが個が壊れる場所であるという共通の意味を持っていることを意味している。生と死と性。

計算しつくされているとしか思えないほどの見事な論理構築だ。痛みの果てが、死が、生のはじまるところが、性的なエクスタシーが、同じように「個が壊れる、個から解放される」ところとしての「高み」である、という図式である。

「ついてくるもの」女の集合体を思わせる幽霊によって異界をさまよう中、礼への思いをかきみだされ、ひきずりこまれそうになるとき、京の中に生まれたのはそのような身体衝動であった。

「にじみを散らして元にもどろうとするが、できない。次第にみなぎりはじめてしまう。礼としたときよりも、青茲とするときよりも、楽々とみなぎってゆく。
百を生むまぎわ、いきまないでください、と言われた。(中略)まだ早いから。あとちょっと。でも、まだよ。
五分ほどの我慢が、無限に思われた。同じ我慢を、いま、している。体は、みなぎりたくてしかたがない。あとひとすじ、ふたすじ、力をこめて目をつぶってにじみの中心に気をやれば、すぐにいちばん高みにゆける。でも、ゆかない。」(p126)

●帰還、そして、光。

「日がかげり、すぐにまた日差しがもどる。三人の、顔から肩にかけて、窓越しに光がさしている。身をかがめると、ちょうど光が額のあたりにきて、冠のようだ。同じ冠をつけ、同じ血をわけた、歳のことなる三人の女。」(p254)

京が最終的に帰京し、決心できず出せないでいた夫の失踪届を出し、新しい生活をはじめたときの平和な日常風景、三世代の女が描かれている情景である。この部分は、前後も含め、かなしいほどにきらきらとした光にみちている。

女たち三人の平和な日常を照らす窓越しの光は、再生された日常において認識される、存在の貴重さ、かけがえのなさを示しだす。それは、この彼女たちの在り方、奇跡として成り立っている存在の日常を祝福する輝きの冠なのだ。

このシーンに象徴されるのは、産み落とされ育ち、或いは理不尽な暴力によって損なわれ、或いは愛し交合し生み育て老いてゆく女の一生の道筋、そのかたちの、個を超えた普遍に満たされながら在る個々の風景。

たやすくこの世の論理枠を超えてゆく異界性を孕んだこのテーマは、川上作品のひとつの特徴である。これをより押し広げ、深め、実験的にピュアなかたちで取り上げてみせたのが、おそらく、「なめらかで熱くて甘苦しくて」であろう。さまざまのライフステージなる女の情景を描く短編を連ねたこの作品は、全編を通してトータルなかたちとして、ここに連なるテーマが打ち出されている。

そして、もうひとつ、どうしても気になるのがここでの「光」の描写である。…この小説の中では、何気ない日常の中の、このような光の描写がひどく印象的なのだ。日常のひとこまを一枚の絵画のように切り取り、意味あるものとする、その「物語化」する美としての彼方からの「光」への意識。これはおそらく作者の意識のなかで半ば意図的な光の持つ意味、その力だ。或いはそれは「向こう側」から「こちら側」にやってくる「力」のひとつのかたちであるということではないかと私は考えている。(精神のバランスを崩しているとき、京は「ついてくるもの」に付随する光の強烈さに目がくらみ、意識がホワイト・アウトする感覚を覚えている。強烈な「壊す力」でもある異界からの力、それは両義の、いや、ただひたすらの「力」なのだ。やわらかく美しい祝福と喜びの神ともなり暴力的な破壊の神ともなる。)

ここでの勲章と祝福の意味に満たされた光の冠の描写は、おそらく「光ってみえるもの、あれは」からの系譜に連なるもの、「ふつう」であることと「光」のもつ意味への関連の意識にもつながるのではないか。

「ふつう」であること、日常であることのいみじさ、そして、そこに射しこまれる彼方よりくるうつくしい「光」との関わりの描写。それは、例えば、希望、賛美のようなもの、…そしておそらく祈りに似ている。その物語の中に、そのようなうつくしさが存在すること、その奇跡のきらめきのようなものに対しての。

「光って見えるもの、あれは」もすっかり忘れてしまっている。気になるのでこれも再読して検証してみよう。再読課題図書である。

BEATITUDE

ひよこを殺したことがある。
まだ人を殺したことはない。

ひよこは、夏祭りの屋台で、渋る母にねだってねだってやっと買ってもらった大切なたからものだった。

確か、小学校に上がるか上がらないかという年頃だった。いつも学校帰りに校門の外でおじさんがたくさんのひよこを箱に入れて売っていた。小さな手がみんなしてふわふわとさわって、ほしいね、ほしいね、と言いいながら遊んでいた風景の記憶がある。よちよちと動き回るひよこは皆駄菓子屋の包み紙のように赤や青に染められていた。

お祭りのとき、機嫌のよかった両親が、ひとつなんでも買ってやる、と言ったときねだったのだ。屋台に並べられていたヒヨコたちから一羽選ぶ権利を。

嬉しかった、かわいかった。ふわふわでよちよちあるくちいさなやわらかい命、わたしのもの。赤や青や奇妙な色に染め分けられたカラフルな動くおもちゃ。何色のを選んだのかおぼえていない。あんなに迷って選んだのに。名前を付けて呼んでなでて餌をあげて、ふわふわの寝床を用意して、大切に大切に愛しんだ。その名を私は覚えていない。

そうして大切に大切に抱え込んで護って、まるめ込んだ姿勢で、ある日そのまま眠り込んでしまった。穏やかに晴れた春の昼下がり。

 

まどろみの中、突如、とりかえしがつかない、という気持ちで心臓が跳ね上がった瞬間、飛び起きた。訳が分からない不吉な夢。胸がどきどきと波打っていた。

ひよこはつぶれていた。

つぶしてしまったのだ。私がつぶしたのだ。そっと愛おしんでいたちいさなやわらかい命を、私の愚鈍な体躯が圧し潰したのだ。殺したのだ。生まれたばかりの無垢な命をもてあそんだ挙句殺したのだ。

 *** ***

蟻をいじめて遊んでいた。趣味であった。
潰したり焼いたり針で刺したりとか、そんな残虐でつまらないことをしたわけではない。基本、注射している自分の腕も見ることできない人間である。

蟻を観察するのが好きだったのだ。

行進する道筋を丹念に追い、巣をつきとめた。巣の中を想像し、掘り起こして観察しようとして間違って埋めてしまったり、それを補修する蟻たちの見事な連係プレーに感嘆したりした。蝶や蜻蛉の死骸をよちよちと運ぶ彼等を手伝ってやろうとしたり、さっと持ち上げて隠したりした。上から巨大な私が軽々と巨大な獲物を操作する。おおかた彼等の見る風景を想像して万能の神の視点でも想像していたのだろう。

ほんのひとかけの砂糖にまっくろになって群がる彼等を見て大層満足した。私の小手先三寸で狂喜する蟻社会。 生殺与奪の力をもっているのだと思ってでもいたんだろう。いやしい子供である。

一匹をそっとつまんでバケツに浮かべたコスモスの花に乗せたりした。花のボートだよ、きれいでしょう、と話しかけた。蟻は泳げない。

私がそういうことがしたかったのだ。本物の花の船にのってゆらゆら流れてみたリ、親指姫のようにチューリップの中にやわらかく射し込むひかりのお部屋で過ごしてみたり、そういうことがしてみたかった。だから蟻にそれをやったのだ。

当然、蟻は狂ったように逃れようとし水面に波紋を作ってはぐるぐると惑った。草を差し伸べて救いの梯子だよ、と差し出してよじ登ってきたものを丁寧に巣の付近に戻してやった。

悪意はあったのだろうか。本当にわからないのだ。自分のやっていたことに対する自分のそのときの心が。やっていたことはおぼえているのに。それは残虐であると自覚して陶酔していたのか、それとも本当に無邪気で純粋な遊びだったのか。

そのときの自分に問いただしてみたいと思うのだ。おそらく、なにもかもなにをいわれても真実だ。

 

BEATITUDE、八福。聖書のあの一節が私は大好きだ。

心の貧しいものは幸いなり、とかいう、あの一連のふかぶかとした知恵の言葉が。

ああ、苦しいですサンタマリア。

どうかどうか許されますよう。悪意のない巨大な罪業の集積が。

安吾先生

酒は奇跡だ。

…って、安吾先生が言ってたんだっけな。

 

おれが今できることは缶麦酒のプルタブをひいてべろべろになることだけだけど、確かに生まれてきてよかったと思っているよ。

幸福とはこういうもの。
さいなら、はじめてのこいびと。

ぼんやりしていたらいきなりふられてしまったけど、恋というのは楽しかったからまあいいや、仕方ない。全部コーランに書いてあったんだろうから。

とても寂しくてかなしいんだけど、何だか私は今は不思議にくすくす笑ってよろこんでいる。あなたに出会えてよかった。やなこといっぱいあったこと含めて楽しかったなあ。それだけだなあ。

また寂しくなるのはわかってるけど。

ありがとう、生まれてきてよかったです。
生まれてきたことを死ぬまで精一杯遊ばなくっちゃ。

 

なあんてね、台風の中思っているよ。おやすみなさい世界。

ヤナちゃん55歳ライヴ

ちょっと前の話ですが、行ってまいりました。吉祥寺曼陀羅Ⅱ。

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嬉し恥ずかし告白タイム、胸の内に抱き続けた熱い思い、積年の恋心。
この日を心待ちにしていたのだ、愛しのカレのお誕生日ワンマンライヴ。

ヤナちゃん55歳誕生日を記念して、昼の部、夜の部に分けて55曲を歌いきるという、55年酷使してきたご老体には大層厳しい企画である。

 

さて、これに関しては、大学の後輩にも同好の士がいる。熱烈なヤナちゃんファンである。(ちなみに彼女は川上弘美ファンでもある。前世では姉妹だったのかもしれない。)

後から、お互い別々に同じ日のチケットを手配していたことを知った。

私は昼の部、「にっちも編」
彼女は夜の部「さっちも編」

にっちもさっちも行きたかったがまあいろいろ無理である。コアなファンは地方からやって来て当然両方ハシゴするらしいが実際まったく大したもんだ。

 *** *** 

当日、原爆の日、日曜日。
(私の母の田舎は広島だったので、子供の頃は毎年夏休みを広島で過ごした。そこではこの日はもうなんというか、起きたときから空気の質感を変えてしまうような厳かな粒子が漂っていた。ものすごい非日常的に特別な日だったのだ。膝を正して正座をし、式典TV中継に臨む。黙祷の間、その短い一分間に、ものすごく一生懸命その日のことを想像する、考える。八月の広島はそういうトポスであった。なまなましいリアリティを感じていた、怖かった。はだしのゲンもあの頃読んだ。この日が今現在、日常の一日であることがいまだにどうもしっくり納得できない。感覚的に。)

…で、戦後72年のこの日、さまざまに無感覚になってゆく自分のことをしみじみと感じながら出かけた。 

久しぶりのデートを兼ねて姉と行ったんである。姉は結構なんでも楽しめるタイプの、なんというか雑草のように強いオールマイティにクレバーな感性の人である。

姉とのデートは結構楽しい。姉妹ってのは割といいもんである。
電車の中で来し方行く末ボソボソ話し合ったりね、両親のことも話し合ったりもできて、とりあえず何だかんだ姉ってのは頼もしい存在なんであるよ。(オレ根っからの妹体質。だってさ、生まれてからずっと妹だったんだからさ、そりゃ蓋し仕方あるめいってとこでしょう。)

*** *** 

で、会場。

並んだ。ぎうぎうだった。暑かった。疲れた。
会場内もけっこうぎっしり。固い小さな椅子にちんまり座って、前の人の頭の隙間から全身全霊をかけてカレの姿を見つめ続ける。これはもう、放課後、ひっそりとグラウンドの隅から憧れの先輩を目で追う女子高生そのものである。


…そしてだけどやっぱり素晴らしかった。頑張って行ってよかった。
なんて色っぽいのでしょう、ヤナちゃん。


中盤のピアノ弾き語り「君を気にしてる」のあたりではもううっかり涙ぐみそうになっていた。(あたりを見回したらやっぱりホントに涙ぐんでる人がいた。ヨシ。)

そしてその後の「れいこおばさんの空中遊泳」からは「れいこ!(ヤナちゃん)おばさん!(観客)」「れいこ!(ヤナちゃん)おばさん!(観客)」と店内大合唱、曼陀羅歌声喫茶と化した。コアなファンはいるもんだ。

泣かせたり笑わせたリ、構成の緩急工夫したエンタテイナーである。
楽しかった。

そしてやっぱりどの歌も切なかった。

 

「弱い人間が弱い心をさらけ出す…」

呟くような歌い出し、そして緩やかに流れ出す、ギターの和音。この歌が大好きだなオレ。ヤナちゃんのブルースの真髄だ。「ブルースを捧ぐ」

再び涙腺が熱くなった。どうにもならないほど大好きなのだ、このロクデナシ負け組への哀愁に満ちたシンパシーが。

ライブ、やっぱりイイ。圧倒的な歌唱力。伸びやかで艶のあるいろっぽい声。一つの歌と音楽に全員の心が共振する、ひとときそれぞれの日常のくびきから逃れ、親密な場を共有し総員がつくりあげる一種異様な祝祭空間に同化する。非日常とはこのことか。

*** ***  

後輩君とは合間にメッセージをやり取り、愛しいカレの様子を報告しあった。当初、私は、夜の部に備えて力をセーブするカレの姿を危惧し、彼女は昼の部で力尽きたカレの姿を危惧していた。

が、双方それはまったくの杞憂であった。
さすがヤナちゃん、見上げたプロ根性である。昼間っからまったく先のことを考えないペース配分無視の全力投球ぶっとばし大熱唱。額に青筋立てて喉も裂けよと歌い上げる、伸びやかな歌声。その並々ならぬ歌唱力、そして、ああ、何度でもいいたいのだ、その並々ならぬいろっぽさのことを。(そして夜の部の報告を聞くと、やはりヘロヘロになりながらも歌声だけは伸びやかに、最後までぶっ飛ばし続けたそうな。そして後輩君やはり涙ぐんでしまったそうだ。「至福でした…」わかる。そして今オレが一番好きかもしれない「再生ジンタ」歌って泣かせてくれたそうだ。うういいなあ。)

*** *** 

とにかくその場にあって、私はもうおっかけの人の気持ちにすっかり同化してしまったんである。ええのう、なんかねえ、このままもう二度と娑婆に戻りたくないとかそういうの。ひっそりと闇の世界をわたらい歩き、正気に戻らぬままうっとりとそのまま消えてしまいたいとかそういうの。

ミサイル

なんかだめだめだな。

朝起き上がる前に結構真面目に世界平和について考えてみたんだが、どんなに一生懸命考えてもやっぱりわからない。

 

わしゃもう自分のこともままならないからのう。

 

ミサイル飛んできた騒ぎで専門家みたいな人が大勢いろんなことたらふくしゃべって書いて議論してってのチラチラみてて、なんかやんなっただよ。みんなすごく正義で立派で物知りで頭がいいんだけど、変なとこで肝心なとこで突然頭が悪いとこ見せるような気がする。

そして怖い人。基本的に怖い正義の人の言葉は信用できない。

 

どうしてね、世界にはこんなにびっくりするほど頭のいい人、物知りな人、立派で偉大な人がこんなに大勢いるのに、根っから悪い人ってのはそうそういないのに、こういうシンプルなことがこんなに難しくなるんでしょう。酷いことっていうのは起こってしまうんでしょう。

 

大きな酷いことと小さな酷いことは同じ構造なんだろか。このことは、考え抜かなければならないことだという気もするんだけど。それぞれの人、そして自分ができることを考えなければならないんだけど、とは思うんだけど。

 

あれこれままならなすぎて心身共に弱ってしまって動けなくなっている。顔中ぶつぶつが出てユーツだよ。とりあえず目の前の真鶴を読んでうさぎの小物用の糸でもいじって今日を逃げ続けよう。

 

新栗の季節が来たらきっとものすごい美味しいモンブランを食べてやろう。少し先の野望があれば人間とりあえず生きていける。

 

皆がそんな風にして考えればいいのにと思ったりする。 

ミサイル飛んで来たらそういうのもみんなおしまいなんかねえ。戦争おこったらねえ、何もかも人間は変わってしまう。そして暴力には屈するよねえ、大きな暴力にも小さな暴力にも。

暴力は極小と極大が一番忌まわしく性悪だ。それはものすごく見えにくくなっていて、そうして、怠惰と想像力の欠如からきているから、おそらく。

今日も心身ともに脆弱な自分はいろんな力に屈している。
まあとにかくとりあえず自分を守らねば。攻撃する以外の方法で。

みんなそうすればいいのに。
「暴力と攻撃以外の方法で。」


でもだからさ、まあなるべくやっぱりできる限り一生懸命考えるよ。なるべく悪い方へいかないように、みんな頭をそういう風な方向で使えばいいと思うんだよ。目的が同じはずならさ。

そしたら文殊の知恵はくらいでてきそうなもんだ。…だってさ、だからなんかバラバラと違う方に向かってる気がするからさ。本当は一つの方向をむいているはずのものが、あらゆるタイプのそれぞれの分野の、世界の優れた才覚が。

「この世界の片隅に」こうの史代

原作には甚くヤラれていたのだ。
うっかり油断して読み始めると痛い思いをする漫画である。
「夕凪の街 桜の国」とセットで原作への感想はここでちょっと書いた。
 
これがクラウドファンディングで映画になったという。アニメーション。なんか周囲の人々が激賞してるし世界中でやたら評判がよくて、あれよあれよという間に話題になって賞かなんかまでとってしまったらしい。
 
映画館でも観たいかなアなどとずうっとぐずぐず思ってたのに、やっぱりなんだか行きそびれてしまった。
 
ということで、オンライン試写会、ぽんと飛びついたんである。おうちでポチ。
 
夜部屋で酔っ払い状態でさあっと観ただけだから、原作もみちみち読み込んだわけじゃないから、責任のないおぼろな記憶からの印象だけど、なんかこのまま忘れてしまうのもかなしい。一応ちょっと思いついたことひとつメモしておきたい。
 
原作と映画とのちょっとしたアプローチの違いのようなものについて。
 
…アニメーション映画が、その性質を活かして、原作とは違うバランスで物語の特質を見出させうるという、その媒体による手法について思ったのだ。
 
主人公のすずさんが絵を描くという行為の強調、そのクローズアップのことである。

絵を描く行為が、物語行為になっているというのだという製作者(原作の創造的読者)の明確な認識。その感覚を感じたのだ。
 
それは、すずさんの描いている絵が映画の画面の現実と等価な風景として描き出され重なっていくという映画的な技法、いやむしろ現実を凌駕する、現実(という物語)を作り出す、という「世界認識(創造)」の技法として見出されるもののことである。
 
この映画の中では、時折、現実がすずさんの描く鉛筆や水彩的な絵画のようにして描かれる、タッチが変化する瞬間が挟み込まれている。
 
絵となった世界。すずさんの眺める世界。
 
それは、すずさんが世界を読む方法。それは、世界をうつくしいものとして読みとろうとする、あるいは読みかえようとする方法論。そしてそれは、いわば彼女がよりよい人生を生きるためのメソッドを我々に示すものとしての表現なのではなかったか。
 
原作では取り落としがちであるこの要素を、アニメーション映画は大きなテーマとして拡大強調してみせる。
 
すずさんの描くもの、それはまた、ありえたかもしれない人生の「もしも」の世界でもあった。限りなく分岐する運命と、たった一つの現実という残酷と切なさとかけがえのなさを映画は語る。
 
一枚の絵に収められていったものは、あきらめられた夢の墓標、果てしない物語の夢のイコン。日常を支える豊かな世界の豊饒を、心の中にそれは創出する。決して一つの世界に閉ざされることのない解放をいつでも胸の奥に秘めていられるように。
 
これが非常に顕著に表れているエピソードがある。初恋の幼馴染と婚家の納屋で二人きりのひとときを夫から与えられる、非常に危うい場面である。寄り添い、お互いの過去の思いを伝えあう二人。
 
運命をただ従容として受け入れ、あきらめてきた過去に描かれたほのかな夢、一枚の夢。穏やかなあきらめとともに、与えられた運命に応じてきたすずの人生である。その中で、その場に応じた夢をせいいっぱいうつくしく描き続けようとして生きてきたけれど、やはり決して取り戻せないものへの思いはある。その切なさと、そしてしかし今選んだ道(夫への愛、周りへの愛)のかけがえのなさの、ふたつの心。己の中にうずまく激しいその両極の感情のやるせなさに耐え切れず、すずは泣くのだ。
 
すずさんの描くものは、五感と日常、そしてそのファンタジー(民俗的異界感覚)から生まれる、日常と命に直接根差した物語。それは例えば冒頭の、妹に絵物語にして語る、子供の頃に妖怪にさらわれたエピソード、未来の夫に出会うファンタジックなエピソードである。怖いのに、どこか親しみがあってあたたかい、民俗的な異界、すずさんの住む世界、描く世界。
 
或いはそれは、いわゆる現実との二重の風景をなす。
時折なめらかなアニメーション画面がすずさんの描く手描きの絵のタッチとなって切り取られる、アニメーション映画ならではのそのしかけを、我々は一枚の絵画として心の風景に収納してゆく。
 
厳しい現実の戦争は、国家間の正義の物語は、目の前のやるべきことをこなす末端の日常に影響を及ぼす限りの出来事としてしか認識されない。お砂糖の配給がなくなる、お砂糖を大切にしながら失敗するが、それもあたたかな家庭の笑い話の一コマに変換されている。それは、唯々諾々と、ただ環境を受け入れる大衆の日常。政治も権力も国家の正義もない。与えられた運命があるだけだ。
 
物語とは論理である。言葉により、絵画により、音楽によって、五感によって成り立つ無限に生成される可能性を持ったロゴス。
 
それは、大きな物語、小さな物語。個別の物語、権力や倫理の描く物語。
 
*** *** 
 
そう、このアニメーション映画の中で原作から特化して抜きだされ強調されているのは、描く絵によって現実が認識定義される、という構図、その論理だ。アニメーションならではの鮮やかに躍動する表現力がここでより生きる。強みとなる、…ということを作り手は意識しているのだろう、と冒頭で述べた。それは一体どのようなかたちでか。
 
それは、例えば小学生の時の写生大会のあと、初恋の少年とともに見た海の風景、その白波にあそぶ海うさぎ。すずが描くことによって海にうさぎが飛びはねる世界の躍動が真実となる。その論理構造ががうつくしいアニメーション映像によって表現されている。
 
世界が、物語がそこに生まれるのだ。原作においてこれは言語と絵画によって表現されるものであり、動きとは読者の頭の中で行われる作業であった。アニメーションは読者の(少年の)脳内の風景を外的な視覚として直接画面に映し出す。少年は、その絵を見て嫌うべきだった海が好きになってしまうのだ。
 
海は美しいものとして読みかえられる…現実は芸術を模倣する。
 
すずさんの日々は、いつもそうやって描き続けられてきた。
 
だが、戦争の残虐さは、ついにその限度を超える。爆撃で姪っ子と右手(絵を描く手、物語を、夢を紡ぐ力)を失うことによって、救いを失い、いままでただただすべての理不尽をしなやかに受け入れてきたすずの心に、周囲の残酷な状況がナマなかたちで襲いかかり、裏の心、不条理への疑問が芽生えてくる。「どうしてよかったなんていうんだろう。」もう世界の醜さを読みかえる力がない。

そう、戦争は何もかも叩き潰す暴力、徹底的な絶望だ。そして、だが、この物語には救済が仕掛けられている。
 
戦争は終わるのだ。
 
過去に失われたものが未来からやってくる。「もしも姪っ子と左手を繋いでいたら」、の、その「もしも」がやってくる。爆撃の際、左手を繋いでいた母子の人生とのクロスオーヴァというかたちで。
 
母は片手と命を失い、子供だけが助かるという別ヴァージョンの物語をもった母子から、それはすずのところにやってきた。失われた姪っ子の代わりの戦災孤児となってすずにしがみついてきた子供。
 
お互いを求めあう、支え合う。そんなかたちの救済。失われたものが、「もしも」の物語の世界が、未来の現実となって別の命の形で補われ再生してゆく。
 
このラストは、失われるべきではなかったものの、その悲劇を、かけがえのなさを激しく怒り悼むとともに、決して未来をあきらめない、永遠に「普通」の日常の、日々の幸福と慈しみあいを続けてゆこうとするひとびとの、再生と救済の物語となっているのだろう。
 
そのしたたかさ、ひたむきさ、純粋さは、あるいは吉本隆明が戦後「大衆の原像」と呼んだひとびとの姿と重なるものなのかもしれない。
 
…と、なんだかね、そんな風なことを思ったんだよ。
 
蝉が鳴いて、西瓜を食べて、お盆が来て、そうやって、今年も8月は過ぎて行く。

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

*プロローグの立ち位置   
 
本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。
 
本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。
 
本編では、福岡氏が、読者と同じ立場、哲学門外漢としての立場から、哲学専門である池田氏の西田理解について質問する、というスタイルをとっている。池田氏の語る難解な西田独特の述語に関しては理解できるまでそれを徹底的に質問攻めにし、読者に寄り添いながら西田哲学を読み解いてゆく。彼のこの態度が、やはりこれ自体も難解である本書を読みぬくための案内の役割を果たしている。
 
乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。
 
池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。
 
生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。
 
これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。
 
前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。
 
ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。
 
福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス
 
この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。
 
矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。
 
これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。
 
*本編、対談~「逆限定」(第三章)
 
で、本編の対談である。
 
まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。
 
対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。
 
…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。
 
例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。
 
で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。
 
「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。
 
つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。
 
時間と空間の本質を、生命とエントロピーダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。
 
あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。
 
(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)
 
とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。
 
それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。
 
でまあ、それはそれとして。
 
とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。
 
存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。
 
それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。
 
*西田の生命論理(第四章)とそれ以降
 
…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。
 
「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。
 
否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                            …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。
 
あとひとつ、特筆しておきたいこと。
 
福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。
 
*時空論~宮沢賢治との共通性
 
第四章の続き、時間論を語る箇所である。
 
生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)
 
過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。
 
切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。
 
「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)
 
なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。
 
そして、どうしても思い出すのだ。

我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。
 
春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
 
絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。
 
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
 
過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。
 
我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。
 
賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。
 
 *** ***
 
とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。
 
「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏
 
そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。
 
あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。