酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ぐりとぐら」の普遍、そして戦争

雑誌の特集の見出しを眺めていて目に飛び込んできたのは「ぐりとぐら」のあの愛らしい絵本の写真。

ぐりとぐらは時代先取りSDGsで、あるべき理想の暮らしの姿だっていうのが御説趣旨のようであった。

ということで、ううむ、と、私は己の中のいろいろの優しい匂いのする絵本の記憶を探り、そのほのかな光を探り、そのチャンネルの持つ心持ちの力のことを考えながら拝読したワケである。

 

確かに。

なんかね、確かに基本の暮らしの中のひとつひとつすべてをうつくしくたのしくおいしく、すべてのものもひとも大切にしながら暮らす究極の幸福のひとつはあの世界の夢でもあるかもしれないのう、って思ったよ。

そのときの記憶を、思いを、心を思い出すだけで幸福になれる風景のチャンネルを、誰にも何にもいささかも損なわれることのできないまったき幸福の定義、その感情。心の深奥に深く己の魂そのものとしてその幸福の風景を保有しているということの大切さ。

だから、そしてことさら特に人生の初めのところで、子供の頃、そんな優しい楽しい世界を刷り込まれることはとても大切なんじゃないかと。

うつくしい言葉や優しい色合いのイラストでつづられたあらまほしきたのしいひとときを描いた物語。ページを開くとその世界が広がる、という書物の確かな奇跡。

子どもの心の集合体の変化によってきっと世界全体の未来は変わっていく。
決して人生これからずっと無毒で過ごせというのではなく。(無理やり子供を強制的にずっと無菌にしておこうというのはエゴであり間違っている。)

男性原理の利害と「現実」で作り上げられた「社会」は子供の頃教えられた正しい倫理や論理という祈りでいろどられた「正しい立派な大人」のものでは決してなかった。

その荒波の中で成長してゆく過程で、ひとは己もまた生きていくために無辜ではいられない。苦しい道を選択していかなくてはならない。

が、人生の基礎のところに、三つ子の魂のところには、無条件の母の愛で限りなく守られて愛され、奇跡のような輝きも素晴らしさも恐ろしさも理不尽も全てを含んだ世界、不思議と可能性と未来に満ちていた世界の姿を己の一部の基本として持っておくこと。それはすべての世界、大いなる自然の恵みや災害という簒奪、それら人間社会を超えたところからやってくる粛々とした多様な倫理の錯綜するマトリクス、カオス、ひたすらおおきな事象への畏怖の心と共に、現実にあるものへの尊重と多様への正しい距離感への眼差しをも育てるはずだ。

…おそらく許す力へ、も、それはつながる。愛された者の持つ、それは力だ。

悪夢に飲み込まれ闇に堕ちそうになって泣いている時、そこから迷う魂を掬い取ってくれるもの。それは母の胸に抱きしめられ愛されている守られていることにより護られた記憶、理不尽の憎しみや悲しみの闇の中、迷子になっても戻って来られる力。それは論理ではなく感情なのだ。

そしてそれが私の考える「お育ちの良さ」なんである。

一人一人の中の、こんな風な小さくて大きな底力。それが世界全体の未来を方向づけてゆく、変えてゆく力にならないと誰がいえよう。


だからこそ、まず子供のまっさらな心に与える始まりの物語の絵本は注意深く選ばれなくてはならない。

 *** ***

あちこちで戦争が起こっている。
憎しみあい、長い長い愚かしい怒りと理不尽とかなしい醜悪な浅ましさの権力と…何が大切かを見失うかなしい愚かしさ。なんのために授かった命なのかを。

きっとあのひとたちは人生の最初のところで正しい愛と絵本を与えられることがなかったのだ。
その元凶の貧しさはけれど世界の不平等で理不尽すぎる仕組みからまず来ている。愚かしい虚栄や征服欲や…すぐれた能力が愚かしさに発揮される仕組みができる。

無力な人の命が道具として使われている。
攻撃してきたら見せしめに人質を殺す?

愚かすぎて吐き気がした。
これが「大人」の「現実」の世界というのか?
(ニュースでいささか大きなショックとダメージを受けているらしい自分。)

 *** ***

ううむ、選ぶべき現実は、ほんとうは、夢のようなあのかすてら、みんなでたらふく拵えていただく、あのぐりぐらの大きなふわふわシヤワセの焼き立てかすてらなんであるよ。

すべては人の生きる現実とは人の拵えたひとつの物語にすぎないのであるから。

なあんて言って、実はオレ、「ぐりとぐら」ってちゃんと読んだことないかもしれない。小学校入学前といえば、かこさとしのからすのぱんやさんとかは確かに熱烈に愛読してたんだけど。

絵本に限らず、まだたくさん読み返したいものも読みたいものもあるんだよ。
死ぬまでにやりたいことでも書き出すか…

やっぱりもう少し生きていたいな。

さびしい

寂しい寂しい寂しい。

 

今日は何もかもが私にあんまり酷かった。

全部自分のせいだし、今朝見たの占い最下位だったからだと思う。仕方がないんだと思う。別に報われたいとかそんなんじゃない。努力や頑張りやなんかが報われるなんてのはもちろん幻想だ。諸不幸の、諸悪の根源であるところの幻想だ。

 

何もかもから逃げ出したい。誰もかれもから、なにもかもから逃れたい。己の心の牢獄、己も含め誰も自分を損なわないところ、己が誰をも害さなくてよいところ。失うことをなんにも恐れなくてよいところ。

 

昼間飛び出して、ぽかんとひとときひとりのはるかな自由な空を垣間見て、考えていた。

ただこのままスナフキンになってしまいたいな。アタゴオルに行ってしまうのも良い。きっと本当はどちらも心の中の深奥の、その向こう側に開かれたどこかにあるんだろう。このがんじがらめの世界の自我のその向こう側。一面のあかるい空と自由。

 

なんとかこんな今日の私の闇を救ってくれたのは、一生懸命一生懸命しがみついてた己の心の煩悩、その全ての正しさや愛に近いもの、かなしいほどのいとしさ、思いやりや優しさや気遣いへの努力なんかでは決してなく、浅ましく卑しく穢らしくかなしい自分の憎しみ、憎悪や罪業に塗れたエゴイスティックで穢れた闇への開放から来る思いだけだ。

逆説だろうか?わからない。
イヤそうだ、どうでもいいことだ、そうだ、ただそういう人間なのだ。

楽にならなければ。

自分の幸福だけが大切。みんながそう思えばいい。
かなしみだけがひとしずくの救済。

 ***  *** 

本当は本当になんにも憎んでいない。そんな必要はないはずだ。

私は優しい幸せなカラッポ。
そんな風にしてうまれて光や恩愛や憎悪を受けて育ってきた。

本当は豊かな存在を、世界中を愛している。

 ***  *** 

死ぬのは怖い。
だからもう、疲れた。疲れた。

怖いのも辛いのももう嫌だ。寂しい。

母を失うなんて耐えられない。

宮崎駿「君たちはどう生きるか」

映画館で映画を観るってのはやっぱりいいもんだなあ。

チケット発券、境界関門で係のケルベロスさんにもぎってもらって(チェックするだけだけど。)洞窟みたいな薄暗がりの灯りの灯る異界への迷宮廊下に入りこむ。深い暗がりを湛えた地下階へ深く下ってゆく長い長いエスカレーターも盛り上がる。

この一連のミッションってやっぱり異界に入り込む心のときめきなんだよね。(ハイロウズの「映画」って歌思い出した。あの歌大好きなんだなオレ。「楽しみにしてた映画が来るんだよ~♪」)

一回300円くらいだったらもうじゃんじゃん行っちゃうのになあ。みんなもじゃんじゃん行くようになるから映画文化ものすごい発達すると思うんだけどなあ。

何しろ涼しい。椅子もお尻に優しい。(願わくはもう少しリクライニング機能を…。)(ちょっと肌寒すぎるけどちゃんと羽織もの用意しとくとな、これはこれで世間から切り離された映画館独特の特別な気持ちになる贅沢なんだなウンこれが。)(言いたい放題)

(そしてしかしやはり最低限やめてほしいことはある。妙ちきりんな安物の車用芳香消臭剤みたいな匂いがするのに大層閉口したのだ。気持ちが悪くなって困った。周囲の人が遠慮がちに齧ってたポップコーンの香りの方がずっといい。あれは素晴らしい。しかしあんなに大きな紙バケツみたいなのに山盛りポップコーン食べていいのかみんな。あんなに大きな。)

映画はと言うと。
なんか言いたいこといっぱいあるようではあるんだけど、とりあえずは鳥たちキャラクターがあれこれよかった。就中セキセイインコたち、そしてインコ大王が。

それからまあこれは個人的シンクロニシティなんだけど、こないだつい観てしまった「不思議惑星キン・ザ・ザ」との響き合い。

この映画、途中あまりのディストピアっぷりの不愉快さに挫折しそうになったが、後半部からラストシーンへの怒涛の展開とカタストロフに揺さぶられた。観てよかった。そしてここで大きなポイント、ほのかだが深く強く心に残った優しい優しい涙が出そうな快さがあったんだが、この宮崎駿作品にもそれに通ずるところがあったのだ。直前に観ていたからこの一筋の論理、思想を自分の中に物語のひとつの響きとして見つけたのだ。これはいつか言葉にしてきちんと書き留めておきたい。

 *** ***

とりあえず、ちょっと備忘録なメモとしては、決して正義や正しさや倫理によって軌道修正もされ得ない、背負わされた原罪、運命のような理不尽、或いは呪い、哀しみに満ちたにんげんの罪の醜さ、どうしようもなさとそれに対する圧倒的な許しの浄化の可能性。滑稽さの中にのみにじみ出る涙…宮崎駿作品に、これに似た快い読後感、もとい鑑賞後感を感じたんである。

その一筋の、あきらめに似た、けれど圧倒的な意思と祈りと希望に満ちた優しさの光。(それにつけてもこの映画に対しては実にソ連映画恐るべしと感じ入った。キンザザ恐るべし。)(当時、表現規制ってなかったんだろうか。ここまで露骨な権力批判表現。)(昔の庶民や芸人たちが戯言歌謡で政府の批判をパロディやコメディにしたような。馬鹿馬鹿しい大笑いと胸の奥の痛みがじわじわと沁みてくる。)

そしてだな、ここでのポイントというのはだな、自ずからそこに組み込まれなければならなかった、選べなかった、その社会構造に隷従と同化することでしか「生きていけない」ことになってしまった、そうしてそうなってしまう人間の性(サガ)のような眼をそむけたくなるほどの弱さ醜さ愚かしい浅ましさとさびしさ、けれどその中に潜む一筋の無垢さ、失われていない正義の、それらすべての人間の中の十戒互具、すべての共存。

多様性とは、愚かさとは、知性とは、そしてどうしようもなさとは。…と考える。そしてそれらを全て覆うのが 物語という力の持つ浄化の可能性、圧倒的な光と許しへの意思、無条件の愛に寄り添う、それへの、「正しさへの祈り」なのだ。「祈り」。

それはあるいは多様性への可能性を秘めたもの…共通キイ・ワードは、ラストに一言だけ呼びかけられる「トモダチ」という言葉の物語まるごとを背負った重み。

 *** ***

ということで、宮崎駿である。
この話題作に対する世の中の賢い人たちの言及はいちいちおもしろい。
たくさんの謎解きと宮崎駿のそのモチーフへのモトネタモデルを探り出すような謎解きもたらふくあって、そのそれぞれがいちいちうなずけるものである、と思う。

これら謎解き考察を眺めているとそれらすべての深みと鋭さの指摘に、その批評者の個人的イメージからの含め、作者も読者も豊かにインドラの網のように個の具体の思いや考えがすべてが響きあい深め合う、インドラの網のような抽象のイメージの世界を形作ってゆく、ここにわくわくしてしまうのだ。

そうしてそれらの個々の考えの方向性としては、ほとんどすべてが大意としてはそれほど相違したところはない。

(もちろん、例えば作者、監督の生い立ちや思い、例えば基本元ネタといわれている、ストーリーの設定やあらすじにそっくり借用されたジョン・コナリー著の『失われたものたちの本』(2006)という下地やなんかも非常に重要なファクターである。その悪夢と異界のイメージの不気味さ、その理不尽、その呪いのようなやるせなさのオブセッション。)


それは何故か。それらの賢い考察にももちろん言及してあったが、これが開かれた神話としての暗喩のテクストだからだ。不正解はどこにもない。固定された正解も謎解きの答えもどこにもない。まあ大枠の物語構造ってのはあるんだけど。神話や物語のイメージの力のみがあふれている。

例えば大枠を考えたときは、こんなものだって考えられる。複雑に絡んだ、銀河鉄道999メーテルと鉄郎の関係性のように。

失われた母への思いから、未来の女性へ向かう、マザーコンプレックスを孕んだ少年の心の、大人へと向かう成長。それは、言うなれば与えられる愛から与えあう愛へ。決意、意志、過去の喪失の寂しさと、その痛みを抱いたままで昇華されたかたちでの未来の光、その明るい希望の同時性。

そして物語の中には、あふれる意味象徴のめくるめく鮮やかなイメージ。関門や境界、学問、炎や水や墓や産屋、穢れや禁忌。

何しろ、構造としていうならば、これはただひたすらものすごく多岐にわたったあらゆる領域に限りなく触手を伸ばす菌糸をもって世界を覆う物語の迷宮そのものであって、何をどこからどう語ってもいい、それが神話なのだから、というしかないと思うんだな。

神話とはそういうもの。それが可能であるからこそおもしろい。大切なのは、心にまず響くこと。面白さそのものが。官能が。感覚が。すべての論理はそこから始まる。

そしてもちろんそれを支えるアニメーションとしての技術へのわくわく。

ナウシカの原作なんかもう夢中になったんだよオレ。徹夜してしまう勢い。

それらおどろおどろしい悪夢を見事な娯楽アニメーションへあでやかに変身させたときの独特の動きとリアリティ、その色彩と動きに昇華していったジツリキとかさ。風の表現やおいしい食べ物のものすごくおいしそうな表現。スタッフ全員の力で築き上げたものではあるだろうけど、ある程度彼のワンマンさがなければ実現しなかったのではないかしらんなどと勝手に妄想したりしつつ。

とりあえず。

…いやあ~、映画って本当にいいものですね、というか、しみじみジブリじゃなくて宮崎駿作品が好きなのやもしれぬ、基本的には、自分。

いや、やもしれぬ、じゃなくて、多分、おそらく。

 *** ***

主人公は過去の鬱屈を洗い直し諸刃の知識の門と墓と産屋で死と再生を経た異界での物語ミッションを経て己の意志で選び取った新しい未来へ向かう現実へ生まれなおした。

映画館異界を経てケルベロスさんの脇を通り過ぎ、物語ミッションを主人公と同時に終えた私も新しい日常現実に戻る。そして生まれなおす前に、私自身の真新しい日常現実準備ミッションとしての…

 *** ***

これである。シネマのあと、余韻に浸って頭が別世界にぽうっとトリップしたそのまんま、日常に戻っちゃう前にポンとカフェ、っていう商業施設シチュエーションも、ときにとってもありがたい。

本日のブレンド、カティカティブレンドだって。

ほのかにフルーティで華やかな香り、後にふわりこくりと優しいスパイスの甘さがあって、なかなかよかった。(宣伝文句コピーでその気になるように味覚五感を盛り上げるのだ。)(最近珈琲に選り好みがなくなってきた。一時はスタバの深煎りは好みではないとかあれこれこだわってみたりしたが。どれもおいしいといつも楽しい。)

珈琲の香り、カフェ独特の優しい灯りや静かなざわめきと音楽に包まれて、あれこれ考えてはメモしたり。鳥が出てきたから鳥の絵なんか眺めながら。

夏休みの図書館

朝から猛暑のカンカン照り。
なんだかもう何にも考えないでただただ笑いだしてしまいたくなるほどの強烈な光に満ちた圧倒的な暑さってあるものだ。凄まじい輝きのエネルギイに満ちた熱風に吹きさらされて世界は真っ白、自分はカラッポ。そしてカラッポが楽しくてくすくす笑い出しそうなこの感じ。(湿度がないのが条件!)

上を見上げて思う。
濃い青いその真っ青にもくもく白い雲、眺めてるのは愉快だな。

こんなにもそれらしい夏を絵にかいたような強烈な金の光と青と白、眩い濃い夏の空というのは夏休みの記憶の中に心をぶんと投げ飛ばしてしまう。あらゆる夏休みの集積、そのエッセンスはもう向こう側の領域に存在する「夏休みのイデア」。こんなにもすべてががらんと暗く見えるほどにあたり一面がまばゆい世界では。

…世界は記憶に染められる。現実は芸術を模倣する。現実は物語を模倣する。内面と外面あちら側とそこちら側の垣根は消失する。こんな光の中では。

ああ夏空、なかなかいいものだなあと思うにつけ、ふと心づく。

 *** ***

そういえば春夏秋冬のそれぞれの空がそのときいつも一番素晴らしいと思うのではないか、私は。

春のおぼろにやさしい甘いそらいろ、初夏の清々と高く澄んでゆく新緑の薫風の空。未来へ向かう若い生命の希望をはらんだこの初々しい喜びの青い光。

そしてこの真夏。
そして初秋の柔らかな切なさがそこにゆっくりと行き合ってゆく日々の移り変わりの中で。

それぞれの黎明、曙、早朝、朝、真昼に昼下がり、夕暮れの気配からゴージャスな黄昏空。

うつくしいとは幸福の別名であると直結して確信させてくれる、問答無用の圧倒的な美という概念について私は考える。心がそれを受け入れるときアプリオリにそれは存在している。

そしてそれは大層素晴らしいことなのではないか。

つらつらとさまざまの考えが色とりどりの魚のような思考となってこの光の中に揺らめき出だす。(バイクでぶうんと木漏れ日と緑のトンネルを走って、ぶかぶかしゃつの背中はたはたと風が通るのが好きだ。)

 *** ***

夏休みの光の図書館へ。

 *** ***

夏休みの図書館でだけ、夢見られたあの頃の世界、本から世界の豊かさを胸いっぱいに感じられていたあの幼い日々の時空のリアルを思い出せる、ということもある。

オトナの時計の客観的時間の中では、限られたほんのひとときのはずなのに、確かに限りなく永遠だった。風も光も窓の外。あの図書館の陽だまりで這いつくばるようにして読んでいた。足りない足りない、本が足りない、私は永遠にいくらでも読めると信じていた。

 *** ***

アレだなあ。今日の空がいつでも一番うつくしくて幸せだっていうのはエンデのモモがマイスター・ホラのとこで時間の花を眺めてた時の理屈なんだな。

いつでもこの上なく美しい最高の「今」が時間の源泉からモモの瞳とモモの心をすべて奪うようにして花開き、そしてそれはたちまち萎れ、滅び去り、そしてつぎはさらにもっとうつくしいと感ずる花が花開いてゆく。源泉から時間の生まれる場所の流れの真実。

 *** ***

そして台風がやってきた。
ぐずぐずと長逗留して各地で惨い被害や損失、災害をもたらした。

不快指数だけでも酷く不愉快なその災害の嵐が吹き荒れた後、季節は移ろっていた。

相変わらずの体温に近い猛暑、ものすごく猛烈な酷暑ではあるんだけど、(しかも蒸し蒸しのもわもわ)、やっぱりこの空と光と暑さは、もわりとした柔らかさを帯びている。明らかに残暑なのだ。もう夏は終わりなのだ。ほのかにさびしく優しい初秋や黄昏の光の匂いがする。晩夏の匂い。

「TENET」「ジョーカー」「おみおくりの作法(still life)」

(ちょっと前置き。***のところまで省略可)

…イヤだからね、このことを私は日々何度でも新鮮に感じていて、そして何度でも永遠に言い続けるけど。

「書くことは生きることだ。」
そして救済だ。

なんでもいい。
忘れたくない。そう思うこと。特に感動した映画や本やなんかのことをいちいち。それは人々と共有し響きあうことのできる共通カテゴリとしての批評であるから。外部へ、社会へ、人へとつながる要素がおおきいから。

小さな己が個として感じてきた、大いなる世界そのものとしての混とんとした名前のない感覚。

その全体性を小さな既成の物語にあてはめない。
あてはめて「わかった」と思った瞬間、それは権力構造に巻き込まれることだからだ。そう、その多様という本体を失わない、また逆にそこに個が失われ溺れてしまわないため、そのままに味わい愛するために探る。そのためのひとつの手掛かりとなるのが言語、テクスト、生きた物語へとオリジナルに言語化する行為。

それは、物語を保ち続けながら死んだ物語を否定し続ける矛盾を止揚する物語とテクスト生成への存在としての衝動なのだ。

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

そう、それは「いかにもたしかにともりつづけるひとつの青い照明」であるための点滅という「点いていて、消えている」矛盾を実現しているダイナミクスをはらんだ「現象」。

それがよすがと止まり木なのだ。それがないとおぼれてしまう。その危ういひと時の自分の小さな居場所から見はるかす世界。そこだけなのだ。そこから初めてすべてを物語として風景として愛することができるようになる。

 *** ***

ということで、ここからね。
最近友人たちからとっても勧められたので、「インセプション」「マトリックス」を観なおして予習してから「TENET」を観たんである。

実はだな、これ評判通りの難解さでだな。
実はだな、そう、ワシには最初から最後まで全然わからなかったんである。

それなのに、だけど面白くて感動して素晴らしかったのだ。
なんなんだこれは。

何度も見て論理的に謎解きするのがポピュラーなファン心理みたいだけど、わしゃ、なんか十分面白かったから今はもうこれで堪能しちゃった。そしてこれでいいんだと思っている。エッセンスはこれで十分だと。

つまりね、時をかける少女的にさ、未来に出会うその一瞬の運命までの長い物語の映画、その運命と永遠の長さみたいな時の感覚がこの映画のキモ、コアなエッセンスのところすべてだと思うのだ。感覚と感情をゆさぶったもの、感動。

パラレルワールドの世界全体の豊穣、その限りなく深化されてゆく祈りや想いやを織り込んで。

もちろんエスプリもセンスもアクションも映像もなんかもすんばらしくてさ。そのあたりから語ってゆくと本当に限りなくなりそうだな、と思う。

…でね、もうひとつ。
例えばインセプションマトリックスってよく引き合いに出されるから予習としてこの二作品を観なおしておいたんだけど。

けど。

小学生男子が好きそうな娯楽一色浅薄なマトリックスなんかより(イヤその分確かにアクションがカッコいいんだけど。痺れるほど。)ずっと深くて好きだな、ノーランの感覚、としみじみ感じた次第で。

深々とした愛と情趣、世界観が伴われている。

ううむ。未見のものも観なければ。インターステラーやなんかも観なおさねば、と思っている次第である。生きねば。

 *** ***

で、それから続けざまに観たのが「ジョーカー」、そして「おみおくりの作法(still life)」。
双方素晴らしい、と思った。そして、あらゆる意味で実に対照的な映画である、と。

「ジョーカー」の感動のほうがあらゆる意味で派手で激しくわかりやすい。激しく感情を揺さぶる。論理の組み合わせは脳みその中ぶんぶん揺さぶられるほどエキサイティングに、むしろ暴力的に「おもしろい」。

愛されたい。愛したい。幸福に。

家族の愛。無条件の愛。
人生のはじまりのところで両親から与えられておくべき三つ子の魂の、赤子のときに与えられるべき、存在の基盤、己の魂の基盤、一生の波風から心の平安が守られることのできる基盤を構成する無条件の絶対的な愛。存在の肯定という基盤。それが与えられていなかった時の人間のかなしさ。信じていたものからの裏切りの物語。

残ったものは、ひたすらの、圧倒的な、寂しさ、寂しさ、寂しさ。
子供のままのピュアで無防備な魂はたやすく狂ってゆく。(しかしこの狂気のうつくしさは一体なんなのか。芸術のマトリックス、本質のところはこの狂気と同根のところにあるのかもしれない。うつくしさ。)

巨大な街ぐるみの狂気は、隠されていた理不尽への鬱屈の犠牲者たちによる集団的祝祭として、祭り上げられたジョーカーの狂気を旗印として革命と混乱を巻き起こす。物語は世界の破壊と再生の黙示録的な様相を帯びてクライマックスを迎えるのだ。またそのラストシーン、謎の含みもねえ、いいんだなあ、これが。(映画自体のどんでん返し、どこからどこまでが、一体誰が狂っているのか、狂気で妄想なのかわからなくなってくるシーンが仕掛けられているんである。どっちともとれる。)

だがなによりも、この映画の持つものすごい切なさと痛みは、「誰も『それほど』悪くない。」その権力構造、弱者に口無し的なモラハラ・イジメ構造を露わにしているところにあるのではないかと。

イジメられる方が悪いのだ。強くならなければならない、と。

虐待や戦争なんかも根っこの一番怖いとこはそこなんだよなあ。

ほんの少しの想像力の欠如、小さな小さな保身、他者への無関心、取るに足らない小さな愛すべき凡人たちの小さな罪の積み重ねの本質としての甚大さ…大いなる厄災と残虐さと悲劇を生むものは、小さな小さな罪の積み重ねから身動きの取れなくなるところまで、愚かしい戦争まで発展してゆく、トリガーさえあれば爆発する。この構造に気づくことは読者(視聴者、傍観者)一人一人の胸の奥を刺し貫き血を流させる、はずだ。傍観できるものはいない。誰も無辜ではいられない。

 *** ***

で、だが「still life」。(ちなみに原題のほうが、邦題よりもずっとずっと素晴らしい言語センスだと思う。単語の意味の深さが。邦題おセンスはっきりいってよろしくない。)こっちの方は…

お国柄もあるだろう。イギリスとアメリカ。
だが、これは本当に昨今稀有な「オトナ」のかなしみ、絶対的な、存在そのものへの、己という個を超えた無償の愛。その、静かな、静かな、ただ存在そのものへの思い、賛歌。誰に評価されることがなくとも、なんの倫理も道徳もないところから発することのできる、ただ純粋な存在そのものへの思いのマトリックスに届いている。この静かな佇まいをもった「うたいかた」は。

ジョーカーが子供のように求める愛ならばこっちの方は母のように与える愛。

どちらにとっても、世の理不尽は、理不尽だ。
だが、主人公ジョン・メイは、ただ受け入れる。受け入れる。ただ、静かに受け入れる。still life。訳してはならない。

これが、母の愛だ。無償の、無限の「自然からの贈与」と同じ構造。限りなく雑念は0に近い。与えられた道を受け入れる。己にできる精一杯をただ静かに無心に、あきらめにも似て、けれど投げやりに踏み外すあきらめではなく。

ジョン・メイの生き方。それはおそらく愛情と呼ばれるものに変換されてゆく道筋をたどるエートスだ。

大層地味に正しく繰り返されるルーティンの中で丁寧に暮らしてゆく。やわらかな愛情をおしかくした無表情、プライヴェートもオンタイムオフタイムもありゃしない。ひたすら誠実で几帳面な仕事ぶり。

だがそれは仕事自体を「enjoy」する仕事ぶりであるともいえる。今与えられたこと(理不尽であろうとなかろうと)をただ受け入れ、味わい、人間と存在への愛に満ちた行為への道をただひたすらに歩んでゆくジョン・メイの淡々としたlifeの「佇まい」。すべてが彼が万感を込めてこう表現するもの、「my job」そのものなのだ。

解雇を宣告されたジョン・メイが、はじめてそのルーティンから外れた旅先の出来事のなかで、そこに因んだ飲食物への態度ひとつをとってもそれは顕著に描写されている。己のルーティンの飲み物、注文した紅茶でなくとも勧められた新製品ココアならばそれを頼んですする。故人が以前腹いせに工場内で放尿したというエピソードを聞いたばかりの豚肉入りのパイを手渡され、さまざまの思いをかかえたままかじりつく。漁師から受け取った生魚を焼いて食べる。(少し焦がしている。料理上手ではないな、ジョン・メイ。)ホームレスから瓶ごと差し出された強い酒をせき込みながら飲む。運送トラックが荷台から落としてしまって道路で溶けてしまうばかりになったハーゲンダッツの業務用パイントカップアイスクリームも、無駄にならないように、いつもの机でひとりカップから直接、黙々と食べる。

これらひとつひとつの無言のシーンになんとも言えず漂う諧謔。この情趣はユーモアというよりも、人間味、ヒューモア。いわゆる、ユーモアとペーソスがひとつになったものなのだ。

そして旅の最後。
ジョン・メイの日々のルーティンディナーは魚の缶詰(缶を開けただけ、イメージは殆どドッグフードである。)と一切れの茶色い質素なパンと小さな林檎。これを丁寧にランチョンマットにセットされたナイフとフォークで、というものだった。

その同じメニューを、旅の終わりに愛想のない表情をした故人の親友からごちそうされたのだ。
その時のジョン・メイの不思議なほほ笑みとそのもてなしに対して「perfect」と評するセリフの重み。彼はすべてを丁寧に味わう。喜びも悲しみも…enjoyする。実は深々と人々と人生と関わって生きてきた己のエートスに戻ってくる。彼の今までの生き方すべてがうつくしい物語の結晶として立ち現われたその旅から一回りして新しく戻ってくる。

イギリスの古い街の風景の情趣。酒場の片隅でひっそりと人々の営みをいとおしむように眺めるジョン・メイの視線。故人の人生を追ってゆく彼の表情には無表情なものから不思議な微笑みを滲み出させるものへと深まってゆく、この変化もしみじみと味わい深い。

この風景に、この場所に行ってみたいなア、の、映画としての美しい娯楽要素ももちろん素晴らしいんだな、うむ。

誰に看取られることもなく街の片隅でひっそりと孤独に亡くなっていった人々の人生の軌跡を、丁寧に辿り、その存在を確認し、証明し、それぞれの在り方を、愛を確認して、ジョン・メイは彼、彼女への想いを通じて己を含む全ての世界を肯定し愛してゆく。

何かの形で報われることを期待することもなく。

だからこそ、ラストの彼自身の弔いのシーン、そして幽霊たちの集うシーンでは流石に胸にグッとせまった…全編に流れる音楽もすごくいいのだ。本当になんというかじんわりとただひたすら感性に働きかけてくる。

 *** ***

というような(私にとって)なんだか逃げである歯切れの悪い言葉しか出せなかったけれど。

切れ切れの、そのイメージの断片を力づくでつなぎ合わせる意味は本来ないのだというところに力点を置いてスタートしないとだめだな、と再認識したのだ。

毎朝の目覚めの前後の絶望感の中で私は昨夜の己の感動をそのようなかたちにして考えることができて少し嬉しかった。本日を生きる力を得た。今朝。

…そうしてだけどね、私はおこちゃまなのでジョーカーのほうにずっと近いのだよ。
still lifeを激推ししてくれたのは姉だった。それはたぶん姉が母という存在であるからなのだろうと私は思う。おそらく、男性と母でないものは基本おこちゃまなので論理やなんかの美学、或いはジョーカーのほうに近くなるのではないかと思うんだな、基本的に。

 

ブルーベリー狩り

7月7日。

例年梅雨末期大雨ばかりの七夕には珍しく、朝から猛烈な夏空青空、かんかん照りの猛暑の真夏。

…ということで朝の道路。ぐんぐんと車は走る。
高速に乗るとココロは日常から離れてゆく旅の空。

とにかくこの非日常感よ。がらんとした世界の終わりの閑静。

平日、人々の暮らしから外れた時空、この夏の朝の青空にだけ訪れる、奇跡。

我々の道行は、山奥へ、山奥へ。
山の風景が、実は未だ山が街を覆っているのだという現実の感覚を呼び起こし、日々の小さな現実空間のカプセルから脱した異界へと導いてゆく。
わが脳内からもまたさまざまの山奥ドライブの記憶が流れ出しそこに重なってゆく。


実にこれは「群馬の山奥で♪」
…が脳内再生され続ける風景であった。(姉はすぐわかってくれた。「印度の山奥で♪のレインボーマンねっ。」)

流れる景色はひたすら山と空。

途中のパーキングエリアのスタバ横カフェテリア藤棚なんかでも、それだけでも、本当に世界は素晴らしく気持ちよかった。風がきらきら。

そして目的地、初めてのグンマー、初めてのブルーベリー群馬の山奥わくわく川場村田園プラザ。

 

強烈な夏の陽射し、蜻蛉、蝉の声、鳥の囀りと緑と青空だけの静けさの中のブルーベリー山に私はいた。頭の中がしんと静まり返る。

(実に群馬の山奥で♪…が脳内再生され続ける風景であった。)

ひたすらに、山と空。小鳥の囀り。
しきりに安房直子さんの「あるジャム屋の話」を思い出していた。
山の鹿の娘がブルーベリーのたくさん取れる秘密の場所を教えてくれて、恋仲の主人公と二人で素敵な山の中のブルーベリージャムの店を開く話だ。

主人公の森田さんは自分用に素敵なブルーベリーのお酒も拵えててね。
(ということで現場のブルワリーではブルーベリー麦酒なんか期待してたんだけど残念ながらありませんでございました。)

果実の枝はひと枝そのまんまブローチにしたいような可愛らしさ。

ブルーベリーソフトのトッピングはテーブルの横のブルーベリーぴょんと摘んでのっけたんだよ。

土地のおいしいもの集めた物産展、焼き立てベーカリー、山賊焼シャルキュトリにクラフト麦酒ブルワリーのビアレストラン、新鮮野菜サラダ食べ放題イタリアンに麺屋さん、なんでもアリだったけどチョイスはやっぱり蕎麦屋なんである。

生まれて初めてのグンマー体験生まれて初めてのブルーベリー狩り体験、しばらく日常に戻れない。

いやー摘みたて食べ放題ってほんとうにいいものですね。(淀長さんの顔と声で)

そしてサクランボと桃と杏と李と苺と木苺とハスカップの複合でやりたいものだと思ったのである。
(桃はネクタリンと白桃くらいでいいぞ。)

ブルワリーのユキホタカピルスナーもひとつ自分へのお土産に。

法事

入梅前日、嘘のように素晴らしい夏空の一日であった。

ヤーよかった、本日この日は家族の一大イベント、お祖母ちゃんの23回忌の法要だったからね。
 
しかし何故かいつもここにお墓参りに来るときはとっても暑すぎるかんかん照りの青空なんである。
 
で、強い陽射しと濃い影、広い青空非日常のお寺、この異界的な眩い世界に目を細めながらお墓のお掃除をしたりお香を焚いてお花を供えたりなどして墓石を眺める。いつも不思議な気持ちで己のルーツ、ご先祖さまや宗教のことを考える。

しかし暑い。やっと予約した時間になったので粛々とお堂の中へ。

 
表の汗ばむような眩い夏日が嘘のように本堂の中はすうっと涼しい。すべてはきれいに浄められいて、木やお香のほのかな佳い香り。
 
そして一連の儀式。
お坊さんの読経は好きである。これは実にライブパフォーマンスであると毎度しみじみと感じ入る。最初の鐘の音を耳にした途端、心は幽玄の異界に導かれてしまう。

で、いざ始まると意外と激しいライブなのだよな、これが。ちょっとしたロックコンサート並みだと私は思う。木魚パーカスもかなり激しいリズムを刻んでるし、坊様の美声でうねるように高く低く朗々と唄われるお経も妙ちくりんなようでなんだか心に響く歌の歌詞みたいにあれこれ考えてしまう楽しさだったりしてね。
 
仏界を夢見た人々の創造した細やかな細工の施されたお堂の完璧な舞台装置、お香の香り、木魚のリズム、鐘の音、美声で歌い上げるお経。これは五感への罠、まったくのトリップ装置だ。古来からそうだったんだろう、よろづの民を酔わせてきた。(イヤそりゃあまあ眠りそうになったけど。)
 
で、これも毎度のことだけど、キリスト教と仏教の違いについてもしみじみと考えた。まあざっくり言ってしまえばどっちも生活の知恵なんだな、ということなんだが。
 
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帰りはお昼どきである。
車で山道に入って山小屋蕎麦屋へ。

ここは駐車場も素敵な木洩れ陽ゆらゆらの木陰なのだ。
心ときめく山小屋体験、サーヴィスされた熱い蕎麦茶がとってもおいしかった。(おかわりした。)


前菜は厚焼き卵や厚揚げあん肝乗せ、それからチーズと味噌だったかな?お芋サラダやもろきゅう、サクッと音のするかき揚げや魚介サラダ、そして蕎麦とろ、ざる蕎麦。

実になんというか、おいしい蕎麦はおいしいのだ。
(蕎麦大好き。)(蕎麦飲みも大好き。ゆったりと麦酒を飲みながらおいしい料理、窓の外はゆらゆら美しい初夏の緑。この平和で穏やかな時間を楽しんでいるアベックの幸福な風景にほのほのと優しい気持ちになる。)(私もやりたい、と魂を彼‐彼女の物語の中に飛ばしてみたりね。)
 
〆の甘味は蕎麦ケーキ、苺ソースと牛乳寒天。蕎麦には林檎が合うと思うんだけど(煮林檎をしっとり焼きこんだふんわり蕎麦ケーキは、蕎麦の風味と林檎の風味の相性にびっくりで、昔何度も拵えた。)とりあえず蕎麦屋の誇り、さすが外さないとこだな、蕎麦ケーキ。ウム。
 
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そして最後に連れてってもらったのが、
「ワーこれはほんとにほんとな隠れ家カフェ!」
…っていう感じの古民家カフェ。
 
昼下がりの光に鎮められて一層ひっそりと現実感を失った見知らぬ田舎町、菓子屋の横の隙間のような緑金の光ゆらめく路地を抜けたところにある夢の時空。

いつでもこんな秘密のお部屋に通じるどこでもドアが欲しいものだ。

 
その夢見た力が、心の深奥に、永遠にこの記憶を開くチャンネルを、その扉の向こうの無限の夢そのものへとつながるチャンネルをくれることを私は知っている。
 
生きてきた記憶が、夢見る力、夢見続ける力、現実をそこに重ね未来へと生きる力、存在意義そのものなのだ。
そのインテグレードの中にすべての意味が、レーゾンデートルが、個が、個を超えた夢の永遠の無時間の時空、ドリ―ム・タイムが開かれている。(オーストラリア、アボリジニたちの神話にあるアレね。無限の神話的時空。
 
浅煎りブラジル、本格的に丁寧に淹れてくれて大層おいしうございました。