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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「夕凪の街 桜の国」こうの史代

こうの史代は広島出身者なのか、とプロフィールを見て、その生まれ育ち、そのアイデンティティに刻まれる土地の意味のいみじさを思う。

方言の確かなネイティヴ感もさすがである。母の田舎が広島で、一時期住んでいたせいもあり広島には縁があるのだが、バリバリの広島生まれ広島育ちの伯母たちの会話が非常にリアルに思い出される。しっくりと心に沁みこむそのリアリティ。

原爆への思いはその土地に沁みついた地霊、言い換えれば集団的な意識、集団的自我のようなものなのだ。そこに生まれそれを受け継ぎそれを呼吸し育ってきたものだけがアプリオリに保有している自我の一部としての原爆への思い。あるいは呪詛、呪縛。圧倒的に生命の尊厳そのものを損なうその暴力への恐怖。


だがここでは、それは大仰な悲憤慷慨や正義の叫びとしては描き出されない。

柔らかな自然な日常をそのままに描きながら、そこに、否応なく滲み出す歪みのサインをあぶりだす。逆説的に、その穏やかで幸せな日常を蝕み生命を食い荒らしそこなうシロアリのようにボディブローのように効いてくる毒薬としての理不尽をただかなしみとしてだけ描き出す。

身体に、精神に、致命的な傷を受けながら、何もかもただ運命を受け入れてゆく優しいひとたちの思いの切なさの遺伝子。

理詰めの論理で理不尽を憤り正義を振りかざすでもなくひたすらお涙ちょうだいのティピカルな物語にのっかって感情に流れ悲憤慷慨するでもなく。

ひたすらあわあわと流れる優しい穏やかな情緒、あるいはコミカルな日常のドラマの中で。

どのような非常事態のときもその毎日が存在する、というリアリティがある。家族があり、それぞれの果たすべき役割や思いやりふれあい、社交、日常でのドラマがある。食事の用意をし、食べ、話し、風呂を焚き、布団を敷き、暮らしの心配をし、親族近所とのやり取りをする。婚姻があり、子供とのやりとりがあり、夢や楽しみがあり、愛憎がある。たとえばサザエさんの中の暮らしのドラマのように。

こうの史代はひたすらにそこを描く。ほのかな恋や暖かな友情、家族への愛。日常のひとこまひとこま。


大衆がその強さを発揮する場面、吉本隆明が戦時下の日常性について、その大衆の「日常を生きる力の源泉」のようなことについて知識人と対比し「大衆の原像」という概念として言及していたような気がする。

そして彼女がここで描く戦時下の日常、戦後、原爆投下後の街の日常の描き方はまさにこの非常時における非日常の中での大衆の原像を描き出す。それは戦時下、狂った世の中に存在しながら切ないくらいに「普通」を生きる日常なのだ。

戦時下を呉の街の側から描く「この世界の片隅に」の中で、海兵となって一時帰国した主人公すずの(おそらくは)初恋相手がこの「普通」に関してこう述べている。炊事をするすずを眺めては「普通じゃのう」とにこにこ喜ぶ。「あーあー普通じゃのう。」


そして夫の昔の恋人に嫉妬していること、それでいて相手と初恋の思いをほのかに告げあうことの葛藤、その己への怒りと悲しみを表白して泣くすずに対して彼はこう言う。「すず お前はほんまに普通じゃのう。」

繰り返される、「普通」への思い。


「それ(普通・当たり前)こそしばらく見んけえたまげたわい。」


当たり前に家族を思い当たり前に少年らしい夢を描き海軍にはいり、そうして「人間として当たり前でない」理不尽な軍と戦争の世界を見たことを彼は言う。




全編を通し通奏低音として流れるテーマは日常生活の「普通」「当たり前」とそれが奇妙にねじくれてゆく戦時の「歪み」の不協和音だ。

「どうして」
「何故」

優しい感情、「当たり前」が何故このように歪んでいくのか。幾度も幾度もその違和感として問いは問われる。

「どうして命があってよかったなんていうんだろう。」
(爆弾に吹き飛ばされて姪を失い姪の手を握っていた右手が切断されたすずに夫が言った科白に対し。)

目の前で姪を失い右手を失い生活する基盤を失い婚家での立場を失い、爆撃が続いた。
死体に対し手を合わせる里から来た妹と違い、その死に対し無感動になった己を感じる。「歪んでいるのはわたしだ。」


原爆投下後10年を過ぎた広島を描いた「夕凪の街」でも、このテーマは同じだ。
穏やかに流れる日常、復興してゆく街。

だが皆原爆の傷跡を背負い原爆症への恐怖とよその土地のものからの差別を感じながら生きている。

普通の一日、風呂屋で和やかに談笑する普通に日常を過ごすひととき、その街の近所の人たちの身体には傷跡、火傷や原爆症の発症の証がある。
呪われた印。皆死んだのになぜ生き残ったのか、そして、生き残っても結婚も子孫も望んではならない呪われた身であるといういわれのない理不尽、己の心の枷。

「ぜんたいこの街の人たちは不自然だ。」
「誰もあのことを言わない。いまだにわけがわからないからだ。」
「わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ。」

地獄絵図を見た。死体を乗り越え地獄を越え焼かれながら生き延びた。家族を友人を目の前でむごたらしく失いながら逃げ延びた。焼かれたあの日。

「しあわせだと思うたび美しいと思うたび愛しかった都市のすべてを人のすべてを思い出し/すべてを失った日に引きずり戻される。おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする。」

13歳のときの被爆による心の傷(跡、ではない。触れる度なまなましく血を吹き出す裂傷である。)のことを誰にも言えず心の奥に秘めたまま、10年間。
表面を穏やかに流れてゆく日常、そして流れてゆく人生のステージ、23歳。恋人を得る。被爆による恐怖感のその告白。そして、すべてを知り認め受け入れ、その上で求愛する穏やかな彼の愛によって許される自己存在を確認した途端の、発症である。

ほっとした途端崩れ落ちる、これからの幸福を知った瞬間すべてを奪われる。あくまでもだんだんと感覚を奪われてゆく主人公の意識から語られる状況、目も見えなくなり時折声が聞こえる。手を握る恋人の気配。痛み。喉をせりあげてゆく生ぬるい血の感覚。


被爆後すぐに発症し亡くなった姉のこと思い出す。同じ症状。ついに見送る側から見送られる側になったという考えが浮かぶ。

「ひどいなあ。てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ってたのに。」意識の流れの表現が鈍く深く胸を突く。

あわあわと流れる優しい日常は柔らかな広島弁の会話のみで表され、内面を語る意識の流れのモノローグは標準語で語られる。この文体の相違もまた、内面に押し隠された思いの強さを際立たせ、胸を打つ。

この亡くなった主人公の姪、すなわち弟(疎開で広島にはおらず、被爆していなかった。)の娘が新しく主人公となったのが続編の「桜の国」となっている。
彼女は己のルーツを探ってゆく。被爆した娘と結婚した「夕凪」の主人公の弟。被爆者であるその妻、本作の主人公の母はやはり発症して亡くなった。被爆者、母の死におけるこの地の呪縛を主人公は解き明かしてゆく。

年月が過ぎ、直接的な爆撃の身体的な惨たらしさのなまなましい表現はより緩和されたものとなっている。が、逆に人の心への呪縛はより複雑にもつれた心の悲劇をあぶりだす。婚姻の差別である。被爆したDNAの遺伝を人は恐れる。

…ここでは連綿と受け継がれた原爆という呪詛、呪縛と愛の物語の連鎖が語られる。
そのピュアで切ないドラマの果てにに生まれてきた己を知り、呪縛の表象である手紙を破り捨てて紙ふぶきにして飛ばす。その紙吹雪は、両親の愛の門出を祝福するうつくしい桜の花吹雪のシーンに移ってゆく、脳裡に焼きつく映画の中のワンシーンのようなクライマックスだ。


賞を取った有名な作品だけど、初めて読んだ。
短い作品だ、と、ちょろっと開いてみようかな、なんて油断して読みはじめたら思いがけない重さで胸を突かれてしまった。

マイッタ。

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)